Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

カテゴリ:小説 > Bar小紫


スッキリしない発熱がようやく消えるのに1週間かかった。
「飲みに来たついでだよ。」と言いながら往診してくれる宮田先生の言葉で、僕はこの1週間を案外心穏やかに過ごすことができた。
「穂高くんの体は弱いのではなくて、勇敢なんだよ。」
「勇敢って、いさましいとか、そういう勇敢ですか?」
「そうそう。」
「そんなこと、言われたのは初めてですよ。」

先生が言うには、こういうことだ。
場所にはどこでも、そこ特有のものがある。
常在菌、なんていうそうだ。
大概の人は、それがもともと持っているものと多少違っても、平然と受け入れられる。
でも、僕の体は頑固で妥協がないらしく、「お前、違うだろ!」とすぐに戦いを挑むのだそうだ。
それで、熱が出る。
ひとしきり戦って、「しょーがない、大して害はなさそうだから共存してやるか」となれば落ち着く。
外敵を許さない勇士がたくさん住んでいる体だと思えばいいというのだ。

そんな風に表現すると、ちょっと笑える話だ。
勇士というより、好戦的な短気者としか思えないではないか。
「それでも、ひどい目にあっているのに鈍感な人もいるからね。いいじゃないか。」
なんて言ってもらえると、そうだなぁという気がしてきた。
物事はとらえようだ。
僕は小紫に来てから、そんなことをずっと重ねて学んでいる気がする。



その二人連れがやってきたのは、僕が小紫のカウンターに復帰して数日たったころだった。
2月の声も聞こえそうな夜はヒリヒリと寒さが積もり、開店の準備を終えて扉を開け、外の様子を覗くと、息が真っ白に煙った。

こんな夜は客も少ない。
しばらく誰も来ないまま時が過ぎ、やっと入ってきた5人は大学生のようだ。
女の子が3人、男が2人。
むくむくと重ね着をして、毛糸の帽子をかぶってなだれこんできたかと思うと、じろじろと店内を見回している。
「あのー、あたしたち、地元の隠れた名店を探すサークルなんです。」
その中の一人が面白いことを言いだした。
「あら、名店だなんて光栄だわ。」
ゆかりさんが対応に出る。
「駅前で聞き込み調査をしたら、ごはんがとっても美味しいバーがあるって。」
「それに、空気がきれいで、心が落ち着いて、気分がよくなるとも聞きました!」
「あの、僕、酒は飲めない性質なんですけど、そういう人も来ていいんですか?」
と尋ねた男の言葉には、どこか東北をにおわせるイントネーションが混ざっている。
「もちろんですよ。では、何か召し上がりますか?」
わぁっと歓声をあげて、彼らは注文を選び始める。
まるで学食のようだ。

学生の懐具合というものを、ゆかりさんはよく理解しているようだ。
お手頃価格のものをいくつか選び、バラエティー豊かに見えるようにしてテーブルを埋めた。
アルコールを頼んだ者がいなかったのも面白い。
「これ、すっごく美味しいです!色味が美しい!」
「うわぁ!これ、本当に麻婆豆腐ですか?豆腐がまるでクリームチーズみたい!」
口々に、食レポ顔負けのコメントを連発しながら喜んでいる。
それを眺めてさらに嬉しそうなのがゆかりさんだ。

5人組の話が弾んで、いつの間にか日常の世間話になっている。
10号館の裏のベンチであの二人…とか、南のカフェテラスのキャラメルラテが…とかいうのを聞いていて、なぜかカラー映像が浮かぶことに気付いた僕は、彼らがどうやら僕の後輩らしいことに思い至った。
そうか、学部生ってこんなにかわいらしかったか。
毎日がキラキラしているんだろうな。
悩んだり、怒ったり泣いたり、無駄にガマンしたり。
いろいろあっても、輝いているんだよ、君たち。
なんて思う自分は、いつの間に老け込んだんだ?僕だってまだ20代だ!

ひとりツッコミをしているときに、カウベルが鳴った。
この二人連れは、きちんとスーツを着た大人だ。
50代、だろうか。
初めてのお客様だ。
後ろでキャンキャンしている大学生に比べると、ずしりと人生の重みを感じる。
「いらっしゃいませ。どうぞお好きなお席へ。」
僕が言うと、ふたりは目を見かわして、言葉はないままにカウンターへ並んで腰かけた。
質の良いカシミヤのマフラーをしている。
きっと、いい会社に勤めているのだろう。

「美味しかったなぁ。」
「絶対またすぐ食べたくなりそう!」
「友達誘ってきてもいいですか?」
大学生たちはもう席を立ちあがったようだ。
「もちろん。お待ちしていますよ。」
うちは定食屋じゃないんだぞと言ってやってもいいのに…。
中にはゆかりさんに握手をねだっている女の子までいる。
それほど美味かったか。
きっと君も、ろくなもの食べてないな!

騒々しい集団がドアの外へ消えると、店内は一気に静まり、BGMのスロージャズがやっと聞こえるようになった。
二人連れは、それぞれに水割りを頼み、黙ってグラスを傾け始める。
並んできた割には無口だ。
同じくらいの年齢に見えるが、片方はずいぶん白髪が目立ち、片方は真っ黒だ。
それ以外に違いというと…
「穂高、また悪い癖。」
ゆかりさんにそっとたしなめられて、僕は視線を逸らす。
お客様をじろじろと観察するのはひどく失礼なことだと何度も言われながら、ぼくはこの癖がなくならない。

特にご注文もご要望もないので、ぼくらは少し下がって控えている。
先ほどの学生たちがたくさん皿を使ったから、奥に入って洗い物をしてもいいのだが、皿がぶつかる音など、このお客様方に聞かせなくてもいい。
小紫の皿が足りなくなることもないし。


「大学生だったな。」
「…さっき、出ていった客か?」
「うん。」
「そうだろうな。無邪気なもんだ。」
「多少、懐かしくもあるな。」
「そうか?」
会話は、そこで途切れる。

以前からの友達なのだろうが、久しぶりの再会ではなさそうだ。
もしそうなら、近況はどうかとか、あの頃はどうだったとか、そんな話になるものだ。
すでにその部分を他の店で済ませてきたのだろうか。
つまみを頼もうとしないから、食事をしっかりしてきた可能性は高いよな。

なんだか、探偵気分だ。
「こらってば。」
またゆかりさんに小突かれた。
僕は慌てて布巾をもち、そこらへんを拭き始めた。

「で、何か話か?」
「なんで。」
「いや、一緒に接待に出るのは珍しくないけど、帰りにもう一軒なんて、10年以上はなかった気がするからさ。」
「そうか。」
「で?大学時代の思い出話をしたくなったわけでもあるまい。」
「まあな。」
「何か、あったか?」
「ああ…。実はな…。」






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僕の熱は、思うほど早くには下がらなかった。
ゆかりさんは、僕のへたった体によいものをと、心をこめて美食を作ってくれる。
美食といっても、贅沢な食材を使った珍しい料理ということではない。
本当に美味な料理、ということだ。

1年ほども身近で過ごして、僕はゆかりさんの暮らしを大概理解しているつもりになっていた。
でも、それはとんでもない思い上がりだったと気づいた。
ゆかりさんの暮らしは、そんなに単純なものではなかったのだ。

まず、朝寝坊をあまりしない。
睡眠時間が何時間であろうと、明るくなる頃には起き出す。
そうして、外へ出て行く。
何かと思ったら、小紫と隣り合わせに建っているこの家の裏側が畑になっているのだ。
ゆかりさんはまず畑に出て、野菜の世話をするわけだ。
「有機野菜って知っている?」
「ええ、言葉くらいは。」
「無農薬とか減農薬とか、いろいろ言うようになったけど、この畑は農薬も使わないし、化学肥料も使わないの。種や苗も量販店で買ってきたのではなくて、心ある農家の方に分けてもらっているのよ。」

体にいいのだろうなぁと思う程度で、僕にはその気遣いの意味がよく分からなかった。
けれども、一緒に食事をするたびにそんな話題を聞いているうちに、これは大変なことなのではないかと思えるようになった。

「農薬って、雑草が生えないようにしたり、虫がつかないようにしたりするためにはとても便利なものなのね。だって、農家の人手は限られているし、きれいな形や色でたくさん作らなければ売れないのだから、できるだけ効率よく進めたいと思うのは当然だわ。でもね、ちょっと考えてみれば分かると思うの。色や形がそろっていることが大切か、草も虫も殺すような薬がかかっているってことが大切か。」
「うーん、育てたい野菜には害がないから、農薬って売れるんですよね?
それに、国には厳しい安全基準があるはずだし、農薬を作る技術だって向上してますよね。
神経質にならなくてもいいんじゃないかなぁ。」
「そうねぇ。確かにねぇ。じゃぁ、実験してみましょうか。」

その日の夜、ゆかりさんは模様のついてないガラスのコップをふたつと、なにやらの小さなボトルをテーブルに並べた。
「そうして、はい、これが今日スーパーで買ってきたチンゲンサイ。」
「はあ。」
「じゃ、穂高。だるいかもしれないけど、畑からチンゲンサイを二株、取ってきてくれる?」
「はい。」
チンゲンサイには旬がないのだろうか、ゆかりさんの畑では、小ぶりなチンゲンサイが一列育っているのだ。

「はい、とってきました。」
「じゃぁ、見ていてね。こうして葉には水をかけないようにして泥だけ落として・・・。」
「このボトルは?」
「それはね、残留農薬を落とせる洗剤みたいなものと思えばいいわ。」
「へぇ!」
「コップに水を入れるでしょう?で、これをたらして・・・と。かき混ぜてみて。」
「・・・何も起きませんね。」
「じゃ、今度はこっち。スーパーの方は?」
「・・・あれ?水が黄色くなりましたよ!!何だこれ?」
「それが残留農薬ね。」
「うわぁ。」
「じゃ、次の実験。」

ゆかりさんはチンゲンサイをごま油でざっくりと炒めると、塩コショウだけして2皿差し出した。
「はい、できた。テイスティングをどうぞ。こっちが畑ので、こっちがスーパーのね。」
僕はそれほど味がわかるわけではないけれど、この2皿は明らかに違っていた。
「こっちのほうが美味しいですね。しゃきしゃきしていて。こっちは別に、普通だな。」
「それが、どちらのチンゲンサイか分かる?」
「畑のほうですよね。」
「そうなのよ。でもね・・・。」

ゆかりさんは手を伸ばして、先ほどコップの中で黄色い液体を出した、スーパーのチンゲンサイを取り出して、流水で丁寧に洗った。
しっかりと水をふき取り、ざくざくと切って、先ほどと同じように炒める。
「さ、どう?」

驚いたことに、同じスーパーのチンゲンサイのはずなのに、味が変わっている。
「うまいです!」
「そういうことなの。」

僕は考え込んでしまった。
「でも、農薬のせいとは言い切れないですよね。水につけている時間の長さとか、洗い方とか、条件が違っていたから。」
「そのとおり。でも、大切なのは、そこじゃないわ。」
「え?」
「あなたは同じようなチンゲンサイを食べてみたけれど、あるものは美味しいと感じ、あるものはそれほど美味しいと感じなかった。」
「ええ、まあ。」
「体も心も喜ばせたいと思ったら、十分に労わりたいと考えたら、一番美味しいと感じるものを提供するのが近道だと思わない?」
「あ!なるほど。」

「あなたの体には、そういう意味での『美味しい』を、たくさんプレゼントしたいの。あなただけではないわ。私にも、小紫のお客様にも!」
ああ、だからこの店の料理はなにもかも美味いのか。

「お食事はね、五感でいただくものなのよ。今は味の話をしたけれど、色も、盛り付けも、香りも、舌触り歯ごたえも、全部そろって『美味しい』が出来上がっているの。そう考えると、料理をする者にはできることがたくさんあるってことになるでしょう。それが私には楽しくて、大きなやりがいって言うか・・・あら。」

突然黙ってしまったゆかりさんに驚くと、彼女は静かに言い足した。
「私としたことが、病人相手におしゃべりしすぎたわ。」






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のそりと目を開けて、ぼんやりと周囲を見回す。
あれ?ここはどこだ?
部屋で寝たはずではなかったか?

