Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年06月


どれくらい経ったのだろう。
ミドリはお腹の下でもがくスミレに気付き、慌てて身を起こした。
頭と言わず、腰と言わず、ズキンと痛みが走った。

「ああっ!」
絶叫に近い、哲也の声がした。
「すまない。ごめん。こんなつもりじゃなかった。ひどいことをしてしまった。痛いだろう?ごめん、ごめん…」
哲也は泣きだした。

暴言は日々だったが、謝られたことは一度もなかった。
暴力を振るわれたのはこの日が初めてだったが、泣きながら謝り続ける哲也を見て、ミドリは何か救われたような気がした。
自分の痛みがこの人に通じたのか。
なんだか、許せるような気がした。

本当は激痛で、どこか骨が折れているのではないかと思うほどだったが、ミドリは笑顔を見せ、一緒に朝ご飯にしましょうと答えた。
哲也は嬉しそうに、久しぶりの笑顔を見せ、もう二度とこんなひどいことはしないと、何度も約束した。
ミドリはそんな哲也の誠意を信じた。

ミドリは知らなかったのだ。
DV(ドメスティック・バイオレンス)に陥った男性は必ず、暴力と許しを乞う低姿勢とを繰り返す。 
その約束は守られることがない。
ただ、殴った時にストレスが解放されて高揚した気分になることと、自分がしていることをバラされないために、また、殴る相手を失わないために、卑屈なほど低姿勢になって謝るにすぎない。

いや、謝っている本人は心底反省し、二度と繰り返すまいと本気で誓っているのかもしれない。
しかし、その気持ちは長く続かない。
彼を暴力に駆り立てるストレスがなくならない限り、また暴力に訴えるのは時間の問題だ。
彼の脳は、その瞬間がいかに心地よいか、知ってしまっている。
麻薬のようなものだ。

謝罪を受け入れるということは、繰り返し繰り返し受け入れるということは、彼を麻薬漬けにするのと同じなのだ。どんどん深みにはまっていく。もう、自分からは抜け出せないほどに。

そして、同じ刺激に慣れてしまうと、もっと強い刺激がほしくなるのと同じで、暴力はエスカレートする。
こんな時、DVの被害者は同じようなことを考える。
今度こそ、この人は立ち直るのではないか。
今この人を見捨ててしまったら、この人は殺人事件でも起こすに違いない。
この人には私が必要なのだ。
私以外、この人を支えることはできないのだ。
今は耐える時だ。







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スミレ先生が2歳を過ぎた頃、家庭はすでに平和を失っていた。
父の哲也は22歳、 母のミドリは21歳。
哲也は何かにつけプツンと切れて、ミドリに暴力を振るうようになっていた。

初めのうちは暴言だけだった。
料理の味が気に入らない、ワイシャツのアイロンが雑だ、シャンプーが切れたままだ、トイレが汚れている…
「俺がどんな気持ちで毎日働いていると思っているんだ!」
ミドリは本当に辛かった。
辛かったが、自分が至らないからだろうと考える以外、考え方がわからなかった。

哲也がでかけてすぐ、スミレを母に預けて、家中を掃除したこともあった。午前中から晩ご飯の支度をしたこともある。花を飾り、アロマを炊いて、少しでも小さなアパートを居心地の良い空間にしようと努めた。
けれども、哲也の怒りは一向に鎮まらない。

幼いスミレの世話をしながら、家事も完璧にこなすには、ミドリは経験値が不足しすぎていた。
母や義母の力を借りることを、哲也が何より嫌うので、ミドリは八方塞がりだった。

ミドリが初めて哲也に殴られた日は、ごく静かな日曜日のことだった。
いつものように、少し長く眠っている哲也を起こさないように、ミドリは細心の注意を払った。
哲也の目が覚めた時には、朝食の用意が整っていなければならない。
新聞をきれいに畳んでテーブルに。朝湯の用意と着替えも。
そして、テレビは哲也のお気に入りの報道番組を。

