Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。


僕の不快指数で換算したら120%以上になりそうな湿っぽい梅雨の日々が、今日はいったん休憩するようだ。
朝目が覚めて、窓を開けたとたんに、ひんやりとした風が吹き込んでくる。
カーテンの動きが昨日までとは逆だから、きっと北風が吹いているのだ。
こんな日は、何かいいことがあるんじゃないかと思えてくる。
幸せな「日常」の一コマの始まりとしては、上々の気分だ。

身づくろいを済ませて下に降りていくと、居間にはゆかりさんの姿がない。
台所にも気配がないので、裏の畑に出ているのかもしれない。
でも、ふと店に回り込んでみる。
ゆかりさんは、やはり店にいて、背丈と同じくらいの笹に、きれいな飾りをつけているところだった。
車が突っ込んできてぐちゃぐちゃになったドアはきれいに新しくなって久しく、ついでにリフォームした店内は、今もまだ新築の香りがする。

この笹はどこで手に入れたものか、昨夜元さんが届けてくれた。
約束では、もう何日か前に届けてもらうことになっていたそうだが、七夕前夜になったのは、元さんが仕事で大忙しだという嬉しい理由からだったので、ゆかりさんも「届いただけでありがたいわ」と感謝している。

「あら、穂高。おはよう。ちょっとだけと思って作り始めたら楽しくなってしまって。朝ご飯の前に、もう少しだけいいかしら?」
「ええ。手伝いましょうか?」
「お願いするわ。何かできる?」

僕はカウンターの上に載っていた水色の折り紙を一枚半分に折り、5ミリ間隔に切り込みを入れてから開き、対角をひとつ糊付けして飾りを作った。
「これしか知りません。」
「いいわね、かわいい。」
僕の手から水色の飾りを受け取ると、ゆかりさんは手早く糸をつけて、笹に飾り付けた。
ゆかりさんが指先でツンと飾りをつつくと、折り紙の裏の白と表の水色が不規則にくるくる回った。

「同じ方法で天の川も作れるわ。やってみる?」
薄紫の折り紙を半分でなく、細長く何度か折りたたんで、両側から交互にはさみを入れ、そっと平らに戻してから切り込みに対して垂直に引っ張ってみる。
「うわ、できた!なるほど川ですねぇ。」
それもゆかりさんの手で糸をつけられ、笹を飾った。

「次は、星の折り方を教えましょうね。簡単よ。」
ふたり並んでスツールに腰かけ、黄色い折り紙を一枚ずつ持って、折り進める。
「へぇ!ホントに星ができましたね。」
「ふたつ並んで吊るしたら、織姫と彦星が会えたみたいで縁起がいいわね。」

最近はやりの新しい飾り、なんていうのも教わった。
折り紙も、見慣れた色ばかりではなく、両面にそれぞれ色がついているものや、キラキラ輝く紙など、いろいろ用意されていたから、僕はいつの間にか夢中になっていて、腹が減ったことにも気づかなかった。

「あとは、お客様に願い事を書いていただく短冊を用意しておきましょう。」
「では、それは後で僕がやっておきます。」
「いいの?ありがとう。では、このくらいの大きさのを…。」
ゆかりさんが手際よく折り紙を三つ折りにして筋をつけると、はさみでシャキンと切った。
「わかりました。糸も通しておきますね。」
「ええ、お願い。じゃ、お客様が気軽に書けるように、私たちの願い事を先にかけておきましょうか。」
「願い事ですか?そうですね…。」

僕はしばらく考えた。
願い事はたくさんありそうで、いざ書こうと思うと構えてしまう。
ゆかりさんは筆ペンをさらさらと動かして、あっという間に一枚仕上げた。
『千客万来』
墨跡が乾く間にもう一枚。
『商売繁盛』

「なんだか、フツーですねぇ。」
からかい半分に言うと、普通が一番いいのよと返された。
ゆかりさんが置いた筆ペンを握って、僕はもうひと考えしてから、手を動かした。
『兄と弟が一度にできますように』
よし。
会心の出来だな。
「叶うといいわね。本当に。」
ゆかりさんの言う通りだ。
僕は笹の一番高いところに、この短冊をかけることにした。
少しでも、願い星に近いところへ。

