Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

カテゴリ:小説 > Bar小紫


床をコンコンと叩いて、どこがどのくらい浮いているのかを確かめていた元さんは、首をかしげながら何事か考え事をしている。
「すいません、お待たせしました。ホウレンソウの泥がついちゃって。」
「うん?ああ、あのなぁ。」
「はい。」
「あそことこっちの、根太の緩んだところだけちょいと直してと思っていたんだけどな…。」
「はい。」
「どうかね、いっそ、小手先の修理じゃなく、床を全部張り替えてしまったら。」
「張り替え?」
「この板を全部はがして、基礎も傷んだところはしっかり直して、新しい床を張るんだよ。」
「そりゃ、おおごとですね。」
「けど、今やっておけば、この先傷んでくる心配はなくなるな。」
「なるほど。」
「予算をな、いま考えてみたんだけどな…。」
「リフォームなんて範囲じゃなさそうですね。」
「そうだなぁ。マスターがここに越してくることになったとき、ゆかりママがここをリフォームしたのが、ついこの間のことのようなんだけどな。」
「ええ。あれから…6年も過ぎました。」
「6年か。まさか、あの穂高がこの店を継いでマスターになるなんてな。」
「僕だって、ここに来た時には、そんなことになるなんて思ってもいませんでしたよ。」
「うん、うん。ああ、予算だけどな…。」
「ええ。」


気軽にやりますと言える金額ではなかったが、絶対無理なほどでもなかった。
それより、そんなふうにお金や時間をかけて、改修する価値があるかどうかだと、僕は思った。
僕の思い出や、ゆかりさんの思いを考えれば、小紫をよりよい状態に保つことに何の疑念もない。
けれども、この先僕は本当に、この店を守り続けていけるのだろうか。
大繁盛でなくていいけど、誰かにずっと愛される店を持ち続ける力が、僕にあるのだろうか。
誰かに必要とされる続けることが、僕にできるのだろうか。


「ああ、いけない。また元に戻ってる!」
僕は心の中で笑い声を立てた。
違う、違う、そうじゃないんだった。


「元さん、床の張り替え、やろうと思います!」
「おお。いい材料を選んできてやる。」
「お願いします。今までの色でというところは譲りたくありませんが、店の中が明るくなるのもいいかなと。」
「そうだな。長い間についたくすみがない素材の色の床になったら、きっとそれだけで明るくなると思うんだ。これも磨き込んだ味があっていいがなぁ。木の床というのはそういうもんだ。住む人と一緒に熟成されていくんだよ。」
「なるほど…。」
「見積もりを作ってきてやろう。大丈夫、小紫の台所事情はたいがい分かってる。」
「ははは。心強いです。」
「さしあたり今日は、あの入口の緩んだところだけ、直しておこう。客が足を取られたら危ないからな。」
「はい。お願いします。今日のお代は昼飯で。」
「ふん。安く見積もられたもんだが…。半分は趣味だからな。」
「よろしくお願いいたしますっ!」
僕は大げさに頭を下げて見せた。



価値は、そこにある固定のものではなくて、加えたり育てたりできるものだ。
床を新しくする価値は、客や景気にあるのではなくて、僕自身がどう思うかだ。


そうして、金をかけて新しくきれいにした小紫を、僕が相応に経営できない時には、僕の代わりにやってくれる人を探せばいい。
ゆかりさんが、そうしたように。
誰かに必要とされることを願うのではなくて、自分にできることを自然体でやっているということが、すでに必要とされているということなんだと、僕は学んだのだ。



「おおい、マスター。」
外に道具を取りに出ていた元さんが戻ってきた。
「はい?」
「リクエスト、していいか?」
「はい、なんなりと。」
「今日の昼飯は、から揚げ弁当にしてくれ。」
「いいですよ。揚げ物が食べたくなるなんて、胃腸が元気な証拠ですねぇ。」
「ふふん。4人分作ってくれよ!」
「え?」
「突然だけど、長さんも誘ってさ、宮田先生んちの庭で食おうかと思ってさぁ。」
「おお。それはいい考えだ!」
「あそこの花見はいつも夜になるじゃないか。たまには昼間に桜吹雪を浴びながらのんびり見るのもいいんじゃないかと思ってさぁ。今日は本当にいい天気になったからなぁ!」
「わかりました。任せてください!うまいから揚げ弁当作りますから!」
「よし、じゃ、こっちもやっちまおう。」



今日も、いい日になりそうだ。






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春が来た。
僕が小紫に来てから7度目の桜が咲いた。

街のいたるところで、例年になく寒い日が続いて開花宣言されてからもなかなか満開にならなかった桜がやっと咲きそろい、淡い桃色の香りを漂わせている。
行き交う人々の声も、冬よりはいくらか高く、元気を増したように聞こえる。
僕の胸にも、明るさと力強さが湧いてくるような気がする。


「マスター、ビール持ってきたよ。ここに置いていい?」
解体業でもするようなつなぎ姿に金髪で、ビールケースを抱えて現れた青年は、先月から酒屋のバイトを始めた達也君だ。
「そこね、いま片付けの最中でちょっと物を移動させるから、そのままドアのところに置いておいて。」
「はーい!」
姿の割には素直で気持ちの良い返事をする。
年のせいで配達が苦痛になってきたと嘆いていた酒屋夫婦は、こんな働き者のバイトが飛び込んできて大喜びだ。
バイトにしては破格の給料を支払っているという噂を耳にしている。
それで、達也君もますます気を入れて働くのだろう。
この展開には、きっと僕も一役買っているに違いない。


「おい、マスター。来たよ。」
小紫の正面の入り口から堂々と入ってきたのは、仕事着に大工道具を抱えた元さんだ。
サラリーマンと違って定年退職しなくていい職人の元さんは、社長業もそのままに、悠々と仕事を楽しんでいるように見える。
今日も血色がいい。
「ありがとうございます。ここなんですけどね…。」
「ああ、任せとけ。こんなの工賃もらうほどでもない簡単な仕事だよ。」
いつもビールケースを置くあたりに椅子を、カウンターの中にテーブルを移動させておいたから、床が広がって見える。
床板のところどころ傷んで、浮き上がったところがあるのだ。
床にしゃがみこんだかと思うと、元さんはあちらこちらを金づちでコンコンと叩き始めた。
浮き具合を確かめているのだろう。
コンコンコン、コンコンコン。
リズミカルな音を聞きながら、僕は机で埋まったカウンターに、つま先立ちで身を細めて入った。

