Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。


スッキリしない発熱がようやく消えるのに1週間かかった。
「飲みに来たついでだよ。」と言いながら往診してくれる宮田先生の言葉で、僕はこの1週間を案外心穏やかに過ごすことができた。
「穂高くんの体は弱いのではなくて、勇敢なんだよ。」
「勇敢って、いさましいとか、そういう勇敢ですか?」
「そうそう。」
「そんなこと、言われたのは初めてですよ。」

先生が言うには、こういうことだ。
場所にはどこでも、そこ特有のものがある。
常在菌、なんていうそうだ。
大概の人は、それがもともと持っているものと多少違っても、平然と受け入れられる。
でも、僕の体は頑固で妥協がないらしく、「お前、違うだろ!」とすぐに戦いを挑むのだそうだ。
それで、熱が出る。
ひとしきり戦って、「しょーがない、大して害はなさそうだから共存してやるか」となれば落ち着く。
外敵を許さない勇士がたくさん住んでいる体だと思えばいいというのだ。

そんな風に表現すると、ちょっと笑える話だ。
勇士というより、好戦的な短気者としか思えないではないか。
「それでも、ひどい目にあっているのに鈍感な人もいるからね。いいじゃないか。」
なんて言ってもらえると、そうだなぁという気がしてきた。
物事はとらえようだ。
僕は小紫に来てから、そんなことをずっと重ねて学んでいる気がする。



その二人連れがやってきたのは、僕が小紫のカウンターに復帰して数日たったころだった。
2月の声も聞こえそうな夜はヒリヒリと寒さが積もり、開店の準備を終えて扉を開け、外の様子を覗くと、息が真っ白に煙った。

こんな夜は客も少ない。
しばらく誰も来ないまま時が過ぎ、やっと入ってきた5人は大学生のようだ。
女の子が3人、男が2人。
むくむくと重ね着をして、毛糸の帽子をかぶってなだれこんできたかと思うと、じろじろと店内を見回している。
「あのー、あたしたち、地元の隠れた名店を探すサークルなんです。」
その中の一人が面白いことを言いだした。
「あら、名店だなんて光栄だわ。」
ゆかりさんが対応に出る。
「駅前で聞き込み調査をしたら、ごはんがとっても美味しいバーがあるって。」
「それに、空気がきれいで、心が落ち着いて、気分がよくなるとも聞きました!」
「あの、僕、酒は飲めない性質なんですけど、そういう人も来ていいんですか?」
と尋ねた男の言葉には、どこか東北をにおわせるイントネーションが混ざっている。
「もちろんですよ。では、何か召し上がりますか?」
わぁっと歓声をあげて、彼らは注文を選び始める。
まるで学食のようだ。

学生の懐具合というものを、ゆかりさんはよく理解しているようだ。
お手頃価格のものをいくつか選び、バラエティー豊かに見えるようにしてテーブルを埋めた。
アルコールを頼んだ者がいなかったのも面白い。
「これ、すっごく美味しいです!色味が美しい!」
「うわぁ!これ、本当に麻婆豆腐ですか?豆腐がまるでクリームチーズみたい!」
口々に、食レポ顔負けのコメントを連発しながら喜んでいる。
それを眺めてさらに嬉しそうなのがゆかりさんだ。

5人組の話が弾んで、いつの間にか日常の世間話になっている。
10号館の裏のベンチであの二人…とか、南のカフェテラスのキャラメルラテが…とかいうのを聞いていて、なぜかカラー映像が浮かぶことに気付いた僕は、彼らがどうやら僕の後輩らしいことに思い至った。
そうか、学部生ってこんなにかわいらしかったか。
毎日がキラキラしているんだろうな。
悩んだり、怒ったり泣いたり、無駄にガマンしたり。
いろいろあっても、輝いているんだよ、君たち。
なんて思う自分は、いつの間に老け込んだんだ?僕だってまだ20代だ!

ひとりツッコミをしているときに、カウベルが鳴った。
この二人連れは、きちんとスーツを着た大人だ。
50代、だろうか。
初めてのお客様だ。
後ろでキャンキャンしている大学生に比べると、ずしりと人生の重みを感じる。
「いらっしゃいませ。どうぞお好きなお席へ。」
僕が言うと、ふたりは目を見かわして、言葉はないままにカウンターへ並んで腰かけた。
質の良いカシミヤのマフラーをしている。
きっと、いい会社に勤めているのだろう。

「美味しかったなぁ。」
「絶対またすぐ食べたくなりそう!」
「友達誘ってきてもいいですか?」
大学生たちはもう席を立ちあがったようだ。
「もちろん。お待ちしていますよ。」
うちは定食屋じゃないんだぞと言ってやってもいいのに…。
中にはゆかりさんに握手をねだっている女の子までいる。
それほど美味かったか。
きっと君も、ろくなもの食べてないな!