「さ、朝ご飯にしましょう。」
「ほんとだ、すっかり遅くなりましたね。」
「今朝はだし巻玉子にしますよ。ちょっと湿気にうんざりして食欲が落ちてきたから、大根おろしをたっぷり添えましょう。」
「いいですね。大根おろしは僕が作りましょう。」
「助かるわ。」
僕らのコンビネーションは、そこらの夫婦に負けないくらいになってきた。

…いや、やっぱり夫婦じゃなくて、親子にしておこうっと。







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姉さんが結婚するという相手、カネタマルジョージさんは、金田丸譲二さんと書くのだそうだ。
きっと、小さいころから「金持ちになりそうな名前だ」と言われてきたに違いない。
姉さんたちは観光としてやってきたマルコ少年を一度グアテマラに連れ帰らねばならないらしい。
「養子縁組は6歳の誕生日を過ぎると、日本の法律ではいろいろとややこしくなるの。あと半年の勝負なのよ。」
なのだそうだ。 

結婚は、その進展に合わせてという。
これから池袋にある金田丸家にご挨拶に行くのと言う姉さんは、 相変わらず小さな台風の目だ。
「サトル、認めてくれてありがと。」
「いや、あの…。」
「じゃ、行ってくるわね。また連絡するから。」
「あ、おお。」
「葉月ちゃん、ランチは?」
と問いかけるオーナーにごめんなさいまた今度とサラリと言うと、3人は席を立ち、僕に盛大に手を振って行ってしまった。
約束の時間が迫っているのだそうだ。

台風が去った僕のテーブルに、オーナーがルナソル特製ワンプレートランチを運んでくれた。
大きな丸い皿の上に、つややかな黄色い小山が乗っていて、頂上に美味そうなデミグラスソースがかかっている。
ソースの中に浮いているマッシュルームがきれいだと思った。
「あれ?貴船さん、僕、ランチの注文なんてしましたっけ?」
「ああ、やっと口をきいてくれたね。」
「え?」
「君、お姉さんがいる間、ずっとあーとかうーとかばっかりだったじゃないか!」
「だって…。」
「ま、わかるけどね。」
「すいません。」
「謝ることはないさ。
さ、食べて。
今日のランチはオムレツなんだ。
ワンプレートと決めているけど、今日は見た目の問題で、サラダとスープは別にね。」

僕はオムレツが好きだ。
このトロトロとした舌触りがたまらない。
柄の長いスプーンを持って、一口食べてみた。
「ああ、美味いなぁ。」
オーナーはいつの間にか、さっきまで姉さんが座っていた席に腰かけて、水を飲みながら僕を見つめている。
「お気に召しましたか。」
冗談口調に僕も気持ちが少し軽くなる。

「サトル君。」
オーナーが改まった声を出した。
「はい。」
僕はオムレツを頬張る速度をゆるめずに返事をする。
「君はお姉さんを一言も責めなかったね。」
「責める?」
僕にはオーナーの意図が分からない。

「僕は内心驚いた。
だって、葉月ちゃんは病気と闘う君のそばにいるのが辛くて逃げ出したんだろう?
それで家族と言えるか?
君はどうして怒らないのかと思ってね。」

オーナーの口調には、姉さんを責めるような感じは含まれていない。
心底分からない、といった気持ちなのだろう。
僕にしても、頭で考えて姉さんを責めないと決めたわけではなかった。
ただ、最初から最後まで、驚きはしたけれど、責めるなどとは考えもしなかった。

「それは…。」
僕は自分の本音を探り始めた。
子どもの頃、テレビで観た映画のワンシーンがふとよぎる。
海の底に向かって、素潜りでくぐっていく男が映っていた。
あの、青くて暗い方へ向かう感じ。

「それは…、姉さんがあの時も今も、自分に正直に生きているんだと分かったからかなぁ。」
「正直に?」
「そうですね。
もし、姉さんが心底僕のそばにいたいと思うなら、それでよかったですよ。
でも、僕のそばにいるのが辛いと思いながら、家族だからという義務感で我慢していてくれたとしたら、それはきっと僕にも伝わって、僕も苦しんだと思うんです。」
「ああ。」
「死んでもしかたないと腹をくくられながら、覚悟を決めた顔でそばにいられるのも辛かったかもしれないし。」
「そうだろうか。」
「でも、姉さんは、建前や義務感より、自分に正直にいることを選んでくれたんです。
おかげで、ああして幸せな顔を見せてくれている。
突拍子もないのは相変わらずだけど、義務感に縛られて、密かにため息つきながら『あなたのために』なんて言われるより、僕にはずっとありがたいです。」

