Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

カテゴリ:小説 > 生きるのに必要なことは全部サッカーが教えてくれた


「それに比べてさぁ。うちのクラスのジュン君、わかる?」
「わかる、わかる。あの子は明るくて活発で、将来が楽しみよね。」
「そうなの。彼のところは母子家庭でね、兄弟もいないから二人暮らしなのね。」
「へぇ。そうだったんだ。」
「お母さんはスーパーでフルタイムで働いているの。それだけが収入源みたい。」
「そりゃ大変だ。スーパーって日給月給制が多いから、休めないね。」
「それがね、先週、授業参観があったでしょう?」

そうなのだ。
いつもはこんな時期に授業参観などないのだが、体罰騒ぎがあった影響で、急きょ授業参観が設定された。通常以上に参加者の多い授業参観となった。
地域柄、お母さんたちは大変にオシャレだ。教室の後ろはブランド物のスーツやワンピースで埋め尽くされている。美容院でセットして、そのまま来たかと思われるお母さんも一人ではない。夫婦で参観しているところは、父親も品のよいスーツ姿ばかりだ。

子どもたちは一様に小さな緊張感を湛えている。
そわそわ、ぴりり。
いつものことだ。

授業が始まった。チヨコ先生のクラスは、算数の時間だった。
説明をする、問題を解く、子供たちが手を上げる。
授業が半分終わったところだった。

教室の後ろに駆けこんできたお母さんがいた。
それがジュン君のお母さんだった。
仕事場から走ってきたのだろう。
お母さんはスーパーの制服を着ていた。
胸には名札もついたままだった。中身が見えるように職場で統一されている、透明のビニールバッグからタオルハンカチを出すと、額の汗をぬぐった。それほど暑い日でもなかったが、必死に走ってきたことがこれだけでも分かった。

先に授業を見ていたオシャレなお母さんたちは、気付かれない程度に眉をしかめた。チヨコ先生は緊張した。ジュン君のお母さんが周囲の様子に気兼ねをして、小さくなるのではないかと想像したからだ。

しかし、想像は見事に破られた。
ジュン君のお母さんは、汗をふいたタオルハンカチをバッグにもどすと、スッと背筋を伸ばし、ジュン君に向かって笑顔を見せた。特に目配せをしたわけでも何でもないのだが、チヨコ先生にははっきりと、「遅れてごめんね。ママ、見ているからね!」と言っているように見えた。

すぐにジュン君に目を移すと、ジュン君の笑顔がキラキラと輝いていた。
二人とも、服装などなんとも思っていないのだ。
鈍感なのでも、ふてぶてしいのでもない。
本当に、この親子にとって、服装のことなど瑣末なことなのだろう。

チヨコ先生はハッとして、何もなかったように授業を続けた。
他の子どもたちが、いつも以上にいいところを見せようと張り切る中、ジュン君だけはいつもと何一つ変わることなく授業に参加した。というよりも、いつもならば手を上げて真っ先に答えるようなところを、他の友達に譲ってあげるようなそぶりさえ見せた。

そんなジュン君を、おかあさんはニコニコと嬉しげに眺めていた。

授業が終わると、おかあさんはそっとジュン君に手を振り、急いで教室を飛び出した。
きっとスーパーに戻るに違いない。
「ジュン君のおかあさん!」
チヨコ先生は廊下に飛び出して呼びとめた。
「少しだけ、お話しできませんか?」
「ごめんなさい、先生。今日はお休みの人がいて手が足りないのに、みんなが授業参観なら行っておいでと出してくれたんです。戻るのが遅れるとみんなに申し訳ないので、別の日にお伺いしてもいいですか?」
「はい、もちろん。いつでもご連絡ください。」
「では。先生、いつもありがとうございます。

そう言って丁寧にお辞儀をすると、お母さんはバタバタと走り去って行った。
うちの子をよろしくお願いします、とよく言われる。
でも、ジュン君のお母さんは「いつもありがとうございます」と言った。
何も特別なことはしていないのに。
どうしても、あのお母さんと話がしたいという思いがますます強くなった。






