Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。


「俺が見ていなかった…いや、見えていなかっただけなんだなぁ。
世の中には、キラキラしたきれいなものや、かわいらしいものや、力強くて勇気づけられるようなものがたくさんあったんだ。

大したものじゃない。
俺の引き出しから出てきたガラクタと大差ない、ささやかなものだよ。
夕焼けとか、花屋の花とか、赤ん坊に笑いかけている若い夫婦とか、今までも、いつでもどこにでもあったようなものだ。
それが、唐突に目に飛び込んできた。
きっと、あれは目じゃなくて、心に飛び込んできたんだなぁ。
俺が子どもの頃に、恐ろしいものを見たくなくて塞いでおいたまま忘れていた心の目が開いたんだ。

そんな時だよ。
鹿島田文具の社長さんを接待することになったんだ。
お前、覚えているか?
どこだかと同じ日になって、お前と俺とで分担したことがあったじゃないか。
そうだ、あの時だ。

俺は部下をひとり連れて、でかけた。
俺のやりかたを引き継がせようとしていた、あいつだよ。
鹿島田さんはあの通りの人だろう?
今から思えば、きっと何かを感じてくださったんだろうなぁ。
1時間もすると、ふらりと席を立たれてなぁ、しかも、テーブルにぽいっと万札を何枚か出されたんだ。

俺らは飛び上がった。
とんでもないことだ。接待させていただいているのはこっちだからな。
でも、鹿島田さんが言ったんだ。
「あとは二人で、好きに飲めばいい。
私がいると仕事だろうが、いなくなればただの酒。
酒は好きに飲むのがいい。
特に今夜はそうするのがよいような気がするよ。」ってな。

ああうまかった、楽しかったよと背中で言って、出て行ってしまったんだ。
追いかけてもよかったのに、あの日の俺は、そのままお言葉に甘えてもいいか…と思ってなぁ。
あいつとそのまま飲むことにしたんだ。
とはいえ、俺は酒は飲めないし、あいつは緊張しているし。
微妙な空気がなんとも言えなくて。
あはは、おかしいか?
だろうなぁ。

これと言って話す気にはならなくて、ただ、せっかく頼んだのだから、残さず食うか、なんて言ってなぁ。
あいつは若い。
緊張しているくせに、食うわ食うわ。
人は食うと落ち着くんだなぁ。 
くつろぎもする。
俺は飲めない酒を飲んでいるふりしながら、そんなあいつを眺めていたんだ。

その時、気付いた。
俺の「委ねる」ってのは、間違っていたなぁ。
俺のやり方を引き継いで、俺と同じにやればいいというのは、俺の傲慢なおせっかいだったんだ。
本当に委ねるというのは、こいつがいれば大丈夫と信じてやることだったんだな。
やり方が分からなくても、俺と同じでなくても、こいつはやれると思ってやることだ。
もしも、こいつが知りたいと思ったとき、役に立つように、大事なことは整理しておいてやろうと思った。
でも、それをわざわざ言い聞かせることはないんだ。
それくらい、あいつはいいやつだった。
どうしてこいつを頼りないと思ったのか、そう思ったんだ。

俺が幼いころ、母親からもらいたかったのは、そんな無条件の信頼だったんだろうな。
そんな信頼のことを、愛っていうんだろうな。
本気で委ねるということは、無条件でいいんだ。

あの帰り道だ。
本気で委ねようとして、ようやく分かった。
俺は俺がいなくなったら、こいつらは俺がいたことを忘れてしまうのだろうと恐れた。
忘れられたら、俺が生きていた証拠がなくなってしまうと思ったからだ。
でも、それは俺の勘違いだ。

俺が生きている間も、死んだ後も、かつて俺が大切な人たちのそばで一緒に過ごした時間があるという事実は、絶対に変わらない。
その時が楽しく幸せであったなら、俺は俺の大切な人々の楽しく幸せな経験としてその人の中に生き続ける。
たとえ記憶に残っていなくても、事実は消えない。
それは、すごいことではないか!

