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あなたも幸せ。私も幸せ。

カテゴリ: 小説


7月ももう終わるころになって、ようやく梅雨が明けた。
といっても、僕は喜んでいるわけではない。 
仕事がはかどる、大工は夏が勝負だ!なんていう元さんや、野菜の季節がやってきたぜ!と張り切る長さん、これからは熱中症と夏風邪で患者さんが増えるんだよぉと嘆き半分、どこか嬉しそうに見えなくもない宮田先生と違って僕は全然嬉しくない。
夏は嫌いだ。
何度経験しても嫌いだ。
暑いのは本当に苦手だ。

子どもの頃に、何か余程嫌な経験でもしたのだろうかと思い出してみるのだが、これといって思い浮かばない。
思い出したくもないほど強烈な思い出なんだろうか?

今夜は、さよりさんが言っていた、あの会社の夏祭りだ。
強引な誘いに負けて、僕はつい、行くことにしてしまった。
というのは表向きのこと、あんなふうに声をかけてもらって、僕はまんざらでもなかった。
やっぱり、無視されるより、ずっといい。

ところが、当日になってジワジワと焦りが出た。
何を着ていけばいいんだろう?
まさか、バーテンダースタイルで行くわけにもいかない。
でも、そうしないと、Tシャツとデニムくらいしか持っていない。
それでは気分も見た目もパッとしない。

待ち合わせの時刻まではまだ間があるから、急いで買いに行くこともできる。
けれど、袋から取り出したての折り目が付いたシャツを着ている自分を想像したら、なんだかものすごく気合いが入った初心者みたいで恰好がつかない。
ポロシャツ?それとも?
イメージもわかない。

子どもの頃、母さんや姉さんと一緒に、毎年夏祭りに連れて行ってもらったじゃないか。
あの時、周りの大人は何を着ていた?
思い出してみようとするが、ぼんやりかすんでいてよく分からない。
母さんの笑った顔、姉さんのビーチサンダル、それから?

こういうことは、いくら考えたところで答えは出ないから、素直にゆかりさんに聞いてみることにした。
「夏祭りに行く男というのは、何を着ているものですかね?」
「そうねぇ、普通でいいんじゃないかしら。」
その「普通」が一番困る。
今夜何食べたい?と聞いて、何でもいいよと言われた時と同じくらい困る。

「ああ、そうそう。よかったら、これ着て行ってみない?」
ゆかりさんはそう言うと、自分の部屋に行き、白い畳紙に包まれた着物を持ってきた。
そのまま居間に座って見せてもらう。
中から、男物の浴衣が出てきた。

「これは?」
「だいぶ古いものだけれど、きちんと手入れをしながら保管してあるから、いつでも着られるわ。
帯も、下駄も、ほら、そろえてあるし。」
ゆかりさんは、家族について多くを語りたがらない。
僕はいまだに、彼女が既婚者なのか、子どもがいるのかなど、まったく知らずにいる。
でも、問いかけたことがない。
問わない僕だから、ここに置いてもらえるのだと思っている。
だから、その浴衣はどなたのものですか?とは問わずにおくことにした。

「お借りしてもいいですか?」
僕は渡りに舟と飛びつくことにした。
大学の学部にいたころ、少しだけ茶道をかじったことがある。
学園祭の発表会の時には、浴衣姿で茶をたてた。
まったく知らない着物ではない。
もっとも、あの時の浴衣は借り物で、自前のものなど持ったことがないのだが。

おかげで、僕は服選びの苦痛からあっという間に解放された。
ゆかりさんにちょっと手伝ってもらって浴衣を着た後は、時間を見てでかければよいだけだ。
6時に正門前で…と言われている。
あの会社までの道のりは、歩いていくこともできるのだが、駅前でちょっとお金をおろしてから、ひと駅電車に乗っていくことにした。
下駄では歩き慣れていないから、少しでも歩く距離を縮めておくのは悪くない。

さほど混んでいないだろうと思っていた車内は、意外と人が多い。
ユニフォームを着て真っ黒に日焼けした小学生の団体を、小柄で若い女性がひとりで引率している。
このユニフォーム、持ち物ならばサッカーだろうか。
子どもたちなりに精一杯おとなしくしているのだろうが、甲高い笑い声、一斉のどよめき、なかなかに騒々しい。

僕がつかまったつり革の隣に、引率の小柄な女性がいる。
彼女も真っ黒に日焼けしている。
つり革を持ちながら、周囲に目を配り、声が大きすぎたりすると、キッと目配せをしている。
長い髪をポニーテールにして、一切の無駄がなさそうな引き締まった容姿に、自分とは異世界の何かを感じる。
彼女もまた、Tシャツにジャージ姿だった。

「お前さぁ…。」
子どもたちの中でも年齢が上に見える少年が、彼女に話しかけた。
少年は彼女と同じくらいの背丈をしている。
「何?」
お前と呼ばれても、彼女は文句ひとつ言わない。
「お前も一応女なんだからさぁ、試合の行き帰りくらい化粧するとか、普通の服着るとかしろよ。」
「ピアスとかネックレスとか、ネイルとかしろよ!」
最初の少年より年下の子が一緒になっていうと、そうだそうだと他の少年たちもはやし立てる。
「電車にジャージで乗ってる女なんかいないぞ。」