今夜のメニューは何にしようか。
奥の厨房へ戻りながら、冷蔵庫の中を頭に羅列してみる。
「マスター、いる?」
勝手口から声がかかった。
「いますよ。ああ、そこ、ビールケースがあるから気を付けて!」
「はいはい、見えてますよ。」
僕が急いで勝手口に向かうと、声の主は両手いっぱいのホウレンソウを抱えて待っていてくれた。
「スミさん、ありがとう。」
「まだ少し早いかもしれないけど、よく茂ったから、間引きも兼ねてね。」
「ええ。いいですね。柔らかくておいしそうですよ。」
「よかった!それで、次に植えるものは考えておいてくれた?」
「それなんですよね。ゆかりさんならどうするかと思うんだけど、いろいろ浮かびすぎて決まらなくて。」
「そうかい。サキエさんたちが、ソラマメはどうかなんて言っていたけどね。」
「あれ?ソラマメって、冬の前に植えるんじゃなかったかなぁ?ゆかりさんと蒔いたことがありますよ。」
「ああ、それは種で植えた時だね。サキエさんたち、どこだかでしっかり育った苗を見つけたそうだよ。」
「そういうことですか!それならいい。6月ごろに収穫できたらいいなぁ。」
「ふん。では、ソラマメをたっぷり育てようかね。」
提案が採用されたからだろう、スミさんの頬に朱が指して、日焼けした顔いっぱいに笑顔が広がった。
「はい、お願いします。」
「任せとけ!」
僕に土がついたままのホウレンソウを押し付けると、スキップでもしそうな足取りで帰ってしまった。
ソラマメはいろいろな料理に使える。
僕はすっかり楽しみになってしまう。

ゆかりさんが大切にしていた畑は、僕の力だけではどうにもならないので、今では街のお母さんたちのお願いして、管理してもらっている。
バイト料というよりはお駄賃みたいなものしか払えないのに、お母さんたちは親身に通ってくれている。
僕にとってもありがたいが、お母さんたちにも、生活に張りができたのだとかで、とても喜ばれているのだ。
彼女たちの元気な姿を見、明るい声を聴くのは本当に清々しい。


「おおい、マスター、ちょっと来られるか?」
振り向くと、元さんが立ち上がって、作業着の袖で額の汗をぬぐいながらこちらを見ている。
「はい。ちょっと野菜を置いてきますね。」
「おお。」


僕の小紫は、今日も元気いっぱいだ。





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いま、これほど穏やかで、人の心の機微を知り、温かく包み込むようにいてくれるゆかりさんが、幼少の頃はけして幸せとは言いがたい育ち方をしていたことに、僕は言葉にならない衝撃を受けていた。
その告白にも驚いたが、それを聞いて「あなたはとびきり幸せな人だ」と言った、和尚さんの言葉にも驚いた。
父親がいなくても、あの母と姉がいた僕の子どもの頃から、ふたりを取り除くことなど想像すらできない。
なのに、とびきり幸せとはどういうことだろうか。

「幸せでしょうか?」
ゆかりさんも同じように感じたらしく、和尚さんの顔を覗き込むようにして尋ねた。
「ええ、ええ。お幸せですよ、ママさん。」
その場にいた誰もが、疑問を浮かべたに違いない。

「忘れがちだけれど、この国も、大きな戦争や災害をいくつも経験しています。
その時には、 ママさんのようなお育ちをした人々が大勢いましたろう?」
「ああ、そうだなぁ。」
「ご苦労はされたでしょう。
けれども、その方々すべてが不幸だったのでしょうかな?」
「そういうわけではないよなぁ。」
「その通り。
そういうわけではない。
よろしいか?
幸せとは安心だと先ほど申し上げた。
そうしてなぁ、安心するために必要なものなど何もないのじゃよ。
ただ、安心だと知っておればよい。」
「え?」
一同、眼を見合わせた。
今夜はこんな瞬間がたくさんある。

「安心でいるためには、ただ安心だと知っておればよい。
親も金もいろいろなものも、あればあるに越したことはないが、必須条件ではないということだなぁ。」
「そんなことってあるんですか?」
「おお、あるある。
我々は空だと言ったろう?
つながっておる。すべてがそこにある。
もしも足りないところがあれば、補われて当然なのだなぁ。」
「補われる…。」
「親がなくとも、同じような愛情を注いでくれる人物が必ず現れる。
金がなくとも、いずれは回ってくる。」
「そんなものでしょうか?」
「おお。そんなものだと、ママさんは己が人生をもって、証してこられた。
それは、同じような状況で生きることに疑問をもつ人々の大きな勇気となろう。
尊いことじゃし、これほどにわかりやすい『生きる意味を持った人生』もまた、そうはなかろう。」
「ああ…!」
「だから、あなたはとびきり幸せな人だと言ったのだよ。」

だんだん、分かってきた。

「安心というものを、もう少しわかるように例えるならば、貯金のようなものだな。」
「貯金、ですか?」
「そう、そう。」
「空という銀行に、貯金がしてあると思ってみるのじゃよぉ。
ところが、その貯金のしかたは、人それぞれじゃ。
前世や親御さんが善根を積んでくだされたおかげさまで、最初から空銀行に大枚が普通預金になっていて、いつでもほしいだけ引き出せる人がおる。」
「それ、いいねぇ。」
八百屋の長さんが大げさに頷いたので、一同微笑んだ。

「ところが、金融商品というのは、普通預金だけではなかろう?」
「確かに!」
「中には定期預金になっている人もおる。」
「定期?」
「途中解約すると利子はつかないけれど、期限まで待てば少しは増える。
元本割れする心配はない。
いつでも引き出せるわけではないが、なくならないから安心じゃ。」
「おお。」
「しかし、それではつまらんと言う人もおろう?
そういう人は投資信託なんぞが買ってある。」
「投資信託?」
僕はお金の話に疎い。
「プロが運用してくれる株式投資と思えばよい。
うまくすればたいそう増える。
そのかわり、うまくいかなければ元本割れの危険もある。」
「あー、それがリスクってやつですか?」
「そうそう。
先に生活費にしたいと引き出してしまえば、元手が減って、増やせる幅が小さくなる。
我慢して運用しておけば、大きくなるかもしれん。」
「おー。『かも』…。」
「そうしてなぁ、中には、持てるすべてを『年金』にしている者もおるのじゃ。」
「ね、年金?」
「支払いは、65歳になってからじゃ!」
一同、なぜか腹を抱えて笑ってしまった。