ポチッと応援お願いします 


「それでね、今日、来てくれたの。」
「ああ、教室で話していたのがジュン君のお母さんだったのね。」
「そう。今日もスーパーの制服でね。でも、今日はもう仕事はないからって、ちょっとゆっくりお話しできたわけ。」
「へぇ。どうだった?」

チヨコ先生は、ジュン君のお母さんに、ジュン君の性質はどうやって育まれたものかを教えてほしいと尋ねた。
するとお母さんは微笑んで、「何も特別なことは…」と答えてくれない。
普段、家でどのような話をするのかと聞いてみると、お母さんが話していることはあまりなくて、 もっぱらジュン君が話しているのを聞いているようだ。お母さんは学校で起きていることにとても詳しかった。

お父さんとは、会うことがあるのですか?
触れてはいけないことは重々承知していたが、聞かずにはいられなかった。聞いたとたんに申し訳ありませんと頭を下げたチヨコ先生に、お母さんはにっこりと微笑み返すと、こんな話をした。

「私の両親は、私が短大を出てすぐ、交通事故で亡くなりました。
ひとり娘で、贅沢をしていたわけではありませんが、なに不自由ない毎日でした。
両親とも穏やかな人で、静かで温かな家庭でした。

両親はとても仲が良く、週末になると二人で買い物にでかけて行きました。
その日もそうでした。
まさかそのまま帰って来なくなるなどとは、思いもしませんでした。

この事故には、被害者がおられました。
中学生の女の子でした。
お友達が悪ふざけをして、その子を車道に突き飛ばしたのだそうです。
父が運転していた車は、その子を避けようとして急ハンドルを切りました。
ですが、避けきれず、女の子を跳ね飛ばしたあと、側壁に激突したのです。
横断歩道もなにもない国道のこと、スピードを落とす間もなかったのでしょう。

両親は即死でしたが、女の子は命に別条ありませんでした。
しかし、足が少し不自由になってしまいました。
そして、事故の過失は父の前方不注意にあるということになりました。
運転席の父から、ふざけあっている集団が見えたはず、とのことでした。

私は腹を立てました。
誰がそのようなところから人が飛び出してくると予測するでしょうか。
突き飛ばした子どもたちが殺人未遂を問われるほうが正当だと思いました。
両親は命を落とし、それ以上に償う方法などありません。
なのに、まだ罪に問うのかと、怒り狂いました。

しばらく混乱し、泣くばかりの毎日を送りましたが、
ある日ふと、思いました。
両親は、私がこうして泣いているのを喜ぶはずがないと。
そして、悔しいけれども、両親はもういない。
けれども、あの女の子はこれからも生きて行かなくてはならないのです。
自分を突き飛ばした友達とも、向き合わなくてはなりません。
私の両親が死んだことを、私と同じように苦しく思っているかもしれません。

私はその女の子が入院していた病院へ会いに行きました。
すると、その子はベッドから転がり落ちました。
私は驚きました。
また骨が折れてしまったらどうしたらいいのでしょう。

女の子は、そのまま這うようにやってきて、叫びました。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!」
やはり、この子は苦しんでいたのです。
その瞬間、明らかに加害者は彼女で、私は被害者遺族でした。

しかし、その子のご両親は違いました。
私に向かって、この子の将来を返せ言い募りました。
その時の、女の子の暗く沈みきった表情は、今も忘れることができません。

私は、手離せる一切合財を売り払い、賠償することにしました。
先方も、それで納得したのでしょう。
それ以上、何か要求してくることはありませんでした。
もし法律が父の過失を問わなくても、多分私は同じことをしたでしょう。
だって、私の何倍も、あの女の子は生き難い人生を生きて行くことになったのですから。