しかし、スミレはまだ幼い。
もうすぐ哲也が起きるかもしれないと、チャンネルを変えたのが気に入らなかったらしい。
ぐずりだしたと思ったら、大声をあげて泣き出した。
ミドリは慌ててスミレを抱きあげ、なだめにかかった。

幼子というのは本当に不可解だ。
今日ばかりは熱を出さないでくれと祈った日ほど、熱を出す。
頼むから泣かないでと思っている時ほど大泣きして、いつまでも泣きやまない。
まるで、自分より大切なものがあることを許さないとでも言うように。

その日のスミレも、ミドリの腕の中で暴れもがき、どうしても泣きやまない。
いっそ外に出ようかと、ミドリが玄関に向かいかけた時、哲也が起きてきた。
「ごめんなさい。公園に行ってくるから。あなたはもう少し休んでいて。」

「うるさい!」と言われる前に、ミドリは謝った。
1年近く、毎日毎日罵声を浴びせかけられ、ミドリの自尊心はズタズタに傷ついていた。
もはや、反抗する気力も失せていた。
哲也は何か言いかけた言葉を飲むようにして、目をテレビの方に向けた。

テレビでは、哲也がお気に入りだった女性アナウンサーが、とあるサッカー選手と婚約したと報じていた。
Jリーグ発足の4年前。
日本ではプロスポーツと言えば野球で、サッカーはまともなスポーツ扱いされていなかった。
選手たちは貧弱な設備や競技環境の中で、それでも懸命に向上を目指していたのだが…。
だから、野球選手と結婚するというのはよくある話だったが、サッカー選手とというのは意外な話だと、テレビは騒いでいる。

哲也の中で、また何かがプツンと切れた。
何も言わず、ミドリを向き直り、靴を履こうとしている彼女の背中に手を伸ばし、シャツをわしづかみにすると、後ろに引き倒した。
驚いたミドリは尻もちをつきながら、哲也を振り返る。

振り返ったかと思う瞬間、バシンと頬を叩かれた。
咄嗟に、ミドリはスミレを自分の体の中に抱え込んだ。
自分の痛みや驚きを意識している暇はなかった。
反射的に、大切なものを守ったにすぎない。

ミドリのその行動が、哲也を激昂させた。
「俺がスミレを殴るとでも思っているのか!!」

ミドリは、立ちあがる力がなくなるまで殴られ、蹴られ続けた。
腹にスミレを抱え、亀のように丸まったまま。






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飲みに行くなど言ったことがない哲也が出かけて行った後は、妻のミドリも落ち着かなかった。
思ったよりも早く帰ってきた哲也を迎えてホッとしたのも束の間、夫の機嫌が悪いことにすぐ気付いた。
けれども「何かあったの?」と問いかけるのをためらってしまった。
後から考えれば不思議だったが、何か聞いてはいけないような気がしたのだ。

翌日も、その翌日も、哲也は不機嫌なままだった。
笑顔を見せなくなり、言葉少なく、うんとかああとか伏し目がちに答えるだけ。
ミドリは困惑した。
困惑したが、どうしようもなく、時間がたてば機嫌も治るだろうと、そっとしておくことにした。

哲也の職場は、日本人なら名前を言えば誰でも知っている某有名菓子メーカーの工場だ。
これが車とかパソコンとかだったら、どれだけよかったかと思う。
せめてビールででもあったなら。

休憩時間に、哲也は小学生の社会科見学にさりげなく混じって、製造工程の見学コースを歩いてみた。
この巨大工場では、主力商品の『パンダのマンボ』と『カメのルンバ』が作られている。

味はパティシエ集団が研究調合を繰り返し、会社のトップで決められる。
哲也が知るはずもない聖域だ。
ただ、老若男女嫌いな人はいないと言われるこの国民的菓子でも、細かに味の変更がなされているから飽きられないのだということを知る人は、世間ではそれほどいないらしい。

あとはオートメーションだ。
巨大としか言い表しようのない機械のどこをどう見守っているのか、体育館ほどのスペースに3人ほどが働いているだけだ。その体育館がいくつもつづく。全身白づくめの衛生服で機械を見上げるその人たちは、見学者からは性別すらよくわからない。