「どちらにしろ、持っておるのだよ。
心配ない、ない。」
「ほぉ!」
「ところが、誰もそうとは知らんのじゃ。
そこに、我ら宗教人の存在価値がある。
我らはもっともっと伝えねばならん。
我れはひとつながりの空のようなものであって、境目もなく、不足もないとな。
安心していてよいのだとなぁ。」


僕はこの時の話がたまらなく面白くて、しかも、心が豊かになったような気がして、大好きになった。
楽しかった。
ゆかりさんも、心の中で合点がいったのか、いつもの朗らかな笑顔にもどっていて、もう一つ何か料理を作ろうと、僕を連れてカウンターの中へ戻った。
「このお仕事をしていて、最高に素敵だと思うのは、今夜のようなことがたまにあるからかしらね。」

そうかもしれないと、僕も思った。






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人とは空のように自由で際限がなく、つながりあっていて、失いもせず、元々すべてを持っているのだと聞かされて、僕は母さんや姉さんのことを思い出した。
僕にとって、それは当たり前のことだった。
でも、誰にとってもそういうわけではないと、この夜、僕は知ることになる。


「あの、差し出がましいのは承知なのですが少しお話をさせていただいても?」
ゆかりさんがそっと言い出たことに、僕はいくらか驚いた。
お客様一番の彼女が自分の話したいことを優先するなど、かつてなかったからだ。
「いいですよ、どうぞどうぞ。」
和尚さんとともにやってきた檀家さんたちが朗らかに答える。
「ありがとう存じます。」
ゆかりさんはしんみりとした顔で会釈をした。

「何かな?」
和尚さんがゆかりさんに言葉をかけた。
その声を待つようにして、ゆかりさんはゆっくりと話し始めた。

「穂高は、親御さんの深い愛情に恵まれて育ったようです。
それがどれほどありがたく、幸せなことかは疑う余地がありません。
人がみなそうであれば、この世から不幸な人はいなくなるでしょう。
でも、和尚様はすでにご存じのとおり、世の中で、そんな幸せな人は稀です。

こんな時に私のことで恐縮なのですが、長い長い間の絶望と疑問なのです。
どうかお話しすることをお許しください。

私は母を知りません。
私の母という人は、私を15で産むと、育てようともせず、私を見捨てたそうです。
今と違って、そのころはそんな歳で子を産む人はけして珍しくもなかったでしょう。
でも、母は私を育てようとはしなかった。
理由は知りません。
もとより、父親が誰だったのかも分からないのです。

折りも折り、日本は戦後の復興への道を歩き出したところです。
まだ子どものような母に、私を育てることがとても大変だったのだろうということは容易に想像がつきます。
どのようにして妊娠したのかも…それが母が望まぬことであったのだろうことも、分かる気がするのです。

ある日、母は乳児院をしていた篤志家のところへ倒れ込み、私を産んだそうです。
大人たちは母にいろいろ問いかけたそうですが、名乗りもせず、ただ15歳だということと、身寄りがないことだけを答えたそうです。
そうして、私を産み落とし、一晩もたたず、まだ自分の身も落ち着かないうちに、母は姿を消し、二度と現れませんでした。

そのようなわけですから、私は気付いたら、愛情に飢えた血のつながらない同年代の子どもたちとともに育つしかなかったのです。
私はいつでも不安でした。
自分がそこにいていいとも思われず、愛されているなどと考えることも感じることもありません。
油断すれば奪われ、求めなければ得られず、求めても得られない経験ばかりが増えるのです。
いろいろな人から殴られ、蹴られ、暴言を吐かれました。
自分が生きていることは罪悪だとしか思えない子供時代でした。

私は母と同じ歳になったころ、孤児院を飛び出して、ひとりで生きるようになりました。
そんな女が夜の世界と縁を持つのは当たり前のなりゆきだったのでしょう。
でも、人を信じることができず、自分を信じることもできない私が、人様をおもてなしするなど、できるはずもないのです。
どのような目に遭い、血を吐くような思いをしたかなど、お聞かせするのもお耳汚しなばかりです。

それでも、私がいくらか人らしくなれたのは、亡くなった夫との出会いがあったからでした。
今でも思うのです。
私はあの人に出会わなければ、安心とか、自分に居場所があることだとか、自分にも人様にして差し上げられることがあるなどということに気付くことはできなかったでしょう。
そう思うと、恐ろしくて身震いするほどなのです。

夫は本当にできた人でした。
彼だから、私のような者ともつながり合えたのだと思います。
そうして、この穂高もそうです。
生まれながらに幸せを持っている、とびきりできた人でなければ、私のような傷者とは付き合い切れないのでしょう。

和尚様。
穂高が幼いころに母上から与えられたようなものを受け取れない子供たちは、いったいどうしたらよいのでしょう。
時間がたてばたつほど痛みは深まり、不安は募り、心がひねくれてしまいます。
幼いうちならば諸手を広げて受け止められたものでも、ひねくれてしまってからでは受け止めるだけでも一苦労です。

私はどうしてあのような目に遭わねばならなかったのでしょう。
母と聞いても会いたいとすら思わず、恋しいと思ったこともない。
それを世間は悲しいと申します。
けれど、その悲しみは私のせいなのでしょうか。
私が母を恋い慕って泣き続ける子であったなら、もっと早くに安心や居場所を見つけたのでしょうか。
幸せな子どもになれたのでしょうか。」



どれも、初めて聞くことばかりだった。
ずっと常連でいた元さんや長さんや宮田先生も、どうやら初めて聞いた話のようだ。
和尚さんは途中から目を閉じ、言葉のわりには激しさを帯びないゆかりさんの声にじっと聞き入っていた。
ゆかりさんがそんな人生を送ってきたなどと思いもしなかった僕は、声を出すことすらできなかった。

「そうよな…。」
和尚さんはそろりと目を開けると、つぶやいた。
「よくぞ生きてこられたなぁ。ありがたいことだ。」
深く温かい声だった。
「そうしてなぁ、やはりあなたもまた、とびきり幸せな人なのだなぁ。」

えっ?というように、ゆかりさんの目が大きく見開かれた。
僕は今の話に「幸せな人」を見つけるのは難しくて、よいご主人に出会えた幸運のことを言っているのだろうか?、それでは子どもの頃のゆかりさんは?と疑問に思った。

ふと、空を思った。
この話をしている今も、屋根のずっとずっと上には、何十年前と何一つ変わらない空が広がっている。
空から見たら今僕が聞いた話は、どう見えるのだろう?
僕には分からなかった。