私はひとりきりになりました。
そんな私を支えてくれたのは、高校の時からお付き合いしていた男性でした。






ポチッと応援お願いします

 


ジュン君のお母さんの話は続いた。
チヨコ先生は、黙って聞き続けた。

「夢を追っている人でした。優しくて強い。心から愛していました。」

チヨコ先生は胸を突かれた。
それほど親しくもない他人に、本心を語れる。心から愛していたと言える。これは、どういう心理なのだろう。

「私は一文無しでしたし、彼もまだ若く、二人で暮らす力はありませんでした。
だから、彼のアパートに転がり込んだものの、結婚しようなどという考えはお互い持っていませんでした。
彼は何があっても、夢を追うことを諦めませんでした。
そういう彼を、私は心から応援したいと思っていました。

私はアルバイトを転々としていました。
そんな時です。彼に大きなチャンスが舞い込んできました。
彼は夢の実現に夢中になりました。
そして、さらに大きなチャレンジをすることに決めたのです。

それは、海外へ行かなければ叶わないことでした。
彼は私に、一緒に行こうと言ってくれました。
しかし、私はその時、ジュンを授かったことに気付いていました。
彼には言い出せませんでした。
なぜなら、彼は収入など度外視して、夢を追いかける決心をしていたからです。

私は嘘をつきました。
もうあなたのことは愛していない、付き合いきれないと言いました。
彼は心底驚いて、何度も真意を確かめてきました。
嘘をつきとおすのは難しいことでしたが、やり遂げました。
だって、彼の夢の実現は、私の夢でもあるんですもの。

彼はひとりで旅立っていきました。
私は小さな部屋を借り、今のスーパーで働き始めました。
ジュンは、ありがたいことに、五体満足、健康いっぱいで生まれてくれました。
それだけで十分です。

私はジュンと暮らすことで、彼ともまた、共に暮らしているのです。
そして、ジュンの幸せを願うことは、彼の幸せを祈ることにも通じます。
だから、私は幸せでなくてはなりません。
なぜなら、ジュンも、彼も、私の幸せを願っていてくれるからです。
私が不幸でいる限り、彼らに幸せはないのですから。」






ポチッと応援お願いします


 


「そうでしたか。では、ジュン君はお父さんに会うことはないのですね。」
「会うもなにも、彼は自分に子どもがいることすら、知らないのですから。」

「ところで、先生は息子にいつも『ジュン君は何でもできる』って、言ってくださるそうですね。」
「ああ、はい。だって、本当ですから。」
「先生は息子を本当に信じてくださっているのですね。」
「いえ、ジュン君だけではありません。子供たちは可能性の塊ですから。」
「あの子は人生の初めに、あなたのような先生に見守られて育つ幸運を手にしているのですね。なんて幸せなことでしょう。先生、いつもいつも、ありがとうございます。あの子はきっと、私たちの信頼を裏切らないと、私は信じています。もっとも、裏切られても、やっぱり私はジュンが大好きなんですけれどね。」

チヨコ先生は感動した。
全ての秘密を聞いた気がした。
ジュン君の出生の秘密などではなく、この親子がなぜこのように明るく健やかなのか、その秘密だ。 

しかし、その話を、今ここで、自分の口からスミレ先生に聞かせてはならない気がした。
それは、ジュン君のお母さんに対する、裏切り行為のような気がしたからだ。

「ちょっと!どうだったのよ、ジュン君のお母さんは。」
「あれは、貴族だね。」
「キゾク?」
「そう。精神的貴族。私ら何ぞは足元にも及ばない。お金も、境遇も、何もあの二人を不幸にすることなんかできない。すごいと思わない?」
「なんだかわからないけど、確かにそれがホントならすごいね…。」

それに比べてみると、ヒデ君のお母さんは…。
スミレ先生は思い出していた。
授業参観を待ち切れず、スミレ先生はお母さんを学校に呼んだのだ。
ヒデ君の様子を聞いたお母さんは、ひどく恐縮して涙を浮かべた。
どうしてなんでしょう、どうしたらいいんでしょう、を繰り返していた。
スミレ先生は自分の実力のなさをお母さんにぶつけていじめているような気がしてきて、いたたまれなくなった…