僕は、彼女がなんて答えるのか、少年たちと同じくらい興味を持ってしまった。

「あのね、試合の前に普通の服着た監督を見て、やる気が湧く?」
「着替えればいいじゃん。」
「あたしが着替えに行っている間、みんなの気持ちとか練習とか、緩んじゃうんじゃない?」
「そんなことないよ!」
「そうか、ないか。みんなならそうかもね。でもね…。」

さっきまでゲームがどうの、スマホがどうのとワイワイいっていた20人ほどの子どもたちが、いつの間にか彼女の声を聴き始めている。
それほど大きな声ではないのに。
統制のとれたチームのようだ。

「あたしはまだ先生になって間もない半人前だからね、偉そうなことは言えないんだけど、みんなと一緒にいるときって、あたしはみんなと同じでいたいんだよね。」
「なんで?別にお手本とかいらねーし。」
「うん。お手本なんてすばらしいものにはもともとなれないし…。」
「それじゃダメじゃない!」
子どもたちが笑う。

「けどね、例えば、運動会を考えてみてよ。
みんなは今日みたいに、決められた体操着を着ているでしょ?
見に来るお母さんたちは体操着?」
「そんなことない!体操着だとヘンだよ。普通の恰好。」
「だよね?ネックレスとかピアスとかは?」
「してるねー。」
「うちの母ちゃん、けっこう気合い入ってる!」
「そうそう。お母さんたちはそれでいいの。だって、応援団だもん。」
「うん。」
「じゃあ、運動会の時、先生たちがみんなお母さんと同じ格好していたらどう思う?」
「えー?なんか変。」
「変?
じゃ、先生が服はジャージを着てるけど、ステキなネックレスしてたら?
ダイヤがキラキラとか、真珠がずらりとか。」
「あー!なんかすげーヤダ。」
「雰囲気壊すねー。」
「雰囲気壊す?
じゃぁ、ネックレスはやめて、ピアスして、綺麗なネイルしたばかりだから綱なんか持てないよ、って言ったら?」
「うわ、サイテー!」
「ピアスしててボール当たったら怪我するよって、ママが言ってた。」
「そうだね、危ないってのもあるね。
じゃ、もし、先生が救護の係で、みんなのかけっこやダンスは一緒にやらないとしたら、オシャレしてもいい?」
「…うーん、どうかな?」
「オレはヤダな。」
最初に化粧しろと言った少年が言い出した。
「だって、あんたたちは走る人、私は関係ないって言われているみたいな気がする。」
しばらく真面目な顔で聞いていた隣の少年も言い出した。
「運動会の朝、先生が、僕たちのことじゃなくて、自分のネックレスとかピアスとかのことを考えてたんだーって思うと、なんだかちょっとがっかりするね。」

「あたしもね、そうなんじゃないかな?って思うの。
あたしはね、役割は違うけど、いつでも一緒に走る気だよ、君たちと心は一つだよっていうのを、服装でも表したいんだよね。」
「そうなんだー。」
「わかった!だから校長先生もカッコ悪いジャージなんだね?」
「スゲー古いデザインのやつ。着慣れてないから似合わねーんだよなー。」
「でも、校長先生のジャージ見ると、今日は特別な日なんだな!って、ドキドキするよな?」
「うん!」

「いろんな考え方があるし、みんなが私みたいに感じるわけではないと思う。
でも、あたしは、みんながジャージで試合のことを考えるときは、私もジャージで、みんなの気持ちになって、みんなと一緒に試合のことを考えたいの。
オシャレは別の時にいくらでもできるからね。
それに…。」

彼女はジャージのズボンを引っ張った。
「これ、あたしが今一番気に入っているスカートより高いんだよ!」
「えーっ!」
「大人になって、一生懸命仕事してお給料いただくと、こんな楽しみがあるんだよっていうことよ。」
「へー!」

「お前さぁ…。」
最初にこの話をし始めた少年がしみじみと言う。
電車はそろそろ次の駅に近づき、減速し始めている。
「オレ、初めてお前のこと、先生って呼んでやってもいいと思った。」
「じゃ、これから、お前じゃなくて、先生って呼んでくれるの?キャプテン?」
「ま、気が向いたらね。」
「しかたないか。あまりに未熟者だからねー。
いつも先生って呼んでもらえるように、これからも精一杯頑張ります!」
「ま、頑張れば?」
少年の偉そうな答えと同時に電車が止まり、ドアが開く。
子どもたちの盛大な笑い声が湧き起こった。

僕はその笑い声を背に、電車を降りた。
空には雲ひとつなく、あちらこちらから蝉の声が降り注いている。
電車の冷房から一気に外の蒸し暑さに投げ出されたのに、僕の心はさわやかなままだった。










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会社の仲間とはしゃいでいるさよりさんを見ていて、僕はなんだか落ち着かない。
まるで自分が無視されているような感覚に苛まれるのだ。
でも、さよりさんは店に客としてきて、客らしく楽しく飲んでいるにすぎない。
他のお客様と同じように。
来てくださってありがとうございますと思うのが、僕の仕事だ。
そんなこと、頭では十分分かっているのだけど。