焦る必要も、はかなむ必要もなかったんだ。
俺はもう十分に、仕事先でも、妻にも、子にも、大事な時を遺してきたんだ。
そうして、俺が生きている限り、その時はまだ増え続ける。
なんて幸せなことだろうかとなぁ。

妻には俺の気持ちの変化を話して聞かせた。
彼女も分かってくれたようだ。
治療を受けてくれというのは諦めてくれないが、俺が生きたいように生きていいと言ってくれたよ。
これから、今まで当たり前にできてきたことができなくなるのかもしれない。
心配や迷惑をかけるのかもしれない。
それでも、俺は、俺にできること、したいと思うことを、俺なりに精一杯やることで、許してもらおうと思う。
そうやって生きることを、自分自身にも許そうと思う。
そういう自分を、無条件で認めることにしたんだよ。

心残りはなくなった。
こうしてお前と、ずっと飲まずに来た酒を飲みながら語り合うこともできた。

ただ、心残りがなにもないかというと、そうでもない。
一番は、息子のことだ。
俺の今のこの気持ちを理解するには、彼はまだ幼すぎる。
だから、お前、いつか彼がもう少し大人になったら、どうか今夜の俺の話を伝えてはくれないだろうか。
そうすれば、彼は自分の父親が、彼を捨てて旅立ったわけではないことに気付くだろう。

ああ、今日はたくさん話した。
なんだか、少し眠くなってしまったよ。
ちょっとだけ、いいかなぁ…。」

舘さんが酒を飲まずに来た人だとは思わなかったが、またグラスをチロリと舐めて微笑むと、そのままテーブルに突っ伏してしまった。
どうやら、急に酔いがまわってしまったようだった。

「何が語り合うこともできた、だ。
勝手にしゃべりやがって。」
岩城さんの目が濡れている。
「不器用なやつだ。もっと楽に生きていれば、そんな病気にもならなかったかもしれないのに。
いや、それでも、お前はいいやつだ。
おい、起きろ。風邪ひくぞ。」

岩城さんに乱暴に肩をゆすられても、舘さんは起きない。
「おい。
息子には、お前が話せ。俺は知らないぞ。
心残りで死ねないだろう。
だから、長生きしろ。病気になんか負けるな。
癌から復活した人なんて、いくらだっているんだぞ。

もしも、どうしても俺に話してほしかったら、あと2回か3回は、同じ話を聞かせろ。
こんな長い話、覚えていられるかっていうんだ。
起きろよ、おい。
俺に家まで送らせる気かよ?!」

岩城さんの涙がこぼれて、舘さんの頬を伝っている。
舘さんの片腕が、だらりとテーブルから落ちた。
のぞいた横顔は、まだ微笑んだままだった。







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「俺には3つ下の弟がいるんだが…そうか、お前には紹介したことがあったか。
弟が生まれた後、おふくろがおかしくなったんだ。
マタニティーブルーっていうんだろうなぁ。
当時はそんな言葉、なかっただろうがなぁ。

弟が生まれたのを境に…というのは、後になって親父に聞いた。
俺の記憶にあるおふくろというのは、怒ってばかりいて、すぐに金切り声をあげる、恐ろしい存在でしかない。
『どうしてそんなことするのっ』『なにやっているのっ』『何度言えばわかるのっ』って調子で、何をしてもしなくても叱られた。
どうしていいか、分からなかったなぁ。
バシッとたたかれたり、押入れに突っ込まれたり、外に放り出されて鍵をかけられて家に入れなかったり。
そんなこともしょっちゅうだった。

黙って本を読んでいるとか、勉強しているとか、そういう時だけ平和だった。
とにかく、叱られる理由がわからないからなぁ。
いつ、何が降って湧くか、足元をすくっていくか、びくびくしながら勉強しているフリをしていたなぁ。

おれが中学に入るころにはそれほどでもなくなった気がするから、子どもが成長して、それなりに気持ちのゆとりができたか、ブルーから回復したかしたんだろう。
おふくろはそれでいいけど、子どもは大変だよ。
俺たち兄弟は、すっかりいじけちまった。
でも、自覚がなかったんだよ。