「つまり、子どもの状態は、教師の私たちの影響よりも、お母さんのほうが大きいって言いたいの?」
スミレ先生は頭を整理しようとしていた。
「う〜ん、ちょっとニュアンスが違うかな。乳幼児の頃ならそうなんだと思う。お母さんの影響をダイレクトに受ける。でも、5歳とか6歳とかになると、その域を脱して、お母さんに反応するようになる。」
「反応?」
「そう。乳幼児期が『順応』で、その次が『反応』、それから『自立』。」
「わからない。どういう意味?」
「つまりね、それまで言いなりに受け取っていたことに、自分で判断を加えて工夫するようになるんじゃないかってこと。例えば、あなたはダメね、って言われて、ああダメなんだと素直に思うのが順応。そこから、ではどうしたらダメだと言われないんだろうって考えて、自分なりのやり方で行動してみるのが反応。そのうち、人は人、自分は自分の道を行くぞ!というのが自立ってこと。」
「ああ、なるほど。なんとなくわかった。」

「だとすると、ヒデ君の状態は、単にスミレちゃんがどうしたから、お母さんがこうしたから、というものではないってことよ。子供だからね、誤学習ってこともある。」
「誤学習………」






ポチッと応援お願いします

 


「そう、誤学習。勘違いってこともあるわけよね。」
「ああっ!」

スミレ先生には思い当たることがあった。
ヒデ君を強引にサッカーに誘った時、初めは抵抗していたものの、後ろから抱え込んで体を支え、ボールを一緒に蹴ろうとした時、何か、こう、寄りかかられているような、先ほどまでの抵抗をやめて、体を委ねられているような感覚を持ったのだ。スミレ先生はその時、抵抗するのに疲れて、やってみても悪くない気持ちになったのだろうと思っていたのだが。

「もしかして、座っていたら、また私に抱えてもらえると思っちゃったかな?」
「わからないけど、体罰を拒否しているというよりはスジが通る気がするよ。」
「あちゃ〜。やっちゃったかな?私!」
「ヒデ君のお母さんって、どんな人?」
「そうね、気が小さくて真面目な感じ。ヒデ君のこと一生懸命に育てているんだけど、努力が実を結ばなくて苦しそうな印象を受けたな。それに、はっきりしないというか、近くにいると、こちらが罪悪感を感じるんだよね。」
「ははぁ、不器用そうな感じだね。」
「そうそう。不器用そうってピッタリな表現。愛情はあるのだけど、うまく伝えられない。ヒデ君も不器用そうでしょう?うまく伝えられてないものをキャッチするほどの力もない。でも、本当は甘えたくてうずうずしている。」
「ってことは、スミレちゃんはママの代わりかもね〜」
「ひゃ〜〜!」

「だからさ。悩むのは止めて、できることをしながら、彼らの成長を気長に待ちましょうよ。」
「そうだねぇ。それしかできないもんねぇ。」
「合い言葉は?」
「放っておいても子は育つ!」

小学生とはそういうものだ。何かしてもしなくても、どんどん大きくなっていく。
成長しないなどということはあり得ないのだ。
放っておいても育つ中で、どこか、なにか善きものを渡したい。
その一心で勤めるのがこの仕事だ。

「はぁ。お腹はいっぱい、胸はスッキリ。ありがとう、チョコちゃん。」
「なんの、なんの。お互いさまよ。」
「しかしさぁ、チョコちゃんって、男前だよねぇ。かっこよすぎる。」
「ほほっ。何をイマサラ。」
「けど、縁遠そう。」
「なに〜っ