オーナーはまた一口、水を含んでから、静かに微笑んだ。
「いい、姉弟だね。」
「ありがとうございます。」
「君たちのお母さんは、素晴らしい子育てをなさったようだ。」
「どうなんでしょうね。
でも、確かに、母さんも母親だから僕らを育ててたという印象より、本当に僕らといることが楽しかったのだろうなぁという思い出の方が多いかな。」
「そうなのか。見習いたいものだな。」
「え?」
「いやね、僕ももうすぐ父親になるらしいからね。」
「へ?そうなんですか?」
「ハハハ!」

僕はもう、これ以上の非日常に耐えられそうになかった。
だから、確実に理解できる、オムレツの味に没頭することにした。
「このデミグラスソース、本当に美味いですね。」
「おいおい、こういう時は『おめでとうございます』って言うんもんじゃないのかい?」
「ああ、美味い。本当に美味い。」
「おやおや、キャパを超えたらしい。」

オーナーは自分のグラスを片手に、カウンターの奥へ戻っていく。
背中を見送ることもなく、僕はスープとサラダもカケラひとつ残すまいと、念を入れて皿をつつき続けた。






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「気持ちは分かったけど、葉月ちゃん…。法律的にどうなの?マルコ君を君が育てるなんて、できるの?」
貴船オーナーが大人らしい質問をした。
僕はもうずっと、オーナーに引っ張られ、後追いでしか思考できなくなっている。

「そうね。
問題は山積みだと思う。
さしあたり、人身売買目的の誘拐犯だと言われないように農園では認められてきたけれど、単純な手続きで済むものではないわね。
日本の法律は移民を認めていないくらいだから。」
「それでも?」
「ええ。この国ならば、この子が学校に通うことも、毎日安心して眠ることも、お腹いっぱい食べることも『当たり前』になるはずだもの。
時間がかかっても成し遂げるわ。
きっと、何か道はあると思うの。」 

どうやら姉さんの決心は固いようだ。
「マルコ君は葉月ちゃんの息子になるの?それとも、弟?」
オーナーが意外な質問をした。
僕はこの少年が僕の何になるのかなんて考えてもみなかった。
弟だって?

その時だった。
それまでつぶらな瞳で周りの大人にふわりふわりと視線を当てていたマルコ少年がポツリと話したのだ。
「ハヅキは、僕のパートナー。」
「え?」
僕とオーナーの声がハモった。
「今、パートナーって言った?」
「はい。」
今度は少年の声がはっきりと聞こえる。

「僕の父と母は、死んでしまったけれど、ちゃんといます。
ほかには、いらない。」
多少イントネーションに癖があるが、流暢な日本語が小さな口元からこぼれてくる。
僕はなんだか不思議なものを見る思いで、それを聞いた。

「ハズキはずっと悩んでいた。
自分が間違っていると、いつも言っていた。
サトルのことを聞いたのは、父が死んだ時。
それで、ハズキの悩みがわかった。
ハズキはずっと不幸だった。
自分で幸せになろうとしていなかった。
それは、悲しいこと。
ハズキが幸せにならないのは、自分に罰を与えるため。
でも、ハズキは幸せになっていい。
神様は、誰も罰しない。
神様は僕たちみんなを愛している。
自分から不幸せを選ぶ人がいること、神様は喜ばない。」

オーナーでさえ、何も言えなかった。
マルコ少年はテーブルのアイスコーヒーを、恐る恐る飲んだ。

「僕はハズキが幸せになるまで側にいると決めた。
ハズキがまた悩むときは、僕が励ます。
だから、僕はハヅキのパートナーね。」

そうして、また一口。
僕がマルコ少年を見るのと、多分同じ目で、少年はアイスコーヒーを見ている。
「これ、おいしい。
グアテマラでは冷たいコーヒー飲んだことない。」
「ああ、そうなのか!」
オーナーも少年の所作が気にかかっていたらしい。
「甘くすることも、ミルクを入れることもできるが…。冒険かな?」
「ボーケン?」
姉さんが通訳すると、ああ、と頷いて、やってみると言う。
オーナーはガムシロップを少しと、生乳ではないミルクをたらしてから、グラスを戻す。
そうして、手まねで、ストローを回してかき混ぜろと伝えている。
少年は目をキラキラさせてストローを回し、全体を白濁させると、得体のしれない物を飲むような顔で一口啜りこんだ。
「おお!」
ストローをテーブルに放り出し、そのままゴクゴクと喉を鳴らす。
どうやら気に入ったようだ。

