Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

カテゴリ:小説 > Bar小紫


グァテマラの姉さんからコーヒーが届くたびに、いったいあの人はどんなところでどんなふうに暮らしているのだろうか、何をしているのだろうかと考える。
電話もないというし、手紙も滅多に来ない。
僕からも送らない。
だから、全然分からない。

頭の良い行動派の姉は僕の心配なんかいらないくらい、自分でやっていける人だ。
きっと日本の小さな常識やしがらみから解放されて、のびのびやっているに違いない。

ゆかりさんのように、日常を離れてやりたいことがある、というわけでもない僕には、非日常のことをしろと言われて思い浮かべられるのは姉さんくらいだった。
「連絡してみようか。」
自分のひとりごとが耳に届いてハッとする。
「いや…パスポート、まだ生きてるかな?」

電話も使えない、手紙はいつ届くか分からないなんて人へ連絡しても、返事を待っている間に1か月くらい経ってしまうかもしれない。
住所は分かっているんだから、直接行ってしまった方が確実なのではないか。
だいたい、姉さんの家なんだから、許可をとらなくても会いに行くくらいいいだろう。

思いついたら、何か偉大な発見をしたような、高揚した気分が胃の下の方から突き上げてくる。
「おお。いかにも非日常だぁ!」

動き回ることをあまり好まないで生きてきた僕にしては、これは非日常を超えて大冒険だ。
世間には、ちょっとまとまった休みがあるとすぐに海外へ飛び出していく人々がいることを、小紫に来てから知った。
僕には想像もつかない行動力だけれど、その人たちには日常を支える楽しいイベントのようだ。
僕は信じられない思いで体験談を聞くばかりだった。
店が再開したときに、「僕も…」と珍しい異国の話をする自分を想像する。
ああ、ダメダメ。
ここは僕の話をする場所じゃなかった!

いつの間にか外は真っ暗で、元さんが帰っていった夕方からずいぶん時間が経っていることにようやく気付いた。
「腹、減ったな。」
このところ、ゆかりさんの手の込んだ美味い料理しか食べていない。
自分のためだけに厨房に立つのは、やっぱりなんだか億劫だ。
「コンビニ、久しぶりだな。」
ついでに貯金を確認するか。
さらについでに、旅行会社の窓口がどこにあるか確認しておいて、明日一番で行ってみよう。
ようやく自分がしたいことが見つかって、自責の念から解放された僕は、着替えもせぬまま外に出た。
22時。
今の僕にとっては昼間と変わらない。


コンビニで稲荷寿司とビールを買ってきた。
それをつまみながらインターネットで調べてみる。
甘じょっぱい稲荷がなんだかたまらなく美味い。
350mlのハイネケンがグイグイと減っていく。

なんと、グァテマラは物価が安い。
宿泊費もいらないと思えば、一日1000円もあれば足りそうだ。
旅行費用の大半は航空機代。
空港から姉さんの住まいまではどのくらいかかるのだろう。
飛行機は…一番安くて…往復40万くらいか。
いや、120万くらいのほうが多いな。
そういえば、母さんの生命保険料を使わせてほしいと姉さんが言ったときも200万とかだった。
なるほど。
大した使い道もなくコツコツ貯めていたし、それこそ母さんの保険も使ってよければ苦になる金額ではなさそうだった。

20時間も飛行機に乗るんだなぁ。
どんな気温だろ。服はどのくらい持って行こうか。
いっそ、向こうで手に入れるつもりで、下着だけでいいか…。
最近はあまり出番がなくなった、グレゴリーのリュックひとつで行けたなら、なんだかカッコイイかも。
考えていたらすっかり面白くなってしまった。
今までどうしてこんなに面白いことを面倒に思っていたのだろう。

とにかく、自分の手だけではどうにもならないのは明らかだった。
駅前に旅行会社があるのはさっき確かめた。
10時になったら行ってみよう。
今夜は早く寝ることにしようと、風呂に向かった。
ゆかりさんがいる時と違って、風呂も自分で用意しなくてはならない。
ひとり暮らしの時には当たり前だったことが、今ではすっかり頼りきりになっている。

目を閉じて、シャワーを顔の正面からザバザバと浴びたときだ。
不意に、すっかり忘れていたことを思い出した。
あれは、僕がまだ小学校に上がる前ではなかっただろうか。
そうだ、病院で見た出来事だった。

幼いころから体が弱かった僕は、始終熱を出しては母さんに抱かれて病院に行っていた。
その時もきっと、熱を出したのだろう。
僕は病院の待合室にいた。
母さんがそばにいなかったのは、医者と話していたのか、トイレにでも立っていたのか。
とにかく、僕はひとりだった。

ひとつ向こうの長椅子に、僕と同じくらいの歳の男の子がパジャマ姿のまま、母親の隣に座っていた。
ひどく泣いている。
大きな泣き声で、僕もびっくりして見つめていた。
母親が静かにしなさいとヒステリックな声をあげて注意する。
男の子はますます大声を上げる。

僕の母さんは、あんなふうに恐ろしい声で真っ赤な顔をして怒ることはない。
だから、僕はその女の人が怖かった。
目が離せなくなった。
女の人が不意に荒々しく立ち上がった。
膝に乗っていたバッグが床に落ちて散らばった。
女の人はバッグには目もくれず、掌を一閃させた。
バシッ!
掌はものすごい速さで、男の子の頭を横から叩いていた。
男の子は長椅子に倒れそうになり、それでも堪えて泣いている。
バシッ!
もう一発。
僕は恐ろしくて声も出ない。
男の子が今にも死んでしまうのではないかという声で泣き叫んだ。
すると、女の人は泣き声に負けないほど悲痛に絶叫した。
「だから、あんたなんか産みたくなかったのよ。あんたなんかいらなかったのよ!」
そうして、床に落ちたバッグをガサガサと拾い集めると、泣いている男の子を残して、待合室を出て行ってしまったのだ!

後はよく分からない。
白衣を着た人がやってきて、男の子を抱いていたような気もするし、女の人を追いかけていったような気もする。
すっかり混乱し、恐ろしくなった僕まで泣き出していたけれど、母さんが戻ってきていて、僕を抱きしめてくれた。
僕は母さんにすがりついた。
あの時の母さんの大きさや温かさ、玉子焼きみたいな匂いも思い出した。
僕は思ったんだ。
あの男の子がお母さんの言うことを聞かずに泣いたりするから叩かれたんだ。
わがままを言って困らせると、おかあさんに捨てられてしまうんだ。
僕の母さんも、そうなんだろうか。


どうして今、あの出来事を思い出したのか分からない。
あの時の僕は、自分が見たものや感じたことを母さんに説明するには幼すぎた。
さらに、僕の前であの男の子の身に起きた出来事と、自分のこととを区別する力もなかったようだ。
僕はすっかり怖気づいたのだ。
母さんの言うことを聞いて、おとなしく、いい子でいなければいけないと思い込んだ。
僕はなかなか丈夫になれなかったから、何もしなくても迷惑をかけているのだから、なおさらおとなしいいい子でいなければ。
損な思い込みが、僕の様々な選択の基盤に、ひたひたと流れ続けていたのだ!
僕の行動原則は、母さんに見捨てられて一人ぼっちになる恐怖を避けることが最優先だったのだ!

まだ大したことはないけれど、ちょっと人生経験を積んでみたら分かることだった。
あれは人の身の上に起きたことで、僕と僕の母さんのことではなかった。
母さんは、僕があんなに気遣わなくたって、大丈夫だったと思う。
それとも…?
それより、僕のこれって、世間で言う「マザコン」ってやつじゃないか!

シャワーを切り上げて、そわそわしたまま部屋に戻った。
おかしなことを思い出したものだ。
おかげで、自分のことがまた一段理解できた気がするけど。
母さんはもうこの世にいない。
僕は、母さんに捨てられないように気を付けながら、家の中から出ないで囚人のように過ごす必要なんか最初からなかったし、今はさらに自由なんだ。

何かが光っている。
ケータイに着信があったらしい。
確かめると、公衆着信とある。
このケータイに電話が来ることなどめったにないから、これは事件だ!なんて思う。
そうか、ゆかりさんが家のことを気にしてかけてくれたに違いない。

丁度その時、掌の中のケータイがブルブルと震えた。
びっくりして、取り落としそうになる。
慌てて液晶に表示された文字を見ると、また公衆着信だ。
なんだか、おっかなびっくり出てみる。

「はい。」
「あ、サトル?あたし!」
「は?」

僕をサトルと本名で呼ぶ人と最近あまり会っていない。
まして女性なんて?