…ああ、そうか。
引っ越したのだった。
ここは、ゆかりさんの家にある、僕の新しい部屋だ。
痛い。頭も体も痛い!

「ああ、穂高。目が覚めた?」
声に従って首を回すと、ゆかりさんの心配そうな顔にぶつかった。
「大したことはないから心配はいらない。疲れが出たのだろう。」
白衣の宮田先生までいて、僕は事態を理解せざるを得ない。

「朝ご飯の時間になっても全然出てこないから、朝寝坊がすぎるわよってからかおうと思ったの。
そしたら、布団の中で真っ赤な顔して、荒い息をついていて。
おでこに触る前に、髪の毛越しに熱気が伝わってくるんだもの、びっくりしたわ。」
「ママがすぐに僕を呼んでくれてね。」
宮田先生の声は、あくまで優しい。
きっと、僕の病気を思って、とるものもとりあえず飛んできてくれたに違いない。
「ありがとうございます。すみません…。」
「なんのなんの。仕事だからね。」
「どう?どんな気分?」
ゆかりさんがさらに乗り出して問いかける。
「頭が痛いです。体も痛いかな。でも、これは荷物を運んだ筋肉痛かも。」
「そうだねぇ。」
宮田先生が笑顔を浮かべている。

「小さいころから、環境の変化に弱かったということは?」
先生に問われて、そういえばと思い出した。
「母から言われたことがあります。
卒業とか入学とか引っ越しとか遠足とか、そういうのがあると、決まって熱を出すのよって。 」
「うん、そうなんだね。今回もそういうことだろうよ。」
「まぁ!」
ゆかりさんが驚いたような、ホッとしたような声を上げる。
「すいません。虚弱体質で。」

「いや、君の場合は虚弱と言うよりも、レスポンスがいいと言った方が合ってるね。」
「レスポンス??」
「反応とか応答とか訳せばいいかな。」
「反応がいいってことですか?」
自分の吐息が灼熱の温度を保ったままなのを感じながら、僕は先生の意図を知りたかった。
「ああ、そういうことだね。」
「そんなこと、言われたことありませんよ。」
もぞりと寝返りをうって、体の位置を変えたとたんに、全身に得も言われぬ痛みが走る。

「ストレスと言うと、辛いことを我慢したときにたくさんかかるように思われているけれど、期待感も大きなストレスになることがあるんだよ。」
「ああ、マリッジブルーとか5月病とか。」
「そうそう。 人によっては巨大倉庫くらいにストレスをしまっておける仕組みを持っていることがあってね。
嬉しいことも悲しいことも、その都度ストレスになっているけど、どんどん倉庫にしまい込んで気付かないんだね。
ところが、倉庫にも限界がある。
ある日突然詰め込み過ぎて腐ってしまったストレスが大爆発したときには、もう手の付けようがない。
火を消すにも、片づけるにも、もう一度建て直すにもとんでもなく長い時間がかかってしまう。
時には爆発で散らばった毒素が体のほかの部分の病気の原因になったりね。 」
「ああ、それ、分かるわ。」
頷くだけの僕の代わりに、ゆかりさんが感心したように言う。

「でも、穂高くんの心身はそういう構造じゃないんだなぁ。 
片手で持てるバケツくらいしか、貯めておけないようだよ。」
巨大倉庫とバケツ。
いかにも自分が小人物と言われたようで憮然となるが、例えのうまさに笑えても来る。
「だからね、すぐに溢れてしまうけど、こうして熱を出すくらいで済むわけだ。
どっちがいいかは、一概には言えないけれどね。
巨大倉庫の持ち主は、通常はストレスの影響を受けないわけだからね。
けど、悪くないんじゃないかね、いい反応をしている体のおかげで、重大なことにならないなら、それで。」
僕が”重大なこと”をじっくりと経験したのを承知の上で、先生は笑いながら帰っていった。

「ね、穂高。」
宮田先生を見送った後、ゆかりさんが枕もとに戻ってきて真顔になった。
「はい。」
「あなた、ウチでお昼を食べなくなってから、どうしていたの?」
「どうって…。」

そうなのだ。
小紫に雇ってもらった最初のうちは、店にいる時間のぶんだけ時給を支払うという契約を最大限に生かそうと思い、朝から晩までここにいたものだ。
だから、昼ごはんもゆかりさんと一緒に食べさせてもらい、昼食代を払ったりしていた。
でも、それもしばらく続けると、ちょっと疲れてしまったのだ。
小紫の営業は、開店時間は午後5時、準備開始が4時と決まっているけれど、終わりが明確に決まっていない。
お客様の入りが少ない夜は早めに店じまいすることもあるし、常連さんの腰が重い夜は、深夜1時2時でも追い出すようなことをしない。
一番多いのが0時に閉めて、片づけをして、帰宅が午前1時過ぎ。
晩ご飯は、合間を見て、店の奥でゆかりさんの賄いを食べさせてもらう。
が、昼近くに起きるので、朝ご飯は食べず、近所のコンビニで弁当を買ってきたり、ちょっと蕎麦屋に入ったりして朝昼兼用の飯を済ませ、4時少し前に小紫に行くのが定番になっていた。

「そんなことだと思ってはいたのだけど、口を出すのもね。」
「すいませんっ。」
どうして謝るのかわからないけど、布団の中で頭を下げる。
「丈夫な体を保つのが特に大切な人なのに、食べることをそんなに軽んじていたなんて言語道断だわ。
食べてさえいれば何でもいいわけではないことくらい、知っていたでしょうに。」
ゆかりさんの口調は、叱ると言うより嘆いている。
「確かに、反応のいい体なのだとは思うわ。
だからこそ、強くなれるよう気遣っていれば、大病をしにくい体ってことにもなると思うの。
『病は気から』っていうけれど、不安や不愉快がなければ体は健康ってわけにはいかないわ。
気を健康に保つためにも、食べるものは本当に大切なのよ。
ここにこうして引っ越してきたからには、あなたには滋養のある、健康なものを食べてもらうわ!」
「健康なものを食べる??」
「ま、細かいことは熱が下がったらね。
まずは、どう?お腹空いた?」
「うーん、どうかな。喉は乾いたけど。」
「でしょうね。脱水症状には気を付けるよう、先生にも言われたわ。待っててね。」

目を閉じてゆかりさんが戻ってくるのを待った。
まぶたの中で、世界がグルグルと緑色に回っている。
気持ちが悪い。

「はい、これ、お飲みなさい。」
声がして、半身を起こすと、グラスを渡された。
水だ。
喉を鳴らして飲む。
冷たい。
口から喉へ、そのまま全身の細胞に沁みわたるようだ。
「富士山の伏流水に、伊豆大島で採れた塩を少しね。」
「伏流水?」
「あら、言わなかったかしら。うちでお客様に召し上がっていただいている物の水はすべて、富士の麓へ汲みに行っているのよ。」
「!」
「塩もそう。体によい、力のある塩を選びに選んでいるの。」
「塩も…。」
「野菜も、他のものもみんなそうよ。」
「そうだったんですか…。」
「食べるって、それほど大切なことだと思うの。
命を保つために、自然の力をいただくってことだからね。
まぁ、ほら、飲んだら少し眠ったら?
次に目が覚めたら、いまより楽になっているだろうって、先生もおっしゃっていたわ。
特に解熱剤なんか飲まなくても、自然に下がるだろうって。」
「すみません。」

僕が返したグラスを持って、ゆかりさんは静かに戻っていった。
僕はグラグラする頭で考えた。
ここに引っ越してきたのは、本当にすごい決断だったのかもしれない。
僕の命のためにも、幸せのためにも、未来のためにも。







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みなさんのお力を借りて、僕の引っ越しはたった半日で無事完了した。
あとは部屋の中を落ち着かせるという、僕だけの作業を残すのみだ。
故郷から初めてこの街のあの部屋に越してきた日は荷物を入れて買い物に出たあとで、部屋に電灯がないことに気付いて慌てたっけ。
今回は、おかげさまで慌てることひとつなく、引き移ることができた。

ひと段落すると、ゆかりさんが引っ越しそばの支度ができたという。
今夜の小紫は臨時休業。
お客様のいないテーブルに、作業着の首にタオルをかけた元さんと、元さんの会社の若い社員さんが2人、長さん、少し前に合流した宮田先生がそろった。
ゆかりさんも何かと立ち働いていてくれたのに、いつの間にそばの支度まで…と恐縮しかかったが、
「ああ、これは長寿庵さんから届けてもらったの。」
と言う。
ちょっと、ホッとする。

本がびっしり入っていて、小さいくせにズシリと重い箱をグイグイと運んでくれた元さんのところの若い2人は、そばを2人分ずつペロリと平らげると、スッキリと挨拶して帰っていった。
「社長、お小遣いありがとうございます!」
と下げた頭を、慌てた様子の元さんにピシリとはたかれていたところを見ると、僕に代わって元さんが二人に心づけをしてくれていたらしい。

そわそわしていた宮田先生が、部屋を見たいと言うから案内すると、壁一面の本棚からあの遠野物語を目ざとく見つけ、店に持ってきた。
「この間、元さんに読書を邪魔されたからねぇ。」
と、旧知の友に再開したような顔をして、あっという間に本の中の住人になってしまった。

長さんは八百屋の店番を奥さんに任せて、ずいぶん早い時間から来てくれていた。
本以外はそれほど多くない僕の荷物が運び込まれる前からこちらの部屋にいてくれて、僕にあれこれと質問した。
「で、服はどんなふうにしまってるんだ?」
「押入れに箱のまま入れておくものはあるのか?」
「机の引き出しに入れるものは?」
「本はどんなふうに分類されてくる?」

聞かれるままに答えただけだったのだが、いざ箱が届き始めると、僕がまごまごするのを横目で笑いながら、長さんは次々にガムテープをはがしていく。
「え?全部箱がきてから開けるんじゃないんですか?」
「そんなことしていたら時間がもったいないし、動ける場所がなくなるじゃないか。」
返事の間にも手は動いているからすごい。
長さんは年季の入った八百屋の手で品物をてきぱきと仕分け、鮮やかな手際であるべき場所へと納めていく。
僕も慌てて手伝おうと、手近な箱に手を伸ばすと、
「おいおい、それはちょっと待ってろ。」
まるで長さんの荷物であるかのように叱られてしまった。

圧巻だったのは本棚の整理だ。
本を取り出す前に、他の荷物の段ボールはすべて開けられ、あるいは押入れの奥に積まれて、畳に上にはなくなっていた。
そうなってから、本の段ボールをずらりと並べて、ガムテープだけ次々にはがして、中を見えるようにした。
「この一番背の高い仕切りのところには、このあたりのが並ぶんだろうな。」
長さんは独り言をいって、一つ目の箱を引き寄せ、あぐらをかいた姿勢で本をスッスと並べる。
「よし。次は…」
軽々と立ち上がると、箱の間をぐるりと歩いて、ひと箱を選んで抱えてくる。
「穂高くん、これはこれでいいか?」
「あ、はい!」
「じゃ、並べて。次は…。」
あっという間に2段3段と埋まっていく。
全集本も分厚い専門書も、見事に並びきった。

