Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2012年09月


これと言ってアトラクションに並ぶこともなく、私たちはディズニーランドの中を歩きながら話し合っていました。塵ひとつ落ちていない道、磨き上げられたトイレ。ここにゴミを落とすなんてできないと思います。自在ほうきとちり取りを持った若い女性キャストが、まるでダンスをするかのような優雅さで、道を掃いていきます。

少し歩き疲れてベンチに座ろうとしていたかあさんが、「あのお掃除をしているみなさんをカストーディアルというそうよ。」と教えてくれました。「カスト…?」「カストーディアル。ディズニーランドがほかのテーマパークと違っていられるのはあの方々の存在のお陰だと、父は何度も言っていたわ。」

ベンチに落ち着いて周囲を見た時でした。目の前に走ってきた子供が、ポップコーンを持ったまま思いきり転んでしまいました。「あっ!」私が腰を上げるより先に、先ほどのカストーディアルさんが駆け寄ってきました。「大丈夫?痛いところはない?」

ポップコーンが散らばった地面から起き上がると、子供はしくしく泣き出しました。母親らしい女性が駆け寄って、声をかけています。「こぼれてしまったものはしかたないでしょう?我慢しましょうね。」「うっ、うっ…。」「泣いたってこぼれたポップコーンは返ってこないわよ。我慢、我慢。」

「あのね、内緒の話なんだけど、ここは魔法の国だから、我慢しなくていいのよ。お姉さんが魔法をかけると、ポップコーンが元にもどるの。どうする?魔法を見てみたい?」「ホント??魔法、かけて!」「いいわよ。さぁ、このカードを持って、ポップコーンのお姉さんに見せてごらんなさい。」

子供は一目散に駆けだしていきました。そして、新しいポップコーンを抱えて「ママ、見て、見て!!すごい。ありがとう、お姉さん!!」今度は転ばないように気をつけながら、早足で戻ってきました。母親は深々と頭を下げてカストーディアルの女性に言いました。「私にはこんなふうに子供を喜ばせることはできませんでした。ありがとうございました。」

子供が戻るまでの間に、地面に散らばったポップコーンは、一片の残りもなく、ちり取りの中に片付けられていました。いつもいつもこんな扱いをされていたら、自分でしでかした失敗の責任をとれない、とんでもない甘ったれが育つに違いありません。でも、ほんの1回、1日だけなら、どれほど心が温かくなることでしょう。 







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秋晴れの空は抜けるように青く、真っ白い雲がところどころに浮かんでいました。ディズニーランドは開園時間前だというのに、早くも列ができています。平日なら少しは空いているかと思いましたが、修学旅行の学生や家族連れは曜日と関係なしに訪れるようです。

待ち合わせの時間より少し早く着いてしまった私は、チケットを買おうと並んでいる人々の顔を眺めていました。どれもこれも笑顔、笑顔。ここは、そんなに楽しいところなのでしょうか。「おはよう、弓子姉さん。」かあさんがやってきました。昨日は少し元気を取り戻してみえましたが、こうして外で会ってみると、やはりやつれているのがありありと見てとれました。

白いコットンシャツにデニムがとても似合っています。「さあ、行きましょう。」
かあさんが用意してくれていた前売りチケットのおかげで、私たちは並ばずに入園することができました。私は、以前から慣れ親しんだ、どこか居場所がないようなバランスの悪い気分が蘇って来るのを感じていました。

「あの、かあさんはディズニーランドがお好きなのですか?」私は昨日から疑問に思っていたことを尋ねてみることにしました。
「いいえ。私も初めてと言ったでしょう?子供の頃にはまだなかったこともあるけれど、私にとってディズニーランドというのは、幸せな家族が手をつないで来る場所でね。どうも、私の来る場所ではない気がして、敬遠していたの。」