「あのぉ。」
少しぼんやりしていた僕に、カウンターでひとり飲んでいた初老の紳士が声をかけてきた。
静かにゆっくりとグラスを口に運ぶ姿が洗練されている。
「は、はい。すみません、ご注文ですか?」
それに比べて、ひとつの返事に、僕はしゃべりすぎている。

「なんだかね、冷ややっこが食べたくなってきてね。」
「はい。ご用意いたします。」
「そうかい。どんなふうにできるだろうね?」
召し上がりたいものがあるだけでなく、お話がなさりたいのだろう。
この会話は、ゆかりさんに任せた方がよさそうだ。

「お好みがおありですか?」
ゆかりさんがすっと隣にやってきて、僕と何のやりとりもなく話を継いだのが、紳士を喜ばせたらしい。
「そういうことではないのだが、ほら、簡単な料理ほど、いろいろ工夫ができるものだろう?」
「そうですね…。」
ゆかりさんは人差し指をあごにあてて、少し首をかしげて見せた。
「お嫌いでなければ、ショウガと青しそに、少しミョウガを添えてお出ししてみましょうか。」
「おお、ミョウガか。それはいい。」
「ミョウガはお好みでない方も多いので、あまりお出しすることはないのですよ。」
「そうかもしれないね。
いえね、子どものころ住んでいた家の庭に、ミョウガが勝手に生えてくるんですよ。
それで、夏の間はそうめんだのなんだのと言うたびにミョウガがついてくる。
子どものころはあれが苦手でね。」
紳士は懐かしそうに眼を細めている。
「新潟の出身なんだがね。」
「そうでしたか。」
「故郷を離れて暮らす方がずっと長くなったけど、今頃になって子どもの頃の味が懐かしい時があるねぇ。」
「はい、はい。そうでございましょう。」

いつもは一度奥の調理場に入って支度をするのだが、今はお話が続いているので、僕が奥に入り、耳にした材料をそろえてカウンターに持ってきた。
「白ごまもね。」
ゆかりさんの耳打ちを聞いて僕は急いで身を翻す。
ゆかりさんは会話を途切れさせることなく、紳士ご用命の冷ややっこを仕上げた。
切り子が美しいガラスの器に盛りつけ、箸ではなく、木のスプーンを添えた。
「これはこれは。目に涼しく、舌に涼しく、だねぇ。」
あくまで細く切られた青しその上に白ゴマが散っている様子が、淡雪のようにも見える。
「うまい。これは、うまい!上等な豆腐を使っているね。」
紳士はたいそうご機嫌だ。

「ところでママさん。あなたの今夜の着物は、きっと上布だろうね。」
「まぁ、よくご存じで。その通り、ご出身の新潟でできた越後上布ですわ。」
「よく似合っているねぇ。」
「あら、お上手ですこと!」

今夜の着物は「上布(じょうふ)」というそうだ。
麻でできていて、薄く、軽いのだそうだ。
深い紺色の中に、井形の模様が白く浮き出ている。

「この布が仕上がるまでには、50工程もの手作業が必要なの。」
昨年、この着物を初めて見た日にゆかりさんが教えてくれた。
「越後上布は重要無形文化財になっているの。織るにも染めるにも、職人さんが精魂傾けてひとつひとつ手を動かして作り上げるのね。それをこうして着せていただけるのは、本当にすばらしい気持ちになるのよ。」
ベージュ…いや、今夜は練色(ねりいろ)と呼ぼう… の帯とのコントラストがいかにも涼しげな着こなしなのだ。
七夕の夜の、特別なしつらえなのだろう。
この着物を着ると、ゆかりさんはいつもの数倍、しゃんとして、きれいに見える。

「越後上布は年取った職人が糸をつむぐのは知っているでしょう?」
「はい。存じております。」
「今はそれが、できなくなってしまった。」
「まぁ!それは存じませんでした。どうしたのでしょう?」
「新潟で、大きな地震があったのは、もうずいぶん前のことに思えるが…。」
「覚えておりますよ。」
「あの地震でね、土地の職人たちが怪我をしたり、避難したり、都会の子どもたちの家に引き取られたりして、糸を紡げる職人がいなくなってしまったのだよ。」
「…!」
「今では伝統のままに作られる越後上布は、年に2反か3反か、そんなものだそうだ。」
ゆかりさんは息を飲んでいる。
「だからね、ママさんの越後上布は買ったときも高かっただろが、これからますます価値が出るでしょうよ。」

紳士はあっというまに冷ややっこを腹に収めている。
薬味のわずかな破片も残さないきれいな食べ方に、器を下げながら、僕はちょっと憧れめいた感覚を覚えた。

「君、ママさんのあの着物、いくらぐらいすると思う?」
「はぁ…。」
こういう時は、当てるより外れる方が喜ばれる。
でも、本当に、いくらなのか想像もつかない。
盛大に高値を言ってみようか。
「20万円くらいかなぁ。」
「わっはっはっはっ!」
紳士は大爆笑の体だ。
「違いましたか!」
「20万円では帯も買えないだろう。
ゼロがひとつ足りないよ。
いや、ゼロをもうひとつ足したくらいでは買えないんだと思いますよ。」
「ほ、本当ですか!」