「まだほんの子どもなのに、この子には教えられることばかりなの。
老いた魂とでもいうのかしら。
年齢では計り知れない叡智を、この子の心はいつも持っている。
神様が出会わせてくれたこの宝物を大切にしたいの。」

「サトル、マルコです。よろしくお願いします。」
いつの間にか僕の真横に立って、少年は僕の目の前に手を差し出した。
日焼けした腕と、不釣合いなほど白い掌。
僕は、その手を握ってしまった。
まだ柔らかい掌が、グラスを握った水滴で濡れている。
「よろしく。」
僕は微笑んでしまった、多分、極上の笑顔で。

「あれ?」
オーナーが奇妙な声を出した。
「弟か息子かなんて聞いておいて今更だけど、養子縁組をするなら、独身ではできないんじゃなかった?」
「さすが貴船さん。なんでも詳しい!
ええ、夫婦の方が養子縁組の道が広くなるのは確かね。」
「独身でも養子縁組できるの?」
「心配いらないわ。」

姉さんは確信を持って言う。
僕にはよく分からないが、独身でも養子縁組は可能なのだろう。
そうだよな、後継ぎ問題とかって、独身だからこそ起きることもあるんだろう。
養子縁組はそういう解決にも使われること程度は、2時間サスペンスを見て知っている。

「私、結婚するから。」
へ?
「彼と結婚して、ふたりでマルコを支えるの。」
は?

彼、と姉さんが顔を巡らせた先に、さっきマルコ少年の後ろから入ってきた、一般客の男性がいた。
おいおい何なんだよ。
一般客じゃなかったのかよ〜!

隣のテーブルでコーヒーをすすっていた、姉さんと同じくらいの年頃に見えるあの男性が、すっと立って3歩。
マルコ少年の後ろに立った。
背が高い。
少年は彼の足に抱き付く。
慣れたしぐさで、間違いなく知り合いなのだと納得がいく。
ということは、この人が本当に姉さんと?
「ジョージよ。」
姉さんは明るく言うが、どう見てもコテコテの日本人だ。
ジョージだと?

「サトル君。
はじめまして。
カネタマルジョージです。
お姉さんとの結婚を認めてください。
よろしくお願いします。」

差し出された大きな手と、思わず握手してしまい、慌てて手をひっこめた。

「彼はもともと、海外ボランティアとして私より先にあちらへ来ていた日本人教師なの。
いろいろとお世話になっているうちに、いろんなお話をするようになってね。
マルコもバイリンガルにしてしまおうって思いついて、ふたりで一緒に物心つくかつかないうちから、日本語を教えちゃったのよ。
それで、彼は…」

姉さんによるジョージサンの紹介が続いていたが、僕はもう聞いていなかった。
デジャヴだ。
今朝、こんな夢を見たのではなかったっけ?
なんだろう、このドラマチックな展開は!
まだランチは食べてないけれど、もうお腹いっぱいだよ!

頭がカオスに支配されている僕を憐れんだのだろうか、マルコ少年がジョージサンから離れて、僕の前に立ち、突然両腕を伸ばして僕に抱き付いてきた。
細くて、温かくて、しなやかな重みが僕をかろうじて地上につなぎとめてくれる。
彼の体から、熱い太陽の匂いがした。






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姉さんの後ろから、一般客の男性の前を歩く少年が入ってきた。
6歳?7歳?それとも、もっと幼いのか、もう少し年上なのか。
小さい体から細い腕が覗いている。
黒い短い髪、黒い瞳。
明らかに日本人ではないのだが、どこか親近感を覚える顔だちをしている。

少年は、立ち止まった姉さんの脇にピタリと寄り添って、片腕で抱き付いている。
姉さんは、その子の肩に、掌をそっと載せている。
その黒い瞳が、僕をソフトフォーカスで見つめている。
なんだ、この光景は?

