「で?就職したって?仕事は何?こんな平日の昼間が休みになるような仕事なのか?」
手が空いたらしいオーナーが興味深そうに顔を寄せて尋ねてきた。
「それが、自分でも意外な仕事なんですよ。」
「もったいぶらないで教えてくれよ。言いにくい仕事なのか?いい女のヒモとか?」
「とんでもない!」
僕は慌てて、飲みかけのアイスコーヒーを吹きだしそうになった。
「じゃ、何?」
「バーテンダーなんです。」
「バーテンダー?おやまぁ。それは確かに意外だ。」
「でしょう?」
「ということは、僕とご同業ということだねぇ。」
「はい。先輩、これからもよろしくお願いします。」
わざと椅子から立ち上がって両腕を脇にぴたりと添え、丁寧に頭を下げて見せた。
「はいはい、こちらこそ。」
そうして、オーナーもプッと吹きだして、顔中を笑顔にして笑った。
「そうか。君が接客業とはね。人間はもうこりごりだと言っていたけど、あれは克服したのかい?」
「うーん、どうなんでしょう。相変わらず不器用ですよ。でも、今は周りの方々にホント恵まれていて、楽しいです。」
「そうかぁ。それは何よりだね。でも、あれかい?教職にはもう未練はないの?本当のところは諦めていないとか、そういう気持ちは?」
「正直言ってよくわからないんですよ。でも、今は未練とかそういうものは感じません。」
「惜しいことだと思うけどね。確かに君の経験はめったにないひどいものだったよ。夢を見る前に、いきなり裏側のドロドロした世界を見せ付けられたようなものだったしね。でも、あんなことは、一生体験しない先生の方が多いだろう。だとすると、君だってもう、二度とあんな目には遭わないと言えるんじゃないかともね、思うんだよ、僕は。」
「さあ、どうですかね。どちらにしろ、僕はもういいですよ。学校は卒業です。」
「うん。まあ、君の人生だからね。思うように生きるのが一番大切だ。」
「ありがとう、貴船さん。」
「どういたしまして、サトル君。」
姉さんのことをとっぷりと思い出していた僕に、思いがけない方向から思いがけない話題が振られて、僕は大いに戸惑った。
が、そこがわずかな期間といえども接客業をしてきた成果なのだろう。
戸惑いを笑いに変えてしまうことに成功したようだ。
でも、内心は穏やかとはいかない。
教職だって?
とんでもない!
話しているうちにも新しい客がきてオーダーが入ったので、オーナーはコーヒーを淹れる支度にかかった。
この人は、コーヒーに全身全霊を注ぐようにするから、会話は自然と途切れる。
僕は、オーナーに言われて久しぶりに教育実習の、あの事件を思い出した。
できることなら、二度と思い出したくない体験を。
文学部で源氏物語なんぞを研究したところで、研究者になれるのは数年にひとりいればいいほうで、研究が就職に役立つことなど滅多にない。
そんなことは研究する前からわかっているので、友達はみな楽しみは大学の4年間と割り切って、普通に就職していくものだと思っている。
ところが、それほど景気が悪くない時でも、文学部の学生をわざわざ採ろうなどという企業は多くない。
たおやかな女子学生ならともかく、男となると、なおさらだ。
実際に、4年になる前のこと、求人票を張り出した掲示板も、他学部に比べ、文学部向けに貼られたものなど皆無と言っても過言ではない。
法学部や経営学部の友人たちは「押入れが勝手に送られてくる会社資料で埋まった」などと言っている時に、僕のところにやってきた資料は、製パン会社の工場1つだけだった。
それも、僕が請求したから送ってくれたので、その後、何の音沙汰もない。
それはそうだよなぁと、僕でも思う。
体育大学でラグビーをやってました!と言えば、体力自慢、仲間づくり良好、人当たりよし、理不尽にも強く、宴会芸も持っていて、どこでも使えそうな気がしてくる。
でも、文学部で源氏物語を読み解いていました!といっても、軟弱で孤独、性格は暗く、いかにも扱いづらそうで、飲みに誘ってもすっぱりと断ってきそうな気さえする。そんな人ばかりではないことは重々承知していても、イメージというのは拭いがたいものだ。
それは教授たちもよく分かっているから、僕らはみな一応教職課程をとっていた。
授業は増えるし、実習も多い。
最初から考えない人たちは、自分の未来をきちんと見据えているひとたちで、僕のように「今」に精一杯で未来が見えないタイプにとって教職は、大切なセーフティネットなのだ。
病気で出遅れはしたものの、単位を取るのには問題なく、僕も4年の6月、教育実習に行くことになった。
出身の高校が希望者多数で実習を受けてくれなかったため、僕の実習先は、大学が紹介してくれた某公立高校になった。
僕はそこで、一生を変えられるような経験をした。

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