今から思えば、あの時に身に沁み込んだんだろうなぁ。
俺はダメなやつだ。俺は人に受け入れられない。
叱られないためにどうするかを考えることに一生懸命で、自分がどうしたいとか、何が好きとか、そういうことが分からなくなった。
それでも、母親ってきうのは嫌いになれないものだよ。
その分、母親を幸せにできない自分が嫌いになったんだなぁ。

思い出してみたら、心の中で四六時中「それじゃだめだ、そんなことを言ったりしたりしたら馬鹿にされる」と独り言を言っている自分がどうやって出来上がったか、なんだか分かった気がしたわけだ。
でも、あの母親も今では普通に愚痴っぽくて心配性な年寄りだ。
いまさら、「人に愛される自信がなくなったのはあなたのせいです」と言ったところで、何の解決にもならん。
時間制限がある俺にとって、大事なのは「なぜ」ではなくて「どうする」だからなぁ。

俺は一歩進んでみようと思った。
このまま家族を身勝手に抱え込んで死を待つわけにはいかない。
ならば、彼らに…俺の大切な人々に、後をゆだねようと思ったんだ。
俺がダメでも、彼らが引き継いでくれたら、それでいいと思った。

俺はまた会社に行き始めた。
それで、気力・体力が許す限り、周りの人間に俺が知っていること、学んだコツ、役立ちそうな知識を伝え始めた。
でもなぁ、これがまた、うまくいかない。
俺は苛立ってなぁ。
奴らの呑み込みの悪さには呆れちまうし、こんなトロトロしていたら時間切れになっちまう。
俺が今していることは無駄なのか?と思ったら、もうはち切れそうでなぁ。
けど、はち切れそうなのは俺より、周囲だったんだな。

そりゃそうだ。
突然、理由も知らされずに、あれも学べ、これも覚えろと言われたら、誰だって戸惑う。
でも、部下だからな。
文句も言えない、言わせる気もない。
これじゃだめだよなぁ。

俺はまた落ち込んだ。
いっそ、このまま自分で終わりにしてしまおうかと考えたのもその頃だ。
俺の残りの人生に意味なんかないってなぁ。

驚かないで聞いてくれ。
俺は、自殺を企てた。
どこでどう死ぬかを決めたんだ。
人様に迷惑は絶対にかけたくない。
そういう心配のない場所と方法…。

決めたらちょっとスッキリした。
それで、最後にやりたいことをやってから実行しようと思ってなぁ。
やりたいことと言っても、大したことはない。
遺書を書くとか、人に見られたくないものを処分するとかだ。
とはいえ小市民のすること、処分するにしても賞味期限が切れたカップスープだの、ベタついたのど飴だの、穴が開きそうなのに気に入っていていて捨てられなかった靴下だの、そんなしょうもないものばかりなんだ。

涙がにじんだよ。
情けなくてなぁ。
俺と同じ立場になる人は、きっと少なくないはずだろう?
その人たちみんなが自殺するとは思えない。
みんな俺と同じように動揺するに違いないが、だからといって不幸だとは限らないと思うんだ。
その人たちと俺と、いったい何が違うのだろうと思った。
子どもの頃の愛され方か?
だとしたら、ひどくはないか?
子どもの頃の悲しい体験は、子ども自身には何の責任もない。
子どもの力ではどうしようもないことばかりだ。
それが原因で一生どうしようもない不幸を背負うなんて、おかしいじゃないか。
きっと、何かあると思った。
俺がまだ気づいていない、何か他の考え方ややり方が。

俺は周りを見回した。
周囲の脅威から身を守るためではなく、周りにある素晴らしい秘密を見つけるためにね。
驚いたよ。
世界が、美しくてなぁ。」






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「初めは、混乱の一言に尽きる。
あと1年の命だと?
なぜそんなことになるんだ、どうしてこんな不運が自分に降りかかるんだ、そんなことしか考えられなくてなぁ。
嫁は泣いてばかりいるし、泣くなと言うと、無理して笑おうとして失敗するし。
そんな顔を見ていると無性にイライラして、暴れまわりたくなるんだ。
仕事をしている時が一番救われたよ。
他のことを考える余地のない時間がありがたかった。
でも、その仕事中でも、ふと頭をよぎるんだよ。
自分はいつまでこうして働けるのだろう、どうなってしまうのだろうって。
そうなると、もう何も手につかなくなるんだ。