「おやじさんとは来なかったのですか?」
「あら、だって主人ときたら、みなさんプーさんが歩いていると誤解してよ。」
「かあさんたら、ひどい!」

私たちは思わず顔を見合わせて笑いました。私たちは、ここに来るには条件があると思いこんでいたのです。明るい人、幸せな人、家族と、恋人と、ディズニーが好きだから…。

「父はよく、ロサンゼルスのディズニーランドを訪れた時のことを話してくれました。キャストたちの誇り高きサービス精神や、訪れたゲスト全てに夢をプレゼントしようという考えがどのように形になっているかを。」 







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自分で気付いたことをよく味わってみると、これは大発見のような気がしてきました。
悲しみも怒りも恨みも、喜びや楽しさや優しさや朗らかさと同じようにひとつひとつの感情で、そのどれもが人に感じられるためにあるのだとしたら…

この世になぜ戦争がなくならないのか、泥棒や詐欺がなくならないのか分かる気がしました。それらが本当に不必要で人を損なうだけのものなら、長い年月をかけて、そんな気持ちになる人は淘汰されて生まれなくなっていてもよさそうなものです。けれど、一向に消える気配はありません。

それもこれも、人がありとあらゆる感情を味わうためだとしたら?
私は体が震えていることに気付いていました。ダメでうそつきでどうしようもないと思っていた自分だけれど、子供のころからネガティブもポジティブも、振り切れるほどにたくさんの深い感情を味わってきたのです。

ああ、私、これでよかったのかもしれない。
知らなかっただけで、これでよかったんだ。
融、私、これでいいんだね?

こんな時に、耳元を小さな羽音が通り過ぎました。季節外れに生き延びた蚊のようです。思考を中断させて目を凝らしましたが、姿が見えません。でも、また耳元をプ〜ンと通りすぎます。私は蚊が嫌いです。瞬間湯沸かし器のように、心底苛立ちました。

「もう、イライラするっ!」大声で叫んだ途端、腹の底から笑いが押し寄せてきて我慢できず、吹き出してしまいました。この蚊は、私にイライラという感情を体験させるために、神様に長生きさせてもらったのかしら?だとしたら、あなたミッション完了よ!と感じたことが可笑しかったのです。

笑ったら、全身から力が抜けてしまいました。抜けてみて、どれほど力みかえっていたかが分かりました。前夜よりももっともっとたくさんの空気が肺に入ってくる気がしました。それで初めて、自分がどれだけ息を詰めていたかに気付いたのです。
「明日何があってもOK。だって、何でも感じればいいんだから!」
私は、人生で初めて、イベントを前にして安らかな眠りについたのでした。 







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遠足や運動会、旅行の前夜がとても苦手な子供でした。お弁当を落としてしまったらどうしよう、トイレに行きたいのに行けなかったらどうしよう、寝ている間にいびきをかいてしまったらどうしよう…考えているうちに恐怖に包まれて、まったく行きたくなくなるのです。実際に行けば楽しめることでも、前夜はダメでした。

ディズニーランドって何を着ていけばいいのだろう?私は好きになった男性と初めてデートに行く時のようにドキドキ迷いました。以前はデート用にと服を新調したものでした。そうすれば、店員さんが責任を持って私を装わせてくれます。

けれど、今回は、持っている服を着ようと、変なこだわりを感じていました。敢えて言葉に直すなら、「自分の外観の責任を自分で持とうと決めた」という感じでしょうか。いえ、そんな立派なものではありません。ただ、歳を重ねていくうちに、初々しさを失っただけのことかもしれません。

ふと、クローゼットに白のチノパンが入っていたことを思い出しました。マネキンが着ていたのを見て一目惚れし、迷わず買ったのです。でも、家に帰って着てみると、なんだかオシャレすぎて自分には似合わないと思いました。「すぐに汚れがついてしまうわ。」着ないでしまっておくことにした理由は、単なる言い訳だったと今ならわかります。

この白いチノパンに、お気に入りのダークブラウンのウォーキングシューズと…そうだ、この若草色のシャツがいい。このシャツ、融がすごく誉めてくれたっけ。あの頃は髪が長かったから首が出なかったけど、今はツルみたいに首が見えるなぁ。でも、いいの。スッキリして潔いってもんよ。