「は?じゃないわよ。あたし。葉月よ。」
「えーっ、姉さん??」
「もう寝てた?」
「いや、起きてたけど…。え?何?グァテマラから電話してんの?」
「違うわよ。さっきね、帰ってきたの。」
「帰って?さっき!?」
「そう。一応連絡しとこうと思って。明日、時間ある?」
「時間はあるけど、何、どうしたの?何かあったの?」
「そういうこと、全部説明するから。今夜は疲れたからもう寝るわ。」
「どこにいるの?」
「成田。今夜はホテル。」
「はぁ。」
「会わせたい人もいるし。」
「なんだよ、それ。まさか男じゃないだろうな?」
こういう時の決まり文句だよね、このツッコミは。
「うん、男の人。じゃ、明日また電話するわ。おやすみー!」

なんでこのタイミングで帰って来るんだ?
一方的に切れたケータイを握ったまま、一世一代の冒険旅行が泡と消えたことを噛みしめた。
自分の部屋にいながらでもジェットコースターに乗った気分は味わえるんだなと、冷静に考えている自分に、僕は満足した。

でも、次の瞬間。

「なにーっ!男だとぉぉ!」
なんだよ、これ。
僕、妬いてんの??!






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尼寺に行くわねと、ゆかりさんは宣言して、いそいそと出かけてしまった。
店に残った僕は、急転直下の展開について行けず、ぼけっとするばかりだ。
車が飛び込んできて店をぶっ壊すなんて想像もしていなかったし、店がぶっ壊れたからといって、ゆかりさんが以前からの念願を叶えるチャンスだと言い出すなんて思いもしなかったのだから、心の準備ができていなくてもしかたがないじゃないか。

自由な人だなぁ、ゆかりさんは。

半ばあきれる思いでいたが、前の仕事を終わらせて日が落ちる頃にやってきた元さんの話を聞いて、ちょっとだけ納得した。
店の改修は、もう何年も前からの懸案だったと言うのだ。

元さんはすでに、改修案の設計図を持っていた。
費用のことも計画済みらしい。
改修計画が止まっていたのは、なんと僕を雇ったからだとも聞かされ、眼を丸くした。
仕事を始めてすぐに休業ではかわいそうと思ってくれたということだろうか。
一緒に働いてみれば、僕は病弱で世間知らずで、きっと放り出せなかったんだろう。
心底優しい人だからな。

僕は落ち込みかけた。
なんて迷惑をかけちゃったんだろう。
本当はもっと早く、綺麗な店にしたかったのだろうに。
僕のために犠牲を払わせてしまった…と思ったからだ。

「それはちょっと違うんじゃないかな?」
元さんは僕の気持ちを察したように、顔を覗き込みながら言った。
「そうでしょうか。なんだか負担をかけたなぁって気がします。
もっと自立した男を雇っていれば、計画通りに進められたんじゃないですか?」
「計画通りに進んでいたらどうなっていたと思う?」
「は?」
「直して1年もたたずに車が飛び込んできて、再修理ってわけだ。」
「あ…。」
「君が出会ったいろんな客たちとの出会いもなかった。」
「それは…。」
「あの人はそういう大事なものを当たり前に大事にできる人なんだよ。」
「はい。」
「すまないとか、迷惑をかけたとか思うのは、かえってあの人に失礼なんじゃないかねぇ。」
「……。」
「改修中は念願だった寺での暮らしを体験したいというのも、前から言っていたことなんだよ。」
「そうなんですか?」
「ああ。憧れていた尼さんがいるんだそうだ。」
「憧れ、ですか?」
「奔放に生きて、それを小説にしたり講演したりしているんだとか言っていたかな。」
「小説?それって…。」
「俺は関心ないから知らんがね。有名人なのか?」
「もしも僕が思うのと同じ人なら、かなりの有名人です。」
「そうか。いかにもあの人らしいなぁ。何歳になっても夢を捨てないってのはなかなかできることじゃないよ。」
「そうですね。」
「ところで、ここは無人になるから管理を頼むとも言われているが、君はどうするんだ?」
「ああ、そのことですけど…。」

そうなのだ。
僕はゆかりさんに約束させられた。
1か月ほど、ゆかりさんが尼寺へ行っている間、僕にも何か、非日常のことをしろというのだ。
学校と本と、ときどき病院、そこそこのアルバイトだけで暮らしてきたような僕には、この小紫での毎日そのものが非日常だった。
だから、改めて非日常のことをしろと言われても、何も浮かんでこない。
「本当はやりたかったけど、できていないことにチャレンジよ。」

やりたいことが決まっている人は簡単にそんなことを言うけれど、僕にはそんな雲をつかむようなことを考えさせられるのが苦痛だ。
「ママに『穂高がぐずぐずしていたら家から追い出して』って頼まれているからなぁ。
今夜くらいは大目に見てやるけど、明日はでかけろよ。
カギはもう預かっているからさ。」

元さんは壊れたところを一通りチェックすると、ひと月後に会おうと言って帰って行ってしまった。

おいおい、どうするんだよ、僕。
やりたかったけど、できていないことってなんだ?

僕は部屋に戻り、布団に寝転んで思いを巡らせてみた。
子どものころを思い出してみる。
母さんがいて、姉さんがいて、あの懐かしい小さな部屋が浮かんでくる。

どこかへ行きたいと思ったことも、誰かに会いたいと思ったこともない小さな自分がそこにいた。
大人になったら何になりたいと思ったのだっけ?
思い出せない。
同級生たちのように、野球選手だの弁護士だのと考えたことはなかった。

病気をしたときに、医者になりたいと思ったことがちょっとだけあったっけ。
でも、たちまちそんな気持ちは消えた。
自分には数学や理科の才能がなさすぎた。

母さんに楽させたいと思ったことはある。
どうやったら楽をさせられるのか、思いつく前に母さんは死んでしまったけど。

「うーん。」
声に出して唸ってみた。
思いつかない。

そのまましばらくウトウトと眠ったらしい。
不意に目が覚めて、と同時に浮かんだことがあった。
「そうだ。グァテマラの姉さんに会いに行ってみようか。」

ふううと大きなため息が出た。
僕の胸から外に出ようとしていた思いはこれだったらしい。
「パスポート、切れてないかな?」
僕は机の引き出しをガサゴソと探し始めた。




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店に車が飛び込んでくるなど、誰が考えるだろう。
僕とゆかりさんはただひたすら驚いているだけだったが、誰かが通報したらしく、じきに警察や救急車が来て、あたりは大騒ぎになった。
救急車はなぜか消防車と一緒に来たから、小紫は火事を出したと勘違いしたご近所さんが避難する騒ぎもあったのだと後になって耳にした。

事故を起こした車を運転していた人は骨折など重傷を負ったが命に別状なかった。
奇跡に思える。
それほどに、小紫は壊れてしまった。
眠れない夜が明けて、僕とゆかりさんは恐る恐る外に出てみた。

突っ込んできた車は実況見分を朝からするとのことで、まだそのままになっている。
ドアがはずれ、窓ガラスが割れ落ちたことはわかっていたが、大事にしてきた看板がタイヤの下で粉々になっているのを見て、ゆかりさんは涙ぐんでいる。

「…でも、穂高に怪我がなくて本当によかったわ」
「ああ、そういえば…」
僕は、沖縄帰りのお客様にいただいたシーサーのことを思い出していた。
「あのシーサーが僕の身代わりになってくれたのかもしれないなぁなんて思うんです」
「ええ、きっとそうね。本当によかった。だって、ほんの1分、いえ30秒長く外にいたら、あなたがあの看板みたいになっていたに違いないのよ!」

僕は、事故の直後は驚きのあまりに腰を抜かして震えていたが、次第に驚きが冷めて、落ち着きを取り戻した。
ゆかりさんは逆だった。
僕が無事だとわかると、だんだん落ち着きをなくし、事故の様子がはっきりするにつれ、いつもの穏やかさをすっかり忘れて取り乱している。
こんなゆかりさんは見たことがなかったから、内心目を見張る思いだった。

ゆかりさんを一番不安にさせたのが、店のことではなく、僕の「無事」だった。
だってあと一歩遅かったら…と、何十回言われただろう。
僕が怪我を負うことが、それほどまでに大きな痛手になるのかと、改めてゆかりさんの思いやり深さに打たれた。
大事にしてきた店がこんなことになってしまったのに、そのことは一言も言わないのだ。

「おい、大丈夫か!」
聞きなれた声は元さんだ。
「すまなかったなぁ、何も知らなくて。
今仕事に行こうとして外に出たら、近所の人がここに車が突っ込んだと話していてなぁ。
飛んで来てみたら、なんてこった、こりゃ!」
「私たちはご覧のとおり大丈夫。
朝からごめんなさいね、心配かけて」
ゆかりさんがちょっとだけ「ママ」の顔に戻った。

それからの数日は大変だった。
実況見分とやらが終わるのには思いのほか時間がかかった。
それに、僕は人生で初めて事情聴取というのを受けた。
一番近い目撃者なので、警察署まで御足労願えませんかという。
それって犯人が聞かれるものじゃないんですかと尋ねたら、制服の警察官は、いえ関係者の皆さんからお話を伺っていますと、刑事ドラマみたいなことを本当に言った。

根掘り葉掘り聞かれるものだ。
僕がゆかりさんの息子ではないとわかると、ではなぜここに住んでいるのか、どういった経緯で働き始めたのかなどと聞いてくる。
そんなの、知らない車が店に飛び込んできたことと関係ないじゃないかと言いたくもなるが、相手が警察官だと思うと、なぜが言えなかった。
別に僕には疚しいことなど何一つないのに!