今日、このラインで作られているのは、季節限定商品である『パンダのマンボ マンゴー味』だ。
包装を終え、つぎつぎと出てくる『パンダのマンボ』。
その小袋が、見学ルートを歩き終えた小学生にひとつずつ手渡されている。
哲也は小学生の列からすっと離れて、持ち場に戻ることにした。

哲也の仕事は、このラインの中にはない。
段ボール箱に詰め込まれた商品を、配送先に向けてトラックに積み込む。
倉庫勤務なのだ。

しかも、運転免許がない哲也は、所定の位置に、決められた数の箱があるかどうかを確認するのが仕事だ。
朝から晩まで、薄暗い倉庫で、陽を浴びることもなく数を数える。
こんなの、誰だってできるじゃないか。
先週までは何の疑問もなく、それどころか季節限定品の箱が来るたびに、ミドリに買って帰ってやろうかなどと楽しくさえ思っていた仕事が、今となっては屑のように感じる。

『パンダのマンボ』がないからといって、誰か悲しんだり困ったりする人がいるか?
いや、ひとりとしていないだろう。
他の菓子を食べるだけの話だ。
そんなもののために、1度しかない人生の大部分を使っていいのか?

哲也の考えは、自分を追い詰めるだけなのだが、そうと自分から気付くには、哲也はまだ若すぎた。






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触れないことが暗黙の約束になっている話題も、酔いと口火を切る者がいれば、雪崩のように追い打ちをかける。

「そうだそうだ。哲也は惜しかった。あのままサッカー続けていればどれだけスゴいことになったか。」
「今からだって遅くないんじゃないの?」
「社会人チーム持ってる会社にすりゃよかったのによぉ。」
「俺たちのキャプテンがサッカーやめるなんて、信じられねーよ。」 

仲間に悪意がないことは哲也にも分かっていた。
悪意どころか、なんとか盛り上げようとしてくれているのだ。
その気持ちは、試合中のパスのように、言葉で言われなくても伝わってきた。

しかし、哲也には重たいパスだった。
まだまだ飲みに行こうとしつこい仲間たちを振り切るように一次会で別れて家を目指しながら、哲也は絶対に考えないようにしていた魔物に捕まった自分を感じずにはいられなかった。

もしも、あの時、ミドリじゃなくて、サッカーを、選んでいたら、俺は、どうなったのだろう…。 

まだJリーグ発足前だった。プロと言えば社会人だ。その中から誘いが来ていたのも嘘ではない。
しかし、トップチームに最初から入るほどの実力でないことは自分でわかっていたし、短い現役人生の後を考えると、いきなり社会人になるよりも大学で研究したいことがあった。T大学に進めば、サッカーと研究の両立が可能だと思われた。 スポーツ推薦の枠もある。

自分はきっとこの目標を達成し、思い描いた人生を手に入れるのだろうという手応えを感じていた。
サッカーも、勉強も、やればやるだけ面白くなり、伸びて行った。
高校生は悩みが多いというけれど、俺は人生満喫だなと本気で思っていた。
彼女もいる。ミドリとは出会った時から相思相愛だ。
でも、これからの人生、どんな素敵な女性に出会うとも限らない。
例えば、朝の天気予報を読んでいるあの女性アナウンサー、好みなんだよな。
いずれ有名なサッカー選手になったら、取材に来た彼女と恋に落ちて…なんてね。
そういう意味でも将来が楽しみでならなかった。

それが、どうだ。
身から出た錆とはいえ、あの頃の輝きは一瞬で消えた。
昨日の俺は、月曜も、2年後も、10年後もきっと変わらないだろう。
家を出て、工場に行き、誰にでもできる仕事をして、月に1回給料をもらって。
なんだ、このクソみたいな人生は。
俺はもっと輝いていたはずだった。

俺はとてつもないものを失ったのではないか?