夜が一番いけない。
眠ったら、そのまま目覚めないんじゃないかと思うと恐ろしい。
運命とか宿命とか、そんなことを思っても、突然ふりかかったこの事態に納得のいく説明はできない。
眠れなければ体力も落ちるし、嫁はますます心配する。
何もかも投げ出したいのに、握り締めた指が開かない。
そんな感じでなぁ。

転機は、半月後くらいだったろうか。
医者と話していて、俺は自分の大きな勘違いに気付かされたんだ。
『余命1年』というのは、まぁ1年は生きられるだろうといいうことだと思っていたんだが、違っていたんだ。
最長で1年、それまでの間いつ死んでも不思議はない、ってことなんだな。
飛び上がったよ。
尻に火が付いたとはあのことだ。
それまで俺は、眠ったらそのまま翌朝、目覚めないんじゃないかと考えながら、実はまだどこかに余裕があった。
何せ、目覚められないのは1年ほど先のことだと思っていたのだから。
ところが、正真正銘、明日がないかもしれないのが真実だと分かったら、突然、目の前の靄が晴れたんだ。

なぜ自分がこんな悲運に見舞われるのかなんて、いくら考えても答えがない難問に取り組んでいるヒマなんか、自分にはないんだ。
今できることを、今したいことを片っ端からやらなければ、砂時計の砂はいつ落ち切るか知れたものではない。
慌てたなぁ。
子どもを学校に行かせるのもイヤになった。
あの子の顔を少しでも長く見つめていたいからな。
俺が死ぬまで、学校は休ませてしまえとさえ思ったよ。
あれだけやりがいがあると思っていた仕事も、まったくやる気がなくなった。
覚えているか、俺が風邪をこじらせたといって1週間ほど休んだことがあったろう。
あの時だよ。
子どもも適当な理由をつけて休ませた。
俺はとにかく、嫁と子どもの顔を見て、好きなものを食い、身の回りを片づけて、いつ死んでもいい準備を始めたわけだ。

でも、それもどうやら違うと分からされた。
教えてくれたのは息子だよ。
あの子は俺の病気のことなんか知らないから、学校に行きたがるんだ。
行けば宿題がいやだの、忘れ物をして注意されたのと文句をいうのに、いざ行かなくていいというと、どうしてあれほど行きたがるのかね。
俺といるより友達がいいのかとスネて嫉妬してなぁ。
笑えるだろう?でも、どうしようもないんだよ。

何より恐ろしかったのは、この子も嫁も、俺が死んでしまったらどうなるのだろうってことだ。
いや、悲惨なことになるとは思わない。
生命保険もかけてあるし、実家だってしっかりしているから、生活に困ることはないだろう。
でも、それがかえって恐ろしくなった。
今はこうしてそばにいるけれど、あっという間に俺がいたことを忘れて、笑ったり楽しんだりして暮らせるようになるのだろう、その時、俺はそばにいない、でも、こいつらは笑うんだ。
では、今の俺は何なんだ?
いてもいなくてもいい存在なのか?

会社だってそうだ。
始めのうちは戸惑うことも、不自由なこともあるだろう。
でも、あっという間に役割を代わる人が出てきて、仕事は割り振られ、何事もなかったように回り始めるはずだ。
だいたい、そうなるように仕組んできたのは俺自身だからな。
こんなことを感じ始めると、もう止まらない。
何でもいいから刃物を持ち出して、この体を切り裂いてしまいたくなる。
この、何の意味もない風船以下のからだを消滅させたくてたまらない。
頭を抱えたよ。