「紹介するわね。彼はマルコ。」
「マルコ?」
「そう。同じ農園で働いていた人の息子。」
「同じ農園…息子…。」
「いろんなことがあってね、私、この子を育てることに決めたの。」
「育てる…。待って、この子の親は?」
「…亡くなったの。」
「へ?」

言葉だけ書くと、僕が姉さんに尋ねているようだけれど、本当は違う。
尋ねているのはすべて貴船オーナーだ。
僕は驚きのあまり、声も出ない。

「ちゃんと聞かせて。その前に座って。」
「ええ。はい。ありがとう。」
姉さんはオーナーが差した席に先にマルコ少年を座らせると、隣に自分も腰かけた。
「ちょっと落ち着こう、うん。コーヒーを淹れよう。」
「ありがとうございます、オーナー。」
今度は姉さんも丁寧に答えた。
カウンターに戻る前のオーナーに背中を押されて、僕は姉さんの前の席に腰かけた。
そこには、さっきまで僕が飲んでいた水があった。
僕は無言でボトルから水を注ぎ、喉を鳴らして飲み込む。
レモンの味がするはずなのに、少しも分からない。
さっき少年の後ろから入ってきた男性客が隣の席で何かを注文している。
姉さんの後で雇われた、年かさの店員が聞き取ってメモをとる姿を僕は呆然と眺めた。

オーナーは、アイスコーヒーを4つトレイに載せて戻ってきた。
ホットは丁寧に淹れるから時間がかかる。
アイスは先に作って保存してあるから、グラスに注ぐだけでよいのだ。

「もう一度聞かせて。どうして君がこの少年を育てようと?」
この冷静沈着なオーナーでも、この顛末には慌てているらしい。
僕よりも、姉さんよりも先にアイスコーヒーをごくりと飲むと、すぐに問いかけた。

「この子の母親は私が農園に行って間もなく、この子を産んだの。
まだ15だった。
苦しい初産で、命を落とした。」

衝撃的な話だった。
けれども、聞き知ってはいたのだ。
国によっては、12や13で嫁ぎ、出産することも少なくないと。
この日本だって、100年遡れば、それが常識だったはずだ。

「それから、父親がこの子を育てたの。
日本とは少し違うやり方かもしれないけど、愛情いっぱいに育てた。
農園で働くみんなが家族のようなものなの。
だから、私も一緒に彼の成長を見守ってきたの。

先月のことよ。
この子の父親は農園の仕事でシティに出かけて、事件に巻き込まれたの。
強盗殺人だった。
グアテマラは拳銃を持ってもいい国なの。
シティは首都だけれど、治安がとても悪い。
分かってはいたのだけれど、まさか自分の身の回りであんなことが起きるなんて思っていなかったわ。」

姉さんはマルコ少年の頬を撫でる。
少年はこの話が分かっているのかいないのか、表情を変えずに姉さんを見上げている。

「突然父親を失って、呆然としているこの子を毎晩抱いて寝たの。
この子の両親は流れ者だったらしいの。
母親の方は農園の誰かの娘だと思っていたのだけど、事件の後で、そうじゃないと知ったわ。
二人とも、どこから来たのか、誰にも何も言っていなかったのよ。
だから、この子は身寄りを完全に失ってしまったの。

そうして、私も考えたの。
私はいつまでここにいるのか、何をしたいのか、何をしたくなかったのか。
これからどうやって生きていくか。
そんなことをいろいろとね。」

なんだか分かる気がする。
身近な人の死は、誰もを哲学者にする。
生きるとは?幸せとは?と問わずにはいられない。
僕は、僕自身のために、それを問い続けてきた。
いや、問うことを禁じて、今を生きてきたと言った方がいいかもしれない。

「サトル。
あなたに謝らなくてはならないわ。」
姉さんは言葉を切って、グラスに手を伸ばした。
小さな水滴が付き始めた細長いグラスが、すっかり日に焼けた姉さんの手の中に半分隠れている。

「私が日本を離れたのは、恋に破れたからじゃないの。
本当は、あなたを失うのを見るのが怖かったの。」

僕は息が止まった。
姉さんが言っている意味をちゃんと理解しなきゃ。
そう意識すればするほど、頭がガンガンと音を立てて混乱した。
僕がいたから、姉さんはここにいられなかったということか?