「ここからは、このサイズだな。新書ってやつか?」
「そうです。」
「ずいぶんあるなぁ。」
「そうですね。ちょっと興味があるテーマでも、すぐ買ってしまうもので。」
「学生のくせに、よくそんな金があったなぁ。」
「意外とどうにかなるもんですよ。」
「で、この新書ってのはどう並べたい?」
「今まではテーマごとに並べていたんですよ。それでいいかな。」 
「テーマごと?ああ、だからこの箱の中にはいろんな色があるんだな。」
「色?」
「穂高くん、これからもそのテーマごとに読み返すのか?」
「いや、もうそういう読み方はしないかな。それに、どのテーマで何を読んだかは、大概頭に入ってますし。」
「だったら、出版社ごとに並べようよ。そのほうがキレイだ。」
「きれい?」
「ああ。本もインテリアだと思えばどうだい?色がそろっているほうが断然キレイだろ?」
僕が感心する間も長さんは手を止めず、新書が詰め込まれた箱を身の回りに寄せ集めると、出版社ごとに仕分けている。
それから首をかしげて考え考え、1社ずつ取り出しては、出版番号順に並べている。
「青の隣は、この白っぽいヤツかな。で、ん?この岩波新書ってやつは、同じ会社でも色が違うのがあるんだな。なら、白の隣は…オレンジにして、次が緑と。」
もはやほとんど独り言だ。
多分文庫本も同じ流れになるだろうと、僕が出版社ごと、シリーズごとに分類していると、
「おっ、気が利くねぇ。」
と褒められてしまった。

「よしっと。どうだい!」
両手を腰に当てて、自慢げに仁王立ちした長さんの視線の先には、本屋と見まごうばかりに並んだ本棚があった。
丁度部屋に入ってきた元さんも、
「おおっ、これはこれは。さすが八百屋の仕事だ。うまそうに並んだなぁ。」
と手を叩いている。
来てすぐの宮田先生が遠野物語をすぐに見つけられたのには、こんな理由があったのだ。

山ほどになっていた段ボールは、さっさと括られて元さんの軽トラックに積み込まれ、あれよあれよという間に姿を消したから、今、部屋の中は、今日越してきたとは思えないほどに片付いている。
最後のしあげにと、ゆかりさんが掃除機をかけ、丁寧に水拭きまでしてくれた。
7年使った布団は、実は処分してきた。
かなり汗臭かったし、安物だったからペチャンコになっていた。
新しい布団は、ゆかりさんからの頂き物だ。
インフルエンザでここに厄介になった時に借りたものだ。
軽くてふわふわで、とにかく心地よい布団なのだ。

引っ越しそばを終えて、いつもの酒宴になった。
僕は皆さんにどうしてもお礼を言いたくなった。
「今日は本当にありがとうございました。
皆さんのおかげで、無事こんなにきれいに引っ越すことができました。
僕は、本当は、仕事をしながらあの段ボール箱を片づけるのを想像するだけで倒れそうな気がしていたんです。
でも、あんなにきれいにしてもらって、何と言うか…。
僕がやっていたら、あんなにきれいな本棚にはなりませんでした。
本棚を融通してくれた元さん、並べてくれた長さん、それに蕎麦のことまで気にかけてくれたゆかりさんにも心から、ありがとうございます。」

僕が頭を下げると、ゆかりさんがコトコトと笑って言った。
「ここでは、これが当たり前なのよ。
蕎麦もそう。私がゆでてもいいのだけれど、こんな特別な日のお蕎麦だもの、おいしいと評判の長寿庵さんに作ってもらって、ありがとございますと感謝してお支払いしたら、長寿庵さんもうれしいし、私たちも美味しいでしょう?私たちはそれぞれに、自分にできる精一杯のことを身に着けて、それを人様のお役に立てる。
それでありがとうと言ったり言われたりしながら毎日を過ごしているの。
だからあなたも、いつか誰かのお役にたてることに気付いた時には、手を貸してあげてね。」
「はい。」
僕は心から頷いた。

「こんな大事なこと、学校では教えてくれないもんなぁ。」
いつの間にか本から顔を上げた宮田先生がふんわりと言う。
「ひとりでなんでもできなきゃいけない、失敗してはいけない、成長しなきゃいけないって、そればかりな気がするよ。それで疲れてしまっている人が、どれだけ多いか。」
それは僕にも覚えがある。
姉さんが大学進学で躓いたのも、そんな発想が原因だったのかもしれないと、今は思う。

「金も力も知恵も、自分で抱え込むのではなくて、誰かのために役立ててなんぼだな。」
元さんも頷く。
「それでよぉ、その『誰か』ってのが客だよな。」
長さんも言う。
「ええ、そうね。ま、先生の場合は客と呼ばずに患者さんというのでしょうけど。」
みながふふふと低く笑った。
「俺には学がないから難しいことは分からないけど、俺にとって最初の客は母ちゃんなんだよなぁ。」
「なんだって?」
元さんが身を乗り出した。
「いや、俺がさ、普段一番気遣っているのは母ちゃんなんだよなぁと思ったんだよ。
母ちゃんが働きやすいようにしてやるのが、結局店のためになって、いい店になれば客も喜んでくれるだろ?」
「ああ、なるほど、そういうことか。」

「それなら思い当たることがあるよ。」
と宮田先生も言う。
「看護師たちが気持ちよく働けるように、私だって一応気遣っているつもりだよ。
ドラマなんか見ていると、看護師に横柄な医者が出てくるけれど、ウチでは私より看護師の方が患者さんのことも病院のことにも詳しいからね。彼女たちは私の仕事ばかりか、健康や趣味のことまで気遣ってくれるくらいだから、どちらかというと気遣い負けしているけれどねぇ。」

僕にもだんだん分かってきた。
「つまり、身近な人が幸せで快適でいられるようにすることが、最初の仕事なんですね?」
確認するように尋ねると、皆が一斉に頷いた。
「そうだ、そういうことだなぁ。長さん、たまにはいいことを言う。考えてもみなかったが、確かにそうだ。」
「なんだかなぁ…。」
飲みかけのグラスを一気に乾すと、長さんが威勢よく言った。
「ママ、なんか母ちゃんに手土産にするものないかな。今日は長いこと一人で店番させちまったからな。」
「そうね、それなら…。」
ゆかりさんが人差し指をあごに当てて考え始めた時だ。

「あのっ!」
僕は席を飛び上がった。すっかり忘れていた。
「これを、奥さんに差し上げてください。」
カウンターの裏に隠しておいた紙袋をまとめて持ってきて、その一つを長さんに渡した。
「これは?」
「貴船屋の和菓子です。詰め合わせになってます。お口に合うかどうか。」
「貴船屋とは!なんと上品な!!」
「元さんと、宮田先生にも。それから、ゆかりさんにも。」
「まぁ!」
「おおっ。」
これほどウケるとは思わなかった。
恐るべし、貴船屋。
ルナソルの貴船オーナーに今度話してやろう。
どんな顔をするだろうか。

「じゃ、母ちゃん孝行に帰るよ。穂高くんの引っ越しを手伝っていたら、なんだか母ちゃんがうちに嫁に来た時のことを思い出しちまった。」
と長さんが立ち上がると、
「穂高くんも疲れたろうから、今夜は早寝しろ。」
と元さんも宮田先生も帰っていった。

後片付けを手伝って、店じまいすると、僕も休むことにした。
「おやすみなさい。」
「はい、おやすみ。いい夢を見てね。」
返事を聞いて眠るのは久しぶりだ。

僕は、今僕の周りにいる人たちを精一杯大事にして生きる。
うん、それがいい。それで、いい。
歴史に名を遺したり、誰かにすごく褒められたりはしないかもしれない。
でも、毎日小さなありがとうを積み重ねていけたら、それで幸せ。

そんなことを考えながら、満たされて眠りについた。
なのに、翌朝、僕は熱を出した。








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その場限りの約束ではなく、僕は本当にゆかりさんの家に引っ越すことになった。
あの方々を見送った次の日、常連の元さんや長さんたちが来た時に、珍しくゆかりさんがそんな話をし始めたのだ。
ゆかりさんが他の客との会話の内容を、いくら常連とはいえ、他の客にするなど今までに聞いたことがない。 
それだけ、ゆかりさんの心にも深く残る出来事だったのだろう。

「じゃ、穂高くんはここに越してくるのか?それはいい。」
もっといろいろ言われそうに思っていたけれど、常連さん方は手を打ったり深く頷いたりで、あっという間に話がまとまってしまった。
「あそこのアパートの大家は…ああ、大丈夫だ。話しておくから、いつでも都合がいい時に出られるだろうよ。」
「え?」
「だって、俺の幼馴染だもんねぇ。」
と、八百屋の長さん。 

「引っ越し屋なんか頼むんじゃねーぞ。俺らでやってやる。」
「おう。その分、ここの飲み代、一晩分くらいおごれよ。」
「それじゃ、かえって高くつくような…。」
「おい、真に受けるな。冗談だよ。」
「ほっ。」
「荷物まとめとけや。」
「はい。」
元さんは、仕事で使っている軽トラックを運転してくるだけでなく、荷物運びまで手伝ってくれるという。

僕のためにそこまで?と感激しかけたが、ニブい僕でも気が付いた。
みんなみんな、ひとり暮らしのゆかりママを心配していたのだ。
そういえば、僕を雇ったとき、ゆかりさんはみんなに僕のことを「用心棒よ」と紹介したっけ。
僕は1年ちかくをかけて、みんなから安心できる用心棒として認められたってことか。

実は僕だって同じなのだ。
今のところ、僕の方が圧倒的かつ一方的に世話をかけているけれど、それがいつまでも続くとは限らない。
あの元気な母さんだってそうだった。
また明日会えると思っていたくらいなのに、何の前触れもなく逝ってしまった。
吉高様だってそうだ。
あんなに力強く、戦争や人生を語ってくれたのに、次にまた会えるのは当然と思っていたのに、その機会は二度とやってこない。
それがゆかりさんにも起きたら?と思うと、僕は何もせずにはいられないのだ。
いずれ失うさだめであっても、手の届かないどこかでその日を迎えるのではなくて、脇に寄り添っていたいのだ。

これは甘えか?
それでも構わない。
僕は最後まで甘えよう。
そう覚悟を決めたのだから。

長さんが言ってくれた通り、引っ越しを申し出ると、長いこと暮らしてくれたからと、年明けの1月には越してよいことになった。
契約更新にははずれた時期だったが、違約金なども発生しないという。
「いやさ、実は、今引っ越してもらって、次の学生さんが契約に来る前に内装直して、ちょっと家賃の見直しなんかもしてさ、新しい契約にするってのも、大家にはおいしい話なんだよ。」
仲介の不動産屋がこっそり教えてくれたから、僕はどこか心疚しい気分だったのを吹っ切ることができた。

小さな一間のこと、引っ越しの荷造りなど簡単と思っていたが、そうでもなかった。
とにかく本が多い。
手放す気もさらさらないし、かといって、段ボールに何箱あるかというほどだ。
大きな箱に入れると重たくなって運びづらいから、わりと小さな箱を選んで詰めていく。
すると、箱の数が増える。
ため息が出てきた。

しかも、さっさと詰めればよいのは分かっているのだけど、久しぶりに手にする本をつい開きたくなり、開くと懐かしくて読みこんでしまう。
ふと気づくと、1冊段ボールに放り込むだけのことに15分もかかったりしている。
これではいつになっても引っ越しなどできるはずがない!
僕はまた一つ世間を知った。
荷造りから手伝ってくれる引っ越し屋さんがあるというが、こういうムダな時間を作らないための、ありがたいサービスなんだってこと。