だけどなぁ、頭を抱えながら気が付いた。
俺は、嫁や息子に笑ってほしくないのか?楽しみを奪うつもりか?
いや、違う。
断じて違う。
だとしたら、俺はどうしてこんなことをしているんだ?ってな。
息子を学校にやり、嫁を買い物に出してみて、やっと分かった。
その1週間の、俺の行動の原因になったものにな。

今まで気付いていなかったけれど、俺は自信がなかったんだなぁ。
俺が死んでも、家族は俺を忘れないだろうという自信。
同僚が俺を大事に思ってくれていると感じる自信がなかった。
おれが身を削って働いて影響力を示していなければ、たちまち見下され、バカにされて相手にされないに違いないと思っている自分に気付いたんだ。

驚いたよ。
どちらかと言えば俺は自信家で、押しつけがましいほどの世話焼きで、細かいことまで気付くくせに、指摘したら相手も気分が悪かろうと言葉を飲み込むような気遣いもできるタイプだと思っていた。
でも、本当のところは全く逆だったんだなぁ。
自信がなくて嫌われるのではないかと不安だから、人の世話を焼いて恩を売っておく。
言葉を飲み込むのは相手のためではなくて、自分の言うことなど尊重されるはずもないと思い込んでいたからなんだな。
仕事が好きだから打ち込んだのではなくて、上げ足を取らせないために必要以上に完璧を目指していたんだ。
自信家に見せていただけで、心の中ではいつでもびくびくブルブル震えていたんだ。

まったく、驚いた。
この期に及んで、こんなみっともなくて情けない自分を見つけるとは思わなかった。
いったい、どうしてそんなに自信を失ったんだろうかと考えた。
そうして、思い出したんだ。
子どものころの、出来事を。」





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「なんだって?!」
岩城さんは舘さんに体ごと詰め寄った。
「どういう意味だ。ゴールテープが見えただと?」
舘さんは小さく頷くと、そのまま俯いて言った。
「ガンだそうだ。余命宣告というのを受けたよ。あれは、ドラマだけじゃないんだな…。」

普段はあれほど聞き耳を立てていると見せてはならないと口を酸っぱくして言うゆかりさんが、あからさまに目を剥いた。
こんなゆかりさんを見るのは初めてかもしれない。
そして、それ以上に驚いた顔をしているはずの僕は、ゆかりさんと目を合わせている。
お客様を見てはならない瞬間なら、互いの顔を穴が開くほど見つめるしかない。

「だってお前、そんなこと…。」
「驚いたよ。今年はいつもの健康診断ではなくて、半世紀生きた記念に人間ドッグを受けてみようかと、半ば冗談で行ってみただけなんだ。」
「ああ。」
「そうしたら、再検査だ、精密検査だと続いて…。挙句に、手の施しようがないガンです、今後の生き方を選んでくださいって言うんだから、どうもこうも…。」

そんなことがあるのだろうか。
セカンドオピニオンは?ちゃんと確認したのだろうか。
僕は、姉さんが病気だと言われたのと同じくらい動揺していた。
もっとも僕の姉さんには、病気の方が寄り付かないと思うが。

「嫁も、嫁の両親も言うから、いくつかの病院で検査を受けた。
結果はどこも同じだったよ。」
「そうか。それでも間違いじゃないかと…。」
「いや、もう、診断結果を疑うのはやめた。」
「そんな…!」
「限られた命だと分かっても、治療を受けることは当然できる。
でも、病院にこもって治療するのではなく、家にいて、したいことをして過ごすこともできる。
どうしたいかと聞かれたよ。」

舘さんは、こうしてグラスに指をかけながら話している姿を見ているだけでは、そんな病気があるようには見えない。
話もしっかりとしているし、顔色が悪いわけでもない。
だるそうにも、痛そうにも見えない。
それなのに、何年、何十年と生きるのが難しいなんて、そんなことがあるのだろうか。

「あと1年。あと1年なんだそうだ。」
「うそだ。」
「うそじゃない。どこの医者も同じことを言っていた。」
「医者は神じゃない。」
「俺は考えたよ。息子はまだ幼い。できるだけ長く生きて、彼の成長を支えたいし、見守りたい。」
「ああ。そうだろう。」
「だから、治療を受けてくれと、奇跡的に治るかもしれないと、嫁は毎日言うよ。」
「当然だ。」
「俺も最初はそのつもりだった。でも…。」
「でも、何だ?まさか、治療は受けないつもりじゃないだろうな?」
「治療は…受けない。そう決めた。」
「お前!」