その日以来、哲也の頭には、この「喪失感」という魔物が住み続けることになった。






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異変は、スミレ先生の若きお父さん…哲也から始まった。
19歳で父となった哲也は、スポーツ推薦で大学進学の予定が消えたことも、スミレちゃんかわいさに忘れきっていた。
工場の仕事はすぐに慣れた。
これでいいのだ、自分は妻子を守って生きて行くのだと自分で選んだことに悔いはなかった。

なかった、はずだった。

きっかけは、以前のチームメイトからもたらされた。

ちょっとした誘いには一切乗ってこない哲也を、元サッカー部の仲間たちはなんとか誘い出したいと考えた。
哲也は高校サッカー部のキャプテンだった。
キャプテン不在の同窓会は盛り上がりに欠ける。

成人式の祝いにも来なかったじゃないか、せめて今回だけはと、哲也の工場が休みの日に合わせて宴が計画されていた。
スミレさんが生まれて1年と何ヶ月か。
哲也も今回だけ行ってみようかという気になった。

これまでの誘いを断ったのも深い意味はなかった。
大学生だらけの飲み会が面白いとは思えなかったし、出費は少しでも控えたかった。
それに、思いがけず人生を変えた出来事を、あれこれ聞かれたくもない。
なにしろ妻のミドリも、この部のマネージャーだったのだ。
唐突に流れを変えた人生に感じていた緊張が、そのころ少しゆるんだのかもしれなかった。

県内屈指の進学校だっただけあり、仲間はそのあたりの機微に通じていた。
久しぶりというほど間が空いたわけでもない。
顔を合わせれば昨日も一緒にいたかのように打ち解ける。
酒の席は「今」の話で盛り上がる。
過去のあれこれは封印されたように語られずにいた。

けれども、酒というものは、人の理性をマヒさせるために存在するようだ。
飲み過ぎた仲間が、屈託なく語り出した。
「それにしても哲也は惜しいよなぁ。あのドリブル!俺らがヘボだからインハイも選手権も話にならなかったけど、哲也だけは県選抜に出ていたもんなぁ。」
 





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ここで、スミレ先生の26年を紹介してみたい。
本当は本人に語ってもらえば良いのだが、本人は思い出したくもないと考えているし、実際、記憶のところどころが抜け落ちていて、語ろうにも語れないのだ。

彼女の人生のスタートは、それほど衝撃的なものだった。

スミレ先生は、母が18歳、父が19歳の時に生まれた。
だからといって、両親とも非行に走っていたわけではない。
高校サッカー部のキャプテンとマネージャー。 
保健の授業で習ったものの、まさかこれほど安易に子どもができるとは想像もしていなかった。

それでもこの若い父と母は、授かった命を粗末にすることなど考えられなかった。
きちんと入籍し、新たな家族が増えるのを待ち受けた。
父はスポーツ推薦で大学進学する計画を諦め、地域の工場に就職した。工場と言っても一部上場企業であり、両親も教師も本人も、よい進路先が見つかったと喜んだ。

思いがけず祖父母になることになった4人も協力的だった。
金銭面でも、生活面でも、若い親子を全面的にバックアップしようとしていた。若い祖父母は世間体よりも孫の誕生を心から喜ぶ気持ちになっていた。
母は高校を中退せねばならなくなったものの、一時の気まずさや不安を乗り越え、安心と喜びの中、出産に臨んだ。

そんな環境に、スミレ先生は生を受けた。
誰もがスミレ先生を慈しんだ。
幸せな赤ちゃんのはずだった。
が、幸せな時間は長く続かなかった。






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スミレ先生は自分でも笑えるくらい、別れた彼に未練がない。
まぁ、日本の人口をだいたい12億人として、半分の6億が男性だ。
小児と高齢者は対象外…ま、3億人くらい差っ引くか。
それでもまだ3億人残る。
そのうち何人に出会えるか知らないが、少なくとも、根本的な価値観が合わない男と付き合っておくような必要性は微塵も感じない。

3億といえば、スミレ先生は「億」という単位を習った時に計算してみたことがある。
毎日誰かに「すみません、1円ください。」とお願いしたら、きっと誰かはくれるだろう。
それを1億日繰り返したら、1億円の財産ができる。
スミレ先生は億万長者になりたかった。
1億日は・・・・273972.6027年だ。
ん?27万年??
だめだ。これでは化石になってしまう。
1日10円でも2万7千年。恐竜だ。