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「幸せというのはなぁ、安心だということなんだよ。」
「安心…。」
「そうだよ。自分の安心がまずあって、そこから冒険心だの、人への思いやりだの、未来への希望だのが生まれてくるんだよ。そのことを理解しておかねばならん。」
「安心…。」
「安心は、生きる基盤だな。
土台といってもいい。
そこががっしりと固ければ固いほど、飛躍もできるし、安住もできる。
ぬかるみの中に立っていては、飛び上がりもできなければ、立つのも難しかろう?」
「確かに、確かに。」
「世間でもよく耳にするだろうが?
あれほどの金持ちの家なのにもめ事が絶えず、少しも幸せそうに見えないだとか。
物持ちであっても、安心がなければ不幸なばかりじゃなぁ。」
「あー、あそこんちもそうだったなぁ。」
うんうんと頷き合ったのは、和尚さんと一緒に来た檀家さんたちだ。
身の回りにあったことらしい。
「土地も山も会社まで持っているのに、不平不満だらけでたまらん御仁がいるんですよ。
ほんとは付き合いたくないんだが、寺にとってはありがたいお布施をたんまりと…。」
「これこれ、品のない。」
和尚さんが芸人のように手を動かして話を制した。

「では、人はどうならば安心なんだろう?」
「そうそう。そのことよ。」

僕はその話を聞きながら、ふと母さん、姉さんと3人で暮らした子どもの頃の、小さなアパートを思い出した。
母さんはいつも笑っていて、姉さんが作るめしはいつも美味かった。
贅沢なものは何もなかったけど、楽しくて安心で大好きだった。

でも、楽しくて安心で大好きでない場所が家の外にあったから、家の中が一層好きだったのだ。
父親がいないことを、幼い者同士の愚かさで、からかわれたり腹を立てたりしたことがあった。
いつも同じ服を着ていると笑われて、恥ずかしいと思ったこともあった。
給食費がすぐに払えなくて、先生に困った顔をされたことも思い出す。

そのたびに、僕は、学校には僕の居場所がないのではないか、友達に見える人たちも、本当は僕のことが嫌いなのではないかと思ったものだ。
何か話すたびに、また可笑しなことをと馬鹿にされるのではないかと怖かった。
電気代を節約するのと、母さんたちと話していればそれでよかったので、うちはテレビをあまり見なかった。
だから、仮面ライダーの話にもついていけなかった。
子どもの僕にでも分かっていた。
そういう時は、ヘンに知ったかぶりをして何か言うほうが恥をかく。
笑顔で黙っていれば、わけのわからない会話はいずれ過ぎていく。

それに比べると、家で、姉さんに着替えを手伝ってもらって布団に潜り込み、隣に母さんが添い寝してくれて、「おやすみなさい。よく眠ってね。」と頭をずっとなでてもらえるあの安心感は、他にたとえようもないものだった。
それは、僕が病気の日でも、元気な日でも、怒って拗ねていても、叱られた後でも変わらなかった。
母さんや姉さんが僕を拒絶する可能性など、1ミクロンも考えたことがないほど、完璧に安心な場だった。

「和尚さん!」
僕は仕事を忘れカウンターから出て、和尚さんの後ろに近づいた。
「こちらへお座り。今夜はもうほかの客が来なくてもよいだろう?」
「あの…。」
僕は会釈して、和尚さんが指した椅子に座ると、和尚さんに聞いてもらいたくて、乗り出すように語った。

「僕の安心は、小さい頃に家族から教わった気がします。
子どもの頃は、家族といれば安心で、家族と離れると不安で…。
でも、いつの間にか僕は、家族と離れている時間でも、一緒にいるときと同じ安心を持ち歩けるようになった気がするんです。
不安なことがあっても、いつかは通り過ぎることが分かっているし。」

「でかした!」
高齢の和尚さんが思わぬ大声を出したので、僕らはビックリしてしまった。
「そうなのじゃ。そうなのじゃ。
安心は、条件でできるものではない。
最初に受け取って、気付いて、気付くといつも身に沿うものなのだなぁ。
そうして、安心の目からみれば、困ったことも流れて消えていく、泡のように見えるものなのだよ!
それこそが、悟りなのだなぁ。」
「ええっ?!」
今度は僕だけがビックリした。ほかの人はポカンとしている。
「僕が悟ったと?」

「考えてもごらん。
空は、己が消えてなくなるかどうか、悩むだろうか。
全てがおのが内にあるというのに、何が増え、何が減った、何が奪われたと悩むだろうか。
空から見れば、朝も夜も同時に起きている。
夕焼けも台風も、全て移り行くさざ波のようなもので、全てがそこにあることに変わりない。
われらは、自分をそのようなものだと知ることで、安心できるのではないかなぁ。
どのような辛い日も、刻々と過ぎてゆく。
どのような楽しみも、刻々と過ぎてゆく。
その辛さや楽しみにのみ心奪われてしまってはならぬ。
空の視点に立つのじゃよ。
空の視点に立てば、実は目の前にあること以外にも、多くのものがあるとわかる。」

僕らはそれぞれの思いで和尚さんの言葉に聴き入った。

「波立つ心を無理に抑えて、平常心を保とうなどと思う必要はない。
波立つ心はいずれ収まる。それが波の本性だからだ。
憎しみも妬みも、汚い思いと自責の念に駆られる必要もない。
憎しみや妬みを抱え続ける如く、執着するのは空の本質ではない。
憎み妬む自分をあるがままに見つめていれば、それらの思いもいずれは消える。
移り行くのが思いの本性だからだ。
したいことがあるなら、すればよい。
したくないなら、せぬがよい。
我らは、そのようなものだと、思うがよい。」


したいことがあるなら、すればよい。
したくないなら、せぬがよい。

和尚さんのこの言葉が、僕の心にこだました。
そうか。
僕は、社会的な評価の高い生き方はしてこなかった。
体も弱いし、気も弱い。
でも、したくないことを無理にする人生は歩んでいない。
ふと出会った血のつながらない人と家族のように仲良く暮らしている。
こんな不可思議な人生と思わぬではなかったけれど、思えば姉さんも同じようなものだ。
だとしたら、僕と姉さんの心の中に、何物にも代えがたい「安心」という財産を遺してくれた母さんがいてくれたからだと、今さらながら深く理解した。
母さんは、お金も土地も持っていなかったし、苦労のし続けで長生きもしてくれなかったけれど、誰にも盗めず、燃やせもしない、ものすごい財産を溢れるほどに遺してくれたんだな。
この財産が、僕を幸せにしてくれているんだな。
母さん、すげえ!
あなたは、ほんとにすごい人だ!