騒々しい集団がドアの外へ消えると、店内は一気に静まり、BGMのスロージャズがやっと聞こえるようになった。
二人連れは、それぞれに水割りを頼み、黙ってグラスを傾け始める。
並んできた割には無口だ。
同じくらいの年齢に見えるが、片方はずいぶん白髪が目立ち、片方は真っ黒だ。
それ以外に違いというと…
「穂高、また悪い癖。」
ゆかりさんにそっとたしなめられて、僕は視線を逸らす。
お客様をじろじろと観察するのはひどく失礼なことだと何度も言われながら、ぼくはこの癖がなくならない。

特にご注文もご要望もないので、ぼくらは少し下がって控えている。
先ほどの学生たちがたくさん皿を使ったから、奥に入って洗い物をしてもいいのだが、皿がぶつかる音など、このお客様方に聞かせなくてもいい。
小紫の皿が足りなくなることもないし。


「大学生だったな。」
「…さっき、出ていった客か?」
「うん。」
「そうだろうな。無邪気なもんだ。」
「多少、懐かしくもあるな。」
「そうか?」
会話は、そこで途切れる。

以前からの友達なのだろうが、久しぶりの再会ではなさそうだ。
もしそうなら、近況はどうかとか、あの頃はどうだったとか、そんな話になるものだ。
すでにその部分を他の店で済ませてきたのだろうか。
つまみを頼もうとしないから、食事をしっかりしてきた可能性は高いよな。

なんだか、探偵気分だ。
「こらってば。」
またゆかりさんに小突かれた。
僕は慌てて布巾をもち、そこらへんを拭き始めた。

「で、何か話か?」
「なんで。」
「いや、一緒に接待に出るのは珍しくないけど、帰りにもう一軒なんて、10年以上はなかった気がするからさ。」
「そうか。」
「で?大学時代の思い出話をしたくなったわけでもあるまい。」
「まあな。」
「何か、あったか?」
「ああ…。実はな…。」






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僕の熱は、思うほど早くには下がらなかった。
ゆかりさんは、僕のへたった体によいものをと、心をこめて美食を作ってくれる。
美食といっても、贅沢な食材を使った珍しい料理ということではない。
本当に美味な料理、ということだ。

1年ほども身近で過ごして、僕はゆかりさんの暮らしを大概理解しているつもりになっていた。
でも、それはとんでもない思い上がりだったと気づいた。
ゆかりさんの暮らしは、そんなに単純なものではなかったのだ。

まず、朝寝坊をあまりしない。
睡眠時間が何時間であろうと、明るくなる頃には起き出す。
そうして、外へ出て行く。
何かと思ったら、小紫と隣り合わせに建っているこの家の裏側が畑になっているのだ。
ゆかりさんはまず畑に出て、野菜の世話をするわけだ。
「有機野菜って知っている?」
「ええ、言葉くらいは。」
「無農薬とか減農薬とか、いろいろ言うようになったけど、この畑は農薬も使わないし、化学肥料も使わないの。種や苗も量販店で買ってきたのではなくて、心ある農家の方に分けてもらっているのよ。」

体にいいのだろうなぁと思う程度で、僕にはその気遣いの意味がよく分からなかった。
けれども、一緒に食事をするたびにそんな話題を聞いているうちに、これは大変なことなのではないかと思えるようになった。

「農薬って、雑草が生えないようにしたり、虫がつかないようにしたりするためにはとても便利なものなのね。だって、農家の人手は限られているし、きれいな形や色でたくさん作らなければ売れないのだから、できるだけ効率よく進めたいと思うのは当然だわ。でもね、ちょっと考えてみれば分かると思うの。色や形がそろっていることが大切か、草も虫も殺すような薬がかかっているってことが大切か。」
「うーん、育てたい野菜には害がないから、農薬って売れるんですよね?
それに、国には厳しい安全基準があるはずだし、農薬を作る技術だって向上してますよね。
神経質にならなくてもいいんじゃないかなぁ。」
「そうねぇ。確かにねぇ。じゃぁ、実験してみましょうか。」

その日の夜、ゆかりさんは模様のついてないガラスのコップをふたつと、なにやらの小さなボトルをテーブルに並べた。
「そうして、はい、これが今日スーパーで買ってきたチンゲンサイ。」
「はあ。」
「じゃ、穂高。だるいかもしれないけど、畑からチンゲンサイを二株、取ってきてくれる?」
「はい。」
チンゲンサイには旬がないのだろうか、ゆかりさんの畑では、小ぶりなチンゲンサイが一列育っているのだ。

「はい、とってきました。」
「じゃぁ、見ていてね。こうして葉には水をかけないようにして泥だけ落として・・・。」
「このボトルは?」
「それはね、残留農薬を落とせる洗剤みたいなものと思えばいいわ。」
「へぇ!」
「コップに水を入れるでしょう?で、これをたらして・・・と。かき混ぜてみて。」
「・・・何も起きませんね。」
「じゃ、今度はこっち。スーパーの方は?」
「・・・あれ?水が黄色くなりましたよ!!何だこれ?」
「それが残留農薬ね。」
「うわぁ。」
「じゃ、次の実験。」

ゆかりさんはチンゲンサイをごま油でざっくりと炒めると、塩コショウだけして2皿差し出した。
「はい、できた。テイスティングをどうぞ。こっちが畑ので、こっちがスーパーのね。」
僕はそれほど味がわかるわけではないけれど、この2皿は明らかに違っていた。
「こっちのほうが美味しいですね。しゃきしゃきしていて。こっちは別に、普通だな。」
「それが、どちらのチンゲンサイか分かる?」
「畑のほうですよね。」
「そうなのよ。でもね・・・。」