ポチッと応援お願いします
 


「学校に呼ばれたんだってな。何だった?」
ヒデ君が隣の部屋で眠っているので、パパの声は心持ち低い。 
学校から呼ばれたことはパパに内緒にしていた。
それなのに、帰宅一番この話題が出たのは、きっとおばあちゃんが告げ口したからだわ。

「ヒデ君がなんだかいろいろと怖がって、泣いてばかりいるらしいの。それで、先生が家での様子とか、これまでのこととかを聞きたいって。」
「ヒデは相変わらず弱々しいな。つまりそれは、先生がヒデの現状を家庭のせいだと思っているってことか?」
「違う。そうじゃないと思う。先生もいろいろと悩んでくれているんだと思う。」
「たかが26の小娘に、家庭のせいだとかなんだとか言われたくないな。」
「だから、違うって。」
「じゃ、なんでお前は呼ばれるんだ。自分のやり方が悪いんだから、自分で責任持って考えるのが筋だろうに。」

いつものことだ。
この人とは「相談」というものが成り立たない。
誰の責任、誰が悪い、誰が正しい。
そればかりだ。
誰もに責任があるとか、誰ひとり悪くないとか、誰が正しいかわからないとか、そういう世界もあるのだということが、この人には理解できないらしい。 
共に生活を始めるまでは、彼のそういう考え方を頼もしいと思ったものだった。
職場の上司として、その揺るぎなさは魅力だった。
けれども、暮らしの中では、時間が立つにつれ腹立たしく感じることが増えた。

夫の好きなこと、したいこと、知っていることだけが正しいことだった。
お前がそこまで言うなら好きにしろよ!という言い方も気に食わないが、「いえ、いいの。あなたの言うようにしましょう。」と言い出すのを待っているのがありありとしているのもがっかりだ。卑怯な男。
友達がご主人とあーでもない、こーでもない、と揉めながら車を買った、家を建てたという話を聞くたびに、我が家ではそんな揉め事は起きないわと笑ってきた。
だって、何でも勝手に決めるんだもの。私の意見など最初からないもの同然。

そして、都合が悪いことが起きると、いつも私のせいなんだわ。

「先生はお若いからこそ、ヒデについて一番知っている私に相談してくださったのだと思うわ。それに…」
「おまえの育て方が悪いんじゃないのか?」

人の話を最後まで聞きもせず何を言っているの?あなたの子供でもあるのよ!という言葉を、喉の途中でなんとか飲み込んだ。
腕の外側の皮膚がつぶつぶと泡立ってくるような感覚が襲う。

「おふくろが心配してたぞ。ちゃんとやってくれ。」

まるで会議資料のコピーをミスした部下に文句を言うような口調に、もはや会話を続ける気力が湧かなかった。






ポチッと応援お願いします

 


ママは風呂に去った夫から逃げるように、ヒデ君のベッド脇に座った。
ヒデ君の寝顔は、無邪気としか言いようがない。
この子が生まれた時からこうして寝顔を覗き込んでいるけれど、いつの間にか大きくなったなぁと思う。 もっともっと大きくなるのだろう。背が伸びる。体重が増える。そのうちヒゲが生えるのよね。すね毛?ああ、ヤダ!反抗期になったら、この子もババアなんて言うのかしら。もっと大きくなったら、彼女ができたとか結婚したいとか言うのかしら。その時私は、きっとその娘のことを好きにはならないわね。

だから、しかたがないのだ。
お母さんが私を好きにならないのは、しかたがないと思うしかない。
私はお母さんから大切な宝物を奪った泥棒みたいなものなんだろうな。
その泥棒と同居しているんだから、複雑な思いなんだろう。
とはいえ・・・。

学校で聞いたヒデ君の様子は、本当に悩ましい。
さっきは夫の言い方に腹が立ったけれど、本当は私が育て方を間違えたってことかもしれない。
今日もまたお母さんに言われた。
学校から戻った途端だった。泣きっ面に蜂。
「倫子さん、子育ては母親の勤め。学校から呼び出されるような恥ずかしいことは、秀一にすまないと思ってもらわないと。あなたがしっかりしないから、秀樹がしっかりしないのよ。」 