様々なことについて、それは何時ですか?確かですか?と何回聞かれただろう。
聞かれているうちに、自分の記憶に自信がなくなっていく。
そもそも、分刻みで時計を見ながら動いているわけではないのだ。
しかも、一番近い目撃者と言われても、扉を閉めたら車が突っ込んできたに過ぎない。
他に見聞きしたことは何もないのだ!!

どちらかというと気が長い方だと思って生きてきたが、そうでもないかもしれないと思うほど、この事情聴取には時間がかかった。
くわえて、僕を苛立たせたことがもう一つある。
「調書を取りますので、いいですね?」と言われてどうぞと答えると、警察官は僕の言い分をいちいちパソコンに入力し始めたのだ。
それが、遅いのなんの!
しかも、これで終わりです、こちらが調書です、内容を読んで間違いがなければ…と言うので読んだら、内容に間違いはなかったけれど、漢字は変換ミスだらけではないか!

少し迷ったけれど、僕が認めたサインが残ると思うと嫌だったので、ここのこの字が違いますと指摘し続け、まるで国語の先生が漢字テストを採点しているみたいなことになってしまった。
さっきまで、どちらかと言えば居丈高だった警察官が、不愉快そうに唇を引き結んで漢字を直している姿に、彼も人間なんだなぁなどとおかしなことを考えているうちに、イライラが消えていたから、まぁ、よかった。


事故車が片づけられ、店の入り口と窓にはとりあえずブルーシートが張られた。
僕が警察に出向いている間に、ゆかりさんはご近所の方の手伝いもあったとかで、飛び散ったガラスや使えなくなった看板をすっかり片づけていた。

事故の3日後になって、ようやく2人とも心の波が引き潮になったらしかった。
「あのー、ゆかりさん」
「なに?」
「朝からすいません、僕、久しぶりに本気で腹が減りました」
「あら、穂高も?実は私もなのよ!」

食事を抜いていたわけではないのだけど、食べている気がしていなかったことにやっと気が付いた。
あれから店はずっと閉めたままだから、夜は早く寝るし、朝はいつも通りだしで、健康的な暮らしのはずなのに、心が体に向いていなかったのだろう。

さあできたわよと呼ばれてテーブルにつくと、その日の朝飯は料亭にでも来たかのような豪華さだった。
「体に失礼なことをしちゃったみたいだから、ちゃんと美味しいものをいただいて、労わらないとね」
ゆかりさん独特の発想だなと、心地よく聞きながら、いただきますと手を合わせた。

こうして笑い合いながらのんびり食べるのはいつものことなのに、特に美味しく感じる。
「このだし巻玉子、絶品ですねぇ!」
などと言いながら、丁度良く腹が満たされたところで、ゆかりさんが言い出した。

「あのね、お店をちょっとまとめて改装しようかと思うのよ」
「え?」
「壊れたところを修理するだけじゃなくて、ちょっとね」
ゆかりさんがいたずらっぽく微笑む。
「そんなこと、していいんですか?」
「していいって?」
「よくわからないけど、事故で壊れたんだから、保険がきくっていうか、賠償金はもらえると思うけど、それって元に戻すための費用ですよね?でも、それ以上の費用は出ないんじゃないですか?」
「それはそうかもしれないし、違うかもしれない」
「違うかも?」
「だって、あの運転手さんが保険に入っていたかどうかもまだわからないわけでしょ?逆に考えれば、こうして営業ができなくなっている間の補償を求めることもできるかもしれないってことよね?」
「まぁ、確かに…」
「分からないことの答えが出るのをただ待っているのも、時間の無駄のような気がするの。
だったら、好きにしましょうって思ったのね」
「はあ」
僕にはゆかりさんが大胆過ぎるように思える。

僕の気持ちが顔に出ていたのだろうか。
ゆかりさんは化粧っ気のない顔を僕に近づけて、ねえ穂高、と呼びかけた。
「はい」
「穂高は、幸せでいたい?」
「そりゃそうですよ。違う人なんていませんよ」
「本当に、そう思ってる?」
「思ってますよ、当然」
「じゃ、どうしたら幸せでいられると思う?」
「え?」
いきなりそんな哲学的なことを聞かれても答えられない。
どうしたら幸せでいられるかなんて、人類普遍の問題ではないか。

「何かを手に入れる?何かを成し遂げる?もしもそれが条件なら、赤ちゃんや子どもたち、お年寄りはみんな不幸でいるしかないってことになっちゃうわね?」
「うん、確かにそうだなぁ」
「最低限の幸せって言ったらいいかしら。
何かものすごいことをしなくても、ただ生きているだけで幸せという状態の裏にあるものは何かと考えてみたことある?」
「いや、ありません…」
「間違っているかもしれないけれどね、私は今日まで生きてきて、いろいろな方に出会って、思うことがあるのよ。
それはね、幸せでいたければ、幸せな考え方をしたほうがいいってこと」
「幸せな考え方?」
「ええ。
悲しい時や苦しい時に、無理矢理前向きの考えを持てということではないから、誤解しないでね。
感じることと、考えることは違う。
穂高にはその2つを区別できる?」
「できる…気がします。」

「それなら、私が言いたいのは、感じることではなくて、考えることの方なの。
感じることは、何をどうしたって、勝手に感じてしまうから、誤魔化さずにそのまま受け止めたほうがいいと思うわ。
辛い、苦しい、寂しい、恥ずかしい、怖い、悲しい、不安だ、そういうものも、うれしい、たのしい、安心だ、みたいなものも全部ね。
でも、考えるって、自分で選べるような気がするのよね」
「例えば?」
「例えば、昔の嫌なことを何度も思い出しては人を責めてしまうとか、自分を責めてしまうとか。
人の欠点ばかりが目について、非難してばかりいるとか。
出来事を全部人のせいにして、愚痴や悪口ばかり言い続けるとか。
そういうことを頭の中でやっている時って、幸せかしら?」
「いやー、幸せなはずないですよ!
だって、そんなときって、自分はいつも被害者だーってベースがあるじゃないですか。
幸せな被害者なんて、いないんじゃないかなぁ」

「でしょう?私もそう思うのよ。
だとしたら、口や表情に出さなくても、頭の中で愚痴や悪口や非難や、そんな不幸なことを考え続けながら幸せでいたいと思うこと自体、矛盾していると思って。
幸せでいたかったら、幸せなことを考えてないと。
というよりも、幸せなことを考え続けていたら、何もしていなくても、持っていなくても、幸せなんじゃないかしら?」
「おおお!」
ゆかりさんの言いたいことが、僕にもようやく理解できた。

「今回の事故も、ぼんやりしていると、不幸な考えの種になってしまいそうな気がするの。
ご近所の方も心配したり、お気の毒ねなんて言ってくれたりするでしょう?
思いやりからだとは分かっているけど、そのままハイハイと聞いていたら、本当に被害者になってしまうわ。
私、それは嫌だなぁって、夕べしみじみ考えたの。
幸い、あの運転手さんも命に別状はないことだし、悪い人ではないでしょうから、いずれできることで償ってくれるでしょう。
被害を受けたことは、それで帳消しにして、私はね、この降ってわいたような『働けない時間』を、やりたかったけどまだできていないことをする時間にしようと決めたの。」

「へぇぇぇ!」
僕は心底感心してしまった。
メッチャすごい人に出会ってしまったんだ。
こんな考え方、こうして言われなければ一生気付かなかったと思う。

「ドアと窓を直すだけではすぐ終わっちゃうから、もうちょっと盛大に手をいれてもらって、時間稼ぎをね!?」
なんとまぁ。
真面目なんだか、イカレてるんだか。
とにかく、すごいおばちゃんだ!!