ゆかりさんは手を伸ばして、先ほどコップの中で黄色い液体を出した、スーパーのチンゲンサイを取り出して、流水で丁寧に洗った。
しっかりと水をふき取り、ざくざくと切って、先ほどと同じように炒める。
「さ、どう?」

驚いたことに、同じスーパーのチンゲンサイのはずなのに、味が変わっている。
「うまいです!」
「そういうことなの。」

僕は考え込んでしまった。
「でも、農薬のせいとは言い切れないですよね。水につけている時間の長さとか、洗い方とか、条件が違っていたから。」
「そのとおり。でも、大切なのは、そこじゃないわ。」
「え?」
「あなたは同じようなチンゲンサイを食べてみたけれど、あるものは美味しいと感じ、あるものはそれほど美味しいと感じなかった。」
「ええ、まあ。」
「体も心も喜ばせたいと思ったら、十分に労わりたいと考えたら、一番美味しいと感じるものを提供するのが近道だと思わない?」
「あ!なるほど。」

「あなたの体には、そういう意味での『美味しい』を、たくさんプレゼントしたいの。あなただけではないわ。私にも、小紫のお客様にも!」
ああ、だからこの店の料理はなにもかも美味いのか。

「お食事はね、五感でいただくものなのよ。今は味の話をしたけれど、色も、盛り付けも、香りも、舌触り歯ごたえも、全部そろって『美味しい』が出来上がっているの。そう考えると、料理をする者にはできることがたくさんあるってことになるでしょう。それが私には楽しくて、大きなやりがいって言うか・・・あら。」

突然黙ってしまったゆかりさんに驚くと、彼女は静かに言い足した。
「私としたことが、病人相手におしゃべりしすぎたわ。」






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のそりと目を開けて、ぼんやりと周囲を見回す。
あれ?ここはどこだ?
部屋で寝たはずではなかったか?

…ああ、そうか。
引っ越したのだった。
ここは、ゆかりさんの家にある、僕の新しい部屋だ。
痛い。頭も体も痛い!

「ああ、穂高。目が覚めた?」
声に従って首を回すと、ゆかりさんの心配そうな顔にぶつかった。
「大したことはないから心配はいらない。疲れが出たのだろう。」
白衣の宮田先生までいて、僕は事態を理解せざるを得ない。

「朝ご飯の時間になっても全然出てこないから、朝寝坊がすぎるわよってからかおうと思ったの。
そしたら、布団の中で真っ赤な顔して、荒い息をついていて。
おでこに触る前に、髪の毛越しに熱気が伝わってくるんだもの、びっくりしたわ。」
「ママがすぐに僕を呼んでくれてね。」
宮田先生の声は、あくまで優しい。
きっと、僕の病気を思って、とるものもとりあえず飛んできてくれたに違いない。
「ありがとうございます。すみません…。」
「なんのなんの。仕事だからね。」
「どう?どんな気分?」
ゆかりさんがさらに乗り出して問いかける。
「頭が痛いです。体も痛いかな。でも、これは荷物を運んだ筋肉痛かも。」
「そうだねぇ。」
宮田先生が笑顔を浮かべている。

「小さいころから、環境の変化に弱かったということは?」
先生に問われて、そういえばと思い出した。
「母から言われたことがあります。
卒業とか入学とか引っ越しとか遠足とか、そういうのがあると、決まって熱を出すのよって。 」
「うん、そうなんだね。今回もそういうことだろうよ。」
「まぁ!」
ゆかりさんが驚いたような、ホッとしたような声を上げる。
「すいません。虚弱体質で。」

「いや、君の場合は虚弱と言うよりも、レスポンスがいいと言った方が合ってるね。」
「レスポンス??」
「反応とか応答とか訳せばいいかな。」
「反応がいいってことですか?」
自分の吐息が灼熱の温度を保ったままなのを感じながら、僕は先生の意図を知りたかった。
「ああ、そういうことだね。」
「そんなこと、言われたことありませんよ。」
もぞりと寝返りをうって、体の位置を変えたとたんに、全身に得も言われぬ痛みが走る。

「ストレスと言うと、辛いことを我慢したときにたくさんかかるように思われているけれど、期待感も大きなストレスになることがあるんだよ。」
「ああ、マリッジブルーとか5月病とか。」
「そうそう。 人によっては巨大倉庫くらいにストレスをしまっておける仕組みを持っていることがあってね。
嬉しいことも悲しいことも、その都度ストレスになっているけど、どんどん倉庫にしまい込んで気付かないんだね。
ところが、倉庫にも限界がある。
ある日突然詰め込み過ぎて腐ってしまったストレスが大爆発したときには、もう手の付けようがない。
火を消すにも、片づけるにも、もう一度建て直すにもとんでもなく長い時間がかかってしまう。
時には爆発で散らばった毒素が体のほかの部分の病気の原因になったりね。 」
「ああ、それ、分かるわ。」
頷くだけの僕の代わりに、ゆかりさんが感心したように言う。

「でも、穂高くんの心身はそういう構造じゃないんだなぁ。 
片手で持てるバケツくらいしか、貯めておけないようだよ。」
巨大倉庫とバケツ。
いかにも自分が小人物と言われたようで憮然となるが、例えのうまさに笑えても来る。
「だからね、すぐに溢れてしまうけど、こうして熱を出すくらいで済むわけだ。
どっちがいいかは、一概には言えないけれどね。
巨大倉庫の持ち主は、通常はストレスの影響を受けないわけだからね。
けど、悪くないんじゃないかね、いい反応をしている体のおかげで、重大なことにならないなら、それで。」
僕が”重大なこと”をじっくりと経験したのを承知の上で、先生は笑いながら帰っていった。