言葉は7%と聞いたことがある。
言葉の意味が相手に影響を与える力はわずか7%しかない。
それ以上に言い方がインパクトを与えるそうだ。
お母さんの、あの言い方にはいつも傷つけられてしまう。
吐き捨てるような、見下すような、馬鹿にしきった声。
醜く歪んだ口元を見ていると吐き気がしてくる。

心に浮かびあがる呪いの言葉を、人としてあるまじきことと否定するほど、無邪気な時代はとっくの昔に終わっている。
こんな言い方されたらイヤな気分になって当然。
腹が立つのは当たり前。 
腹が立ちすぎたら、呪いたくなるのは人として正常だわ。
だから寝室に飛び込んで鍵をかけ、ベッドにもぐりこんで枕に顔をうずめた。
泣くためではない。
泣いてたまるか。
「このクソババァ!とっととくたばれぇぇぇぇっ!」

あの息子に、あの母あり。
秀樹を守らねば。
いつか「秀樹はさすがだ」と言わせてやる。
強く賢い子に育てねば。

だれがやる?
私でしょう。
いつやるの?
今でしょ!?






ポチッと応援お願いします 


シャッと音をたててカーテンを開ける。
外はすっかり明るくなっている。
同時に鍵を開け、窓を思い切り開く。
まだ温度が低い、乾いた空気がさぁっと部屋になだれ込んでくる。

いい天気だなぁ。
スミレ先生はしばらく空を見上げている。
パジャマごし、少しだけ汗ばんだ肌に風が心地よい。

土曜日の朝は幸せだ。
時計に追われるように着替えたり、授業の段取りを考えながら朝食をほおばったりする必要がない。 
誰が見るでもないこの部屋にいる限り、このままパジャマで過ごしてもかまわない。

平日は、起きると同時にローテーブルに置かれたリモコンを取り上げてテレビをつける。
でも、土曜の朝はそれをしない。
車の音、雀のさえずり、道路を通って行く家族連れの話し声… 

大学に入って一人暮らしを始めた時、スミレ先生は時々完全にひとりになって、自分の体が求めるままに過ごす時間がどれほど心地よいものなのかを知った。いつもいつも精一杯に頑張っている自分を自覚する者だけが感じるささやかな自由。

ああ、また辞められなかったな。
今週こそはと思いながら、やはり言い出せなかった。
もう教師なんて、本当は何の魅力も感じていないのに。

それどころか、このまま続けていたら、思い通りにならない子どもに手をあげて、不祥事を引き起こしてしまうだけだと思う。もう限界だ。
辞めたい、辞めたい、辞めたい。最近はそれしか考えられない。

夕べ、チョコちゃんに聞いてもらおうと思っていた。
でも、言い出せなかったし、話は全然違う方向に行ってしまった。
本当は、ヒデ君のことなど私ごときにどうにかできるはずもないのだ。

ヒデ君を引っ張って無理やりボールを蹴らそうとした時は、必死で夢中で真剣だった。
けれども、本当にそれだけだと言いきれるだろうか。
いや、いい。もうそんなことも考えたくない。
チョコちゃんには「ああスッキリした」と嘘をついた。
でも、それも今日は考えないことにしよう。






ポチッと応援お願いします
 


前の彼と別れてから、1年と何ヶ月かになる。
都会には珍しい雪が降り積もった夜のことだった。
電車が止まって彼は帰れなくなった。
泊まっていってくれるのは歓迎だったけれど、晩ご飯の材料を買いに行くのが億劫だった。

大したものはできないけど…と言うと、彼は笑いながら言ったのだ。
「宅配ピザ、頼めばいいじゃん。」
耳を疑った。

「宅配って。こんな大雪の中、バイクでなんか来られないし、無理に来たら危ないよ。」
「平気だろう、仕事なんだし。無理なら注文受けないだろう。」
「外に出るのってバイトの子でしょう。店長に行けって言われたら行くしかないじゃない。自分が外に出たくないような日に、人を外に引っ張り出すの?」