「そういうわけで、私、今夜から尼寺に行くわね。」
「はぁ???」






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そのお客様は、疲れた顔で小紫に入ってきた。
初めての方だった。
40代ほどに見えるその男性は黒いポロシャツにかなり履きこんだデニムと、元は白だったスニーカーといういでたち。
背負ったリュックはサイズ相応に膨らんで、何やら詰めてあるようだ。
街使いするデザインではなく、多分登山用なのだろう。

開店して間もなくのことで、まだ19時前だった。
4月になってから、歓送迎会の流れのお客様でにぎわうようになっていたけれど、こんな時間の一人客は珍しい。
ゆかりさんも奥から顔を出し、いらっしゃいませと声をかけた。

カウンター席の方を気にしているようなので、こちらでいかがですかとスツールを引くと、はいと答えてリュックを下ろしながら歩みを進め、ひょいと腰かけた。
「なにになさいますか」
問いかけながら気付く。
どこか、日差しの強いところへ行ってきた帰りなのだろう。
お顔が陽に焼けているのだ。
特に頬の高いところが赤くなっている。

「ものすごく冷えたビールが飲みたいなぁ」
「では、生で」
「いや、瓶がいい。小さめのサイズがあれば、なおいい」
「でしたら、こちらのピルスナーなどいかがでしょう。最近ご注文がなかったので、キンキンに冷え切っています」
「おお!それそれ」

ドイツ生まれのラーデベルガーをお勧めしたら、お気に召したらしい。
おしぼりとお通しを置いてすぐ、こちらもキンキンに冷やした細いグラスを添えてお出しする。
目の前でグラスに注ぐと、シュワシュワと音を立てて泡が立つ。
それを嬉しそうに眺めていると思ったら、喉を鳴らして一息に飲み干した。
「あーーーー、うまいっ!」
瓶に残っていた分は、ご自身で注いで飲み干してしまった。
「ビールはこの最初の1杯か2杯が最高に美味いんだよなぁ」

いや、実はさっき沖縄から帰ってきてねと、お客様は問わず語りに話し始めた。
修学旅行の引率だったとか。
つまり、この方は学校の先生なのだ。

僕の修学旅行は中学も高校も秋だった。
4月にって珍しいのではないかと思い、聞いてみた。
すると、旅行代金節約のために4月に設定したのだという。
「そんなに違うんですか?」
「大違いですよ」
「沖縄へ2泊3日なんて、新聞とかに39000円くらいで行けそうなプランがよく載ってるじゃないですか」
「あれは個人旅行だから安いんだ」
「修学旅行と違うんですか?」
「まったく違うんだよ。同じことをしてもこちらは10万くらいかかる」
「どうして?!」
「団体旅行料金というのは設定が別らしいんだな。それが法律なのか業界ルールなのかは知らないけど」
「そうなんですか」
「まぁ、大人数でいろいろと配慮もしてもらうからね、しかたがないこともあるんだろうけど」
「それで、秋と今ではどのくらいの差が?」
「4月中旬と下旬なら軽く1万円くらい。5月以降はハイシーズンだから、秋まで3〜4万円変わるかな」
「そ、そんなに!」
「最近は修学旅行どころか毎日の暮らしが苦しい家庭も増えているからね」
「それで…」
「でも、経験させてやりたいじゃないか。
空港を一歩出ただけで全身で感じる気温と湿度、青い海、普段は聞けない言葉、味、悲惨な歴史から学べる教訓…」
「みなさん、楽しまれたでしょうね。お疲れさまでした」
「ははは!楽しみすぎてハメをはずすのが必ずいるんだなぁ」
先生はそれ以上は言わず、うまそうにお通しの小鉢をつついている。

「ビール一本飲んだら帰るつもりだったのだけど、なんだか物足りないな」
奥からゆかりさんが出てきた。
「では、あと一杯だけ召し上がっては?」
「そうだね。何にしよう」
「もし、ご興味がおありでしたら…」
ゆかりさんが奥の冷蔵庫から350mlの缶ビールを持ってきた。
「あ、これは!」
「はい、沖縄のオリジナルビールといえばこのオリオンビールです。
もしかしたら、お仕事中では見ることはあっても飲めなかったのではないかと…」
「そうなんだよ。夜は先生たちだけ集まって酒盛り!なんてことが許されていた時代はもう30年前に終わっているからね」
「よく冷えていますよ」
「では、それを」
「グラスを替えましょうね」
「いいですよ、これで」
「いいえ。オリオンビールはこういうオシャレなグラスには合いません」
「あははは!なるほどね」

小腹が空いているから、何か腹にたまるつまみをと言われて、ゆかりさんはポーク玉子とやらを作った。
「これは?」
僕も聞きたかった。
「スパムという缶詰をご存じですか?」
「ええ。米軍が沖縄にいるせいで、沖縄の味になったみたいだね」
「あのスパムを細切りにして、炒り卵の中に入れるだけです。あとは適度に塩コショウ、ケチャップを添えてできあがり!」
「簡単だね。それなら僕でも作れる」
「美味しかったらお試しください」
「どれ…おっ、この塩味、疲れた体に沁みるねぇ」
「ビールにもなかなか合いますよ」

先生は沖縄で見たおもしろい風景の話をしながら、今度はゆっくりとオリオンビールを飲んだ。
ゆかりさんと聞きながらこちらも笑ってしまうような面白さがある。
でも、生徒さんのことは何も話さない。
僕は知っている。これは、守秘義務ってやつだ。

店にいらしてから30分ほどだろうか。
「ごちそうさま」
先生は爽やかに立ち上がった。
リュックを抱えて歩き出そうとして、ふと、立ち止まった。
「そうだ、これを差し上げましょう」
スツールにリュックを置くと、ジッパーを開けてごそごそと箱を取り出し、ゆかりさんに渡した。
沖縄土産の袋に、四角い箱が入っている。

「まぁ!嬉しいですが、いただくほどのことは何も…」
「いえね、僕は一人暮らしでね。
集団行動に疲れて、さっさと帰ってビールでも飲むかと思っていたのだけど、どうも今日はそういう気になれなくて、ふらりと入ってきたんですよ。
そしたら、思いがけず楽しませてもらった」
「それはありがとうございます。そのお言葉だけで」
「でも、それ、持っていたくないところもあってね」
「どうかなさったのですか?」
「お土産にあげたい人があったのだけど、渡しそびれた」
「では、ぜひその方に。今日でなくてもよいのでは?」
「ほかの人からもらっていたようだからね」

詳しく聞くこともない。
いろいろあって、小紫にたどり着いてくださったのだろう。
「では、ありがたくいただきます」
先生は、足取り軽く帰っていった。

まだ次のお客様には間がありそうで、僕らはその包みを開けてみることにした。
中にはシーサーが一匹。
きれいに彩られていて、怖くはなく、かえってかわいいほどの顔で笑っている。
「ああ、素焼きに絵付けをなさったのね。」
きっと、生徒さんの体験学習に付き合って作ったのだろう。
その手作りを渡したい誰かがいた。
だけど、他の誰かから、多分同じように手作りの何かを受け取っている姿を見てしまった。
手作りってやはりどこか特別だ。
思いがこもっている。
その、渡したかった相手に向ける先生の密かで微かな思いが。
きっと、残念だったよな。

「ここでいいかしら」
ゆかりさんは、カウンターの脇にそっと笑顔のシーサーを置いた。
極彩色の置物は、カウンターに南国の花を添えたようだ。
「いいですねぇ。僕も行ってみたくなったなぁ」
「穂高の修学旅行は?」
「東京でした。ディズニーランドですよ」
「あらま!」


その日のお客様はそれほど多くなくて、小紫は日付が変わる前に店じまいにした。
いつものように片づけをする。
カウンターを丁寧に拭き清めていたのはゆかりさんだ。
「あっ!」
という声の次に、ガチャン!と何かが割れる音がした。
「大丈夫ですか?」
テーブル席を拭いていた僕は飛び上がり、駆け寄った。
「大丈夫だけど、せっかくいただいたシーサーを割ってしまったわ…」
ゆかりさんがそんなことをするなんて信じられない。
僕ならいざ知らず…

「袖が触れただけだったんだけど…」
シーサーは固い床に落ちて、粉々に砕けてしまっている。
大きな破片を集め、あとは掃除機で吸い取ることにする。
「ああ、申し訳ないことをしてしまったわ」
ゆかりさんは珍しく、すっかり落ち込んでしまった。

「ほら、身代わりになってくれたんですよ、きっと」
「身代わり?」
「そう。思いを込めて作ったものだから、ゆかりさんの身に降りかかる悪いことを、代わりに受けてくれたんじゃないですか?
だから、ありがとうって思いましょうよ」
「そうかしら。
そうね、落ちるようなぶつかり方をしたわけでもないのに、こんなに砕けてしまうなんて、余程のことよね」

破片を入れた紙袋を両手で捧げ持ったゆかりさんが奥へ入るのを見送って、僕は店の外に出た。
看板の電源を切って、札をClosedにし、ドアに鍵をかけた時だった。
ギュィーン、ドッカーン!
ガッシャーン!
バリバリメリメリ…


とてつもない爆音と衝撃で、僕は吹き飛び、床に倒れ込んだ。
「なに?」
ゆかりさんの声が悲鳴に変わった。
「キャーッ!」
僕は全身が震え、腰が抜けてしまって動けない。
「穂高、穂高!」
ゆかりさんが駆け寄ってきて、抱きしめてくれなかったら、気を失っていたのではないかと思うほど驚いていた。

事態が理解できるまでどれくらいかかったのだろう。
僕がさっき鍵を閉めたドアが外れて傾き、車の頭が店にめり込んでいる。
脇の窓は割れ落ちている。
すさまじい物音を聞きつけたご近所さんたちが出てきたらしく、人の声もする。
僕は交通事故だと分かっても声が出ず、ひたすら震え続けていた。