「ね、穂高。」
宮田先生を見送った後、ゆかりさんが枕もとに戻ってきて真顔になった。
「はい。」
「あなた、ウチでお昼を食べなくなってから、どうしていたの?」
「どうって…。」

そうなのだ。
小紫に雇ってもらった最初のうちは、店にいる時間のぶんだけ時給を支払うという契約を最大限に生かそうと思い、朝から晩までここにいたものだ。
だから、昼ごはんもゆかりさんと一緒に食べさせてもらい、昼食代を払ったりしていた。
でも、それもしばらく続けると、ちょっと疲れてしまったのだ。
小紫の営業は、開店時間は午後5時、準備開始が4時と決まっているけれど、終わりが明確に決まっていない。
お客様の入りが少ない夜は早めに店じまいすることもあるし、常連さんの腰が重い夜は、深夜1時2時でも追い出すようなことをしない。
一番多いのが0時に閉めて、片づけをして、帰宅が午前1時過ぎ。
晩ご飯は、合間を見て、店の奥でゆかりさんの賄いを食べさせてもらう。
が、昼近くに起きるので、朝ご飯は食べず、近所のコンビニで弁当を買ってきたり、ちょっと蕎麦屋に入ったりして朝昼兼用の飯を済ませ、4時少し前に小紫に行くのが定番になっていた。

「そんなことだと思ってはいたのだけど、口を出すのもね。」
「すいませんっ。」
どうして謝るのかわからないけど、布団の中で頭を下げる。
「丈夫な体を保つのが特に大切な人なのに、食べることをそんなに軽んじていたなんて言語道断だわ。
食べてさえいれば何でもいいわけではないことくらい、知っていたでしょうに。」
ゆかりさんの口調は、叱ると言うより嘆いている。
「確かに、反応のいい体なのだとは思うわ。
だからこそ、強くなれるよう気遣っていれば、大病をしにくい体ってことにもなると思うの。
『病は気から』っていうけれど、不安や不愉快がなければ体は健康ってわけにはいかないわ。
気を健康に保つためにも、食べるものは本当に大切なのよ。
ここにこうして引っ越してきたからには、あなたには滋養のある、健康なものを食べてもらうわ!」
「健康なものを食べる??」
「ま、細かいことは熱が下がったらね。
まずは、どう?お腹空いた?」
「うーん、どうかな。喉は乾いたけど。」
「でしょうね。脱水症状には気を付けるよう、先生にも言われたわ。待っててね。」

目を閉じてゆかりさんが戻ってくるのを待った。
まぶたの中で、世界がグルグルと緑色に回っている。
気持ちが悪い。

「はい、これ、お飲みなさい。」
声がして、半身を起こすと、グラスを渡された。
水だ。
喉を鳴らして飲む。
冷たい。
口から喉へ、そのまま全身の細胞に沁みわたるようだ。
「富士山の伏流水に、伊豆大島で採れた塩を少しね。」
「伏流水?」
「あら、言わなかったかしら。うちでお客様に召し上がっていただいている物の水はすべて、富士の麓へ汲みに行っているのよ。」
「!」
「塩もそう。体によい、力のある塩を選びに選んでいるの。」
「塩も…。」
「野菜も、他のものもみんなそうよ。」
「そうだったんですか…。」
「食べるって、それほど大切なことだと思うの。
命を保つために、自然の力をいただくってことだからね。
まぁ、ほら、飲んだら少し眠ったら?
次に目が覚めたら、いまより楽になっているだろうって、先生もおっしゃっていたわ。
特に解熱剤なんか飲まなくても、自然に下がるだろうって。」
「すみません。」

僕が返したグラスを持って、ゆかりさんは静かに戻っていった。
僕はグラグラする頭で考えた。
ここに引っ越してきたのは、本当にすごい決断だったのかもしれない。
僕の命のためにも、幸せのためにも、未来のためにも。







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みなさんのお力を借りて、僕の引っ越しはたった半日で無事完了した。
あとは部屋の中を落ち着かせるという、僕だけの作業を残すのみだ。
故郷から初めてこの街のあの部屋に越してきた日は荷物を入れて買い物に出たあとで、部屋に電灯がないことに気付いて慌てたっけ。
今回は、おかげさまで慌てることひとつなく、引き移ることができた。

ひと段落すると、ゆかりさんが引っ越しそばの支度ができたという。
今夜の小紫は臨時休業。
お客様のいないテーブルに、作業着の首にタオルをかけた元さんと、元さんの会社の若い社員さんが2人、長さん、少し前に合流した宮田先生がそろった。
ゆかりさんも何かと立ち働いていてくれたのに、いつの間にそばの支度まで…と恐縮しかかったが、
「ああ、これは長寿庵さんから届けてもらったの。」
と言う。
ちょっと、ホッとする。