では、1日10円を10人からもらったらどうだろう。
それでも2739年。だめだ。
1日1000円ずつだったら…274年目だな。
ちょっと近づいてきたが、人生3回やり直さないといけない。

それに、毎日100円くれるひとを10人探すのは難しい。
それよりは毎月30000円を給料から貯金する方が簡単そうだ。
その貯金が6万円だったら…137年。もう少しで手が届きそう。

そうだ、ボーナス。
ボーナスの時にちょっと余分に貯金したらどうだろう。
毎月6万円で1年間に72万円。ボーナスは頑張って…そうだ、年に100万円の貯金。
すると…それでも100年か。

億万長者への道は、小学生のスミレ先生には難しすぎた。
それでも、億万長者になりたい。
そのためには…。
おお!

スミレ先生は気がついた。
1億円持っている人と結婚すればいいんだ!

ひらめきの瞬間は、輝かしい記憶となってスミレ先生に胸に棲みつくことになった。

「あ〜あ。なんでコウムインなんかになっちゃったのかなぁ。」
若気の至りとか、魔が差したとかしか言いようのない自分の行動に、またため息をつく。

こんな時に限って、「今でしょ!?」なんてフレーズが流行っている。
やり直すならいつ?
今でしょ!?

しかし、考えるのは進んでも、行動のほうは簡単にはいかなかった。





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前の彼と別れてから、1年と何ヶ月かになる。
都会には珍しい雪が降り積もった夜のことだった。
電車が止まって彼は帰れなくなった。
泊まっていってくれるのは歓迎だったけれど、晩ご飯の材料を買いに行くのが億劫だった。

大したものはできないけど…と言うと、彼は笑いながら言ったのだ。
「宅配ピザ、頼めばいいじゃん。」
耳を疑った。

「宅配って。こんな大雪の中、バイクでなんか来られないし、無理に来たら危ないよ。」
「平気だろう、仕事なんだし。無理なら注文受けないだろう。」
「外に出るのってバイトの子でしょう。店長に行けって言われたら行くしかないじゃない。自分が外に出たくないような日に、人を外に引っ張り出すの?」

スミレ先生の言葉に耳を貸すこともなく、彼は宅配ピザを注文するため電話をかけ始めていた。
スミレ先生は「どうか断って!」と祈るような気持ちになっていた。
ピザ屋は注文に応じたらしい。

チャイムが鳴ったのは、電話をかけてから2時間も経った後だった。
お店のロゴが入った黒い上下のレインスーツ。シロクマのように雪を積もらせたバイトの高校生らしい店員が、大事そうに抱えたピザの箱を差し出した。足元に置かれた保温ケースにも雪が積もっている。
「すみません、時間がかかってしまって。」

スミレ先生は心からお詫びをした。ごめんなさい、こんな雪の日に。
「いえ、仕事ですから。雪見ピザをお楽しみください!」という青年に、恥ずかしくて顔を上げられなかった。
どうか事故を起こさず無事に帰ってと祈った。
青年は、そのまま歩いて去って行った。バイクは危険と考えて、歩いてきたことに気付いた。
横着で自己中心的な大人のために、若い命が危険にさらされたのだと思うと、たまらなかった。

「ごめん。別れる。」
スミレ先生は言い出したら後に引かない。
「無理だわ。あなたとは、価値観が合わなすぎる。」

届いたピザを口に入れかけた彼は、大きな口を開けたまま目をパチパチさせていた。
私には、信頼とか信用とかいうものが、よく分かっていないのかもしれない。









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シャッと音をたててカーテンを開ける。
外はすっかり明るくなっている。
同時に鍵を開け、窓を思い切り開く。
まだ温度が低い、乾いた空気がさぁっと部屋になだれ込んでくる。

いい天気だなぁ。
スミレ先生はしばらく空を見上げている。
パジャマごし、少しだけ汗ばんだ肌に風が心地よい。

土曜日の朝は幸せだ。
時計に追われるように着替えたり、授業の段取りを考えながら朝食をほおばったりする必要がない。 
誰が見るでもないこの部屋にいる限り、このままパジャマで過ごしてもかまわない。