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僕が小紫に来てから、2度目の桜が咲いた。
正月にゆかりさんの家に引っ越してきて、いきなり高熱を出して心配をかけた僕だが、そんな出来事が嘘のようにすっかりこの暮らしに馴染み、今ではずっと昔からここにいたかのような気安さだ。
すぐそばに自分以外の誰かがいる暮らしは、思っていた以上に僕を安心させるようだ。
自分ではない誰かが立てる音が聞こえる、それだけで、肩の力が抜ける自分がいる。
本当は寂しかったのだろうか。

ひとり自分のペースで好きに暮らすのが大好きなのだと思っていた。
今でもそれは変わりない。
ゆかりさんは、僕のすることに口出ししたり、踏み込んできたりは決してしない。
だから、一緒に暮らしていても、ひとりでいるのと大差ない自由を僕は満喫している。
思えば贅沢な話だ。

昨年、宮田医院の庭で花見をした、あれをもう一度と思っていたら、今年も当然のように計画が進んだ。
小紫恒例の花見と言えば、ある朝、早起きをして、元さんの車でちょっと離れた場所の桜を見る。
夕方戻って、宮田医院の庭で夜桜見物の始まりだ。
ゆかりさんは殊更に早く起きて、夜のごちそうを仕込む。
今年は、ごちそうに花を添える酒にもこだわったようだ。

昼間の花見は、今年も山梨に行くのだと言う。
身延山と聞いても、僕には知識がなくて、どういういわれの場所なのか分からない。
でも、あえて調べはしなかった。
知らないからこそ心動かす何かに出会えることもある。
行き当たりばったりの楽しみを、僕は今年も期待することにした。

まだ暗いうちに元さんのどこかペンキ臭い車に乗り合わせる。
僕は今年も途中でうとうとと眠ってしまい、揺り起こされたらもうどこかの駐車場に着いていた。
「おい、穂高。いいかげん、免許取れや。」
「はぁ、すみません。」
「カクテルより先に運転覚えろ。その方が人様のお役にも立てるってもんだ。」
「はぁ、ほんとにまったくすみません。」
「それより、行きましょう!」

身延山というから、山登りをして桜を見るのかと思ったら、久遠寺という寺のことだった。
辺りには見物客がすでに来ているが、歩くのに困るほどの混雑ではない。
「ほら、あれよ。見て!」
ゆかりさんのはしゃいだ声で、指差す方向を見上げて、僕は息を飲んだ。
門の脇に、薄いピンクの滝のように枝を風に揺らしている、巨大なしだれ桜が立っていたのだ。

「おおっ」
「これは、これは。」
宮田先生も八百屋の長さんも、息を飲んで見上げている。
「話には聞いていたが、見たのは初めてだ。いやぁ、見事なもんだなぁ。」
元さんも額をこすりながら感嘆の声を上げる。
「もっと近くに行けるのかしら。」
ゆかりさんの言葉は独り言で、周りがついてくるかどうかなど、もはや眼中にないらしい。
すたすたと歩き出す後ろから、僕らは慌てて従った。

門をくぐると、さらに大きな桜の木が僕らを出迎えてくれた。
「まぁぁ!」
樹齢400年と言われる木が2本もある。
長い枝は地面に着くほどで、それが満開の花をつけているのだから、美しいと言うくらいでは言葉が足りない気がするほどなのだ。

「すごいですねぇ。」
ありきたりの表現しか見つからないから、僕は黙って花を見上げた。
糸を引くようなそよぎ、ゆらぎに見とれていると、枝垂桜は「糸桜」ともいうのだという会話が聞こえてきた。
ああ、なんだか「糸」の方が似合うなぁ。
そんなことを考えながら、今日この日にこの場に来られた幸せを、神様仏様に感謝したい気持ちが湧きあがってきた。

参拝を済ませて、もう一度糸桜の下に立ってみる。
僕は小紫に来てから、自分の考え方や感じ方が、大きく変わってきたと感じている。
去年の僕は、見事な桜を見て、綺麗だ美しいと思うだけだった。
今年だって綺麗だなぁと思っているけれど、その先が、もう少し加わったのだ。

人生に起きる出来事は、良いことも悪いことも、きっとランダムに、場当たり的にやってくるのだと思う。
因果応報というけれど、それはすごく小さな単位でのことで、大きな目で見れば、因果応報なんて、頭のいい人の理屈だと思うのだ。
親孝行な人が悪い病気にかからないわけでもないし、人のために身を粉にして働いてさえいれば事故に遭わないというわけでもない。
逆に、悪さをしながら逃げおおせる人もいるのだろうし、子どもを虐待した親がみなみすぼらしい暮らしをすると決まっているわけでもない。
因果応報が本当なら、そんな理不尽なことが起きるはずがないではないか。

まして天災に巻き込まれた人々のことを思うと、因果応報では人生の機微を説明できないと思う。
生まれて間もなくひどい災害にあって命を落とした子どもと、災害が起きた直後に生まれた子どもとの差はどこにあるというのだろうか。
どんな生き方をしていたら、地震や洪水を避けられる?
そんな方法は、きっと、ない。

人生は、ランダムにやってくる様々なできごとに、自分でどんな理由をつけるのか、そういうものなのではないかと最近思うようになった。
「自由」という言葉の文字をよく見てみる。
「自分で理由をつける」と書くことに気付く。

同じ事故でも、不運と思うか変化のチャンスと思うかは、人によって違う。
同じ悲しい経験でも、打ちひしがれたままで生きるか、それをバネに立ち上がるかは、人によって違う。
そうしてきっと、自由であるということは、どういう意味付けが正解で、どれが間違いということもない。
ただ、自分にとって快適か、そうでないかはあるだろう。
幸せになりたかったら、快適な意味づけを選べばいいのだ。

小紫にはいろいろな人が訪れる。
その人たちが、人生の一端をぽろりとこぼしていく。
それに耳を傾けていると、同じように見える人の毎日には、思いがけないほど多様な出来事が起きているのだとわかる。
そうして、似たような出来事であっても、人によって反応が違う。
その反応が、その人を満足させもするし、不安にもさせるようなのだ。

それと、もう一つ。
小紫に来る前の僕は、家族と本さえあれば幸せだった。
家と図書館とゼミ室があればよかった。
教育実習で女子学生にだまされたように、僕は人が苦手だった。
人は分からない。
ともすれば、僕を利用したり馬鹿にしたりしているのだとしか思えない。
そんな思いに煩わされるのは本当に嫌だった。

きっと、そうやって閉じて生きるのも一つの選択なのだと、今は思う。
けれども、それではランダムにやってくるはずの出来事が、起きにくいのだなと思う。
外に出て、人に会い、場所を替えているうちに、人は様々な体験をする。
その体験が、人に何かを感じさせる。
感じるから、幸せも味わえるのだ。

この、目の前に咲き誇る糸桜もそうだ。
家にいて本を読んでいるのも楽しいが、元さんたちに連れられてでもここへ足を運ばなかったら、僕は今のこの胸の中を通り過ぎる思考や感慨を味わうことがなかった。
味わってみると、これを知らない自分が残念に思える。

ムリはしなくていい。
ガマンもいらない。
でも、できることでいいから、やってみるのは大切なのだ。

「僕は、ほんと、ついてるなぁ。」
僕の独り言を、いつの間にか周りに集まってみたみんなに聞かれてしまった。
「おう。そのツキを俺らにも分けろよなぁ。」
「不死身の穂高君だからねぇ。」
珍しく、宮田先生も軽口を言う。

「さ、お昼にしましょうか。今年はなにをいただきましょう。」
僕らは地元の美味しい店を探すために、聖地ともいえる心地よい境内を後にした。





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「俺が見ていなかった…いや、見えていなかっただけなんだなぁ。
世の中には、キラキラしたきれいなものや、かわいらしいものや、力強くて勇気づけられるようなものがたくさんあったんだ。

大したものじゃない。
俺の引き出しから出てきたガラクタと大差ない、ささやかなものだよ。
夕焼けとか、花屋の花とか、赤ん坊に笑いかけている若い夫婦とか、今までも、いつでもどこにでもあったようなものだ。
それが、唐突に目に飛び込んできた。
きっと、あれは目じゃなくて、心に飛び込んできたんだなぁ。
俺が子どもの頃に、恐ろしいものを見たくなくて塞いでおいたまま忘れていた心の目が開いたんだ。

そんな時だよ。
鹿島田文具の社長さんを接待することになったんだ。
お前、覚えているか?
どこだかと同じ日になって、お前と俺とで分担したことがあったじゃないか。
そうだ、あの時だ。

俺は部下をひとり連れて、でかけた。
俺のやりかたを引き継がせようとしていた、あいつだよ。
鹿島田さんはあの通りの人だろう?
今から思えば、きっと何かを感じてくださったんだろうなぁ。
1時間もすると、ふらりと席を立たれてなぁ、しかも、テーブルにぽいっと万札を何枚か出されたんだ。