僕は瞬きの仕方を忘れてしまった。
ゆかりさんは微笑むだけで、頷きもしなければ首を振りもしない。

「穂高くーん!」
もうすっかり出来上がったさよりさんが呼んでいる。
紳士が、行っておいでと手を振る。
世の中には、僕が想像もできない世界がまだまだたくさんあるんだなぁ。

「ねぇ、願い事書いておいたから、笹につけてきてよ。」
「はい。」
年下の癖に、相変わらず人使いが荒い。
「それからね、月末にね、会社で盆踊り大会があるんだけど、穂高くんも来ない?」
「へ?」
「来るでしょ?花火大会もあるんだ。ね?じゃ、そういうことで。」
「あ?」
「あんた、いいねぇ、姉御に誘われるなんてさぁ。」
ことに色黒の筋肉が、僕の背中をバンと叩いてガッハッハと笑った。
ゆかりさんは「何言ってんのよぉ」とご機嫌だ。
僕はまだ、背中を打たれた勢いで息が止まったままだというのに。






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七夕の夜、小紫はお客様が多くて、嬉しい悲鳴を上げた。
梅雨のさなか、朝のひんやりした空気はどこへやら、日中は雨はなかったのに、全身に水滴が付きそうな蒸し暑さだったことも、帰宅前のビールを恋しくさせた要因だろう。
「とにかく、生をひとつ!」なんて注文が多かった。

この日のお通しは枝豆だ。
ただし、ゆかりさんのことだから、スーパーで買った枝豆などではない。
裏の畑で、春先から自ら育てた枝豆なのだ。
有機栽培、当然除草剤など一切使わず、僕も一緒になって毎朝草取りをしてきた。
それを、この朝、まだ葉に朝露が光るうちに収穫し、ゆでたものだ。

ゆで方のコツは僕にはわからない。
ただ、仕上げにザッとふりかけた塩にもこだわりがある話は聞いている。
この塩が、本当に旨いのだ。

小紫の調理場には、3種類の塩がある。
しっとりと、細かい塩。
これは、枝豆をゆでるときにも使っていたが、出番が一番多い。
元さんが大好きなおむすびにも、この塩が使われる。
それから、卓上瓶に入った、サラサラした塩。
これは、サラダの仕上げにサラリとふりかける時などに使う。
そして、ざらめのような粒の塩。
枝豆に振ったのがこれだが、ほかに、天ぷらに添えたりもする。

ゆかりさんこだわりの塩は、伊豆大島で作られている。
口に入れると塩辛さの後に甘みを感じるから不思議だ。
海水から伝統の製法で作られるそうだが、どれも強い火で焼いたり、天日で乾燥させたりして作るから、「塩に邪気がない」のだそうだ。
邪気がある塩とは?という点は、さっぱりわからない。
そもそも、塩って邪気払いに使われるものじゃないの?

この塩の話は以前から何度も繰り返し聞かされているのだが、いまだに理解できないのだ。
世の中には、僕が知らないことがまだまだたくさんある。

ともかく、邪気のない旨い塩が白く載った枝豆の評判と言ったらなかった。
うまい、うまい、枝豆ってこんなに甘いものだったかね、
生をもうひとつ、いや、できれば枝豆をもうひと皿…
などという声が続いて、ゆかりさんはご機嫌だ。
「今日のようにたくさん汗をかいた日は、水分もたくさんお取りになるでしょう?
すると、汗と一緒になくなっていた体の中の塩分が水で薄くなってしまうんです。
それで、水を飲むほど熱中症になるなんていうこともあるそうなんですよ。
ですから、今日の枝豆には粒塩をふりましたので、一緒にお口に入れてみてくださいね。」
初めて来た客の席に二度目のビールを運びながら、ゆかりさんが話している声が聞こえる。

僕が作っておいた短冊も、置いたままにせず、お席に運んでみることにした。
思いついたのは僕だ。
「今夜は七夕ですから、願い事をお書きください。」
一笑に付されるかと思いきや、「おお、そうかい?」と書いてくださる方が多いのに内心驚いた。

集まった願い事は、この街、この店にふさわしい、ささやかなものが多かった。
『家族が幸せに暮らせますように』
『温泉旅行に行きたい』
『おじいちゃんの足がよくなりますように』
『お嫁さんが見つかりますように』

『安全第一』…これは、元さんが書いた。
さすがは棟梁だ。
「笹じゃなくて、毎日現場にかけておくといい。」
宮田先生が珍しく冗談を言った。

『家内安全』…これは、八百屋の長さんが書いた。
「よほど、奥方が怖いのだろうねぇ。」と元さん。
「家内安全ってのはそういう意味じゃないよ。
まるで何かい?うちの家内は危険みたいな言い方するじゃないか。」
言い返した長さんに、
「家内ってガラか?ひとっつも頭が上がらないくせに。」
「う…。いや、まぁ、ヨメの言う通りにしとけば平和だからねぇ。」
一緒に来たわけではない隣のテーブルまで笑っている。