本がびっしり入っていて、小さいくせにズシリと重い箱をグイグイと運んでくれた元さんのところの若い2人は、そばを2人分ずつペロリと平らげると、スッキリと挨拶して帰っていった。
「社長、お小遣いありがとうございます!」
と下げた頭を、慌てた様子の元さんにピシリとはたかれていたところを見ると、僕に代わって元さんが二人に心づけをしてくれていたらしい。

そわそわしていた宮田先生が、部屋を見たいと言うから案内すると、壁一面の本棚からあの遠野物語を目ざとく見つけ、店に持ってきた。
「この間、元さんに読書を邪魔されたからねぇ。」
と、旧知の友に再開したような顔をして、あっという間に本の中の住人になってしまった。

長さんは八百屋の店番を奥さんに任せて、ずいぶん早い時間から来てくれていた。
本以外はそれほど多くない僕の荷物が運び込まれる前からこちらの部屋にいてくれて、僕にあれこれと質問した。
「で、服はどんなふうにしまってるんだ?」
「押入れに箱のまま入れておくものはあるのか?」
「机の引き出しに入れるものは?」
「本はどんなふうに分類されてくる?」

聞かれるままに答えただけだったのだが、いざ箱が届き始めると、僕がまごまごするのを横目で笑いながら、長さんは次々にガムテープをはがしていく。
「え?全部箱がきてから開けるんじゃないんですか?」
「そんなことしていたら時間がもったいないし、動ける場所がなくなるじゃないか。」
返事の間にも手は動いているからすごい。
長さんは年季の入った八百屋の手で品物をてきぱきと仕分け、鮮やかな手際であるべき場所へと納めていく。
僕も慌てて手伝おうと、手近な箱に手を伸ばすと、
「おいおい、それはちょっと待ってろ。」
まるで長さんの荷物であるかのように叱られてしまった。

圧巻だったのは本棚の整理だ。
本を取り出す前に、他の荷物の段ボールはすべて開けられ、あるいは押入れの奥に積まれて、畳に上にはなくなっていた。
そうなってから、本の段ボールをずらりと並べて、ガムテープだけ次々にはがして、中を見えるようにした。
「この一番背の高い仕切りのところには、このあたりのが並ぶんだろうな。」
長さんは独り言をいって、一つ目の箱を引き寄せ、あぐらをかいた姿勢で本をスッスと並べる。
「よし。次は…」
軽々と立ち上がると、箱の間をぐるりと歩いて、ひと箱を選んで抱えてくる。
「穂高くん、これはこれでいいか?」
「あ、はい!」
「じゃ、並べて。次は…。」
あっという間に2段3段と埋まっていく。
全集本も分厚い専門書も、見事に並びきった。

「ここからは、このサイズだな。新書ってやつか?」
「そうです。」
「ずいぶんあるなぁ。」
「そうですね。ちょっと興味があるテーマでも、すぐ買ってしまうもので。」
「学生のくせに、よくそんな金があったなぁ。」
「意外とどうにかなるもんですよ。」
「で、この新書ってのはどう並べたい?」
「今まではテーマごとに並べていたんですよ。それでいいかな。」 
「テーマごと?ああ、だからこの箱の中にはいろんな色があるんだな。」
「色?」
「穂高くん、これからもそのテーマごとに読み返すのか?」
「いや、もうそういう読み方はしないかな。それに、どのテーマで何を読んだかは、大概頭に入ってますし。」
「だったら、出版社ごとに並べようよ。そのほうがキレイだ。」
「きれい?」
「ああ。本もインテリアだと思えばどうだい?色がそろっているほうが断然キレイだろ?」
僕が感心する間も長さんは手を止めず、新書が詰め込まれた箱を身の回りに寄せ集めると、出版社ごとに仕分けている。
それから首をかしげて考え考え、1社ずつ取り出しては、出版番号順に並べている。
「青の隣は、この白っぽいヤツかな。で、ん?この岩波新書ってやつは、同じ会社でも色が違うのがあるんだな。なら、白の隣は…オレンジにして、次が緑と。」
もはやほとんど独り言だ。
多分文庫本も同じ流れになるだろうと、僕が出版社ごと、シリーズごとに分類していると、
「おっ、気が利くねぇ。」
と褒められてしまった。

「よしっと。どうだい!」
両手を腰に当てて、自慢げに仁王立ちした長さんの視線の先には、本屋と見まごうばかりに並んだ本棚があった。
丁度部屋に入ってきた元さんも、
「おおっ、これはこれは。さすが八百屋の仕事だ。うまそうに並んだなぁ。」
と手を叩いている。
来てすぐの宮田先生が遠野物語をすぐに見つけられたのには、こんな理由があったのだ。

山ほどになっていた段ボールは、さっさと括られて元さんの軽トラックに積み込まれ、あれよあれよという間に姿を消したから、今、部屋の中は、今日越してきたとは思えないほどに片付いている。
最後のしあげにと、ゆかりさんが掃除機をかけ、丁寧に水拭きまでしてくれた。
7年使った布団は、実は処分してきた。
かなり汗臭かったし、安物だったからペチャンコになっていた。
新しい布団は、ゆかりさんからの頂き物だ。
インフルエンザでここに厄介になった時に借りたものだ。
軽くてふわふわで、とにかく心地よい布団なのだ。