俺らは飛び上がった。
とんでもないことだ。接待させていただいているのはこっちだからな。
でも、鹿島田さんが言ったんだ。
「あとは二人で、好きに飲めばいい。
私がいると仕事だろうが、いなくなればただの酒。
酒は好きに飲むのがいい。
特に今夜はそうするのがよいような気がするよ。」ってな。

ああうまかった、楽しかったよと背中で言って、出て行ってしまったんだ。
追いかけてもよかったのに、あの日の俺は、そのままお言葉に甘えてもいいか…と思ってなぁ。
あいつとそのまま飲むことにしたんだ。
とはいえ、俺は酒は飲めないし、あいつは緊張しているし。
微妙な空気がなんとも言えなくて。
あはは、おかしいか?
だろうなぁ。

これと言って話す気にはならなくて、ただ、せっかく頼んだのだから、残さず食うか、なんて言ってなぁ。
あいつは若い。
緊張しているくせに、食うわ食うわ。
人は食うと落ち着くんだなぁ。 
くつろぎもする。
俺は飲めない酒を飲んでいるふりしながら、そんなあいつを眺めていたんだ。

その時、気付いた。
俺の「委ねる」ってのは、間違っていたなぁ。
俺のやり方を引き継いで、俺と同じにやればいいというのは、俺の傲慢なおせっかいだったんだ。
本当に委ねるというのは、こいつがいれば大丈夫と信じてやることだったんだな。
やり方が分からなくても、俺と同じでなくても、こいつはやれると思ってやることだ。
もしも、こいつが知りたいと思ったとき、役に立つように、大事なことは整理しておいてやろうと思った。
でも、それをわざわざ言い聞かせることはないんだ。
それくらい、あいつはいいやつだった。
どうしてこいつを頼りないと思ったのか、そう思ったんだ。

俺が幼いころ、母親からもらいたかったのは、そんな無条件の信頼だったんだろうな。
そんな信頼のことを、愛っていうんだろうな。
本気で委ねるということは、無条件でいいんだ。

あの帰り道だ。
本気で委ねようとして、ようやく分かった。
俺は俺がいなくなったら、こいつらは俺がいたことを忘れてしまうのだろうと恐れた。
忘れられたら、俺が生きていた証拠がなくなってしまうと思ったからだ。
でも、それは俺の勘違いだ。

俺が生きている間も、死んだ後も、かつて俺が大切な人たちのそばで一緒に過ごした時間があるという事実は、絶対に変わらない。
その時が楽しく幸せであったなら、俺は俺の大切な人々の楽しく幸せな経験としてその人の中に生き続ける。
たとえ記憶に残っていなくても、事実は消えない。
それは、すごいことではないか!

焦る必要も、はかなむ必要もなかったんだ。
俺はもう十分に、仕事先でも、妻にも、子にも、大事な時を遺してきたんだ。
そうして、俺が生きている限り、その時はまだ増え続ける。
なんて幸せなことだろうかとなぁ。

妻には俺の気持ちの変化を話して聞かせた。
彼女も分かってくれたようだ。
治療を受けてくれというのは諦めてくれないが、俺が生きたいように生きていいと言ってくれたよ。
これから、今まで当たり前にできてきたことができなくなるのかもしれない。
心配や迷惑をかけるのかもしれない。
それでも、俺は、俺にできること、したいと思うことを、俺なりに精一杯やることで、許してもらおうと思う。
そうやって生きることを、自分自身にも許そうと思う。
そういう自分を、無条件で認めることにしたんだよ。

心残りはなくなった。
こうしてお前と、ずっと飲まずに来た酒を飲みながら語り合うこともできた。

ただ、心残りがなにもないかというと、そうでもない。
一番は、息子のことだ。
俺の今のこの気持ちを理解するには、彼はまだ幼すぎる。
だから、お前、いつか彼がもう少し大人になったら、どうか今夜の俺の話を伝えてはくれないだろうか。
そうすれば、彼は自分の父親が、彼を捨てて旅立ったわけではないことに気付くだろう。

ああ、今日はたくさん話した。
なんだか、少し眠くなってしまったよ。
ちょっとだけ、いいかなぁ…。」

舘さんが酒を飲まずに来た人だとは思わなかったが、またグラスをチロリと舐めて微笑むと、そのままテーブルに突っ伏してしまった。
どうやら、急に酔いがまわってしまったようだった。

「何が語り合うこともできた、だ。
勝手にしゃべりやがって。」
岩城さんの目が濡れている。
「不器用なやつだ。もっと楽に生きていれば、そんな病気にもならなかったかもしれないのに。
いや、それでも、お前はいいやつだ。
おい、起きろ。風邪ひくぞ。」

岩城さんに乱暴に肩をゆすられても、舘さんは起きない。
「おい。
息子には、お前が話せ。俺は知らないぞ。
心残りで死ねないだろう。
だから、長生きしろ。病気になんか負けるな。
癌から復活した人なんて、いくらだっているんだぞ。

もしも、どうしても俺に話してほしかったら、あと2回か3回は、同じ話を聞かせろ。
こんな長い話、覚えていられるかっていうんだ。
起きろよ、おい。
俺に家まで送らせる気かよ?!」

岩城さんの涙がこぼれて、舘さんの頬を伝っている。
舘さんの片腕が、だらりとテーブルから落ちた。
のぞいた横顔は、まだ微笑んだままだった。







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「俺には3つ下の弟がいるんだが…そうか、お前には紹介したことがあったか。
弟が生まれた後、おふくろがおかしくなったんだ。
マタニティーブルーっていうんだろうなぁ。
当時はそんな言葉、なかっただろうがなぁ。

弟が生まれたのを境に…というのは、後になって親父に聞いた。
俺の記憶にあるおふくろというのは、怒ってばかりいて、すぐに金切り声をあげる、恐ろしい存在でしかない。
『どうしてそんなことするのっ』『なにやっているのっ』『何度言えばわかるのっ』って調子で、何をしてもしなくても叱られた。
どうしていいか、分からなかったなぁ。
バシッとたたかれたり、押入れに突っ込まれたり、外に放り出されて鍵をかけられて家に入れなかったり。
そんなこともしょっちゅうだった。

黙って本を読んでいるとか、勉強しているとか、そういう時だけ平和だった。
とにかく、叱られる理由がわからないからなぁ。
いつ、何が降って湧くか、足元をすくっていくか、びくびくしながら勉強しているフリをしていたなぁ。

おれが中学に入るころにはそれほどでもなくなった気がするから、子どもが成長して、それなりに気持ちのゆとりができたか、ブルーから回復したかしたんだろう。
おふくろはそれでいいけど、子どもは大変だよ。
俺たち兄弟は、すっかりいじけちまった。
でも、自覚がなかったんだよ。

今から思えば、あの時に身に沁み込んだんだろうなぁ。
俺はダメなやつだ。俺は人に受け入れられない。
叱られないためにどうするかを考えることに一生懸命で、自分がどうしたいとか、何が好きとか、そういうことが分からなくなった。
それでも、母親ってきうのは嫌いになれないものだよ。
その分、母親を幸せにできない自分が嫌いになったんだなぁ。

思い出してみたら、心の中で四六時中「それじゃだめだ、そんなことを言ったりしたりしたら馬鹿にされる」と独り言を言っている自分がどうやって出来上がったか、なんだか分かった気がしたわけだ。
でも、あの母親も今では普通に愚痴っぽくて心配性な年寄りだ。
いまさら、「人に愛される自信がなくなったのはあなたのせいです」と言ったところで、何の解決にもならん。
時間制限がある俺にとって、大事なのは「なぜ」ではなくて「どうする」だからなぁ。

俺は一歩進んでみようと思った。
このまま家族を身勝手に抱え込んで死を待つわけにはいかない。
ならば、彼らに…俺の大切な人々に、後をゆだねようと思ったんだ。
俺がダメでも、彼らが引き継いでくれたら、それでいいと思った。

俺はまた会社に行き始めた。
それで、気力・体力が許す限り、周りの人間に俺が知っていること、学んだコツ、役立ちそうな知識を伝え始めた。
でもなぁ、これがまた、うまくいかない。
俺は苛立ってなぁ。
奴らの呑み込みの悪さには呆れちまうし、こんなトロトロしていたら時間切れになっちまう。
俺が今していることは無駄なのか?と思ったら、もうはち切れそうでなぁ。
けど、はち切れそうなのは俺より、周囲だったんだな。

そりゃそうだ。
突然、理由も知らされずに、あれも学べ、これも覚えろと言われたら、誰だって戸惑う。
でも、部下だからな。
文句も言えない、言わせる気もない。
これじゃだめだよなぁ。