スミレ先生の言葉に耳を貸すこともなく、彼は宅配ピザを注文するため電話をかけ始めていた。
スミレ先生は「どうか断って!」と祈るような気持ちになっていた。
ピザ屋は注文に応じたらしい。

チャイムが鳴ったのは、電話をかけてから2時間も経った後だった。
お店のロゴが入った黒い上下のレインスーツ。シロクマのように雪を積もらせたバイトの高校生らしい店員が、大事そうに抱えたピザの箱を差し出した。足元に置かれた保温ケースにも雪が積もっている。
「すみません、時間がかかってしまって。」

スミレ先生は心からお詫びをした。ごめんなさい、こんな雪の日に。
「いえ、仕事ですから。雪見ピザをお楽しみください!」という青年に、恥ずかしくて顔を上げられなかった。
どうか事故を起こさず無事に帰ってと祈った。
青年は、そのまま歩いて去って行った。バイクは危険と考えて、歩いてきたことに気付いた。
横着で自己中心的な大人のために、若い命が危険にさらされたのだと思うと、たまらなかった。

「ごめん。別れる。」
スミレ先生は言い出したら後に引かない。
「無理だわ。あなたとは、価値観が合わなすぎる。」

届いたピザを口に入れかけた彼は、大きな口を開けたまま目をパチパチさせていた。
私には、信頼とか信用とかいうものが、よく分かっていないのかもしれない。









ポチッと応援お願いします 


スミレ先生は自分でも笑えるくらい、別れた彼に未練がない。
まぁ、日本の人口をだいたい12億人として、半分の6億が男性だ。
小児と高齢者は対象外…ま、3億人くらい差っ引くか。
それでもまだ3億人残る。
そのうち何人に出会えるか知らないが、少なくとも、根本的な価値観が合わない男と付き合っておくような必要性は微塵も感じない。

3億といえば、スミレ先生は「億」という単位を習った時に計算してみたことがある。
毎日誰かに「すみません、1円ください。」とお願いしたら、きっと誰かはくれるだろう。
それを1億日繰り返したら、1億円の財産ができる。
スミレ先生は億万長者になりたかった。
1億日は・・・・273972.6027年だ。
ん?27万年??
だめだ。これでは化石になってしまう。
1日10円でも2万7千年。恐竜だ。

では、1日10円を10人からもらったらどうだろう。
それでも2739年。だめだ。
1日1000円ずつだったら…274年目だな。
ちょっと近づいてきたが、人生3回やり直さないといけない。

それに、毎日100円くれるひとを10人探すのは難しい。
それよりは毎月30000円を給料から貯金する方が簡単そうだ。
その貯金が6万円だったら…137年。もう少しで手が届きそう。

そうだ、ボーナス。
ボーナスの時にちょっと余分に貯金したらどうだろう。
毎月6万円で1年間に72万円。ボーナスは頑張って…そうだ、年に100万円の貯金。
すると…それでも100年か。

億万長者への道は、小学生のスミレ先生には難しすぎた。
それでも、億万長者になりたい。
そのためには…。
おお!

スミレ先生は気がついた。
1億円持っている人と結婚すればいいんだ!

ひらめきの瞬間は、輝かしい記憶となってスミレ先生に胸に棲みつくことになった。

「あ〜あ。なんでコウムインなんかになっちゃったのかなぁ。」
若気の至りとか、魔が差したとかしか言いようのない自分の行動に、またため息をつく。

こんな時に限って、「今でしょ!?」なんてフレーズが流行っている。
やり直すならいつ?
今でしょ!?

しかし、考えるのは進んでも、行動のほうは簡単にはいかなかった。





ポチッと応援お願いします


 

このページのトップヘ