服が決まったら、なんだか心がすぅっと落ち着きました。昨日から、私はいろいろな感情を感じているなぁと思いました。考え方というのは本で読んだり人から教わったりすることができます。けれども、感じるというのは教わることも押しつけられることもできません。

感じるという一点だけは、いつもありのままに、私固有のものなんだなと思いました。あれ?もしかしたら、人はありとあらゆる感情を感じるために生きているのかしら?私はふと思いました。 







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 改めて、その何百冊かのタイトルを、1冊1冊丁寧に見てみました。いつ読んだものやらすぐには思い出せないものも多かったのですが、これはあの時この時と、苦しかった記憶が蘇るものもありました。どれも、思い出したくもない記憶のはずでした。

けれども、その夜は違いました。どれも、自分が力ない被害者として泣き寝入りしないために抵抗した記録でした。恥ずかしいことに、本の内容はほとんど覚えていませんでした。けれど、手にとって開くと、そうそうそんなことが書いてあった!これを実行しようと決めたのだったと思い出せるのです。

「私、頑張っていたんだ。すごく頑張ったんだなぁ。偉かったね、私。」
思わず声に出して言っていました。
意味のわからない、けど、心地よい涙がこぼれ落ちました。


「弓子姉さん。明日休業日だけど、何か予定が決まっていますか?」
かあさんに尋ねられたのは、翌朝のことでした。前夜あんなに泣いていたのに、かあさんはすっかり落ち着きを取り戻していました。というより、今まで見たことがなかったような、どこか透き通った印象を受けたのでした。

「いえ、予定は何も。」私は正直に答えました。
「でしたら、私と一緒にディズニーランドに行きませんか?」
「え?ディズニーランド??」

面食らった私は、すぐに答えられませんでした。もしもかあさんが「西洋美術館へご一緒に」と言ったなら、何も戸惑わなかったでしょう。けれど、ディズニーランドへ?これまで特にかあさんがミッキーやプーさんが好きだとは聞いていませんでした。

「あの…私、ディズニーランドには行ったことがないんです。私みたいな根暗なアラフォー女が行くところではないと思うんです。だから、ちょっと…」
私は本心から断るしかないと思い、本気で本音を打ち明けました。


え?被害者?
私はハッとしました。
そうです。こんな声で融が言ったのです。「姉さん、被害者…いけないよ。」

融が最後に残した言葉の意味は、ずっと理解したいと思いながら、わからないままになっていました。ここで「被害者」という共通の言葉に辿り着いた私は、心の底から何かが湧きあがってくることにも気付いていました。ここは大切。疑いようがありませんでした。

電車を降りて深呼吸をすると、いつの間にか冷たささえ感じる空気が胸一杯に入り込んできました。カピバラ食堂を訪ねた日はまだ暑さが残っていたのに、いつの間にか季節は変化していました。このところ、きちんと美容院に行って整え続けているショートヘアの襟足にも、冷たい空気が当たっています。

ああ、私はいつも被害者だった。
こんなにもあっさり認められる自分に驚くほどでした。
私はいつも被害者で、犠牲者で、力なく翻弄されるままだった。

あまり気分のよい気付きではないはずなのに、なぜか心が浮き立ちます。ワクワクと楽しげですらあります。これは一体何なの?生まれて初めて味わう感覚に戸惑っているうちに、部屋に着きました。

バッグをおろし、とりあえずローテーブルの脇に座って、何気なく本棚を見上げました。もう、隙間がないくらい、縦にも横にも積みこまれた本を見ていて、私は第二の衝撃を受けました。違う。私はただ翻弄されていたばかりでもないわ。

「効率を上げる勉強法」「人を思い通りに動かすには」「彼の心をつなぎとめる方法」「復縁の秘訣」「お金がほしいと思ったら」…ありとあらゆるテーマで、折々に悩んだことに対応する力をつけようと読んだ本たちでした。何百冊あるのだろう?私、これを全部読んだのだわ。 
 