「母さん…ありがとう。」


僕はこの夜聴いた和尚さんの「空の話」を、一生忘れまいと心に刻むことにした。





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和尚さんはそこで一度話を切って、テーブルの葛湯に手を伸ばした。
「ほほほぉ。葛湯はよいなぁ。こうして置いておいても冷めないのがよろしい。」
至極ご満悦のようだ。

「それより、先を聞かせてくださいよ!」
「そうですよ。人の感情は雲のようなものだけど、人の存在は雲のようなものではないっておっしゃったのですよね?」
一番に乗り出しているのは宮田先生だ。
それはそうだろう。
ずっと、人や人の命と向き合ってきた人だ。

「そうだよ。人は雲のように浮かんでは形を変え、消えてはまた生まれる、頼りない雲のような存在ではないのだよ。」
「では、いったい何だと?」
「そのこと、そのこと。」
和尚さんは改めてその場の面々を見回した。

「人とはなぁ、空のようなものなのだよ。」
「空ぁ?!」
元さんが素っ頓狂な声を上げた。
「空って、青い空の、あの空ってことか?
そんなつかみどころのない話、信じられませんよ。」
「ほほぉ。つかみどころがないかね?」
「だってなぁ、俺らが空みたいなもんだって言われてもなぁ。おい?」
長さんやゆかりさんまでもが頷いた。
和尚さんと一緒に来た檀家のみなさんも同じように、キツネにつままれたような顔をしている。

「あ!」
その時、僕はつい、カウンターの中から声を上げてしまった。
「あの、『色即是空 空即是色』っていうあのクウってところ、空って書きますよね?
あれって『何もない』って意味だと思っていましたけど、実は本当に『ソラ』のことだったりして!」
「ほほほぅ。若者は頭が柔らかい。それでなくてはなぁ。」
「えっ?」
「ならばホントに…?」
「空だということさ。」

人は空のようなもの?
それはどういう意味だろう。
僕の知識と思いつきは和尚さんを笑顔にしたけれど、意味が分かったわけではなかった。

「空とはどのようなものだね?」
和尚さんが尋ねた。
面々は互いに顔を見合わせて、首をかしげながら答える。
「高いところにあるなぁ。」
「どこまでも広がっている、かな。」
「でっかい。」
「変わらない…かしら。」
ゆかりさんが言うと、他の人が「ああ」と気付いたように付け加えた。
「確かに、ひどい台風の日でも、雲の上は青空なんだよな。」
「夜も昼も、太陽と地球の位置関係のせいであるだけで、空そのものはいつも同じなんだろう。」
「星が生まれたり消えたりするのかもしれないけど、空そのものは変わらないのかな。」
「時間があるようでないような、不思議な場所だな。」
「それに、境目がないね。全部つながっているというか、全部を含んでいるというか。」
「それよ、それよ。さすが、きちんと生きている人々はよくわかっておる。」
和尚さんは満足げだ。

「つまり、人は自分を雲のように移り変わるものと思うこともできるが、本当はそうではなくて、空のようなものなのだと思うこともできるということだな。」
「もしも、自分を空のようなものだと思うと、私たちはどう変わるのですか?」
ゆかりさんが真剣な声で問うた。

「ふむ。
つまり、自分を空だと思えば、安心じゃろう。」
「え?安心??」







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和尚さんが悟りについて語るというその話に、一同聴き入る形になった。
問答というのだろう、和尚さんは一方的に話すのではなくて、何かと皆に問いかける。

「人には『感情』というものがあるだろう。どんなものがある?」
「感情…うれしいとか、楽しいとか?」
「悲しいとか、さみしいとか。」
「切ないとか、やるせないとか。」
「怒りとか、憎しみとか、嫉妬とか。」
「そうだなぁ。いろいろとあるなぁ。人は四六時中、その感情を抱いているだろう?」
「確かに。何も感じていない時でも、安心とか平和とかいう感情を抱いている時と言えるかもしれませんわね。」
「うむ。その通りだなぁ。」
ゆかりさんの答えは、和尚さんの考えにしっかりと沿ったものであったらしい。

「ほとんどの人が、感情には感じたいものと感じたくないものがあると思っている。
たとえば、嬉しいとか楽しいとかなら、感じていていい。
でも、怒りとか憎しみとかになると、これはいらないと思う。」
「そりゃそうだ。怒ったままでいるのは気分が悪いし、体にも悪いと言いますよ。」
「うむ、うむ。」
「それに、感情って伝染するじゃないですか。」
そう言い出したのは、内装工事の会社社長である元さんだ。
「俺がイライラしたり怒りながら仕事をしていると、社員にも伝わって、現場の雰囲気が悪くなって、普段ならしないようなミスをしたりするもんだ。」
「そうだな。ウチでも、母ちゃんの機嫌が悪いと、売り上げが落ちるよ。」
そう受けたのは八百屋の長さんだ。
「怒りみたいなよくない感情は、早く切り替えた方がいい。」
「でも、切り替えようと思えば思うほど、しつこく心に残ったりすることもあるわね。」
「ああ。」
「あるある。」

「そのことよ。」
和尚さんは我が意を得たりと微笑んでいる。
「人はよい感情を抱くと、『ずっとこの感情を感じていたい』と思う。
よろしくない感情を抱くと、『こんな感情でいたくない、なんとかせねば』と思う。
これはつまり、どういうことか。」
「どういうことか?」
「うむ。
それはつまり、人はどちらにしろ、内側に沸き起こる感情にいつもじっと目を向けているということではあるまいか?
特にそれがよろしくない感情の時、どうにかしようとあがいて、原因を考えたり、対処法を考えたり、切り替えようと努力したり、捕われて悩んだり、せずにはおれない。」

声に出して答える者はない。
それぞれが、自分の思考に浸り始めた。

「そのうち、あまりにいつでも、長いこと我が感情をみつめるあまりに、自分とは自分の感情そのものだと思うようになる。」
「幸せな人生…って普通に言うものなぁ。」
「そう。そのこと、そのこと。」
「それで、幸せってのは、楽しかったり嬉しかったりするほうが、悲しいとか腹が立つとかよりも多いことを言うものなぁ。」
「うむ、うむ。
そうやって、人は自分の感情が自分そのものだと考える。
そのように教えられるし、人や子に教えもする。
ところが、違うのだなぁ。」
「えっ?違うんですか?」
「違う。我らは感情ではない。」
「どういうことでしょう?体の感覚が大切ということでしょうか?」
「いやいや。そういうことではない。」
「では、いったい?」
「それはなぁ…たとえ話をしてみたほうが分かりやすいだろう。」
「はい、どのような?」