『無病息災』…これは、宮田先生が書いた。
「おいおい、先生よぉ。先生が無病息災なのは願ってもないことだけれど、世間みんなが無病息災になっちまったら、先生は飯が食えなくなるよ。いいのかい?」
元さんにからかわれて、宮田先生が一瞬真顔になったから、また周囲から笑い声が溢れた。
「確かに。では、ちょいと…。」
そう言って先生は筆ペンを取りなおすと、無病の「無」を二本線で消して、「一」と脇に書き足した。
「一病息災?」
「ああ。私が勝手に作った言葉だよ。
人間、何一つ病気もしない体だと、つい油断をして食べ過ぎたり飲みすぎたり、健康を過信して、気付かないうちにかえってひどく体を壊してしまうものなんだ。
それより、ひとつくらい気になることがあって、己を労わりながら養生するつもりで暮らす方が、長く息災にいられるというものだよ。」
なるほど、そういうこともあるかもしれない。
僕なんか、まさにその口だろう。
もしかしたら、先生は僕に気遣って、こんなことを書いてくれたのだろうか。

「こんばんわぁ!お久しぶり〜!」
笑い声の中に、能天気なほど陽気な声が響いた戸口を見ると、さよりさんの顔がのぞいている。
確かに、ずいぶん久しぶりだ。
「あらぁ、さよりちゃん。元気だったの?」
ゆかりさんは、里帰りした娘を出迎える母のような喜びようでカウンターから弾み出てきた。
「会社の人たちと一緒なんだけど、いい?」
「もちろん。丁度奥のテーブルが空いたところだから。何人様かしら。どうぞ。」

さよりさんを入れて6人の団体様だ。
おそらくみな運転手なのだろう。
さよりさん以外は全部男性で、しかも、僕より少し年上に見える。
そろいの作業服姿のままだ。
実に男らしく日焼けしていて、半袖の作業服からのぞいている腕は、どれも力を入れているわけではないのに、筋肉がくっきりと浮き上がっていて、同性の僕から見てもカッコイイ。

メラリ。
僕の心の底に、普段は感じない熱が伝う。
大ジョッキを6つ、一度に運ぶと、
「ビールは鮮度が命だから。」
とさよりさんの一声で、無駄な話のない乾杯が叫ばれ、黄金色の液体がふとやかな喉に流し込まれていく。
「プハーッ、美味いなぁ!」
「たまらないな、こりゃ。」

ポッ。
さっき心の底に伝わった熱から、小さな炎が引火した。
全身をとことん使って働く人だけが、あげる声がある。
ビールのうまさは、そんな労働と仲が良い。
僕は、その労働を知らない。
知らないから、嫉妬心がわくのだ。

今夜の僕はどうかしている。
一年に一度会える彦星と織姫。
それとは違って、僕はいつでもその気になればさよりさんに会える。
しばらく顔を見ていないのは、必要がなかったからではないか。
彼女が会社の人と飲みに来たからと言って、なにを慌てる?

もう一度、大ジョッキを用意しにカウンターに戻る。
凍らせたジョッキをひとつ手にして、さよりさんのテーブルを振り返る。
以前はどこか陰のある…というか、乱れた印象があって、この人は誰かが守ってやらなくてはならないのではないかと思わせる雰囲気だったのだが、今ではお日様の香りがする、元気いっぱいのOLさんになっている。
僕はなんだか、置いてきぼりを食らったような、寂しい気持ちになってきた。

なんだよ!
その就職探しに一緒に行ってやったのは僕じゃないか。
思う端から、そんなことを考えている自分に嫌気がさす。

今までの僕なら、こんな不愉快な気分から、どうにかして目を逸らそうとしたはずだ。
でも、その夜の僕は違っていた。
僕が思うことだ。
僕が思ってやらねば。
そんな気持ちが強く出てきている。
情けないと自嘲することもなく、酒や会話に逃げることもなく、お客様の注文に応じながら、僕は静かに自分の心を感じ続けた。

調理台にこぼれた粒塩を二粒見つけた。
人差し指に押し付けて、ペロリと舐めてみる。
ほんの少しの苦味と、しっかりとした塩味、そのあとでほんのり甘さが広がる。

「もうすぐ夏だな。この塩を振ったスイカ、食べたいな。」
どうしてだろう。
目をそらすよりずっと、力強く生きている自分を感じていた。







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僕の不快指数で換算したら120%以上になりそうな湿っぽい梅雨の日々が、今日はいったん休憩するようだ。
朝目が覚めて、窓を開けたとたんに、ひんやりとした風が吹き込んでくる。
カーテンの動きが昨日までとは逆だから、きっと北風が吹いているのだ。
こんな日は、何かいいことがあるんじゃないかと思えてくる。
幸せな「日常」の一コマの始まりとしては、上々の気分だ。

身づくろいを済ませて下に降りていくと、居間にはゆかりさんの姿がない。
台所にも気配がないので、裏の畑に出ているのかもしれない。
でも、ふと店に回り込んでみる。
ゆかりさんは、やはり店にいて、背丈と同じくらいの笹に、きれいな飾りをつけているところだった。
車が突っ込んできてぐちゃぐちゃになったドアはきれいに新しくなって久しく、ついでにリフォームした店内は、今もまだ新築の香りがする。

この笹はどこで手に入れたものか、昨夜元さんが届けてくれた。
約束では、もう何日か前に届けてもらうことになっていたそうだが、七夕前夜になったのは、元さんが仕事で大忙しだという嬉しい理由からだったので、ゆかりさんも「届いただけでありがたいわ」と感謝している。