引っ越しそばを終えて、いつもの酒宴になった。
僕は皆さんにどうしてもお礼を言いたくなった。
「今日は本当にありがとうございました。
皆さんのおかげで、無事こんなにきれいに引っ越すことができました。
僕は、本当は、仕事をしながらあの段ボール箱を片づけるのを想像するだけで倒れそうな気がしていたんです。
でも、あんなにきれいにしてもらって、何と言うか…。
僕がやっていたら、あんなにきれいな本棚にはなりませんでした。
本棚を融通してくれた元さん、並べてくれた長さん、それに蕎麦のことまで気にかけてくれたゆかりさんにも心から、ありがとうございます。」

僕が頭を下げると、ゆかりさんがコトコトと笑って言った。
「ここでは、これが当たり前なのよ。
蕎麦もそう。私がゆでてもいいのだけれど、こんな特別な日のお蕎麦だもの、おいしいと評判の長寿庵さんに作ってもらって、ありがとございますと感謝してお支払いしたら、長寿庵さんもうれしいし、私たちも美味しいでしょう?私たちはそれぞれに、自分にできる精一杯のことを身に着けて、それを人様のお役に立てる。
それでありがとうと言ったり言われたりしながら毎日を過ごしているの。
だからあなたも、いつか誰かのお役にたてることに気付いた時には、手を貸してあげてね。」
「はい。」
僕は心から頷いた。

「こんな大事なこと、学校では教えてくれないもんなぁ。」
いつの間にか本から顔を上げた宮田先生がふんわりと言う。
「ひとりでなんでもできなきゃいけない、失敗してはいけない、成長しなきゃいけないって、そればかりな気がするよ。それで疲れてしまっている人が、どれだけ多いか。」
それは僕にも覚えがある。
姉さんが大学進学で躓いたのも、そんな発想が原因だったのかもしれないと、今は思う。

「金も力も知恵も、自分で抱え込むのではなくて、誰かのために役立ててなんぼだな。」
元さんも頷く。
「それでよぉ、その『誰か』ってのが客だよな。」
長さんも言う。
「ええ、そうね。ま、先生の場合は客と呼ばずに患者さんというのでしょうけど。」
みながふふふと低く笑った。
「俺には学がないから難しいことは分からないけど、俺にとって最初の客は母ちゃんなんだよなぁ。」
「なんだって?」
元さんが身を乗り出した。
「いや、俺がさ、普段一番気遣っているのは母ちゃんなんだよなぁと思ったんだよ。
母ちゃんが働きやすいようにしてやるのが、結局店のためになって、いい店になれば客も喜んでくれるだろ?」
「ああ、なるほど、そういうことか。」

「それなら思い当たることがあるよ。」
と宮田先生も言う。
「看護師たちが気持ちよく働けるように、私だって一応気遣っているつもりだよ。
ドラマなんか見ていると、看護師に横柄な医者が出てくるけれど、ウチでは私より看護師の方が患者さんのことも病院のことにも詳しいからね。彼女たちは私の仕事ばかりか、健康や趣味のことまで気遣ってくれるくらいだから、どちらかというと気遣い負けしているけれどねぇ。」

僕にもだんだん分かってきた。
「つまり、身近な人が幸せで快適でいられるようにすることが、最初の仕事なんですね?」
確認するように尋ねると、皆が一斉に頷いた。
「そうだ、そういうことだなぁ。長さん、たまにはいいことを言う。考えてもみなかったが、確かにそうだ。」
「なんだかなぁ…。」
飲みかけのグラスを一気に乾すと、長さんが威勢よく言った。
「ママ、なんか母ちゃんに手土産にするものないかな。今日は長いこと一人で店番させちまったからな。」
「そうね、それなら…。」
ゆかりさんが人差し指をあごに当てて考え始めた時だ。

「あのっ!」
僕は席を飛び上がった。すっかり忘れていた。
「これを、奥さんに差し上げてください。」
カウンターの裏に隠しておいた紙袋をまとめて持ってきて、その一つを長さんに渡した。
「これは?」
「貴船屋の和菓子です。詰め合わせになってます。お口に合うかどうか。」
「貴船屋とは!なんと上品な!!」
「元さんと、宮田先生にも。それから、ゆかりさんにも。」
「まぁ!」
「おおっ。」
これほどウケるとは思わなかった。
恐るべし、貴船屋。
ルナソルの貴船オーナーに今度話してやろう。
どんな顔をするだろうか。

「じゃ、母ちゃん孝行に帰るよ。穂高くんの引っ越しを手伝っていたら、なんだか母ちゃんがうちに嫁に来た時のことを思い出しちまった。」
と長さんが立ち上がると、
「穂高くんも疲れたろうから、今夜は早寝しろ。」
と元さんも宮田先生も帰っていった。

後片付けを手伝って、店じまいすると、僕も休むことにした。
「おやすみなさい。」
「はい、おやすみ。いい夢を見てね。」
返事を聞いて眠るのは久しぶりだ。

僕は、今僕の周りにいる人たちを精一杯大事にして生きる。
うん、それがいい。それで、いい。
歴史に名を遺したり、誰かにすごく褒められたりはしないかもしれない。
でも、毎日小さなありがとうを積み重ねていけたら、それで幸せ。