岩城さんは乱暴に立ち上がった。
そうして舘さんの肩を両手で握り、がくがくと揺さぶる。
「お前、何言ってるんだ!なんなんだ!」
叫び声一歩手前の最後は、涙が湿らせて、言葉になっていない。
ゆかりさんと僕は、もう一度目を見かわした。
止めなくていい。止めてはいけないと。

「もう少しだけ、聞いてくれないか?」
舘さんが、岩城さんの手首をそっと持って見上げている。
岩城さんは鼻をすすりながら、椅子に戻った。

「最初から諦めたわけじゃないんだよ。
俺だって、治るものなら治りたい。
でも、もしもそれが叶わないなら…。
俺なぁ、人生で初めて、生きるために必死で考えたよ。
必ず死ぬって書いて必死だろ?
おかしいよな、生きるために必死って。」
「冗談言ってる場合じゃない!」
「ああ、悪い悪い。」
「その、必死で考えた結論が、治療しない、なのか?」
「簡単にたどり着いたわけじゃないんだ。」

そう言って舘さんは言葉を切った。
そして、はっとしたように周囲を見回し、僕たちのところで視線を止めた。
「すみません。お二人とも…。」

僕は内心で飛び上がった。
きっと聞き耳を立てていたことをご不快に思われたのだ。
お詫びしなくてはと動き出す前に、ゆかりさんが頭を下げていた。
「申し訳ございません、不調法をいたしました。」
「いやいや、そうじゃありませんよ。こんな話、声も潜めずにしていたら、聞こえて当然ですし。そうじゃなくて、これから僕が話すことを、お二人も聞いていてくれませんか。」
「は?」
「最後まで聞いていただければ、お願いした理由もご理解いただけると思います。
客のわがままだと思って、聞き届けてやってください。」
舘さんはゆっくりと頭を下げた。

断ることができようか。
ゆかりさんの目くばせで、僕は店の外へ出て、看板を裏返した。
戻り際、カギをかけるのも忘れなかった。
その間に、ゆかりさんの提案で、席をテーブルの方へ移した。
四人で座るにはそちらの方がよいし、カウンターのスツールより座りやすく、疲れにくいからというのも、理由のように思う。

舘さんが、席を移る時に「あそこにあるハイランドパークの25年を」と言ったのを、僕の耳が聞き取った。
ゆかりさんは「召し上がって大丈夫なのですか」とは言わない。
かしこまりましたと答えて、音もたてずに用意した。
それをテーブルに運ぶと、そのまま空いている席に座ったゆかりさんは、僕にも隣に来るように言う。
僕たちは、舘さんの話の続きを待った。





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実は…と言いよどむなんて、何か告白話が始まるに違いない。
僕は、二人連れのどちらが何を言うのか、声を聴き分けたくてしかたがない。
布巾を手にして立ち上がると、さっき磨き上げたグラスを、音をたてないように棚に戻し、新たなグラスを取り出して…本当はこのグラスにも、一点の曇りもないのだけど…磨くことにした。

「春は、まだ遠いな。」
「唐突だな。実は…の続きはどうした?」
何か言いたいことがあるのは、黒髪の方のようだ。
舘ひろしみたいな風貌をしている。
男から見ても男前、ということだ。よし、こっちは舘さんと呼ぼう。
で、同じくらいの歳に見えるのに、すっかり白髪になっているほうが聞き役だ。
こちらは…そうだ、岩城滉一と言ったっけ。あんな感じ。
こっちは岩城さんだな。
つまり、二人はどことなく似ている。そうして、かなりイケている。