拍車をかけたのは、往診帰りだという宮田先生が寄ってくれたことだ。
「穂高くん、何か手伝えることはないかと思ってねぇ。」
恐縮しつつもありがとうございますと甘えることにしたのが、かえっていけなかった。
「おや、これは遠野物語ではありませんか。」
「先生も読んだことが?」
「ええ。大学生の時にねぇ。懐かしいなぁ。確かこのあたりに…おお、あったあった。ほら、ここね、私はここが好きでねぇ。」
「ああ、いいですね。そういう切り口というか、語り口というか、いかにも柳田国男らしい。」
宮田先生が意外にも文学に造詣が深いことを知り、僕は嬉しくなってしまった。
しばらく語り合ってから、ひとり本に没頭し始めた先生を見ているうちに、音をたてて邪魔してはいけないと、僕も手を止めた。
ひとりでやっていた時は1冊15分だったのに、宮田先生がやってきてからは1冊目にすでに30分経っている。
「先生、お茶でも。」
「ああ、ありがとう。この河童のところを読み終えたら手伝うからね。」
これでは、進むはずがない。

「おーい、穂高。やってるか?」
威勢の良い足音と一緒に、元さんがやってきた。
「おう、先生もいたか。ん?何やってんだ?」
「いえね、懐かしい本があったものだから、ちょっと拝借して。」
「おいおい、先生よぉ。それじゃ引っ越しになるめぇ。」
「ああ、すまないね。あとちょっと…。」
未練たっぷりにしている先生の手から年季の入ったハードカバーを取り上げると、元さんは威厳をこめて宣言した。
「読みたかったら引っ越した後で読めばいいだろう。
ちょっと手が空いたから見に来てみたらこの体たらくだ。
こういうことはな、機械的にやらねば進まんのだ。
ほれほれほれ!」
「あーっ、元さん、丁寧にやってくださいよぉ。貴重な本もあるんですから!」
「何言ってんだ。本なんて、そう簡単に壊れるもんでもないだろに!」
「元さんが今持ってるそれ、1冊2万円くらいしますよ。」
「え?」
元さんの目玉が飛び出しそうになった。
「後ろに2500円って書いてあるぞ。」
「ええ、発売したときは。でも、希少価値の高い本で、今売りに行くと2万円くらいになるんです。」
「へーっ!お宝だねぇ。」
「ですから丁寧に!そんな本もたくさん混ざっているんです!」
「けどよ、穂高。そんな貴重な本を、こんなところにただ山積みにしていたのか?」
「ほかに置きようがなくて…。」
「それはいけねぇなぁ。畳の上に寝かしておくんじゃ、本も虫食いやすくなるだろ?」
「そうなんですよ。日焼けもさせたくないし、虫食いなんてとんでもない、けど、ほら、もう本棚もいっぱいで。」

小さな本棚に重量オーバーするまで詰め込んである本をしばらく見つめているうちに、元さんの目の端がキラリッと光った。
「穂高。持っている本で一番大きなのはどれだ?」
「大きい、ですか?それなら…これですかね。」
元さんはジャンパーの内ポケットからメジャーを出すと、本の高さを測りながら尋ねた。
「これ、何冊ある?」
「このサイズはこの1冊だけです。次に大きいのがこれくらいかなぁ、これは10冊くらいあります。全集だし。」
「ほうほう。次は?」
「一番多いのがこのサイズですかね。これは数えきれないくらいあるなぁ。」
「あとは文庫か?」
「いえ、文庫と同じくらい、ちょっと背が高い新書がありますね。」
「なるほど。わかった。」
「わかったって何が?」
元さんは次々と本の高さを測り、本の山を見回してメモしながら力強く宣言した。

「ゆかりさんちで借りる部屋はもう決まったんだよな?」
「はい。ここの倍くらい大きな部屋なんですよ。いやぁ、もう、夢のようで。」
「こっち側、壁だったよな?」
「ああ、そうですね。窓のこっち側が壁でしたね。」
「よっしゃ。本棚を拵えてやる。」
「え?」
「これ全部立てられるだけの本棚を作りつけておいてやろう。」
「本当ですか!?」
「ああ。地震が来ても倒れないようにしっかりと耐震もして。」
「すげーっ!」
僕は思わず叫んでしまう。
「でも、家に傷がつくんじゃないですか?それに、そんなにでかい本棚、高そうだし。」
「家に傷はつかないようにするし、ついたらそれもお前が家を出るときに直してやるさ。
それになぁ、まあ、これだけ重い本になると廃材で作るわけにはいなかいんだけどな…。」
元さんがニヤリと片方の口元を引き上げて言った。
「実はな、先日、顧客の言う通りに作った棚がキャンセルになったんだよ。
とにかく細かい注文で念入りに拵えたのに、向こうの都合でいきなり断ってきやがった。
腹が立つやら困るやらで、キャンセル料をふっかけたら、材料費と工賃をひいても儲けが出るくらい払ってもらえたんだよなぁ。」
「げっ」
「それがさ、でかいから壊して板に戻そうかと思っていたところでよぉ。」
「もしかしてそれを?」
「おう。格安でつけてやる。」
「格安って、すでに儲けが出ているのに、僕からも?」
「当たり前だろが。俺も商売だ。それに、人間タダだったと思うと、大事にできないからなぁ。」
「大事にします!だから譲ってくださいっ!」
「おお。話が分かるじゃねーか。」
「だって、この本全部立てておけて、いつでもサクッと引き出せる環境で暮らすなんて夢のようですよぉ。」
僕は思わずヨダレが垂れてしまった!
「ただし、出世払いで!」
「出世なんぞしねーくせに、何言うか。即金だ即金っ!」

実は畳を上げて、床材を補強し、そこだけ畳ではなくフローリングに直して本棚を入れたのだと知ったのは、引っ越した後のことだった。
静かな大晦日をひとりだけのアパートで迎え、にぎやかな新年会に加わり、あれよあれよといううちに引っ越しの日を迎えた。
あれほど手こずった荷造りも、みんなの手を借りて一気に進み、運び出されていく。
ゆかりさんの家には必要ない家財道具は処分するか売るかしてしまった。
でも、母さんが持たせてくれた炊飯器とアイロンだけは、押入れの隅でいいから、一生持っていよう。

大家さんの立ち合いで、引き渡しが済み、最後のカギをかけるとき、言いしれない寂しさが胸を覆った。
「さよなら、僕の家。」
ここで過ごした7年ほどの月日が、あれこれと浮かんでは消えていく。
しばらくは、姉さんだって住んだのだ。

カギを2本、大家さんの手に戻すと、僕は右手の甲でこぼれそうな涙をぐいと拭った。
「よしっ。」

人の温度を感じる暮らしは久しぶりだ。
僕はこれから、どんな毎日を送るのだろう。






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あれからひと月たったのに、彼女たちはやってこなかった。
あの品の良い6人組のことだ。
ひと月半になっても、やっぱり現れない。
どうしたのだろうかと気がかりになる。
お珍しいこと、お風邪でも召したのかしらとゆかりさんと話し合ううちに、世間はすっかり冬枯れて、クリスマス色一色になった。

人々はやってきては笑い語らい、ほろ酔いに機嫌をよくして帰っていく。
僕らは寝て起きて、食べて働いて、今日もこうして生きている。
とりたてて事件と呼べるようなものもなく、特別な幸運と騒ぐようなこともない。
平凡で平和な毎日。

過去に煩うこともなく、未来を憂えることもない。
ただ、毎日を慌ただしくも穏やかに過ごせる幸せを、僕でさえ感じる日々だった。
小紫の前を通りかかり、張り出された求人広告を見て、ここで働こうと思った自分をほめてあげよう。
姉さん、僕はちゃんと普通の幸せを生きてるよ。


カラリンコロン。
カウベルが鳴る。
振り返りながら口が自動的に答える。
「いらっしゃいま…。」

言葉の最後の飲んだのは、その集団が黒づくめだったからだ。
明らかに通夜の帰りなのだろう。
泣きじゃくりながら支え合うふたり、白いハンカチを握りしめたままの手、おぼつかない足取りで入ってくるひとり、またひとり。

あの、ご婦人方だった。
待ちかねましたよ、どうなさいましたと問うこともできず、ハッとする。
ひとり、足りない。
とても嫌な予感がする。
いや、今までだって、体調がすぐれないとかご用だとかで全員そろっていないことは何度もあった。

ゆかりさんも気づいて、カウンターの奥からドアまで出てきて迎える。
「しばらくお見えでなかったので気がかりに思っておりました。今日はまた…。」
そういわれてまたハンカチで目を覆ってしまった人を抱きかかえるようにいつもの席に誘いながら、ゆかりさんが僕に目くばせをした。
折しも他のお客様は誰もいない。
僕は一つ頷くと、そっと外へ出てOPENの札をCLOSEDに裏返した。

「お寒かったのではありませんか?すぐに温かいお茶をお持ちしましょう。」
ゆかりさんはカウンターに戻る足で、暖房の温度を上げている。
僕はお決まりのおしぼりと水を運びながら、彼女たちの疲れ切った様子に胸を打たれた。
いないのは、あの、戦争の時の話をしてくれた一番年上に見える女性だった。

ゆかりさんが運んだ茶の湯気を吸いこんで、ひとりが重い口を開いた。
「よっちゃんが、亡くなってしまったの。」
それだけで、続きは言葉にならない。
ゆかりさんも僕も、席から立ち去りかねて、誰かが話を継いでくれるのを待った。

「よっちゃん…吉高さんというのだけれど、わたくしたちは『よっちゃん』とお呼びしていたの。
よっちゃんはね、この前こちらに寄ってから少し後にね、風邪をひいたの。
矍鑠としていたでしょう?
よっちゃんも自分のことを丈夫な性質だと信じていてね、風邪くらいなんのって、病院にも行かなかったみたいなの。
でも、なかなかよくならなくて、なんだかこじらせたみたいって。
じきに肺炎を起こして、入院してしまったの。
それからはあっという間だったわ。」

その場にいる全員の心を、哀しみのさざ波が覆っていく。
前回会った時にはあんなに元気だったのに。
あんなに心に響くお話をしてくれたのに。
どうしてこんなことに?
僕には死というものが近いようでも遠くて、関わりなく生きているつもりでいるのに、こうして不意に真横に立たれると、どうしていいのか分からなくなってしまう。

最初に話を切り出した女性が、バッグからひとつの封筒を取り出したのは、その時だった。
白いハガキ大の封筒には、どうやらきちんと封がされているようだ。
遺言だろうか。
僕はゆかりさんと眼を合わせると、そっと立ち去ろうとした。
「待って。ここに座って、一緒に聞いてちょうだい。」
「でも…。」
「いいの。ママも穂高くんも、一緒に考えましょうって、よっちゃんに言われたでしょう?」
僕らはためらいつつも、皆さんの輪の中に入ることにした。

「あ、あの『死ぬまでにしたい10のこと』ですか?」
「ええ、そうよ。これはね、よっちゃんからの最後のお願いなの。」
「どういうことでしょう?」
問いかけながらゆかりさんは、近くの椅子を引き寄せて僕の隣に座った。
「つい先日なのよ。病院にお見舞いに伺ったときに、これをお預かりしたの。
早く元気になって、あの話の続きをしたいと思い、カードに答えを書いておいた、でも、退院のどさくさで失くしてしまうといけないから預かっておいてって。」
「まぁ、そんなことが。」
テーブルの真ん中に置かれた白い封筒を皆で見つめる。
「ええ。だから私たち、よっちゃんの快気祝いはこの小紫で、みんなでカードを持ち寄って、『死ぬまでにしたい10のこと』を発表しあいましょうって約束したの。ね?」
呼びかけに応じて、うなだれた頭が一様に頷く。
「でも、その夜なのよ、急に悪くなって…。」