平日は、起きると同時にローテーブルに置かれたリモコンを取り上げてテレビをつける。
でも、土曜の朝はそれをしない。
車の音、雀のさえずり、道路を通って行く家族連れの話し声… 

大学に入って一人暮らしを始めた時、スミレ先生は時々完全にひとりになって、自分の体が求めるままに過ごす時間がどれほど心地よいものなのかを知った。いつもいつも精一杯に頑張っている自分を自覚する者だけが感じるささやかな自由。

ああ、また辞められなかったな。
今週こそはと思いながら、やはり言い出せなかった。
もう教師なんて、本当は何の魅力も感じていないのに。

それどころか、このまま続けていたら、思い通りにならない子どもに手をあげて、不祥事を引き起こしてしまうだけだと思う。もう限界だ。
辞めたい、辞めたい、辞めたい。最近はそれしか考えられない。

夕べ、チョコちゃんに聞いてもらおうと思っていた。
でも、言い出せなかったし、話は全然違う方向に行ってしまった。
本当は、ヒデ君のことなど私ごときにどうにかできるはずもないのだ。

ヒデ君を引っ張って無理やりボールを蹴らそうとした時は、必死で夢中で真剣だった。
けれども、本当にそれだけだと言いきれるだろうか。
いや、いい。もうそんなことも考えたくない。
チョコちゃんには「ああスッキリした」と嘘をついた。
でも、それも今日は考えないことにしよう。






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ママは風呂に去った夫から逃げるように、ヒデ君のベッド脇に座った。
ヒデ君の寝顔は、無邪気としか言いようがない。
この子が生まれた時からこうして寝顔を覗き込んでいるけれど、いつの間にか大きくなったなぁと思う。 もっともっと大きくなるのだろう。背が伸びる。体重が増える。そのうちヒゲが生えるのよね。すね毛?ああ、ヤダ!反抗期になったら、この子もババアなんて言うのかしら。もっと大きくなったら、彼女ができたとか結婚したいとか言うのかしら。その時私は、きっとその娘のことを好きにはならないわね。

だから、しかたがないのだ。
お母さんが私を好きにならないのは、しかたがないと思うしかない。
私はお母さんから大切な宝物を奪った泥棒みたいなものなんだろうな。
その泥棒と同居しているんだから、複雑な思いなんだろう。
とはいえ・・・。

学校で聞いたヒデ君の様子は、本当に悩ましい。
さっきは夫の言い方に腹が立ったけれど、本当は私が育て方を間違えたってことかもしれない。
今日もまたお母さんに言われた。
学校から戻った途端だった。泣きっ面に蜂。
「倫子さん、子育ては母親の勤め。学校から呼び出されるような恥ずかしいことは、秀一にすまないと思ってもらわないと。あなたがしっかりしないから、秀樹がしっかりしないのよ。」 

言葉は7%と聞いたことがある。
言葉の意味が相手に影響を与える力はわずか7%しかない。
それ以上に言い方がインパクトを与えるそうだ。
お母さんの、あの言い方にはいつも傷つけられてしまう。
吐き捨てるような、見下すような、馬鹿にしきった声。
醜く歪んだ口元を見ていると吐き気がしてくる。

心に浮かびあがる呪いの言葉を、人としてあるまじきことと否定するほど、無邪気な時代はとっくの昔に終わっている。
こんな言い方されたらイヤな気分になって当然。
腹が立つのは当たり前。 
腹が立ちすぎたら、呪いたくなるのは人として正常だわ。
だから寝室に飛び込んで鍵をかけ、ベッドにもぐりこんで枕に顔をうずめた。
泣くためではない。
泣いてたまるか。
「このクソババァ!とっととくたばれぇぇぇぇっ!」

あの息子に、あの母あり。
秀樹を守らねば。
いつか「秀樹はさすがだ」と言わせてやる。
強く賢い子に育てねば。

だれがやる?
私でしょう。
いつやるの?
今でしょ!?






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