「あら、穂高。おはよう。ちょっとだけと思って作り始めたら楽しくなってしまって。朝ご飯の前に、もう少しだけいいかしら?」
「ええ。手伝いましょうか?」
「お願いするわ。何かできる?」

僕はカウンターの上に載っていた水色の折り紙を一枚半分に折り、5ミリ間隔に切り込みを入れてから開き、対角をひとつ糊付けして飾りを作った。
「これしか知りません。」
「いいわね、かわいい。」
僕の手から水色の飾りを受け取ると、ゆかりさんは手早く糸をつけて、笹に飾り付けた。
ゆかりさんが指先でツンと飾りをつつくと、折り紙の裏の白と表の水色が不規則にくるくる回った。

「同じ方法で天の川も作れるわ。やってみる?」
薄紫の折り紙を半分でなく、細長く何度か折りたたんで、両側から交互にはさみを入れ、そっと平らに戻してから切り込みに対して垂直に引っ張ってみる。
「うわ、できた!なるほど川ですねぇ。」
それもゆかりさんの手で糸をつけられ、笹を飾った。

「次は、星の折り方を教えましょうね。簡単よ。」
ふたり並んでスツールに腰かけ、黄色い折り紙を一枚ずつ持って、折り進める。
「へぇ!ホントに星ができましたね。」
「ふたつ並んで吊るしたら、織姫と彦星が会えたみたいで縁起がいいわね。」

最近はやりの新しい飾り、なんていうのも教わった。
折り紙も、見慣れた色ばかりではなく、両面にそれぞれ色がついているものや、キラキラ輝く紙など、いろいろ用意されていたから、僕はいつの間にか夢中になっていて、腹が減ったことにも気づかなかった。

「あとは、お客様に願い事を書いていただく短冊を用意しておきましょう。」
「では、それは後で僕がやっておきます。」
「いいの?ありがとう。では、このくらいの大きさのを…。」
ゆかりさんが手際よく折り紙を三つ折りにして筋をつけると、はさみでシャキンと切った。
「わかりました。糸も通しておきますね。」
「ええ、お願い。じゃ、お客様が気軽に書けるように、私たちの願い事を先にかけておきましょうか。」
「願い事ですか?そうですね…。」

僕はしばらく考えた。
願い事はたくさんありそうで、いざ書こうと思うと構えてしまう。
ゆかりさんは筆ペンをさらさらと動かして、あっという間に一枚仕上げた。
『千客万来』
墨跡が乾く間にもう一枚。
『商売繁盛』

「なんだか、フツーですねぇ。」
からかい半分に言うと、普通が一番いいのよと返された。
ゆかりさんが置いた筆ペンを握って、僕はもうひと考えしてから、手を動かした。
『兄と弟が一度にできますように』
よし。
会心の出来だな。
「叶うといいわね。本当に。」
ゆかりさんの言う通りだ。
僕は笹の一番高いところに、この短冊をかけることにした。
少しでも、願い星に近いところへ。

「さ、朝ご飯にしましょう。」
「ほんとだ、すっかり遅くなりましたね。」
「今朝はだし巻玉子にしますよ。ちょっと湿気にうんざりして食欲が落ちてきたから、大根おろしをたっぷり添えましょう。」
「いいですね。大根おろしは僕が作りましょう。」
「助かるわ。」
僕らのコンビネーションは、そこらの夫婦に負けないくらいになってきた。

…いや、やっぱり夫婦じゃなくて、親子にしておこうっと。







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姉さんが結婚するという相手、カネタマルジョージさんは、金田丸譲二さんと書くのだそうだ。
きっと、小さいころから「金持ちになりそうな名前だ」と言われてきたに違いない。
姉さんたちは観光としてやってきたマルコ少年を一度グアテマラに連れ帰らねばならないらしい。
「養子縁組は6歳の誕生日を過ぎると、日本の法律ではいろいろとややこしくなるの。あと半年の勝負なのよ。」
なのだそうだ。 

結婚は、その進展に合わせてという。
これから池袋にある金田丸家にご挨拶に行くのと言う姉さんは、 相変わらず小さな台風の目だ。
「サトル、認めてくれてありがと。」
「いや、あの…。」
「じゃ、行ってくるわね。また連絡するから。」
「あ、おお。」
「葉月ちゃん、ランチは?」
と問いかけるオーナーにごめんなさいまた今度とサラリと言うと、3人は席を立ち、僕に盛大に手を振って行ってしまった。
約束の時間が迫っているのだそうだ。

台風が去った僕のテーブルに、オーナーがルナソル特製ワンプレートランチを運んでくれた。
大きな丸い皿の上に、つややかな黄色い小山が乗っていて、頂上に美味そうなデミグラスソースがかかっている。
ソースの中に浮いているマッシュルームがきれいだと思った。
「あれ?貴船さん、僕、ランチの注文なんてしましたっけ?」
「ああ、やっと口をきいてくれたね。」
「え?」
「君、お姉さんがいる間、ずっとあーとかうーとかばっかりだったじゃないか!」
「だって…。」
「ま、わかるけどね。」
「すいません。」
「謝ることはないさ。
さ、食べて。
今日のランチはオムレツなんだ。
ワンプレートと決めているけど、今日は見た目の問題で、サラダとスープは別にね。」