ゆかりさんがすっと立ち上がり、カウンターの奥に入ったのはその時だった。
僕もつられるように後を追うと、「これを運んで」とワイングラスが並んだトレイを渡された。
意図を察して僕はテーブルに戻り、音をたてぬよう念入りにグラスを置きならべた。
僕の後ですぐに戻ってきたゆかりさんの手には赤ワインのボトルがある。
「献杯しましょう、皆さま。吉高様のご冥福をお祈りして。」

改めて涙する仲間たちが鳴らすグラスで、その日の会話が封切られた。
「では、あたくしから申し上げますわ。あたくしね、死ぬまでにもう一度、ナイアガラの滝を見に行きます!」
「ナイアガラ?」
「ええ。大学を卒業するときに、記念にと海外旅行に行きましてね、その時に見たんです。
あの、足元から削られていくのではないかという迫力と、吸い込まれてしまいそうな水の勢いは忘れられない思い出なの。
でも、思い出にしておかないで、もう一度この体で味わうわ。」
「すてきね。」
「その時は私もご一緒したいわ!」
「ええ、よかったらみんなで行きましょう。」

「私は…毎日1回は、大笑いすることにしました。」
「まぁ!」
「何か特別なことをしなくても、毎日毎日を楽しいと思って暮らせるようにと考えた末に思いついたことなの。」
「なるほど!」
「でも、今日みたいな日は目標達成とはいかないわね。」
「しかたがないわ、そんな日もある。」

「私は食いしん坊でしょう?だから、いろんなものを『美味しい!』って感じられるうちに、いろんな土地の美味しいものをいただく旅をしようと決めました!」
「まぁ、あなたらしいこと!」

「私はね、象に乗るわ!」
「ゾウ?鼻の長い?」
「そう。だから、インドに行かなきゃ!」
「あら、できるわよ、インドに行かなくても。すぐそこで。」
「え?」
「千葉県にあるのよ、ゾウに乗れるところが。」
「やだわ、それホントなの?」
「ホント、ホント!」
「あんなに考えたのに、やだわぁ。じゃ、明日にでもできちゃうじゃない!」
「ええ。なんなら撮影係としてご一緒してもよろしくてよ。」
「もう、がっかり。明日は無理でも今週末には願いが叶う距離だわね。はぁ…」
「あらあら、よかったじゃないの、格安ですぐに夢が叶って。」

少しずつ笑顔が戻り、わずかずつ笑い声が立つ。
僕はお客様の笑顔がこんなに嬉しいものだと、これまで思っていなかった自分に気が付いていた。
笑ってほしい、元気を取り戻してほしい。
ここに座ってから、そればかり考えていた。

でも、無理矢理に笑わせたいわけではないんだ。
面白いことを言って笑わせたいってことではない。
ご自身の思いを温めてもらって、内側からあふれるような笑顔を見たい。
そのために僕には…小紫は何ができるんだろう…そう考えてみる。
笑顔が浮かぶかもしれない10分先を思って、今できることをする。
それが、僕の仕事なのかもしれない。

5人の仲間たちが一通り『死ぬまでにしたい10のこと』を語り合った。
「さ、穂高くんの番よ。」
「若者は先が長いから、10では収まらないでしょうけど。」
「今一番したいことを聞かせてちょうだい。」
口々に勧められて、僕は自分でも言うと思わなかったことを言いだした。

「僕は小紫で働き始めて、この仕事の魅力がだんだん分かってきた気がしているんです。
もっといろいろなことができるようになって、もっとお客様の笑顔が見たいんです。
そのために、自分にできることを増やしたいって思います。
まず、ゆかりママにできることを全部盗んで、僕もできるようになります。
それから、学校にも通って、最新の知識も得たいな。
そのためにはお金もかかるので…僕、アパートを引き払って、ここに引っ越してきてもいいですか?
それが一番都合がよさそうな気がするんだけど…。」

まぁ!あらぁ、うわぁと歓声が上がった。
「大変よ、ママ。プロポーズされちゃったわよ!」
「あ、いや、そーゆーわけでは…。」
「こら、否定しないの!」
年上の女性たちにいいように弄ばれて、僕は口が勝手に言い出したことを早くも後悔し始めた。
自分の頬だけでなく、耳まで真っ赤になっていることが自覚できるだけに、理由をつけてカウンターの向こうへ隠れたい衝動に駆られた。

「では、私の夢を語りましょうか。」
ゆかりさんが騒ぎをそっと沈めるように語りだした。
「私の夢は、今決まったのですけどね、この未来ある青年を大きく大きく育てたいと思います。」
「素敵!」
「私にできることはなんでも伝えましょう。でも、この青年がここでは叶わない別の夢を手に入れたら、握り締めることなく羽ばたかせることも皆様にお約束しますわ。」
「そんな…。」
「それでこそママだわ。潔いこと!」
「だから、穂高。」
「はい!」
「いつでもいらっしゃい、荷物まとめて!」
「はい!!」

いっせいに拍手が沸いて、気が付けば泣いていた人の顔にも笑顔が宿っていた。
「あら、私、今日も笑えたわ。」
そんな声に、改めて笑い声が響く。

「では、よっちゃんの答えも聞きましょうね。」
「ええ。」
封筒を預かった彼女が、そっと封筒を取り上げて、ぷつりと封を開いた。
ゆっくりとカードを引き出して、全員に見えるように開いた。

「死ぬまでにしたい10のこと」
しっかりとした文字でタイトルが書いてある。
その下5センチほどのところに、同じくらいしっかりした筆文字で、こう書かれていた。

したいことはすべてし尽しました。
よき人生でした。
みなさまのお幸せを
遠くからいつもお祈りしています。
   みなさまのお仲間 よっちゃんより



「お見事。」
「ああ、あたくしたちは、素晴らしい先達に恵まれましたね。」
「ええ。出会えて、共に過ごすことができて、幸せですね。」
「本当に、本当に!」

ゆかりさんが、テーブルにあってひとつだけ、ワインが減っていないグラスをに、自分のグラスをそっと合わせて目を閉じた。
「ご贔屓、ありがとうございました。これからも、いつでもお立ち寄りくださいませね、吉高様。」


それからも、吉高様の思い出話が尽きないまま、いつの間にか22時を過ぎていた。
このご婦人方の帰宅には遅すぎる。
ご家族も心配だろうし、足元も気がかりだから駅まで送って差し上げてとゆかりさんに言われて、僕は皆さんを駅の中に消えてしまうまで見送った。

コートを着忘れて出てきたことに、帰り道になって気付いた。
寒い夜になっていた。
駅前通りのジングルベルが聞こえなくなると、住宅街は温度をさらに下げたようだ。
早く帰ろう。

丁度街灯の下、急いで歩き始めた僕のつま先にひとつ、小さな赤い塊があることに気付いた。
早咲きの侘助椿が一輪、ひっそりと落ちていた。
僕はそれをそのまま残していく気になれなくて、右手ですくいあげると、ゆかりさんが待つ小紫に向かって駆け出した。





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そういえば、昼間の仕事に変わると決意して帰ろうと、立ち上がりかけたさよりさんに向けて、ゆかりさんがヘンなことを言った。

「まずはね、自分からよ。
本当は無条件にもらって当たり前のものをもらい損ねた人たちは、自分で自分にたくさんの贈り物をしなくては何も始まらないのよ。
慈しみ深い母親が赤ちゃんを育てるときのように自分を愛して、信じて、大事にするのよ。
最初はそれすら、きっとうまくいかないわ。
自分を大事にするってことの意味がきっとあなたを不安にさせてしまう。
それでもいいから、続けてね。
あなたはまだ若いから、きっと追いつくわ。
追いついた時にはね、あなたはまわりにいる、いろんな人たちを無条件に愛せるようになっているはず。
それはステキな世界よ。
あなたを脅かす人も、ゆがめる人もいない。
誰もがいとおしいと感じられるの。
そうして、ますます、そんな自分を好きになれる。

けれど、今すぐに、あなたを苦しめた人を愛そうなんて思ってはダメよ。
そもそもできないし、できる必要もない。
子どもを苦しめる親は少なくないけれど、そんな親を大事にできる子供がたくさんいるのも事実。
でもね、振り返ってみると、その人たちって必ず、どこかで『自分は親に愛された』という認識と『親は自分を愛していると分かるだけの行動をとった』という事実が釣り合っているのよ。
それなしには始まらないの。

今から親にしてもらったことを増やすのはできない相談かもしれない。
ならば、親からもらい損ねた贈り物の部屋の隙間に、自分で素敵なものを詰めればいい。
さよりちゃん、まずはそこからよ。」

今夜のゆかりさんは、いつになく饒舌だ。
おっとりとした彼女の口調とは少し違って、何かに憑かれたように早口に話す。
勢いに押されたように座り直したさよりさんだったが、クックッと笑いながら細くて長い足をスツールから下ろすと、顔にかかった髪を盛大に掻き上げて言った。
「んー、なんだかよくわからない。」

すると、ゆかりさんは何かに気付いたように目を丸くして、それからいつもの微笑みを浮かべた。
「いいのいいの。おしゃべりが過ぎたわね。」
「わかんないけど、ありがと。」
「ええ、ええ。」
「わかんないけど、自分でやりたいって思ったことを、思った通りにやってみていいってことだよね?」
「そうよ!それでちゃんと分かってる。」
「ふーん、よかったぁ。
じゃ、帰るわ。
穂高くん、またねー。」
さよりさんはわざわざ僕の名前を呼んだ。
「はい、お待ちしています。」
「ほんと?じゃ連絡するねー。」
「ありがとうございました!」


さよりさんの「またねー」は、また小紫に来てくれるという話だと思ったのだが、違っていた。
さよりさんから早朝の電話でたたき起こされたのは、わずか2日後だった。
そういえば、連絡先をくれと言われて、渡したことがあったっけ。
「穂高くん?おっはよーっ!あたしー。わかる?」
わかるけど、ちょっと腹が立つほど元気がいい。
「やめてください、僕、さっき寝たばっかりですよぉ。知ってるでしょ?」
「やめてくださいって、だから、やめてきたわよ。」
「はぁ?」
「起きろ、こら。辞めてきたってば。だから、今日付き合って。」
「ほぉ?」
「お店、辞めたの。今日から職探しよ。
穂高くん、就職に苦労した話、前にしてくれたじゃないの。
そういうベテランに付き合ってもらったら、いい仕事が探せそうな気がするんだもん。」
「あー、そういうことですか。はいはい。お付き合いしますよ、今度。」
電話を切って寝ようとする僕に、機械の奥から突き抜けるような声で彼女は叫ぶ。
「今度じゃなーい!」

店でなじみだった客には社長さんもたくさんいて、その気になれば雇ってもらえるはずと言いながら、そうするのは潔くないと思ったらしいさよりさんは、僕に職探しの方法を尋ねてきた。
履歴書を持って、ハローワークに行くのだという僕の話を真剣に聞いたらしい。
「もういいでしょ?眠いですよぉ。」
「ダメ。2時間寝たら起きて。いい?集合は…。」
結局彼女のいいなりに約束させられた。

ハローワークに行くのは初めてだというさよりさんは、白のカッターシャツに細いデニムといういでたちで待ち合わせ場所に先に来て、僕を待っていた。
文字にすれば一般的な服装なのだろうけど、彼女の場合はこれまでの経歴が透けて見えるほど、ド派手に決まっている。
服装というのは、色が普通でも、デザイン次第でこうなるんだなぁと驚いた。
夜の蝶が昼の服になっても、きれいな体のラインがくっきりと強調され、開けすぎた胸元のボタンやキラキラしたままの長い爪の先から、変装前の姿が覗いてしまっている。

真面目を絵にかいたような窓口の男は、やたらとさよりさんを…いや、あれは絶対さよりさんの「体を」だ…観察してから、ぶっきら棒を装った声で「ご希望の職種は?」と聞いた。
「OLさん!」
小学生が将来の夢を尋ねられた時のような声を張り上げたゆかりさんが、足を組み直す。
「さよりさん、脚、下ろして。」
「へ?なんでよ?」
「態度がでかくみえますから。こういうところでは謙虚に!」
「ケンキョってなに?あ、けーさつに捕まることだぁ。あはは。」
保護者役の僕には、ひやひやの連続だ。

「事務職がご希望…と。資格はなにかお持ちですか?」
「資格?ないなぁ。」
「運転免許は?」
「運転なんて、運転手さんの仕事でしょ?」
どこの姫かと突っ込みたくなるような返事をしても、さよりさんは平気でいる。
「職歴は…はぁ、接客業ですか。」
さよりさんが提示した履歴書を見ながらエンピツで何事かチェックを入れている。
「うん。だからね、人当たりはいいと思うんだよねぇ。」
「さよりさん、タメ口はダメです。ちゃんと敬語使って。」
僕は再びさよりさんの耳元でささやく。
「ケイゴ?穂高くんがあたしの警護してくれてるじゃない?」
「そういうオヤジギャグはもういいですから!」
「あら、そう?あはは。」
もう!