「感情とは、空に浮かぶ雲のようなものと思ってみたらよい。」
「雲、ですか?」
「そうだよ。楽しいとか、嬉しいとかいう感情は、さしずめ夕焼けのようなものだなぁ。」
「夕焼け…。なるほど。」
「格別な喜びは…ほれ、虹のようなものだと思えばよろしい。」
「夕焼けに虹ですか?」
「どうだね?夕焼けや虹をずっとそのままとどめておくことができるだろうか?」
「それは無理ですね。」
「夕焼けなんて、刻々と色を変えるよな?」
「虹もそうだね。長く出ている時もあるけれど、薄くなったり形が変わったりして、あっという間に消えてしまう。」
「その夕焼けも虹も、空気の中の水蒸気…雲があってのものだろう?
では、その雲そのものはどうだ?」
「雲そのもの?」
「そうだなぁ。決まった形がなくて…。」
「いつ出ると決まった時間もなくて…。」
「絶対あるものでもなくて…。」
「いつも見えるとも限らない…。」
「であろうなぁ。雲とはそういうものだ。
感情というのは、その雲のようなものなのだよなぁ。」
「なるほど!少し分かる気がしますね。」
「どんなに素晴らしい気分であっても、いずれ形が変わり、消えてなくなる。どんなに分厚い、どす黒い雲であっても、いずれ流れて消えてなくなる。」
「おお。確かに、確かに。」

皆が感心する中で、ひとり沈思していたゆかりさんがポツリと言い出た。
「では、人は雲のようなものということでしょうか。
だとすると、なんだかずいぶんと頼りない話ですね。」
そのつぶやきを聞いて、男衆がはっとする。
和尚さんはニコリというよりニヤリと笑い、膝を打った。
「そこだよ。」
「え?」
「みなさんは、おのが人生が雲でよいかな?」
「雲でいいか?」
「雲のような、さだめなく頼りなく、消えゆくものだと思うかね?」
「でも、人はいずれ死ぬし、楽しみも苦しみも消えゆくものだとしたら、雲みたいなものってことじゃないですかね?」
「ほほほ。違う、違う。そこが違うのだなぁ。」
「違うと。では?」
「それ、それ。ここが肝要だ。それはね…。」








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夜中に、布団の中で肌寒いと感じる日が続いて、僕は押入れから分厚い羽根布団を引き出した。
眠りから覚める頃、布団の中がぬくぬくと温かいのは本当に幸せだ。
あと少し、もう少しこの幸せに浸っていたいと思いながら起き出すのがいい。
晩秋から冬にかけての、朝の楽しみでもある。

「ちょっと計画が遅れたけれど、やっぱり紅葉狩りに行こうかね。」
午後8時。
常連さんが集まって、ゆかりさんを交えてにぎやかに語り合うのを耳にしながら、僕も年齢を重ねたら、こんなふうに友達と笑い合えるオヤジになりたいなどと、年よりじみたことを考えた。
「観光地は混雑するからちょっとね。」
渋滞が嫌いな元さんは、どうにかして穴場を探したいらしい。
「遠出をしなくてもいい場所はあると思うよ。」
最近、診療を減らしているという宮田先生は安心してグラスを傾けている。
後継ぎがしっかりしているから、楽隠居の体だ。
これもまた、羨ましい。
「このところ、都心も急に気温が下がる日が続いたからね、どこもかしこも紅葉だろうよ。」
「自然の山もいいけれど、人が考えて作り上げた庭園の紅葉も見事よね。」
「なるほど、庭園か!」

ここしばらく、小紫は新しいお客様が来ないでいる。
もともと派手な作りではないし、宣伝もしないし、新規のお客様が来ることの方が不思議なのだ。
なのに、ぽつり、ぽつりといらしていたものだが、最近は常連さん方ばかりなのだ。
「そういう時もあるわよ。涼しくなると夏の疲れが一気に出て、外でお酒をなんて気分にならないこともあるでしょう?」と、ゆかりさんは何とも思っていないようだ。
が、僕は小紫がこのまま衰退して行ってしまうような気がして、なんだか落ち着かない。
だからといって、どうしたらいいかアイディアがあるわけでもないのだが…。
ああ、どうかいろいろなお客様に来ていただけますように!

カラリンコロン。
祈ったとたんにカウベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
僕の声に迎えられて入ってきた客は、男性が4人。
どなたも初めて会うお客様だ。
やった、僕の願いが通じたんだと、心が小躍りする。
「どうぞこちらへ。」

みなさん、60代とおぼしき普段着で、仲良しなのだろうか、笑顔ばかりが並んでいる。
4人目に入店した男性だけが他の方よりも年上で、80代にも90代にも見える。
はっと眼が止まる人物だった。
髪が、一本もない頭が、見事に照り返っているのだ。
眉毛は真っ白で、小柄な引き締まった体と柔和な表情とは結びつかないような存在感がある。
裾の長い半纏のようなものを羽織っていて、中は作務衣のようだ。
足元は草履をはいている。

「あら、和尚様ではありませんか!お久しぶりでございます。ようこそお運びを。」
ゆかりさんが小走りに出迎えた。
和尚様?
「ご息災でいらしたのですね。」
「ああ、元気ですよ、このとおり。」
お年の印象の割には、言葉がはっきりとしていて、声がよく通る。

「今日は檀家の集まりがあって、散会ののちも話が尽きなくてね。」
一番最初に入ってきた男性が話を継いだ。
ゆかりさんはこちらの男性も知っているらしい。
「そうでしたか。」
「それで、場を変えて、少し口を湿しながら話の続きをしようかということになって。」
「和尚様もこのような場へでかけるのは久しぶりとおっしゃるので。」
「ならば、気心のしれたこちらがいいだろうとね。」
「飯もうまいしなぁ。」
「まぁ、光栄ですわ。ありがとう存じます。さ、どうぞ。」

僕が来てからいらっしゃらなかっただけで、元々こちらのお客様だったようだ。
なんだ、そうだったのか。
でも、久しぶりのお客様を迎えるのを、ゆかりさんはことのほか喜ぶ。
今夜もいい夜になりそうだ。