「最近思うんだが、人間というのは、先の楽しみがないと、今を生きる気力がなくなるものなんだな。」
舘さんが、しみじみと言う。 
「俺、子どものころから桜が好きでさ。ほら、学生のころ、毎年お前たちと花見に行ったじゃないか。」
「ああ、行ったなぁ。」
岩城さんが、眼を細めた。
「あれがさ、けっこう楽しかったわけよ。」
「そうか。そうだな、楽しかったな。次の日の商談を気にしないでいられたしな。」
「いや、まぁ、そうだな。」
話が逸れかけたと思ったのだろうか、舘さんは言葉を切って、ゆっくりとグラスを傾けた。

「今を生きるって言うだろ?
過去はもう変えられないし、未来はまだ来ていないし、あるのは今だけだって。」
「ああ、言うな。」
「で、なるほどそのとおりだと思って、今に生きてみようと思ったわけだ。
過去にとらわれず、未来に期待せず、今に集中する。」
「寺で説法でも聞いてるようだ。」
「雑念を捨てろってな。そうだよなぁ。」
「で、やってみたのか?」
「ああ。今日が懸命に生きられたらそれでいいじゃないかってな。」
「ほう。それで?」
「数日はそれでよかった。
今に集中するっていいなぁと思ったんだが…。
でもなぁ、だんだん、なんでそんな風に生きるのか、分からなくなったんだよ。」
「ほう。」
「人が元気に生き生きと生きるには、未来が必要なんだと気付いた。」
「…。」
「次の家族旅行は北海道にしようかとか、もう一度あの店の焼き肉を食いに行こうとか、シェーバーの替え刃を今日こそ買うぞとか、去年は墓参りに行けなかったから今年こそとか、自分がしたいことを自由に思い浮かべて、それを楽しみに今日を過ごす。別に、できるかどうかは問題じゃない。できるに越したことはないが、できなくても、未来への期待は、今日のエネルギーになるんだよなぁ。」
「ああ、そういうことか。なるほど、それはあるなぁ。」
「だろ?」
「今日を懸命に生きたとして、その褒美というか、成果というか、そういうものを受け取る未来がなくっちゃ、頑張れないな。そういうことか?」
「…ああ、そういうことだな。」

分かるような、分からないような話だ。
この二人は、なぜこんな話をしているのだろう。
グラスはもう磨きようもない。
僕はあまり意味がないのだが、コーヒーカップを磨き始めた。

「それでな、また気付いたんだ。
今日は今日だけど、過去の、いつかあの日の未来でもあるんだなぁって。」
「うん?」
「去年の年末だったか、俺、ふと思ったんだよ。お前とずっとちゃんと話していないなぁ、今度飲みに行くかって。」
「そうだったのか。」
「つまり、今日は、その日の俺の未来なんだな。したかった望みが叶ったわけだ。」
「そうか。別に俺と飲むなんて、もっと気軽に考えてくれていいんだぞ。」
「ふふふ。そうもいくまい。怖い嫁さんに、そろそろ父親の非行に手厳しくなってきた娘御がいるんだもんなぁ。」
「おいおい、ずいぶんな言いようだな。」
「お前がいつも言っていることじゃないか。」
「ははは。否定できないところが苦しい。」
「ウチだってそうだよ。」
「お子さんは確か…。」
「男だ。今年小学校に上がったばかりなんだ。」
「そうだったな。」
「遅くにできた一人っ子で、妻は猫っ可愛がりしているよ。あれじゃ甘やかし過ぎでろくな大人になれないと思うんだが、俺の口出しする余地は1ミリもないほどで、見ていないと危なっかしくて。」
「とかなんとか言いながら、マイホームパパになったわけだ。」
「お互いにな。」
「自分の欲求だけが自分の希望じゃない。」
「ああ。」
「家族の役に立っているって自覚も、常に失いたくないんだ。それも強い希望だな。」

「お前、どうしたんだ。何かあったんだろう。」
とうとう、岩城さんが体を向き直らせて問いただした。
舘さんは、それでもまだ言いあぐねている。
それでも観念したのか、一息ついてから、ぽつりと言った。
「俺なぁ、未来が当たり前でなくなったんだ。」
「え?」
「命のゴールテープが、見えちまったんだ。突然に。」










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