そんなことを考えながら、満たされて眠りについた。
なのに、翌朝、僕は熱を出した。








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その場限りの約束ではなく、僕は本当にゆかりさんの家に引っ越すことになった。
あの方々を見送った次の日、常連の元さんや長さんたちが来た時に、珍しくゆかりさんがそんな話をし始めたのだ。
ゆかりさんが他の客との会話の内容を、いくら常連とはいえ、他の客にするなど今までに聞いたことがない。 
それだけ、ゆかりさんの心にも深く残る出来事だったのだろう。

「じゃ、穂高くんはここに越してくるのか?それはいい。」
もっといろいろ言われそうに思っていたけれど、常連さん方は手を打ったり深く頷いたりで、あっという間に話がまとまってしまった。
「あそこのアパートの大家は…ああ、大丈夫だ。話しておくから、いつでも都合がいい時に出られるだろうよ。」
「え?」
「だって、俺の幼馴染だもんねぇ。」
と、八百屋の長さん。 

「引っ越し屋なんか頼むんじゃねーぞ。俺らでやってやる。」
「おう。その分、ここの飲み代、一晩分くらいおごれよ。」
「それじゃ、かえって高くつくような…。」
「おい、真に受けるな。冗談だよ。」
「ほっ。」
「荷物まとめとけや。」
「はい。」
元さんは、仕事で使っている軽トラックを運転してくるだけでなく、荷物運びまで手伝ってくれるという。

僕のためにそこまで?と感激しかけたが、ニブい僕でも気が付いた。
みんなみんな、ひとり暮らしのゆかりママを心配していたのだ。
そういえば、僕を雇ったとき、ゆかりさんはみんなに僕のことを「用心棒よ」と紹介したっけ。
僕は1年ちかくをかけて、みんなから安心できる用心棒として認められたってことか。

実は僕だって同じなのだ。
今のところ、僕の方が圧倒的かつ一方的に世話をかけているけれど、それがいつまでも続くとは限らない。
あの元気な母さんだってそうだった。
また明日会えると思っていたくらいなのに、何の前触れもなく逝ってしまった。
吉高様だってそうだ。
あんなに力強く、戦争や人生を語ってくれたのに、次にまた会えるのは当然と思っていたのに、その機会は二度とやってこない。
それがゆかりさんにも起きたら?と思うと、僕は何もせずにはいられないのだ。
いずれ失うさだめであっても、手の届かないどこかでその日を迎えるのではなくて、脇に寄り添っていたいのだ。

これは甘えか?
それでも構わない。
僕は最後まで甘えよう。
そう覚悟を決めたのだから。

長さんが言ってくれた通り、引っ越しを申し出ると、長いこと暮らしてくれたからと、年明けの1月には越してよいことになった。
契約更新にははずれた時期だったが、違約金なども発生しないという。
「いやさ、実は、今引っ越してもらって、次の学生さんが契約に来る前に内装直して、ちょっと家賃の見直しなんかもしてさ、新しい契約にするってのも、大家にはおいしい話なんだよ。」
仲介の不動産屋がこっそり教えてくれたから、僕はどこか心疚しい気分だったのを吹っ切ることができた。

小さな一間のこと、引っ越しの荷造りなど簡単と思っていたが、そうでもなかった。
とにかく本が多い。
手放す気もさらさらないし、かといって、段ボールに何箱あるかというほどだ。
大きな箱に入れると重たくなって運びづらいから、わりと小さな箱を選んで詰めていく。
すると、箱の数が増える。
ため息が出てきた。

しかも、さっさと詰めればよいのは分かっているのだけど、久しぶりに手にする本をつい開きたくなり、開くと懐かしくて読みこんでしまう。
ふと気づくと、1冊段ボールに放り込むだけのことに15分もかかったりしている。
これではいつになっても引っ越しなどできるはずがない!
僕はまた一つ世間を知った。
荷造りから手伝ってくれる引っ越し屋さんがあるというが、こういうムダな時間を作らないための、ありがたいサービスなんだってこと。

拍車をかけたのは、往診帰りだという宮田先生が寄ってくれたことだ。
「穂高くん、何か手伝えることはないかと思ってねぇ。」
恐縮しつつもありがとうございますと甘えることにしたのが、かえっていけなかった。
「おや、これは遠野物語ではありませんか。」
「先生も読んだことが?」
「ええ。大学生の時にねぇ。懐かしいなぁ。確かこのあたりに…おお、あったあった。ほら、ここね、私はここが好きでねぇ。」
「ああ、いいですね。そういう切り口というか、語り口というか、いかにも柳田国男らしい。」
宮田先生が意外にも文学に造詣が深いことを知り、僕は嬉しくなってしまった。
しばらく語り合ってから、ひとり本に没頭し始めた先生を見ているうちに、音をたてて邪魔してはいけないと、僕も手を止めた。
ひとりでやっていた時は1冊15分だったのに、宮田先生がやってきてからは1冊目にすでに30分経っている。
「先生、お茶でも。」
「ああ、ありがとう。この河童のところを読み終えたら手伝うからね。」
これでは、進むはずがない。