俺はまた落ち込んだ。
いっそ、このまま自分で終わりにしてしまおうかと考えたのもその頃だ。
俺の残りの人生に意味なんかないってなぁ。

驚かないで聞いてくれ。
俺は、自殺を企てた。
どこでどう死ぬかを決めたんだ。
人様に迷惑は絶対にかけたくない。
そういう心配のない場所と方法…。

決めたらちょっとスッキリした。
それで、最後にやりたいことをやってから実行しようと思ってなぁ。
やりたいことと言っても、大したことはない。
遺書を書くとか、人に見られたくないものを処分するとかだ。
とはいえ小市民のすること、処分するにしても賞味期限が切れたカップスープだの、ベタついたのど飴だの、穴が開きそうなのに気に入っていていて捨てられなかった靴下だの、そんなしょうもないものばかりなんだ。

涙がにじんだよ。
情けなくてなぁ。
俺と同じ立場になる人は、きっと少なくないはずだろう?
その人たちみんなが自殺するとは思えない。
みんな俺と同じように動揺するに違いないが、だからといって不幸だとは限らないと思うんだ。
その人たちと俺と、いったい何が違うのだろうと思った。
子どもの頃の愛され方か?
だとしたら、ひどくはないか?
子どもの頃の悲しい体験は、子ども自身には何の責任もない。
子どもの力ではどうしようもないことばかりだ。
それが原因で一生どうしようもない不幸を背負うなんて、おかしいじゃないか。
きっと、何かあると思った。
俺がまだ気づいていない、何か他の考え方ややり方が。

俺は周りを見回した。
周囲の脅威から身を守るためではなく、周りにある素晴らしい秘密を見つけるためにね。
驚いたよ。
世界が、美しくてなぁ。」






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「初めは、混乱の一言に尽きる。
あと1年の命だと?
なぜそんなことになるんだ、どうしてこんな不運が自分に降りかかるんだ、そんなことしか考えられなくてなぁ。
嫁は泣いてばかりいるし、泣くなと言うと、無理して笑おうとして失敗するし。
そんな顔を見ていると無性にイライラして、暴れまわりたくなるんだ。
仕事をしている時が一番救われたよ。
他のことを考える余地のない時間がありがたかった。
でも、その仕事中でも、ふと頭をよぎるんだよ。
自分はいつまでこうして働けるのだろう、どうなってしまうのだろうって。
そうなると、もう何も手につかなくなるんだ。

夜が一番いけない。
眠ったら、そのまま目覚めないんじゃないかと思うと恐ろしい。
運命とか宿命とか、そんなことを思っても、突然ふりかかったこの事態に納得のいく説明はできない。
眠れなければ体力も落ちるし、嫁はますます心配する。
何もかも投げ出したいのに、握り締めた指が開かない。
そんな感じでなぁ。

転機は、半月後くらいだったろうか。
医者と話していて、俺は自分の大きな勘違いに気付かされたんだ。
『余命1年』というのは、まぁ1年は生きられるだろうといいうことだと思っていたんだが、違っていたんだ。
最長で1年、それまでの間いつ死んでも不思議はない、ってことなんだな。
飛び上がったよ。
尻に火が付いたとはあのことだ。
それまで俺は、眠ったらそのまま翌朝、目覚めないんじゃないかと考えながら、実はまだどこかに余裕があった。
何せ、目覚められないのは1年ほど先のことだと思っていたのだから。
ところが、正真正銘、明日がないかもしれないのが真実だと分かったら、突然、目の前の靄が晴れたんだ。

なぜ自分がこんな悲運に見舞われるのかなんて、いくら考えても答えがない難問に取り組んでいるヒマなんか、自分にはないんだ。
今できることを、今したいことを片っ端からやらなければ、砂時計の砂はいつ落ち切るか知れたものではない。
慌てたなぁ。
子どもを学校に行かせるのもイヤになった。
あの子の顔を少しでも長く見つめていたいからな。
俺が死ぬまで、学校は休ませてしまえとさえ思ったよ。
あれだけやりがいがあると思っていた仕事も、まったくやる気がなくなった。
覚えているか、俺が風邪をこじらせたといって1週間ほど休んだことがあったろう。
あの時だよ。
子どもも適当な理由をつけて休ませた。
俺はとにかく、嫁と子どもの顔を見て、好きなものを食い、身の回りを片づけて、いつ死んでもいい準備を始めたわけだ。

でも、それもどうやら違うと分からされた。
教えてくれたのは息子だよ。
あの子は俺の病気のことなんか知らないから、学校に行きたがるんだ。
行けば宿題がいやだの、忘れ物をして注意されたのと文句をいうのに、いざ行かなくていいというと、どうしてあれほど行きたがるのかね。
俺といるより友達がいいのかとスネて嫉妬してなぁ。
笑えるだろう?でも、どうしようもないんだよ。

何より恐ろしかったのは、この子も嫁も、俺が死んでしまったらどうなるのだろうってことだ。
いや、悲惨なことになるとは思わない。
生命保険もかけてあるし、実家だってしっかりしているから、生活に困ることはないだろう。
でも、それがかえって恐ろしくなった。
今はこうしてそばにいるけれど、あっという間に俺がいたことを忘れて、笑ったり楽しんだりして暮らせるようになるのだろう、その時、俺はそばにいない、でも、こいつらは笑うんだ。
では、今の俺は何なんだ?
いてもいなくてもいい存在なのか?

会社だってそうだ。
始めのうちは戸惑うことも、不自由なこともあるだろう。
でも、あっという間に役割を代わる人が出てきて、仕事は割り振られ、何事もなかったように回り始めるはずだ。
だいたい、そうなるように仕組んできたのは俺自身だからな。
こんなことを感じ始めると、もう止まらない。
何でもいいから刃物を持ち出して、この体を切り裂いてしまいたくなる。
この、何の意味もない風船以下のからだを消滅させたくてたまらない。
頭を抱えたよ。

だけどなぁ、頭を抱えながら気が付いた。
俺は、嫁や息子に笑ってほしくないのか?楽しみを奪うつもりか?
いや、違う。
断じて違う。
だとしたら、俺はどうしてこんなことをしているんだ?ってな。
息子を学校にやり、嫁を買い物に出してみて、やっと分かった。
その1週間の、俺の行動の原因になったものにな。

今まで気付いていなかったけれど、俺は自信がなかったんだなぁ。
俺が死んでも、家族は俺を忘れないだろうという自信。
同僚が俺を大事に思ってくれていると感じる自信がなかった。
おれが身を削って働いて影響力を示していなければ、たちまち見下され、バカにされて相手にされないに違いないと思っている自分に気付いたんだ。

驚いたよ。
どちらかと言えば俺は自信家で、押しつけがましいほどの世話焼きで、細かいことまで気付くくせに、指摘したら相手も気分が悪かろうと言葉を飲み込むような気遣いもできるタイプだと思っていた。
でも、本当のところは全く逆だったんだなぁ。
自信がなくて嫌われるのではないかと不安だから、人の世話を焼いて恩を売っておく。
言葉を飲み込むのは相手のためではなくて、自分の言うことなど尊重されるはずもないと思い込んでいたからなんだな。
仕事が好きだから打ち込んだのではなくて、上げ足を取らせないために必要以上に完璧を目指していたんだ。
自信家に見せていただけで、心の中ではいつでもびくびくブルブル震えていたんだ。

まったく、驚いた。
この期に及んで、こんなみっともなくて情けない自分を見つけるとは思わなかった。
いったい、どうしてそんなに自信を失ったんだろうかと考えた。
そうして、思い出したんだ。
子どものころの、出来事を。」





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「なんだって?!」
岩城さんは舘さんに体ごと詰め寄った。
「どういう意味だ。ゴールテープが見えただと?」
舘さんは小さく頷くと、そのまま俯いて言った。
「ガンだそうだ。余命宣告というのを受けたよ。あれは、ドラマだけじゃないんだな…。」

普段はあれほど聞き耳を立てていると見せてはならないと口を酸っぱくして言うゆかりさんが、あからさまに目を剥いた。
こんなゆかりさんを見るのは初めてかもしれない。
そして、それ以上に驚いた顔をしているはずの僕は、ゆかりさんと目を合わせている。
お客様を見てはならない瞬間なら、互いの顔を穴が開くほど見つめるしかない。

「だってお前、そんなこと…。」
「驚いたよ。今年はいつもの健康診断ではなくて、半世紀生きた記念に人間ドッグを受けてみようかと、半ば冗談で行ってみただけなんだ。」
「ああ。」
「そうしたら、再検査だ、精密検査だと続いて…。挙句に、手の施しようがないガンです、今後の生き方を選んでくださいって言うんだから、どうもこうも…。」

そんなことがあるのだろうか。
セカンドオピニオンは?ちゃんと確認したのだろうか。
僕は、姉さんが病気だと言われたのと同じくらい動揺していた。
もっとも僕の姉さんには、病気の方が寄り付かないと思うが。