僕はオムレツが好きだ。
このトロトロとした舌触りがたまらない。
柄の長いスプーンを持って、一口食べてみた。
「ああ、美味いなぁ。」
オーナーはいつの間にか、さっきまで姉さんが座っていた席に腰かけて、水を飲みながら僕を見つめている。
「お気に召しましたか。」
冗談口調に僕も気持ちが少し軽くなる。

「サトル君。」
オーナーが改まった声を出した。
「はい。」
僕はオムレツを頬張る速度をゆるめずに返事をする。
「君はお姉さんを一言も責めなかったね。」
「責める?」
僕にはオーナーの意図が分からない。

「僕は内心驚いた。
だって、葉月ちゃんは病気と闘う君のそばにいるのが辛くて逃げ出したんだろう?
それで家族と言えるか?
君はどうして怒らないのかと思ってね。」

オーナーの口調には、姉さんを責めるような感じは含まれていない。
心底分からない、といった気持ちなのだろう。
僕にしても、頭で考えて姉さんを責めないと決めたわけではなかった。
ただ、最初から最後まで、驚きはしたけれど、責めるなどとは考えもしなかった。

「それは…。」
僕は自分の本音を探り始めた。
子どもの頃、テレビで観た映画のワンシーンがふとよぎる。
海の底に向かって、素潜りでくぐっていく男が映っていた。
あの、青くて暗い方へ向かう感じ。

「それは…、姉さんがあの時も今も、自分に正直に生きているんだと分かったからかなぁ。」
「正直に?」
「そうですね。
もし、姉さんが心底僕のそばにいたいと思うなら、それでよかったですよ。
でも、僕のそばにいるのが辛いと思いながら、家族だからという義務感で我慢していてくれたとしたら、それはきっと僕にも伝わって、僕も苦しんだと思うんです。」
「ああ。」
「死んでもしかたないと腹をくくられながら、覚悟を決めた顔でそばにいられるのも辛かったかもしれないし。」
「そうだろうか。」
「でも、姉さんは、建前や義務感より、自分に正直にいることを選んでくれたんです。
おかげで、ああして幸せな顔を見せてくれている。
突拍子もないのは相変わらずだけど、義務感に縛られて、密かにため息つきながら『あなたのために』なんて言われるより、僕にはずっとありがたいです。」

オーナーはまた一口、水を含んでから、静かに微笑んだ。
「いい、姉弟だね。」
「ありがとうございます。」
「君たちのお母さんは、素晴らしい子育てをなさったようだ。」
「どうなんでしょうね。
でも、確かに、母さんも母親だから僕らを育ててたという印象より、本当に僕らといることが楽しかったのだろうなぁという思い出の方が多いかな。」
「そうなのか。見習いたいものだな。」
「え?」
「いやね、僕ももうすぐ父親になるらしいからね。」
「へ?そうなんですか?」
「ハハハ!」

僕はもう、これ以上の非日常に耐えられそうになかった。
だから、確実に理解できる、オムレツの味に没頭することにした。
「このデミグラスソース、本当に美味いですね。」
「おいおい、こういう時は『おめでとうございます』って言うんもんじゃないのかい?」
「ああ、美味い。本当に美味い。」
「おやおや、キャパを超えたらしい。」

オーナーは自分のグラスを片手に、カウンターの奥へ戻っていく。
背中を見送ることもなく、僕はスープとサラダもカケラひとつ残すまいと、念を入れて皿をつつき続けた。






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「気持ちは分かったけど、葉月ちゃん…。法律的にどうなの?マルコ君を君が育てるなんて、できるの?」
貴船オーナーが大人らしい質問をした。
僕はもうずっと、オーナーに引っ張られ、後追いでしか思考できなくなっている。

「そうね。
問題は山積みだと思う。
さしあたり、人身売買目的の誘拐犯だと言われないように農園では認められてきたけれど、単純な手続きで済むものではないわね。
日本の法律は移民を認めていないくらいだから。」
「それでも?」
「ええ。この国ならば、この子が学校に通うことも、毎日安心して眠ることも、お腹いっぱい食べることも『当たり前』になるはずだもの。
時間がかかっても成し遂げるわ。
きっと、何か道はあると思うの。」 

どうやら姉さんの決心は固いようだ。
「マルコ君は葉月ちゃんの息子になるの?それとも、弟?」
オーナーが意外な質問をした。
僕はこの少年が僕の何になるのかなんて考えてもみなかった。
弟だって?