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私は自分で自分の恐怖心を不意に発見したのです。いったい、この恐怖心をいつから抱えていたのだろうと、改めて振り返りました。すると、もしやこれは、自分が生まれる以前からではなかったかという気がしてきました。母のお腹にいる頃、両親の声を伝え聞いては既に恐れていた気がします。

思えばおかしなことでした。私自身が両親とは少しもうまくいっていません。できるだけ会いたくないし、もはや世間並みの親孝行など考えられもしません。融が死んでしまった時も、お前のせいだとなじられ衝撃は受けましたが、もはや彼らは私を傷つけることすらできません。私は彼らを完全に断ち切っていて、無関心の域に達しているのです。

自分の考えに没頭したくなって、私はまだ話し合いを続けているおやじさんとかあさんに気付かれないよう、そっと店を後にしました。
マンションに帰る道すがら、目は過去を見、耳は心の声を聴いていました。

自分の両親と仲良くするにはどうしたらいいか。かつて、ずいぶん思い悩みもし、試しもした問題でした。でも、解決できない問題と思い諦めて、私はその問題から逃げることに決めました。なのに、かあさんとおばあちゃんとを仲良くしたいと必死になったのはなぜだったのでしょう。

偽善、ということばが胸をよぎりました。

アイスピックで心臓を突き刺すような痛みが走りました。偽善。私はうそつき。私は中身がない。私は空っぽで、本当は自分がしたいこと、好きなことすら分からない。私には生きている価値がない。そのままの私ではダメなんだ。

今まで何万回となく考えたことがまた浮かんできました。でも、その時、不意に別の声を聴いたのです。
「ねえ、その考え方って楽しくないよね。勝手に被害者になってるよ。」
それは、自分の声のようでもあり、融の声のようにも聞こえました。 


それに、親だからといって、子どもの生き方ややり方に、好き勝手な注文をつけていいってことはないよね。だから、かあさん。泣かないで、元気出して。かあさんが正しいか間違っているかは俺にはわからないけど、俺はかあさんが間違っていても、間違っているかあさんでいいよ。」

「あなた…」
かあさんはまた泣き出しました。でも、今度の涙は先ほどまでの涙とは全然違う涙でした。私も嬉しくて泣いてしまいました。幸せというものは、こんなふうに具現化されて、人々の間に漂うものだということを、私は生まれて初めて見た気がしました。

「それにしても、かあさん。お母様はなにをあんなに恐れているのだろうね?」
おやじさんの質問は、私にも意外でした。おばあちゃんが何かを恐れているとは考えてもみないことでした。かあさんも私と同じことを感じたようでした。

「いくら自分の考えや経験に自信があっても、人とつながっていたい、仲良く調和していたいと思ったら、あんなふうに強気に出て、相手を封じ込めるようなことはしないと思うんだ。コミュニケーションをとってしまうと不都合なことがあるから、最初からつながりを断ち切ろうとしているような印象を持ってね。」

おやじさんの言う通りかもしれません。私自身、思い当たることがありました。相手の言い分を聞いてしまうと、自分の思い通りにはことが運ばなくなるのではないか、そうすると厄介事が増えたり、面倒くさくなったり、合理的でなくなったりしてしまうのが嫌だと思うと、最初から相手が口をはさむ余地もないくらい綿密な計画を立てて推し進めたりしたものでした。

怖かったのです。思い通りにならないことが。思い通りにならなくて困惑している姿を見られてしまうことが。そんな姿を見られたら、見下されるのではないか、不要だと言われるのではないと、怖かったのです。父や母から言われたような事を、もう二度と誰からも言われたくなかったのです。

そうか、私は怖かったんだ。いつも、怖くて不安で、ビクビクしていたんだ。だから、言いたいことのうち、立派なことは言えたけど、弱音や愚痴は言えなかった。甘えるようなことは、もっともっと言えなかった。断られるのが怖かったんだ…。