「待遇面のご希望は?」
「OLさんができるなら、なんでもいいかな。
給料もこだわらないよ。高けりゃまぁ、嬉しいけどさ、貯金はけっこうあるしぃ。
あ!」
「はい?」
「でもさ、一個だけ条件があるっていうか。」
「うかがいます。」
「男ばっかの職場がいいかなぁ。」
「はぁ?」
「だってさ、女が多いと、何かと面倒じゃん。
女は怖いよぉ。知ってる?おにーさん。」
おにーさんと呼ばれた窓口の男性は、最初は肉感的な彼女に興味津々だったけれど、今では最短時間で「処理」しようと決めたようで、無駄口に反応せず、てきぱきと端末を探っている。

キラリとその横顔が輝くと、プリントアウトをサクッと提示して言った。
「ありました。
初めていらしてヒットするなんて、運がいいですよ。
どうなさいますか、行ってみますか?」
その求人票を僕と同時に覗き込んださよりさんは即答した。
「行きます!」
よし、敬語が使えたじゃないか!

会話を交わす人すべてが、店一番の上得意と思うようにという僕のアドバイスを守って無事に面接を終えた彼女は、100社アウトを食らった僕とは違って、一発合格した。

さよりさんがその会社で働き始めて2週間。
ちまたはすっかり秋を深め、日によっては冬を感じるほどになった。
道端のイチョウがこれでもかと黄色い葉を落とし、道は踏みしだかれた三角で埋め尽くされている。
どうしても見に来てと、何度も誘いの電話をよこしてうるさいさよりさんに負けて、僕は彼女の職場を覗きに行くことにした。

その会社は、小紫から歩いて行けるほどの距離にある。
駅の方ではなく、住宅街の奥へと向かう。
とはいえ、幅広の道路沿いに進んで、住宅が切れたその奥に、大きな門と、大きな倉庫、ひっきりなしに出入りする車が見える。
「何言ってんの!さっさといってらっしゃい!」
「遅かったじゃない!次の準備はできてるよっ!」

どこに声をかけたものやらと門の外から様子をうかがう間もなく、門の脇にある小さな建物から、聞き知った高い声が響いてきた。
「いやー、さよりちゃんには敵わない。」
「でもさぁ、あの子が来てから、仕事に張りができたねぇ。」
そんなことを言いながら扉を開けて出てきた男たちは、大笑いしながらトラックの方へと向かう。

僕はその人たちに軽く会釈して、扉に向かった。
男たちは去りながらも、微妙に怪訝な顔をしている。
そっと引き開けると、姿が見える前に声が飛んできた。
「今度あんな雑な仕事したら許さないからねっ。お客様にご迷惑かけたんだから、反省しろ、反省っ!」
カウンターの向こうで仁王立ちしたさよりさんの前で、若い男がうなだれている。
「わかったら、さっさと行っておいで。気を付ければいいんだからさ。」
「はい…。すみませんでした。」
「ったく、いまどきの若い子はっ!」

ほうほうのていで逃げ出してきた彼は、僕とすれ違いざま、確かに言った。
「おかしいなぁ、俺の方が絶対年上なんだけど。それに、あっちのほうが確実に新人だし。。。。」
だろ?
わかるよ。僕もまったく同じ立場だ。

「さよりさん!」
「ああ、穂高くん!」
嬉しそうにカウンターを飛び出してくる彼女を見て、あとふたり待っていた男たちがじろじろと僕を見つめてくる。
「来てくれたのね、ありがとー。あたし、嬉しいわぁ。」
あのさ、店の客じゃないんだから、腕にすがりつくのはちょっとどうかと…。
だけど、なんだか、ちょっと誇らしいような気持ちになるのはなんだろう。

「あんたたち、何じろじろ見てんのよ。さっさと書類を置いて、次行っといで!無事に帰ってくるの、待ってるからね!」
「おうっ!」

「ねぇ、これがさよりさんの言ってたOLさんの仕事?」
「それがさぁ…」
彼女は僕を応接ソファーに誘いながらつややかな唇を尖らせた。
この会社の作業服と思われる上着に、タイトなピンクのスカートという組み合わせが、妙に艶めかしい。
「最初はあっちの事務所に行ったんだけど、計算遅いし、字は間違えるし、使えないからってその日のうちにここに配属替えになったのよぉ。」
「配属ねぇ。何が仕事なの?」
「ウチさぁ、運送会社じゃない?運転手さんがいっぱいいるのね。で、配達してきた伝票を受け取って、残り時間見て、次にどこへ行ってもらうか考えて、新しい伝票渡す仕事。」
「へぇ。」
「それがさぁ、自分でも意外なんだけど、楽しいし褒められるし、男ばっかで気楽だし、もう最高!」
「あ、そう。」
「あたし、もはやここのマドンアよぉ。こういうOLもありでしょ?」

夜の蝶から昼のマドンナへ。
さよりさんの転職は、思いも寄らない形で大成功したようだ。
がんばれよと、心の中で偉そうにつぶやいて、彼女が淹れてくれた熱すぎる緑茶をすすりながら、僕はしばらく彼女にハッパをかけられて嬉しそうに笑っている男たちを見ていた。




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「そうかな、あたしでもOLさんになれるかな?」
さよりさんはちょっと照れくさそうな顔になる。
滑らかな白い頬が先ほどまでよりも桃色に染まって、ますます綺麗に見える。

「あのね、昼間本屋とか図書館とか行って、常連さん好みの話題を調べてみたりしているうちに、世間にはいろんな人がいるんだなって気付いたの。」
「いろんな人?」
「そう。特にね、お昼時に、こう、制服着て、お財布とスマホだけ持ってご飯食べに来ているOLさんたちとすれ違ったりする時にね、ちょっと新発見っていうか、びっくりしたの。
ケラケラ笑いながらごはん食べたり歩いたりしているのを見てね、ああ、こうやって働いている人もいるんだなぁって。
もちろん、いることくらい知ってたわよ。
でも、自分とは関係ない世界のことだと思ってた。
もう最初っから、あたしにはできっこないって。
けど、こういうのもいいなぁって。 
ほんとにできないのかなぁって。
あたしさぁ、母親もこっちの世界の人だったし、他の世界を見ようとしてなかったのかもしれないなぁって。」

「ねえ、さよりちゃん。」
ゆかりさんがしっとりと呼びかけた。
その温かく包み込むような声、これを聞きたくてこの小紫にやってくる客がなんと多いことか。

「さよりちゃんのお母さんは、残念ながらいい親ではなかったわ。
ごめんなさいね、不愉快よね、他人からこんな言われ方したら。」
「ううん。ママならいい。本当のことだし。」
「ありがと。
親が親だと言えるにはね、子どもにしてあげなきゃならないことがあるのよ。」
「してあげなきゃならないこと?」
「ええ。生物学的には産めば親になれるけど、子どもを幸せにする親になるには、しなければならないことがある。」
「それってどんなことですか?」
さよりさん以上に興味を示す僕に、ゆかりさんは目を見開いて見せてから、やっぱりさよりさんに向かって語りかけた。

「子どもがね、自分はいつでも守られていると感じていること。
安心、安全で、自分は守られる価値ある存在なんだなって感じられるってことね。

それから、子どもが大人みたいに気を使わなくていいこと。
子どもらしく、怒っても泣いてもわがまま言っても、一度はちゃんと受け止めてもらえるってことね。
そういう時間を過ごすから、人は安心して心を開けるようになるの。

安心感とか信頼感とか受け止めてもらえる自信とか、そういうものがあって初めて、社会の中で生き抜くためのルールを教えること…つまり、しつけが成り立つの。
しつけというのも、親の大切な役割ね。
もっとも、しつけといえば暴力を振るってもかまわないと勘違いしている人もいるけれどね。
そういう人もよく見れば、親自身の不満や不安を子どもにぶつけているだけなのよね。
ま、理由がなんであれ、子どもを傷つける大人がいい親になるはずないわね。」

「だとしたら…。」
さよりさんは冷めかけたコーヒーをようやく口に運んでからつぶやいた。
「あたし、いい親から受け取れるものをほとんど何ももらってないかも。」
「多分、ね。」
「そうなんですか?」
僕は思わず問いかける。

「うん。
前にも話したかもしれないけど、あたしの父親はあたしが生まれると同時に事故で死んじゃったのね。
で、母親は水商売をして、いろんな男がうちに出入りしたわけ。
母親は酔っているか眠いか、男といちゃついてるか喧嘩してるか。
あたしがいるかどうかなんて気付いてなかったんじゃない?ってくらいだったから、安心だとか安全だとか、感じたことない気がする。」
「……。」

「油断していると理由の分からないことで殴られるし、怒鳴られるし。
でも、気を張って様子をうかがっていても、全然わからないんだもん、なんで殴られるのか。
いつもお腹空いてて、でもお腹空いたっていうと意地汚いって怒鳴られてさ。
腹が減るのはみんな同じでしょ?
でも、あたしはお腹空いたって言っちゃいけなかったんだぁ。」
「ひ…ひどすぎる。」
僕の目が潤んでしまう。

「母親と一緒に暮らした男たちにいたずらされたとかはないけど、殴られたり汚い言葉で罵られるのはしょっちゅうだったし、それに、母親と絡み合っているのは何度も見てる。
あれ、最低よ。
ほんと、最低。
子供心なんて吹き飛んじゃうくらい。
どうせガキだし、意味わからないだろうくらいにしか思ってないんだろうね。
まさか子どもが一生その光景を覚えていて吐き気を感じてるなんて思いもしない。
バカだよね、そういう大人。
ほんと、死ねばいいんだよ!」

さよりさんの激しい言葉に、僕の心臓は波打った。
すがるようにゆかりさんを見ると、彼女は僕と真逆に、にこにことさよりさんを見つめている。
「憎い?腹が立つ?」
「もう、めちゃくちゃ腹が立つっ!」
「それでいいのよ。
隠さずに怒っていい。怒る方がいいの。

役割を果たせない親は、子どもに憎まれ恨まれて当然なの。
だって、安心も安全も信頼も教わり損ねた子どもは、ほんとうに生きにくい人生を送らなくちゃならなくなるからね。
多くの子どもはね、それでも親に嫌われたくなくて、いい子だねって褒められたくて、悪いのは親じゃない、自分の方なんだって思ってしまって、ますます自分を傷つけるのよ。