「おーい、穂高。やってるか?」
威勢の良い足音と一緒に、元さんがやってきた。
「おう、先生もいたか。ん?何やってんだ?」
「いえね、懐かしい本があったものだから、ちょっと拝借して。」
「おいおい、先生よぉ。それじゃ引っ越しになるめぇ。」
「ああ、すまないね。あとちょっと…。」
未練たっぷりにしている先生の手から年季の入ったハードカバーを取り上げると、元さんは威厳をこめて宣言した。
「読みたかったら引っ越した後で読めばいいだろう。
ちょっと手が空いたから見に来てみたらこの体たらくだ。
こういうことはな、機械的にやらねば進まんのだ。
ほれほれほれ!」
「あーっ、元さん、丁寧にやってくださいよぉ。貴重な本もあるんですから!」
「何言ってんだ。本なんて、そう簡単に壊れるもんでもないだろに!」
「元さんが今持ってるそれ、1冊2万円くらいしますよ。」
「え?」
元さんの目玉が飛び出しそうになった。
「後ろに2500円って書いてあるぞ。」
「ええ、発売したときは。でも、希少価値の高い本で、今売りに行くと2万円くらいになるんです。」
「へーっ!お宝だねぇ。」
「ですから丁寧に!そんな本もたくさん混ざっているんです!」
「けどよ、穂高。そんな貴重な本を、こんなところにただ山積みにしていたのか?」
「ほかに置きようがなくて…。」
「それはいけねぇなぁ。畳の上に寝かしておくんじゃ、本も虫食いやすくなるだろ?」
「そうなんですよ。日焼けもさせたくないし、虫食いなんてとんでもない、けど、ほら、もう本棚もいっぱいで。」

小さな本棚に重量オーバーするまで詰め込んである本をしばらく見つめているうちに、元さんの目の端がキラリッと光った。
「穂高。持っている本で一番大きなのはどれだ?」
「大きい、ですか?それなら…これですかね。」
元さんはジャンパーの内ポケットからメジャーを出すと、本の高さを測りながら尋ねた。
「これ、何冊ある?」
「このサイズはこの1冊だけです。次に大きいのがこれくらいかなぁ、これは10冊くらいあります。全集だし。」
「ほうほう。次は?」
「一番多いのがこのサイズですかね。これは数えきれないくらいあるなぁ。」
「あとは文庫か?」
「いえ、文庫と同じくらい、ちょっと背が高い新書がありますね。」
「なるほど。わかった。」
「わかったって何が?」
元さんは次々と本の高さを測り、本の山を見回してメモしながら力強く宣言した。

「ゆかりさんちで借りる部屋はもう決まったんだよな?」
「はい。ここの倍くらい大きな部屋なんですよ。いやぁ、もう、夢のようで。」
「こっち側、壁だったよな?」
「ああ、そうですね。窓のこっち側が壁でしたね。」
「よっしゃ。本棚を拵えてやる。」
「え?」
「これ全部立てられるだけの本棚を作りつけておいてやろう。」
「本当ですか!?」
「ああ。地震が来ても倒れないようにしっかりと耐震もして。」
「すげーっ!」
僕は思わず叫んでしまう。
「でも、家に傷がつくんじゃないですか?それに、そんなにでかい本棚、高そうだし。」
「家に傷はつかないようにするし、ついたらそれもお前が家を出るときに直してやるさ。
それになぁ、まあ、これだけ重い本になると廃材で作るわけにはいなかいんだけどな…。」
元さんがニヤリと片方の口元を引き上げて言った。
「実はな、先日、顧客の言う通りに作った棚がキャンセルになったんだよ。
とにかく細かい注文で念入りに拵えたのに、向こうの都合でいきなり断ってきやがった。
腹が立つやら困るやらで、キャンセル料をふっかけたら、材料費と工賃をひいても儲けが出るくらい払ってもらえたんだよなぁ。」
「げっ」
「それがさ、でかいから壊して板に戻そうかと思っていたところでよぉ。」
「もしかしてそれを?」
「おう。格安でつけてやる。」
「格安って、すでに儲けが出ているのに、僕からも?」
「当たり前だろが。俺も商売だ。それに、人間タダだったと思うと、大事にできないからなぁ。」
「大事にします!だから譲ってくださいっ!」
「おお。話が分かるじゃねーか。」
「だって、この本全部立てておけて、いつでもサクッと引き出せる環境で暮らすなんて夢のようですよぉ。」
僕は思わずヨダレが垂れてしまった!
「ただし、出世払いで!」
「出世なんぞしねーくせに、何言うか。即金だ即金っ!」

実は畳を上げて、床材を補強し、そこだけ畳ではなくフローリングに直して本棚を入れたのだと知ったのは、引っ越した後のことだった。
静かな大晦日をひとりだけのアパートで迎え、にぎやかな新年会に加わり、あれよあれよといううちに引っ越しの日を迎えた。
あれほど手こずった荷造りも、みんなの手を借りて一気に進み、運び出されていく。
ゆかりさんの家には必要ない家財道具は処分するか売るかしてしまった。
でも、母さんが持たせてくれた炊飯器とアイロンだけは、押入れの隅でいいから、一生持っていよう。

大家さんの立ち合いで、引き渡しが済み、最後のカギをかけるとき、言いしれない寂しさが胸を覆った。
「さよなら、僕の家。」
ここで過ごした7年ほどの月日が、あれこれと浮かんでは消えていく。
しばらくは、姉さんだって住んだのだ。

カギを2本、大家さんの手に戻すと、僕は右手の甲でこぼれそうな涙をぐいと拭った。
「よしっ。」

人の温度を感じる暮らしは久しぶりだ。
僕はこれから、どんな毎日を送るのだろう。






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