「嫁も、嫁の両親も言うから、いくつかの病院で検査を受けた。
結果はどこも同じだったよ。」
「そうか。それでも間違いじゃないかと…。」
「いや、もう、診断結果を疑うのはやめた。」
「そんな…!」
「限られた命だと分かっても、治療を受けることは当然できる。
でも、病院にこもって治療するのではなく、家にいて、したいことをして過ごすこともできる。
どうしたいかと聞かれたよ。」

舘さんは、こうしてグラスに指をかけながら話している姿を見ているだけでは、そんな病気があるようには見えない。
話もしっかりとしているし、顔色が悪いわけでもない。
だるそうにも、痛そうにも見えない。
それなのに、何年、何十年と生きるのが難しいなんて、そんなことがあるのだろうか。

「あと1年。あと1年なんだそうだ。」
「うそだ。」
「うそじゃない。どこの医者も同じことを言っていた。」
「医者は神じゃない。」
「俺は考えたよ。息子はまだ幼い。できるだけ長く生きて、彼の成長を支えたいし、見守りたい。」
「ああ。そうだろう。」
「だから、治療を受けてくれと、奇跡的に治るかもしれないと、嫁は毎日言うよ。」
「当然だ。」
「俺も最初はそのつもりだった。でも…。」
「でも、何だ?まさか、治療は受けないつもりじゃないだろうな?」
「治療は…受けない。そう決めた。」
「お前!」

岩城さんは乱暴に立ち上がった。
そうして舘さんの肩を両手で握り、がくがくと揺さぶる。
「お前、何言ってるんだ!なんなんだ!」
叫び声一歩手前の最後は、涙が湿らせて、言葉になっていない。
ゆかりさんと僕は、もう一度目を見かわした。
止めなくていい。止めてはいけないと。

「もう少しだけ、聞いてくれないか?」
舘さんが、岩城さんの手首をそっと持って見上げている。
岩城さんは鼻をすすりながら、椅子に戻った。

「最初から諦めたわけじゃないんだよ。
俺だって、治るものなら治りたい。
でも、もしもそれが叶わないなら…。
俺なぁ、人生で初めて、生きるために必死で考えたよ。
必ず死ぬって書いて必死だろ?
おかしいよな、生きるために必死って。」
「冗談言ってる場合じゃない!」
「ああ、悪い悪い。」
「その、必死で考えた結論が、治療しない、なのか?」
「簡単にたどり着いたわけじゃないんだ。」

そう言って舘さんは言葉を切った。
そして、はっとしたように周囲を見回し、僕たちのところで視線を止めた。
「すみません。お二人とも…。」

僕は内心で飛び上がった。
きっと聞き耳を立てていたことをご不快に思われたのだ。
お詫びしなくてはと動き出す前に、ゆかりさんが頭を下げていた。
「申し訳ございません、不調法をいたしました。」
「いやいや、そうじゃありませんよ。こんな話、声も潜めずにしていたら、聞こえて当然ですし。そうじゃなくて、これから僕が話すことを、お二人も聞いていてくれませんか。」
「は?」
「最後まで聞いていただければ、お願いした理由もご理解いただけると思います。
客のわがままだと思って、聞き届けてやってください。」
舘さんはゆっくりと頭を下げた。

断ることができようか。
ゆかりさんの目くばせで、僕は店の外へ出て、看板を裏返した。
戻り際、カギをかけるのも忘れなかった。
その間に、ゆかりさんの提案で、席をテーブルの方へ移した。
四人で座るにはそちらの方がよいし、カウンターのスツールより座りやすく、疲れにくいからというのも、理由のように思う。

舘さんが、席を移る時に「あそこにあるハイランドパークの25年を」と言ったのを、僕の耳が聞き取った。
ゆかりさんは「召し上がって大丈夫なのですか」とは言わない。
かしこまりましたと答えて、音もたてずに用意した。
それをテーブルに運ぶと、そのまま空いている席に座ったゆかりさんは、僕にも隣に来るように言う。
僕たちは、舘さんの話の続きを待った。





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実は…と言いよどむなんて、何か告白話が始まるに違いない。
僕は、二人連れのどちらが何を言うのか、声を聴き分けたくてしかたがない。
布巾を手にして立ち上がると、さっき磨き上げたグラスを、音をたてないように棚に戻し、新たなグラスを取り出して…本当はこのグラスにも、一点の曇りもないのだけど…磨くことにした。

「春は、まだ遠いな。」
「唐突だな。実は…の続きはどうした?」
何か言いたいことがあるのは、黒髪の方のようだ。
舘ひろしみたいな風貌をしている。
男から見ても男前、ということだ。よし、こっちは舘さんと呼ぼう。
で、同じくらいの歳に見えるのに、すっかり白髪になっているほうが聞き役だ。
こちらは…そうだ、岩城滉一と言ったっけ。あんな感じ。
こっちは岩城さんだな。
つまり、二人はどことなく似ている。そうして、かなりイケている。

「最近思うんだが、人間というのは、先の楽しみがないと、今を生きる気力がなくなるものなんだな。」
舘さんが、しみじみと言う。 
「俺、子どものころから桜が好きでさ。ほら、学生のころ、毎年お前たちと花見に行ったじゃないか。」
「ああ、行ったなぁ。」
岩城さんが、眼を細めた。
「あれがさ、けっこう楽しかったわけよ。」
「そうか。そうだな、楽しかったな。次の日の商談を気にしないでいられたしな。」
「いや、まぁ、そうだな。」
話が逸れかけたと思ったのだろうか、舘さんは言葉を切って、ゆっくりとグラスを傾けた。

「今を生きるって言うだろ?
過去はもう変えられないし、未来はまだ来ていないし、あるのは今だけだって。」
「ああ、言うな。」
「で、なるほどそのとおりだと思って、今に生きてみようと思ったわけだ。
過去にとらわれず、未来に期待せず、今に集中する。」
「寺で説法でも聞いてるようだ。」
「雑念を捨てろってな。そうだよなぁ。」
「で、やってみたのか?」
「ああ。今日が懸命に生きられたらそれでいいじゃないかってな。」
「ほう。それで?」
「数日はそれでよかった。
今に集中するっていいなぁと思ったんだが…。
でもなぁ、だんだん、なんでそんな風に生きるのか、分からなくなったんだよ。」
「ほう。」
「人が元気に生き生きと生きるには、未来が必要なんだと気付いた。」
「…。」
「次の家族旅行は北海道にしようかとか、もう一度あの店の焼き肉を食いに行こうとか、シェーバーの替え刃を今日こそ買うぞとか、去年は墓参りに行けなかったから今年こそとか、自分がしたいことを自由に思い浮かべて、それを楽しみに今日を過ごす。別に、できるかどうかは問題じゃない。できるに越したことはないが、できなくても、未来への期待は、今日のエネルギーになるんだよなぁ。」
「ああ、そういうことか。なるほど、それはあるなぁ。」
「だろ?」
「今日を懸命に生きたとして、その褒美というか、成果というか、そういうものを受け取る未来がなくっちゃ、頑張れないな。そういうことか?」
「…ああ、そういうことだな。」

分かるような、分からないような話だ。
この二人は、なぜこんな話をしているのだろう。
グラスはもう磨きようもない。
僕はあまり意味がないのだが、コーヒーカップを磨き始めた。

「それでな、また気付いたんだ。
今日は今日だけど、過去の、いつかあの日の未来でもあるんだなぁって。」
「うん?」
「去年の年末だったか、俺、ふと思ったんだよ。お前とずっとちゃんと話していないなぁ、今度飲みに行くかって。」
「そうだったのか。」
「つまり、今日は、その日の俺の未来なんだな。したかった望みが叶ったわけだ。」
「そうか。別に俺と飲むなんて、もっと気軽に考えてくれていいんだぞ。」
「ふふふ。そうもいくまい。怖い嫁さんに、そろそろ父親の非行に手厳しくなってきた娘御がいるんだもんなぁ。」
「おいおい、ずいぶんな言いようだな。」
「お前がいつも言っていることじゃないか。」
「ははは。否定できないところが苦しい。」
「ウチだってそうだよ。」
「お子さんは確か…。」
「男だ。今年小学校に上がったばかりなんだ。」
「そうだったな。」
「遅くにできた一人っ子で、妻は猫っ可愛がりしているよ。あれじゃ甘やかし過ぎでろくな大人になれないと思うんだが、俺の口出しする余地は1ミリもないほどで、見ていないと危なっかしくて。」
「とかなんとか言いながら、マイホームパパになったわけだ。」
「お互いにな。」
「自分の欲求だけが自分の希望じゃない。」
「ああ。」
「家族の役に立っているって自覚も、常に失いたくないんだ。それも強い希望だな。」

「お前、どうしたんだ。何かあったんだろう。」
とうとう、岩城さんが体を向き直らせて問いただした。
舘さんは、それでもまだ言いあぐねている。
それでも観念したのか、一息ついてから、ぽつりと言った。
「俺なぁ、未来が当たり前でなくなったんだ。」
「え?」
「命のゴールテープが、見えちまったんだ。突然に。」










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