でも、それは違う。
子どもに安心して子供らしく過ごせる時間を与えるのは親の責任なの。
責任を果たせなかった親が責任を問われるのは当然のこと。
あなたは何も悪くない。」
「……そう言ってもらうと、ホッとする。」
「何回でも言ってあげる。あなたは、悪くない。」
さよりさんはコクコクと髪を揺らして頷いた。

「けど、いつまでも親に植え付けられた不安とか不快感とか不信感とか罪悪感とか自信のなさとか、そんなものに支配されて生きる必要もないわよね。」
「支配…。」
「そうよ。支配されているのと同じでしょ?
親の役割はね、血がつながっていなくても果たせるものなのよ。」
「そうなの?」
「そうよ。それに、ふたりいなくてもいいの。」
「そうなんですか?!」
飛び上がったのは僕だ。

「そうよ。親の役割を果たすのはなかなか大変なこと。
大人だってみんな完璧じゃないし、うまくいかない部分もあるから、大人が複数いて、役割分担がしてあったり、ひとりだめでももうひとりが果たせるようにしておけば安心よね。
でも、両親そろってなきゃいい親になれないということはないの。」
「そうか。そうですね。僕は母さんしかいないけど、不満に思ったことなかったもんなぁ。」
「あなたの場合はお姉さんも親代わりだったのでしょう。」
「確かに!」
「その分、お姉さんはどうだったのかしらね。
幼い時から、背負うには重たい責任を背負っている気持ちがどこかにあったかも…。」
思い当たることが多すぎて、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。

「さよりちゃんは本当に辛くて不安で怖かったのよね。
お父さんが亡くなって、お母さんもご自分のことで必死で、あなたを見る余裕がなかったのね。
本当はあなたをかばって守ってくれなくてはならないお母さんが、守るどころか手をあげるんだもの。」
「ほかの大人も、誰も助けてくれなかった…。」
半ば身を起こしたさよりさんの目から、大粒の涙がとめどなくこぼれ落ち、あごを伝ってポタリポタリとむき出しになった太ももを濡らしている。

「親の役割はね、実は『自分』でも果たせるのよ。
今あなたはもうあの頃の子どもじゃないの。
強くなったわ。
いろいろな経験をしたと思うけど、全部乗り越えたでしょう?
だからね、これからは、小さいころにあなたが感じたことと、今実際のあなたが感じてもいいこととの違いをちゃんと認識して、今のあなたを生きてほしいのよ。」
「今の私?」
「そうよ。こんなにきれいで、かわいらしい女性はそうたくさんはいないわ。
今のあなたなら、望むことはなんでもできる。
そのための努力もきっとやり遂げると思うの。

『できない』『似合わない』『無理』『笑われる』…
そういうのは全部、あなたが子どものころ、無責任な大人があなたに押し付けた、間違った認識よ。
いつまでも無条件に従う必要があると思う?」
「ないない!従ってるつもりもなかったけど、あるならやめる!」
「でしょう?なら、やってみたいことはやってごらんなさい。
心の温かい母親のようにあなた自身を信じて、応援して、やってみたらどうかしらね?
いい、さよりちゃん。
ここまで気付いたら、これから先の人生の質がどうなるかは、あなた自身の責任よ!
私たちも応援するから。ね?」

「もう!ママと話しているといつも自分が知らない自分を発見しちゃうわ。」
さよりさんは泣き笑いしている。

「ねぇ穂高くん。」
「はい。」
「あたしね、ここに来るのが好きになったのは、ママがね、『はいはい』って言ってくれるからなの。」
「え?」
「あたしが変な時間に来て、『コーヒー』って言うでしょ?ほかの店だと、お酒じゃなくていいんですかとか、コーヒーはちょっととか言うの。
まぁ当たり前と言えばそうなんだけどね。
眠れなくなりますよ、なんてのはいい方で、他の店に行ってくれとか、コンビニで買えばいいだろうとか言われることもあってね。
そりゃそうだとは分かってるのよ。
でも、たまたま入った小紫は違ったの。
『はいはい』って、コーヒーが出てきた。
おにぎりって言えばおにぎりが、お水って言えばお水が出てくるの。
できないことを頼んでも、ほんとは無理を言っているのはこっちなのに、ママは『ごめんなさい』って言うの。
あたしね、ここに来ると、自分がとっても大切にされているんだなって分かる。
それがね、すごーくうれしくて、心地よくて、離れられなくなっちゃったんだぁ。
今やっとわかったよ。
あたし、子どものころから『はいはい』って受け入れてもらったことなかったんだなぁって。
だから、すっごく求めてたんだなぁ。
無条件に受け入れてもらえて、ああ大事にされてるなって感じることを。」

そうして、ぐずりとテーブルに突っ伏していた背中を起こし、両手で長い髪を整え、乱れた服を引っ張ってから言った。
「よし!あたし、お昼の仕事、やってみようっと。
あたし、ひとりじゃないもん。
応援してくれる人も、あんなとんでもない子ども時代を乗り越えた力もあるんだもん!
ね、穂高くん。」
「はい!応援します!!」

やばい。
一瞬、息が止まるかと思った。
こんなに美しい人、見たことないや。






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6人のご婦人方の会合はその後、日ごろの話に花を咲かせて散会となった。
例の通りならば、ご婦人方が再びやってくるのはひと月後だろう。
僕とゆかりさんは思いがけない宿題を出され、それぞれに「死ぬまでにしたい10のこと」を考えることになった。
ゆかりさんはお客様を見送ると、複雑な表情で僕を見る。
わかっている。
「死ぬまでに」なんて、死病を患って数年しかたっていない僕には重たい話題と心配しているのだろう。

「大丈夫ですよ。」
「それならいいけど、私がお客様の言葉を断ってはいけないと教えたから我慢しているなら、今回はお断りしてもいいのよ。」
「大丈夫です。それに、あの一番ご高齢に見えた方のお話、僕はなんだか感激しました。」
「お年の割にはほんとうにしっかりとなさっていて、驚いたわね。」
「僕は戦争のことなんか何も知らないし、周りの人から聞く機会もなかったから、すごく勉強になると思いました。語り部ですね。」
「確かにね。」
「面白い話題だと思うんです。僕も考えてみます、どうしてもやりたいことを!」

そんな話をしていた何日か後で、久しぶりにさよりさんがやってきた。
夜の蝶である彼女は、例によっておぼつかない足取りで深夜ふわりと現れた。
相変わらずどこか崩れた印象は否めないが、綺麗な女性だ。

「ママー、コーヒーちょうだい。」
彼女はいつものスツールに陣取るや否や、そう言った。
「はいはい。しばらく見なかったわね。元気にしていたの?」
「元気元気。どっかのボーヤが私の収入源を退治しちゃったから、自分で真面目にコツコツ働いてたのよぉ。」
「そ、その節は大変失礼をいたしました〜。」
僕は半ば冗談と知りつつ、彼女が足を組んで座った脇に立って平身低頭する。
彼女の「いい人」に文句を言い、二人を別れさせてしまった元凶は確かに僕だし。
今日もさよりさんから、甘く切ないような薫りがそっと漂う。
以前よりも香水が薄くなったのはなぜだろうと、僕はふと思った。

「冗談よ、穂高くん。でもね、真面目に働いていたのはホント。」
「それまでだって、さよりちゃんは真面目に働いていたでしょ?」
「うん、まぁね。でも、ボーヤの一件があってから、あたしね、ちょっと考え方が変わったんだぁ。」
ひどく酔って見えるし、話し方は眠そうで酔っぱらいそのものだけれど、彼女の話はいつも乱れない。
どこかスッと筋が通っている。
姿勢は崩れていて、今日も左ひじをテーブルにつけて頬杖をついている。
お店に出ている時には一筋も乱さないのであろう長い黒髪は、頬杖の先の指で時折かき回されるから、次第に寝起きのように乱れていく。
時には長い足を隠すには短すぎるスカートや、眼を引き付けずにはおかないキラキラした襟元、深く切り込んだ胸元は、無防備の域を超えてしまう。
おいおいと思うのだが、それはきっと、彼女が心底くつろいでいる証拠なのだろう。
そう思うと、湯上りに裸のまま家の中を歩き回る姉さんを見慣れていて本当によかったと思えてくる。
そうでなかったら、僕はこの場に平然と立っていられなかっただろう。

ゆかりさんは、さよりさんの考えがどう変わったのかなんて問いかけて、答えを急かしたりしない。
あの、たまらなく美味いコーヒーを差し出すと、黙って静かに微笑んでいる。
今日もほかに客はないから、僕もゆかりさんも彼女にかかりきりだ。
ゆかりさんの目くばせに従って、僕はさよりさんの隣のスツールに腰かけた。
ママはそっと僕の前にもコーヒーを置いてくれた。

「あたしね、正直言うと、お客様のことをどこかバカにしてたんだよね。
こんなとこに来て、女の子にいやらしいこと言ったり王様みたいに振舞ったりしてバカじゃないの?って。
見栄はって高いボトル入れてさぁ、外で買ったら半値だよって分かってるんでしょ。
そんなバカが自分からやってくるんだから、いいようにお金巻き上げたって構わないって感じ?
獲物よ、つまり。」
なんだか、情景が見えるようだ。

「でもね、こないだボーヤに真剣に心配されちゃったじゃない?
あれから、ふと違う考え方もできるかなって思うようになった。
お客様は世の中にゴマンとあるお店の中からわざわざこの店を選んで、貴重な時間とお金を使ってくれているんだなぁ、ありがたいなぁって。」
「そう、そうよね!」
ゆかりさんが嬉しそうに合いの手を入れる。
「そうしたら、せっかくあたしを選んで来てくれたんだから、楽しんでほしいなぁとか、気持ちよくお帰りいただきたいなぁとか思うようになったんだよね。
前は、他の子の客でもいいからどこで食い込んで、アフターにつなげて、気に入られて貢いでもらうには…自分の収入源にするにはどうしたらいいかで血眼になってたんだけど、そういうの、まぁいいかと思えてきたんだぁ。
そしたらね、突然変わったの。」
「変わった?」
「そう。変わった。どういうわけだか指名が増えたの。
でね、指名してくださるお客様のお話にもっと乗れるように、いろいろ調べてみたりし始めたら、明るい時間の過ごし方が変わっちゃった。
無暗にアフター行くより、早く帰ってちゃんと寝て、明日は図書館行ってみようなんて思うようになっちゃったんだもの。」
「あらあら、さよりちゃんが図書館?」
「ちょっとママ、失礼じゃない?ふふふ。
それでね、アフターもたまにしか行かなくなっちゃったの。
そうしたらビックリ。
肌がね、荒れなくなった!」
「深酒の寝不足に厚化粧だから、荒れても当然ですよ。」
僕が余計なことを言うから、さよりさんに耳を引っ張られる。
「いててて!」

「でも、穂高くんの言う通り。化粧のノリがよくなったら、お客様にも喜ばれちゃう。
たまにアフターに行くと、珍しいからと喜ばれて、おねだりしないでもお小遣いいただいちゃったり。
そしたら、なんだか前は嫌々働いていたなぁって気がして。
ってことは、今は、ちょっと楽しく働いてるって感じ?」
「そうだったのね。だからここへも現れなかったのね。納得したわ。」
ゆかりさんが心底嬉しそうだ。
しっとりとした声がツヤを帯びている。