「和尚様は今もお酒は召し上がらないのですか?」
ゆかりさんは和尚さんの上着を預かって、左腕にかけたまま、席の脇に片膝をついて語りかけている。
「いただきませんよ。」
「では、今夜は何をご用意しましょうか。」
「そうだなぁ。このところ、年のせいか手足が冷えていけない。何か体が温まるものがいいね。」
「でしたら、しょうが汁をたらした葛湯などはいかがでしょう。」
「おお、それはいい。それをいただきましょう。」

他の人々からもそれぞれに注文をいただいたので、僕とゆかりさんは厨房に飛び込み、いそいそと準備をした。
今夜の突き出しは「湯葉巻天ぷら」だ。
これは、絹ごし豆腐の水をじっくりと切り、一口大に切ったものを戻した湯葉で丁寧に巻いて天ぷらにしたものだ。
湯葉がさっくりと揚がると口当たりがよく、中からとろりと豆腐が出てくる。
ポン酢でも、わさび醤油でも、柚子塩でも美味しい。
僕も大好きな一品だ。

飲み物を用意してフロアに戻ると、驚く光景が広がっていた。
さっきまで紅葉狩りの話をしていた元さん、長さん、宮田先生の3人が、和尚さんのお仲間と一つになっていたのだ。
テーブルも椅子も好きに動かして、大テーブルになっている。
和尚さんの席だけは先ほどと同じ位置で、他のみなさんが和尚さんの話を聞ける位置にずれた感じだ。

和尚さんご注文の葛湯は作るのに少し時間がいる。
他の皆さんは、その葛湯ができるのを待って、乾杯!と声を上げた。
この葛湯は、僕も風邪をひきかけたときに作ってもらったことがある。
しっとりと甘みがあり、ショウガが香るように混ざっていて、とろりと舌から喉を通り過ぎていく。
うまかったので、後で自分で作ってみたが、粉っぽい味がするばかりか、舌触りがざらざらして、不味いとしか言いようがなかった。

しばらくあれこれと世間話に花が咲いていたが、いつしか和尚さんの話をみなが傾聴する形になった。
説法と言うのだろうか。
きっと、ずっとずっと何十年も、和尚さんはこうして話してこられたのだろう。
ああ、だからこんなによく通る、いい声をなさっているのかと合点がいった。
僕も古典文学なんかを学んできた人間だから、こういうお話が聞ける機会を逃す手はない。
ほかにお客様もいないし、お出しするものも途切れたので、カウンターのなかからお話に耳を傾けることにした。
ゆかりさんは呼ばれて、和尚様の隣の席に座っていた。

「この頃の仏教はいけない。寺々も、もっと考えなくてはいけないと思うのですよ。
寺も仏教も、この厳しい世間を今生きていらっしゃる皆様方のお支えに、少しもなれてはいませんよ。
これではいけない。」
和尚さんが悲しげに語っている。

「私ども修業者は、もっともっと語らねばならぬと思うのですよ。
人とは何か。
苦とは何か。
悟りとはいかなるものか。」

「それはすごい!」
宮田先生が受けた。
「和尚様は語れるのですか?人とは、苦とは、悟りとは何かを?それは人間普遍の哲学ではありませんか!」
「オレみたいな頭の悪い者にでも分かるように話してもらえるなら、聴きたいなぁ!」
八百屋の長さんがいうと、和尚さんだけでなく、他の人も笑った。

「ああ、わかる、わかる。
わからいで、和尚が務まるものかね。」
「本当かね?もしもそんなすごい話がわかったら、オレの墓は和尚様んところの墓地に建てるよ!」
「おお、では、気合いを入れて話すとしようかね。」

一同大笑いしている。
僕は胸の底からゾクゾクと期待感が湧いてくるのを抑えられなくなってしまった。




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今年の夏は暑かった。
いや、夏とは暑いものだけど、暑いにもほどがある。
いい加減うんざりし尽したころ、いくつかの台風が通り過ぎ、ようやく秋風が吹いた。

夏の始めに、「一夏の恋」などという慣用句とは縁がないらしい自分を知った。
戸惑いもしたし、落ち込みもした。
多少だが、悩んでもみた。
今すぐ結婚すると言ってもおかしくない年齢なのに、女性に興味がわかないなんて!

けれども、あっという間に、悩むだけ無駄だと気が付いた。
悩んで解決するなら悩めばいいだろうが、これはそういうものではないだろう。

恋待先生は、僕のこの状態を、過去の治療の影響ではないと言った。
トラウマだろう、とも言った。

トラウマだったらどうすればいいんだ?と考えてもみた。
カウンセリング?
それはそれでいいのかもしれない。
それで普通になれるなら、大事なことかもしれない。

でも、「普通」っていったい何なのだろう。
僕にとっての「普通」は、僕が決めてもいいのではないだろうか。

夏祭りにでかけただけで熱を出した。
それだって、世間の人が聞けば「普通」ではないだろう。
だけど、僕はそんな人なのだから、僕にとっては「普通」だ。
いいじゃないか。

僕には両親がいない。
父親は見たこともないし、母親はもう死んでしまった。
両親そろっていないのは「普通」じゃないという人もいるだろう。
でも、僕にはどうしようもない。
これが、僕の「普通」だ。

両親はいないけど、遠くにやたらと元気な姉さんがいて、婚約者ができた。
人種のちがう弟もできるらしい。
毎日の暮らしの中には、ゆかりさんという雇い主兼血のつながらない家族みたいな人がいる。
元さんや宮田先生みたいな、お客様兼年上の友達もできた。
会社勤めじゃないけれど、小紫という職場があって、バーテンダーという仕事がある。
これが今の僕の「普通」だ。

クラシックもジャズも好きだけど、ロックには興味がない。
興味がないけど、聞けないわけでもない。
女の子に興味が薄いというのは、それと同じことだ。
話ができないとか、側に寄ってほしくないということでもない。
かわいい子はかわいいし、きれいな人はきれいだ。
それが、僕の「普通」でいいじゃないか。
考えがここまでたどり着いたら、何も気づいていなかったときよりもずっと気が楽になって、肩の力が抜けた。

それに、僕は幸せだ。

子どもの頃は、幸せには条件があると思っていた。
大きな家とか、たくさんのお金とか、贅沢な食事とか、高価な服とか、賢い犬がペットだとか。
そういうものを持つことが幸せなのだと思っていた。
ところが、毎日を「普通」に生きていると、ちょっと違うのかもしれないと思える。