「私にとってあなたは、最後の家族よ。
それが、重い病気にかかって、治ったとはいえ、いつ再発するか分からないなんて言われて、私は怖くて怖くてしかたがなかったの。
あなたのそばにいて、あなたの支えにならなければとも思った。
でも、そうやってあなたにのめり込んで失ったらと想像すると、ショックの大きさが恐ろしくてどうしようもなかった。
それで、まだあなたが病院にいるうちから仕事を探して、気を逸らしたの。
だけど、仕事をしていても、ダメだった。
今度は、あなたを失ったときに、どうしてもっと近くにいてやらなかったんだろうと後悔する自分を想像して、苦しくて、苦しくて。
私には、あなたのそばにいることも、いないこともできなかったの。

そんな私を救ってくれたのは、母さんだった。
ある朝、母さんの夢を見たの。
おいしそうにコーヒーを飲んでた。
ルナソルでバイトをしたのも、母さんがコーヒーを好きだって知らなかったことがきっかけだったけど、この夢の中でも母さんはあの笑顔でコーヒーを飲んでいて、言ったの。
『不思議ね。コーヒー豆って日本ではできないのよね。どこでどんなふうにできているのか、見てみたかったわ』って。

その夢は、私に日本を離れる口実を作ってくれたの。
できるだけ遠くて、開発途上の国で、連絡なんかとれないところを選んだ。
そこでせめて5年、暮らそうと思った。」

僕には姉さんが5年といった意味が分かっていた。
僕の病気は5年再発しなければ、完治といっていいらしい。
姉さんはそのことを言っているに違いない。

「まずは5年。
サトルは大学院に行ったから、院を終えたところで5年経ったのだけど、念をいれてあと1年。
それでもサトルはやっぱり元気で、仕事も始めたというし、本当はもう、向こうにいる理由がなくなっていたの。
そんな時に、マルコのお父さんのことが起きた。
私、帰ろうと思った。
マルコと一緒に、サトルのいるこの日本へ。
そうして、マルコに、昼でも夜でもショルダーバッグがどこにかかっているかなんて気にもかけずに歩けるこの国で、この子を成長させてあげたいと、心から思ったの。

サトル、ひどい姉さんだったわ。
ほんとうにごめんなさい。」

僕こそごめん。
姉さんの気持ちなんか、全然分かっていなかった。
ただの自由人だと思ってた。

言葉にならない僕の気持ちは、ちゃんと姉さんに伝わったらしい。
姉さんは、微笑んで僕を見つめている。
今度は僕が、姉さんの思いを丸ごと受け止める番だ。
僕は本気でそう思った。







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明け方になってうとうと寝入るなんて、こういう場合よくあることだろう。
眠れなくたってしかたない。
頭の中に、いろいろな姉さんの「男」が浮かんでくる。
引き締まった体躯の黒人男性が浮かぶ。
これは、米国大統領のイメージだ。
かと思えば、筋肉が目立つ、真っ白い歯が印象的な笑顔。
これは、ニュースで見たばかりのプロボクサーか。
日本人男性も浮かぶ。
「ボランティアで教師をしていたところで葉月さんに出会いまして…」なんて挨拶まで浮かんでくる。
青い目に白い肌、金髪がクルクルフワフワと頭にのっている陽気な男が出てきて、「ハヅーキィ!」なんてハグしていたりする。 
どこかで見た映画俳優のような気もするが、もう分からない。

挙句には、自家用ジャンボ機のタラップを降りてくる姉さんの腰に手を回したアラブの大金持ちが出てきて、「うわぁっ」とうめいた自分の声の大きさに驚いて目が覚めた。

おいおい…。
自分でツッコミを入れるくらいしか、このシーンを笑う術が分からない。
コミカルなほどに慌てている自分がそこにいた。

よく考えてみれば、ねえさんが成田のホテルに男といること以外、なにも分からない。
どうして突然帰国したのか、そちらの方が大事かもしれない。
それも、男、か?
姉さんはじゃーねと言って、連絡先も教えてくれなかったし、今日どうやって会えるのかも言わなかった。
こんなの、蛇の生殺しだよぉ!