「で、今日は早寝しなくていいの?」
「うん…ちょっと、相談…っていうか、聞いてほしいことがあって。」
「私に?」
「そう。あ、笑ってくれていいから。」
「それはお話を聞いてからね。」
「うーん、あのね…」
言いかけて、さよりさんは息を詰めた。
両手でバサバサと髪を掻き乱すと、そのままテーブルにつっぷして、右の人差し指でまだ手をつけていないコーヒーカップの縁をそっと撫でると、つややかな唇の端に笑みを浮かべて言った。
「やっぱり、いいや。」
「それ、さよりちゃんの悪い癖。」
「え?」
「ここではね、さよりちゃんは何を言ってもいいのよ。
いつもそう言っているでしょう?
さよりちゃんが話したいと思ったことで、言わなくていいことなんて何もないのよ。」
「ああ、そうだった。また忘れちゃった。だから来たのにね。」

きっと、この二人の間では、こんなやり取りが何度となく繰り返されてきたのだろう。
さよりさんは自分のことをあまり大事にしない。
いろんな意味で。

「あのね、ママ。あたしね、仕事辞めようかなって思って。」
「仕事を?」
「うん。」
「やっと楽しくなったのに?」
「そうなの。」
「ほかにしたいことでも?」
「うふふ。やっぱりママは鋭いなぁ。
そうなの。
でも、無理かなとも思うんだ。」
「でも、やってみたいんでしょ?」
「うん。」

僕は、どんな仕事をしたいんですかと尋ねたくてうずうずする。
でも、ゆかりさんは相変わらず先を急がせず、さよりさんが自分から話し出すのを待っている。
こんな僕にでも分かってきた。
人は、胸の底にある、肝になる言葉を口にするためには、掘り起こし、ゆっくりと持ち上げて外に出す準備をする時間が必要なのだ。
本気で語ろうとすることほど、そういう時間がかかる。
ぺらぺらと語られる言葉が軽く聞こえるのは、元々浅いところにあった、浅い思いだからかもしれない。
それが分かっているから、ゆかりさんはああやって、静かに待てるのだ。

「あたしね、普通のOLさんになりたい。
もしかしたら、あたしにもできるかなって。
やってみたいなーって。
どうかな?
やっぱりあたしじゃムリかなぁ。」

「できるわ!」
「できます!」
ゆかりさんと僕の言葉がシンクロして、さよりさんを笑わせた。






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「ああ、だめだわ。」
「ほんと、意外と難しいわね。」
6人のご婦人方はしばらく『死ぬまでにしたい10のこと』について黙考していたのだが、とうとう深いため息とともに投げ出した。

手元に配られたどのカードにも文字はまだなさそうだ。
ため息とともにペンを置いて、かわりにそれぞれのグラスに手が伸びる。
いつも機知にとんだ軽妙な会話を交わす集団だけに、僕は少し肩透かしを食らったような気がした。

「死ぬまでにって言われると、あと何年あるかしらとまず思うのよ。」
「そうね。」
白髪が混じっていてもよさそうなのに、一筋の白も見えない頭たちが頷く。

肌触りがよさそうなベージュのブラウスを着た60前後の一人が、唇を尖らせながら言い出した。
「100まで生きると思えばあと40年くらいあるわけでしょ。
そうすると、長いなぁ、なんでもできそうと思えてきますよ。
でも、待った待ったと、もう一人の私が言うの。
お前はそんなに生きられると思うのか?いいとこ残り10年だぞと。」
「そんなことないわよ。あなた、長生きしそうだもの。」
「あら、憎まれっ子世にはばかるとでも?」
「いい歳をして、自分を『子』だなんて言えるんだもの、太鼓判だわ。」

うふふ、あははと笑い合ってから、話が続く。
「仮に10年だと思うと、その間にしたいことは年に1つずつよね。」
「まあ、そういうことになるかしら。」
「ピンピンコロリと逝くとしてのことだけど。」
「それが理想よぉ。」
どなたも異存はないようだ。

「これから1年に1つずつ、これだけはということをしていこうと思うと、なんだかしっかり考えなければと思い始めて。」
「ええ、ええ。」
「でも、考えれば考えるほど、どうでもいいことばかり浮かぶのよぉ。」
「例えば?」
僕は耳をそばだてた。

「最初に浮かんだのはね、ステーキなの。」
「ステーキ?」
「あの、牛肉を焼くステーキのこと?」
「そうよ、そのステーキ。」
「まぁ。それで?」
「私ね、一度でいいから、鉄板焼きというのかしら、そこへ、こう、こういう厚みの最高級のお肉を載せてジュジューッと焼いて、網目みたいな焦げ跡がついたステーキをね、食べてみたいと思ったの。」
彼女は右手を顔の高さに挙げて、人差し指と親指で5センチくらいの隙間を作っている。
分厚いステーキに憧れているのだな。

「ナイフがすーっと吸い込まれるように切れて、内側はいい感じに赤みなのに、生ではないのよ。それを一口頬張ると…」
彼女は架空のステーキをスッと切ると、左手に持っているらしいフォークで口に運んだ。
もぐもぐもぐ。
「あー、なんて柔らかいのかしら。まるでとろけるみたい!なんて言ってみたいわけよ。」

彼女の熱演に、周りは頬を緩めている。
「いいじゃない。それで1つ目はクリアで。」
「ところがよ。」
「何?」
「そんなの、今日の帰りでもできると思うのよ。」
「まあ、確かに。そういわれてみればそうね。」
「それに、分かっているわけでしょ?」
「え?」
「やってみたらどうなるかが分かってる。美味しいに決まってるもの。」
「ああ、そういうこと。」
「もしも美味しくなかったら、それこそショックよね。」
「でしょう?私の死ぬまでにしたい大事な10個のうちのひとつが、そんなお手軽なことでいいのかしら?って思ったら、なんだか書けなくなったのよ!」

「私もいくつか浮かびはしたのよ。」
「あら、聞かせてー。」
「たとえばね、あ、穂高くん、さっきの赤ワイン、ボトルごとちょうだい。」
「はい、かしこまりました。」
僕は盗み聞きを見抜かれた気がして、内心ギクリとしながら立ちあがったが、深緑のベルベットのジャケットを着た彼女はすぐに話に戻っていった。
「あと5キロ痩せたいとか、畳替えしたいとか、ハワイに行きたいとか、野生のシロクマが見たいとか。」
「なんだか…雑多ね。」
「でしょう?自分でもそう思うもの。思い浮かぶ端から、『それ、真剣にやりたいの、私?』って尋ねてみるとね、どうもなんだか違うしね。」
「興味があるには違いないのに、どうして違うのかしらね?」
問いかけたのは一番年上に見える女性だ。

「それなんですよ。さっきからずっと考えていて、分かった気がするの。」
「教えて?何?」
「やってもやらなくても、何も変わらないってこと。」
「あら、そんなことないわ。何かしたら、きっと何かが変わるわよ。」
「それはそうなんだけど…もっとうまい言い方はないかしら。えーっと…。」
瞳を左右に動かしながら考え込む彼女を見て、口元をほころばせた最年長がボソリと言い添えた。
「つまり、それをやって変わるとしても、そんな変化は望んでいないと。」
「そうですわ。そうなんです!」

「私、伺っていて思ったんですけどね、やりたいことを先に考えるから迷ってしまうのではないかしら。目的地を定めずに旅立ったのと同じように。」
最年長の言葉はしっとりとした重みがある。
声を張らないから、ともすれば聞き逃しそうだ。
だから、彼女が話し出すと、みんなの耳がそちらに集中する。
きっと、生きる知恵がふんだんに込められていることを、みんな知っているのだと思ったりする。
おばあちゃんの知恵袋って言うし。

「お題を聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは、何をしたいかではなくて、どう死にたいかだったの。」
「まぁ!」
「だって、もう明日お迎えが来てもおかしくない歳ですもの。」
「そんなことないですよ。」
「縁起でもないことおっしゃらないで。」
彼女に対しては、みなが少し丁寧な言葉を使う。

「いいんですよ、本当のことだから。
このくらいになると、死ぬという現実から目を背けてはいられないの。
いかに死ぬかはいかに生きたかの結果だというけれど、私は少し違うかもと思うの。」
みな静かに彼女の話の続きを待っている。

赤ワインのグラスをわずかに減らしてテーブルに戻すと、彼女は続きをゆっくりと話し出した。
「この中でも、あの戦争のことを覚えているのは私と…あなたくらいよねぇ。」
「ええ、そうですわね。」
視線を向けられた琥珀色の花柄をしたステキなジャケットの女性が頷く。
「それでも、あなたが覚えているのは戦後のことでしょう。
爆弾が空から降ってくるあの恐ろしさを覚えているのは私だけね。」
みな一様に押し黙った。

「お友達はみな疎開していたけれど、私は体が弱くてね、母が手元に置いておくしかなかったの。
だから、あの東京の大空襲をこの身で体験したの。
あの日も熱を出して寝ていたの。ひどい空襲でね。
お庭に小さな防空壕が作ってあったのだけど、それでは心許なくなって、母は私の手をひいて、もっと安全なところへ逃げようとしたのね。
あの時の恐ろしさは今でも昨日のことのよう。」
彼女の目の裏には、きっとその時の光景がまざまざと浮かんでいるのだろう。
静かに閉じた目をゆっくりと空けると、彼女は言葉を続けた。

「あれはどこだったのか、走り疲れて座り込んだのね。
自分の体の中から上ってくる熱い息と、それ以上に熱い空気が頬をチリチリと焼き続けて…。
息をつく間もなく、爆弾が近くに落ちて、私たちは建物の下敷きになった。
オレンジ色の火花、悲鳴、何もかもが焼けていく臭い、どこが痛いのか分からないくらいの激痛…。
その時私、思ったの。
ここで死ぬのかもしれないって。
でも、そんなのは嫌だ!と思ったのよ。
非国民でもかまわない。
大好きなおうちのお布団で、お父様やお母様や弟と一緒にいて、私は幸せねって思いながら死にたいって、心の底から思ったの。」

「助けられたのですね。」
「ええ。母も怪我はしたけれど、命は助かったの。
父はパラオで戦死してしまいました。
だから、母と、遠くに疎開していた弟と3人、戦後を生きたの。
時代はどんどん移り変わって、私は歳を重ねたけれど、あの時の思いを忘れることはなかったわ。
両親はもういないし、弟まで先立ってしまったけれど、それでも、自分の家で、家族に囲まれて、幸せだったと感じながら逝きたいと誓った気持ちは変わらないの。」

この話には誰もが頷くしかない。
いつの間にかゆかりさんが僕の隣にいて、彼女の話を一緒に聞いていたようだ。
何度も深く頷いている。
「あの時の恐ろしさに比べたら、その後の人生で起きた辛いことや困ったことは、みんな自分の力でなんとかなりそうな気がしたわ。
空から降ってくる爆弾を止める力はなかったけれど、死にたいように死ぬことは、自分の努力でできそうな気がするんですもの。
あの日からずっと、私はその日に向かって生きてるのだわ。
どうやって生きていたら、最後に幸せだと思えるかしらってね。」

「このお題は私たちにとても大切なことを気付かせてくれそうね。」
「ほんとにそうだわ。ぜひ、いい加減に終わらせてしまわずに、納得いくまで話しましょう。」
「ええ、そうしましょう、そうしましょう。」
「穂高くん!」

突然呼ばれて驚いた。
手招きされたので、急いで席に近づく。」
「はい、お呼びでしょうか。」
「よく聞いていたでしょ。」
「はい、すみません。」
「いいのよ。あなたも考えていらっしゃい。」
「は?」
「聞きたいわ。お若いあなたの『死ぬまでにしたい10のこと』。」
「はぁ。」
「ママさん、あなたもね!」

とんでもないことになってしまった。





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