「俺が見ていなかった…いや、見えていなかっただけなんだなぁ。
世の中には、キラキラしたきれいなものや、かわいらしいものや、力強くて勇気づけられるようなものがたくさんあったんだ。
大したものじゃない。
俺の引き出しから出てきたガラクタと大差ない、ささやかなものだよ。
夕焼けとか、花屋の花とか、赤ん坊に笑いかけている若い夫婦とか、今までも、いつでもどこにでもあったようなものだ。
それが、唐突に目に飛び込んできた。
きっと、あれは目じゃなくて、心に飛び込んできたんだなぁ。
俺が子どもの頃に、恐ろしいものを見たくなくて塞いでおいたまま忘れていた心の目が開いたんだ。
そんな時だよ。
鹿島田文具の社長さんを接待することになったんだ。
お前、覚えているか?
どこだかと同じ日になって、お前と俺とで分担したことがあったじゃないか。
そうだ、あの時だ。
俺は部下をひとり連れて、でかけた。
俺のやりかたを引き継がせようとしていた、あいつだよ。
鹿島田さんはあの通りの人だろう?
今から思えば、きっと何かを感じてくださったんだろうなぁ。
1時間もすると、ふらりと席を立たれてなぁ、しかも、テーブルにぽいっと万札を何枚か出されたんだ。
俺らは飛び上がった。
とんでもないことだ。接待させていただいているのはこっちだからな。
でも、鹿島田さんが言ったんだ。
「あとは二人で、好きに飲めばいい。
私がいると仕事だろうが、いなくなればただの酒。
酒は好きに飲むのがいい。
特に今夜はそうするのがよいような気がするよ。」ってな。
ああうまかった、楽しかったよと背中で言って、出て行ってしまったんだ。
追いかけてもよかったのに、あの日の俺は、そのままお言葉に甘えてもいいか…と思ってなぁ。
あいつとそのまま飲むことにしたんだ。
とはいえ、俺は酒は飲めないし、あいつは緊張しているし。
微妙な空気がなんとも言えなくて。
あはは、おかしいか?
だろうなぁ。
これと言って話す気にはならなくて、ただ、せっかく頼んだのだから、残さず食うか、なんて言ってなぁ。
あいつは若い。
緊張しているくせに、食うわ食うわ。
人は食うと落ち着くんだなぁ。
くつろぎもする。
俺は飲めない酒を飲んでいるふりしながら、そんなあいつを眺めていたんだ。
その時、気付いた。
俺の「委ねる」ってのは、間違っていたなぁ。
俺のやり方を引き継いで、俺と同じにやればいいというのは、俺の傲慢なおせっかいだったんだ。
本当に委ねるというのは、こいつがいれば大丈夫と信じてやることだったんだな。
やり方が分からなくても、俺と同じでなくても、こいつはやれると思ってやることだ。
もしも、こいつが知りたいと思ったとき、役に立つように、大事なことは整理しておいてやろうと思った。
でも、それをわざわざ言い聞かせることはないんだ。
それくらい、あいつはいいやつだった。
どうしてこいつを頼りないと思ったのか、そう思ったんだ。
俺が幼いころ、母親からもらいたかったのは、そんな無条件の信頼だったんだろうな。
そんな信頼のことを、愛っていうんだろうな。
本気で委ねるということは、無条件でいいんだ。
あの帰り道だ。
本気で委ねようとして、ようやく分かった。
俺は俺がいなくなったら、こいつらは俺がいたことを忘れてしまうのだろうと恐れた。
忘れられたら、俺が生きていた証拠がなくなってしまうと思ったからだ。
でも、それは俺の勘違いだ。
俺が生きている間も、死んだ後も、かつて俺が大切な人たちのそばで一緒に過ごした時間があるという事実は、絶対に変わらない。
その時が楽しく幸せであったなら、俺は俺の大切な人々の楽しく幸せな経験としてその人の中に生き続ける。
たとえ記憶に残っていなくても、事実は消えない。
それは、すごいことではないか!
焦る必要も、はかなむ必要もなかったんだ。
俺はもう十分に、仕事先でも、妻にも、子にも、大事な時を遺してきたんだ。
そうして、俺が生きている限り、その時はまだ増え続ける。
なんて幸せなことだろうかとなぁ。
妻には俺の気持ちの変化を話して聞かせた。
彼女も分かってくれたようだ。
治療を受けてくれというのは諦めてくれないが、俺が生きたいように生きていいと言ってくれたよ。
これから、今まで当たり前にできてきたことができなくなるのかもしれない。
心配や迷惑をかけるのかもしれない。
それでも、俺は、俺にできること、したいと思うことを、俺なりに精一杯やることで、許してもらおうと思う。
そうやって生きることを、自分自身にも許そうと思う。
そういう自分を、無条件で認めることにしたんだよ。
心残りはなくなった。
こうしてお前と、ずっと飲まずに来た酒を飲みながら語り合うこともできた。
ただ、心残りがなにもないかというと、そうでもない。
一番は、息子のことだ。
俺の今のこの気持ちを理解するには、彼はまだ幼すぎる。
だから、お前、いつか彼がもう少し大人になったら、どうか今夜の俺の話を伝えてはくれないだろうか。
そうすれば、彼は自分の父親が、彼を捨てて旅立ったわけではないことに気付くだろう。
ああ、今日はたくさん話した。
なんだか、少し眠くなってしまったよ。
ちょっとだけ、いいかなぁ…。」
舘さんが酒を飲まずに来た人だとは思わなかったが、またグラスをチロリと舐めて微笑むと、そのままテーブルに突っ伏してしまった。
どうやら、急に酔いがまわってしまったようだった。
「何が語り合うこともできた、だ。
勝手にしゃべりやがって。」
岩城さんの目が濡れている。
「不器用なやつだ。もっと楽に生きていれば、そんな病気にもならなかったかもしれないのに。
いや、それでも、お前はいいやつだ。
おい、起きろ。風邪ひくぞ。」
岩城さんに乱暴に肩をゆすられても、舘さんは起きない。
「おい。
息子には、お前が話せ。俺は知らないぞ。
心残りで死ねないだろう。
だから、長生きしろ。病気になんか負けるな。
癌から復活した人なんて、いくらだっているんだぞ。
もしも、どうしても俺に話してほしかったら、あと2回か3回は、同じ話を聞かせろ。
こんな長い話、覚えていられるかっていうんだ。
起きろよ、おい。
俺に家まで送らせる気かよ?!」
岩城さんの涙がこぼれて、舘さんの頬を伝っている。
舘さんの片腕が、だらりとテーブルから落ちた。
のぞいた横顔は、まだ微笑んだままだった。
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