朝、爽やかに目が覚める。
ゆかりさんが、美味しい朝ご飯をこしらえてくれる。
畑に出て、野菜を収穫する。
お店をピカピカに磨き上げる。
たくさんのお客様が来てくれる。
くたくたになって入る風呂。
ああ、明日はちょっとでいいから時間を作って、あの本を読もうか、あそこへ行こうか、あれを食べようかと考える。
自分にちゃんと居場所があり、することがあり、したいことがある。
そういう小さなことが幸せを創るんだ。


「穂高、ねぇ、穂高!寝てるの?ちょっと起きて!」
襖の外からゆかりさんの声がした。
僕はいつの間にか昼寝していたらしい。
ぼんやりと時計を見上げる。
14:40のデジタル文字が明るい部屋の中でうっすらと見える。

「はい。どうかしました?」
「お店にね、ススキを飾ろうかと思うのよ。」
「ススキ?まだ早いんじゃないかなぁ。」
「そうかもしれないけど。ちょっと川原のほうまで散歩がてら行ってみようかと思いついたの。よかったら、一緒に行かない?」
ゆかりさんは襖越しのままだ。
川原か。
「いいですね。」
僕はふすままで這って行って、すすーっと開けた。
「顔洗います。下で待っててください。」
「わかったわ。ああ、花ばさみを用意しましょう。」

今日も僕は幸せだ。






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恋待先生は、僕の言葉を辛抱強く待っている。
ヒグマのように大きな体を包んでいる白衣の前がはだけていて、中の丸くて大きなお腹が突き出している。
中に着た薄い水色のワイシャツは、きっと超特大サイズなのだろう。

「ここで抗がん剤の治療を受ける時、先生言いましたよね、しばらく子どもは作れないけれど、予定はないかい?って。」
「ああ、聞いた。」
「僕は当然ありませんよと答えた。何てこと聞くんですか?って。」
「そうだったかな?」
「あれ、どういう意味だったんですか?」
「意味?抗がん剤が精子の数を減らしてしまうことがあるから、子どもができにくい、ということだな。
でも、それだけではなくて、抗がん剤が精子の形成に与える影響を考えて、治療中は避妊が必要、ということでもある。
それに、抗がん剤は白血球を減らすから、感染症にもかかりやすくなる。性行為中の感染を避けたくもある。
くわえて、赤血球も減らすから、すぐに疲れたり呼吸が苦しくなったりしやすい。
子どもをつくるには向かない条件がそろっているということだよ。」
「そうなんですか。…なんだか、よく分かっていないくせに、予定はないって言っちゃいまいた。まぁ、事実だったし。」

「今、それを確認したいとこうことは、そういう予定ができたということ?」
恋待先生の全身から、なんだか温かいオーラが漂ってくる。
「いや、そういうわけじゃないんだけど…。
でも、夕べ、ふと気づいたんですよ。
僕、その、性欲っていうやつ、あんまり感じないなぁって。」
「おや、そうなのかい?」
さっきの温かなオーラがすぅっと30cm引いて行った。

「いや、女の子に興味がないってことはないですけど、なんていうか、高校生の頃みたいに切実に興味があるなんて気持ちにならなくなったというか…。」
「ほぉ。」
「あんまり考えたことなかったけど、改めて考えたら、病気の治療の前後で変わったと、昨夜気付いたんですよ。」
「なるほど。」
「そしたら、先生が言っていた言葉を思い出して。」
「ああ、そういうことか。」

ギシギシと椅子をきしませながら、先生は僕の方に向けて体を前傾させる。
その途中で、脇に控えていた看護師に目くばせでもしたらしい。
そっとカーテンの向こうに白衣のスカートの裾が引き込まれていき、診察室には僕と恋待先生だけになった。
「抗がん剤治療を受けていても、性行為そのものができない体になるわけじゃないんだよ。
治療中にそういう行為に及ぶ気持ちになれないのはストレスからだ。
テストステロンという男性ホルモンは、治療では減らないからね。
それに、君のように治療を終えて時間がたっていれば、 一時的に影響を受けていたいろいろな機能があったとしても、元にもどっているよ。
まぁ、個人差はあるがね。」
「そう、なんですか…。」
「希望するなら検査しようか。」
「どうだろう…。」
「どちらかというと、メンタルの影響ではないかと思うんだけどね。」
「メンタル、ですか。」
「そう。」

僕はどんどん歯切れが悪くなる自分にちゃんと気付いていた。
「決めつけることはできないけれどね、ひどい吐き気や脱毛や、そういう副作用が出ている時に、人に気が向かなくなっても当然だと思うんだ。
でも、全員がそうなるわけでもないんだよ。
実際、治療中の患者さんの中には、逆に、病気が発覚する前よりも性欲が高まった人は少なくないしね。
君の場合がどれに当たるかは調べてみないと正確なことは言えない。
けど、あのひどく辛い時期の感覚を、知らない間にずっと持ち続けてしまっているだけ、ということも大いにありうる。」
「持ち続けて…。」
「そう。無意識のうちにね。トラウマっていうやつだよ。」
「トラウマ!」
その言葉は知っている。
「まぁ、時が治してくれるものもあるよ。気にしない、気にしない。」
「そう、でしょうか…。」

「検査の予約を取っていくかい?」
「う…いや、まだいいです。」
「焦らないことだよ。誰か、この人、という女性が現れたら、気付かないうちにこんなことを『問題』と思わなくなっているかもしれない。でも、いつでも相談においで。こうして話すことそのものが治療になるからね。」
「はい。」
「じゃ、定期検診にしようか。最初から気になっていたんだけど、この微熱は何かな?」
「実は…」
僕は恋待先生に、さよりさんとでかけた夏祭りのことをありのままに打ち明けた。
「ふふふ。君にもそういうところがあるんだねぇ。いつも澄ましているけれど。」
 
半日かかって定期検査を終え、問題なしのお墨付きをいただいた。
微熱も心配ないという。
「では、またね。」
「はい。」

診察室を出た直後に、恋待先生が看護師へ、言うともなしに言った言葉を僕は知らない。
「どこか、幼いんだよなぁ。
四捨五入すれば30になる男が、小学生じゃあるまいし、自分が気を引かれた女性のことを、あんなにスラスラ話してしまうなんてね。
それに、体のことも、きっと抗がん剤じゃないよ。
あれは、家族を持つことが怖いんじゃないかねぇ。
家族というより、父親になること…か。
彼、父親とは縁が薄かったようだから。
まぁ、そんな彼だから、僕も、なんだかほっとけなくてねぇ。」






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