それでも腹は減る。
僕は下に降りて、台所の冷蔵庫を開ける。
この台所は店のキッチンとは別の、生活専用の場所だ。
それほど大きくもない冷蔵庫で、さすがゆかりさんの管理が行き届いているため、無駄なものや古いものが隅っこに残っているなんてことはない。
「…朝っぱらからなんだけど、チャーハンでも作るか。」
チャーシューを厚めに切って刻んでいたら、少しだけ心の波が凪いだ気がした。


姉さんから連絡が来たのは、昼前11時ごろになってからだった。
ホテルを出て、そちらに向かっているところなの、ルナソルで12時、来られるかしら?
当然来ると思っている強引な問いかけが姉さんらしくて笑える。
「ああ、大丈夫。」
「じゃぁまた後で。」
いつどんな連絡が来ても飛び出す準備ができていた僕は、そのまま外に出た。
姉さんのことだ、きっと間際になって呼び出すに違いないと思ったのが大当たりだった。
貴船オーナーのルナソルまでは、それほど遠い道のりではない。
最後の上り坂のきつさを除けば!
でも今はまだ、心地よい乾燥した風が吹く季節だ。
梅雨まで少し間がある。
きっと気分よく登れるだろう。


それでもわずかに汗ばみながら入ったルナソルは、いつものようにホコリを感じさせない乾いた空気に満ちていた。
「おや。こんな時間に珍しい。」
貴船オーナーはいつもの爽やかな笑顔で迎えてくれる。
「連絡、ありました?」
前後を省略して尋ねる僕に、オーナーはきょとんとする。
「姉さんが、帰ってきたんですよ。連絡、なかったですか?」
「そうなのか!いや、何も。」
オーナーも驚いている。
「何かあったのかな。それとももう満足したのかな。」
「解りません。それに、どうやら男が一緒らしい。」
「男?」

貴船さんは、渡航前の姉さんが恋に破れた人だ。
そんな人の店にわざわざ連れてくるなんて、結婚でも約束した男とした思えない。
「あたし、幸せになりますっ!ってか?」
ひとりごとをいいながら、案内されるままに席に着く。
緑色の瓶に冷えた水を無意識のうちに飲む。
いつものように、かすかにレモンの味がする。

「12時にここへ来るっていうから。」
「おや、そうなの。何年になるかな。久しぶりだ。」
オーナーは本当のところどう思っているのか、平然としている。
「では、もう少しで着くかな。今日のランチをぜひ食べて行ってほしいね。」
そういうと、わざとか忘れたのか、オーナーは僕の注文をとらずにカウンターの向こうへ下がってしまった。

それから15分ほどだろうか。
不意に姉さんが店に入ってきた。
「ああ、ここは涼しい!」
見れば、小さなバッグひとつしか持っていない姉さんは、別人のように陽に焼けている。
その分、以前よりもずっと強そうに見える。
男が、いない。

「サトル!」
姉さんもすぐに僕に気付いたようだ。
足早にやってくると、立ち上がりかけの僕をギューッと抱きしめた。
「おい、やめろよ。」
心にもないことを言っても、姉さんはそのままくっついていて、「元気そうでよかった!」とつぶやいた。

「元気だよ。夜の仕事だから日焼けはしてないけどね。」
「ほんと。モヤシみたいに真っ白!」
貴船オーナーが近づいてきた。
「オーナー!お久しぶりです。」
「おかえりなさい。元気そうだね。」
おかげさまでと姉さんが答えるのを聞きながら、僕は『おかえりなさい』をまだ言っていないことにやっと気が付いた。
しまった。

「なんだか、お連れさんがいるそうだねぇ。」
これもオーナーに先を越された。
「ええ、そうなの。驚かせてはいけないと思って、外に待たせているんだけど、連れてきても?」
「もちろんだよ。なぁ、サトル君。」
「は、はい!」

姉さんは一度も座ることなく、身を翻して扉の外に出た。
いよいよ、姉さんの「男」とのご対面だ!
僕は知らず知らずのうちに体中の筋肉をこわばらせている。
奥歯がギリギリと音を立てそうだ。

もう一度扉が開いて、姉さんが入ってくる。
その後からついてきた男は…

えっ??




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