後藤さんと話した夜から2日ほどたってからだったでしょうか。とうとうおばあちゃんとかあさんは衝突してしまいました。きっかけを見ていないので、何が原因なのかはわかりません。でも、前回かあさんが「出て行って!」と叫びながら自分が出て行ったのと対照的に、今度は本当におばあちゃんが出て行ってしまいました。

夜の営業を終えたあとのことでした。かあさんは大粒の涙をポロポロとこぼしながら、いつもの椅子に座りました。この店は、かあさんの元気がなくなると、店全体が灯が消えたように暗くなってしまいます。机も椅子も、壁のカピバラまでもが一緒に泣いているようです。

「私、ひどい娘ですわね。余命いくばくもない母と仲良くできないなんて、ひとでなしだわ。でも、どうしても、どうしても…。」かあさんは話を続けることができません。おばあちゃんが来てから、かあさんは本当に力を失い、しぼんでいくような印象でしたが、精魂尽き果てたように見えます。

「かあさん。俺は、あなたを妻にしたことをこれほど誇りに思ったことはないよ。ありがとう。」
おやじさんが言いました。かあさんは、ふと泣きやんで顔をあげました。私も驚きました。机もイスも壁のカピバラも、心なしか一緒に驚いたような気がします。

「何をおっしゃっているの?」かあさんは尋ねました。
「かあさん。かあさんは、俺の店とやり方、つまり、何だ、俺が俺らしいものを守ってくれたんだよな。相手が母親だろうと経営の天才だろうと関係なしに、俺を一番に尊重してくれたんだよな。こんなにうれしいことってあるかい?」

「まあ。」かあさんはキツネにつままれたような表情です。私は頭が混乱してしまって、聞いていることの意味が、実はよく分からなかったのです。なのに、一体何なのでしょう、胸を、頭を、肺の中を、たとえようもないほど澄んだ風が吹きぬけていくような爽快感を味わっていたのです。

「かあさんは、若い時から、自分の大切なものを自分の力で守り抜く生き方をしてきたんだね。それは、大人として、とても素敵な生き方だと思う。俺は頭が悪いからうまく言えないけど、かあさんのそんな強さに惚れたんだと思う。


後藤さんの言葉は、私の胸に本当に深く響きました。私はかあさんとおばあちゃんのことを本当に心配していました。これまでの生活でもそうでした。誰か難しい問題を抱えて困っている人がいると、何か力になれないかと一生懸命に考え、積極的に手助けをしてきました。

けれどそれは、もしかしたら余計なお世話、お節介だったのかもしれません。その証拠に、私のやり方では、たいがい最初はちょっと感謝されるけれど、次第に私が手伝うことが当たり前になり、手伝わないと文句を言われるようになっていって、苦痛になってしまうからです。

本当は、彼らは皆、自分の力で解決したかったのかもしれません。それに、不意に気付いたのですが、私がそうやって人の困った事情について考えることにたくさんの時間を費やしたのは、劣等感を刺激する自分の問題から目を背け、「人助けができる自分」を作って優越感を得るための口実だったのです。

私のしてきたことは、自分と向き合う勇気がないから、ほかの人が自分と向き合うのを助けるふりをして実は邪魔をして、ほかの人も、私と同じように自分と向き合う力のない人にしておきたかったのかもしれないと考えてみました。自分の狡猾さにぞっとしました。

かあさんも、おばあちゃんも、とても魅力的な人です。おばあちゃんは私が思うよりもすごい人のようです。不器用そうだけれど、尊重されて当然の価値ある大人であることに間違いはありません。ならば、私が「心配」して「力になりたい」と思うのは傲慢と言えそうです。

私は私の気持ちすら、まだ整理できない未熟者です。それでも大好きになったこの家族のために何かしたい。でも、それは、心配したり手だてを考えたりすることではなく、かあさんが自分の力で解決できると信じることなのだと思いました。思った途端に、心の底から力が湧いてきました。

「後藤さん、私、かあさんとおばあちゃんを信じています!」
「はい、私も心からお二人を信頼申し上げております。」
「俺もだ。俺の奥さんは、並みの人ではないからね!」

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