その時だった。
それまでつぶらな瞳で周りの大人にふわりふわりと視線を当てていたマルコ少年がポツリと話したのだ。
「ハヅキは、僕のパートナー。」
「え?」
僕とオーナーの声がハモった。
「今、パートナーって言った?」
「はい。」
今度は少年の声がはっきりと聞こえる。

「僕の父と母は、死んでしまったけれど、ちゃんといます。
ほかには、いらない。」
多少イントネーションに癖があるが、流暢な日本語が小さな口元からこぼれてくる。
僕はなんだか不思議なものを見る思いで、それを聞いた。

「ハズキはずっと悩んでいた。
自分が間違っていると、いつも言っていた。
サトルのことを聞いたのは、父が死んだ時。
それで、ハズキの悩みがわかった。
ハズキはずっと不幸だった。
自分で幸せになろうとしていなかった。
それは、悲しいこと。
ハズキが幸せにならないのは、自分に罰を与えるため。
でも、ハズキは幸せになっていい。
神様は、誰も罰しない。
神様は僕たちみんなを愛している。
自分から不幸せを選ぶ人がいること、神様は喜ばない。」

オーナーでさえ、何も言えなかった。
マルコ少年はテーブルのアイスコーヒーを、恐る恐る飲んだ。

「僕はハズキが幸せになるまで側にいると決めた。
ハズキがまた悩むときは、僕が励ます。
だから、僕はハヅキのパートナーね。」

そうして、また一口。
僕がマルコ少年を見るのと、多分同じ目で、少年はアイスコーヒーを見ている。
「これ、おいしい。
グアテマラでは冷たいコーヒー飲んだことない。」
「ああ、そうなのか!」
オーナーも少年の所作が気にかかっていたらしい。
「甘くすることも、ミルクを入れることもできるが…。冒険かな?」
「ボーケン?」
姉さんが通訳すると、ああ、と頷いて、やってみると言う。
オーナーはガムシロップを少しと、生乳ではないミルクをたらしてから、グラスを戻す。
そうして、手まねで、ストローを回してかき混ぜろと伝えている。
少年は目をキラキラさせてストローを回し、全体を白濁させると、得体のしれない物を飲むような顔で一口啜りこんだ。
「おお!」
ストローをテーブルに放り出し、そのままゴクゴクと喉を鳴らす。
どうやら気に入ったようだ。

「まだほんの子どもなのに、この子には教えられることばかりなの。
老いた魂とでもいうのかしら。
年齢では計り知れない叡智を、この子の心はいつも持っている。
神様が出会わせてくれたこの宝物を大切にしたいの。」

「サトル、マルコです。よろしくお願いします。」
いつの間にか僕の真横に立って、少年は僕の目の前に手を差し出した。
日焼けした腕と、不釣合いなほど白い掌。
僕は、その手を握ってしまった。
まだ柔らかい掌が、グラスを握った水滴で濡れている。
「よろしく。」
僕は微笑んでしまった、多分、極上の笑顔で。

「あれ?」
オーナーが奇妙な声を出した。
「弟か息子かなんて聞いておいて今更だけど、養子縁組をするなら、独身ではできないんじゃなかった?」
「さすが貴船さん。なんでも詳しい!
ええ、夫婦の方が養子縁組の道が広くなるのは確かね。」
「独身でも養子縁組できるの?」
「心配いらないわ。」

姉さんは確信を持って言う。
僕にはよく分からないが、独身でも養子縁組は可能なのだろう。
そうだよな、後継ぎ問題とかって、独身だからこそ起きることもあるんだろう。
養子縁組はそういう解決にも使われること程度は、2時間サスペンスを見て知っている。

「私、結婚するから。」
へ?
「彼と結婚して、ふたりでマルコを支えるの。」
は?

彼、と姉さんが顔を巡らせた先に、さっきマルコ少年の後ろから入ってきた、一般客の男性がいた。
おいおい何なんだよ。
一般客じゃなかったのかよ〜!

隣のテーブルでコーヒーをすすっていた、姉さんと同じくらいの年頃に見えるあの男性が、すっと立って3歩。
マルコ少年の後ろに立った。
背が高い。
少年は彼の足に抱き付く。
慣れたしぐさで、間違いなく知り合いなのだと納得がいく。
ということは、この人が本当に姉さんと?
「ジョージよ。」
姉さんは明るく言うが、どう見てもコテコテの日本人だ。
ジョージだと?

「サトル君。
はじめまして。
カネタマルジョージです。
お姉さんとの結婚を認めてください。
よろしくお願いします。」

差し出された大きな手と、思わず握手してしまい、慌てて手をひっこめた。

「彼はもともと、海外ボランティアとして私より先にあちらへ来ていた日本人教師なの。
いろいろとお世話になっているうちに、いろんなお話をするようになってね。
マルコもバイリンガルにしてしまおうって思いついて、ふたりで一緒に物心つくかつかないうちから、日本語を教えちゃったのよ。
それで、彼は…」

姉さんによるジョージサンの紹介が続いていたが、僕はもう聞いていなかった。
デジャヴだ。
今朝、こんな夢を見たのではなかったっけ?
なんだろう、このドラマチックな展開は!
まだランチは食べてないけれど、もうお腹いっぱいだよ!

頭がカオスに支配されている僕を憐れんだのだろうか、マルコ少年がジョージサンから離れて、僕の前に立ち、突然両腕を伸ばして僕に抱き付いてきた。
細くて、温かくて、しなやかな重みが僕をかろうじて地上につなぎとめてくれる。
彼の体から、熱い太陽の匂いがした。






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姉さんの後ろから、一般客の男性の前を歩く少年が入ってきた。
6歳?7歳?それとも、もっと幼いのか、もう少し年上なのか。
小さい体から細い腕が覗いている。
黒い短い髪、黒い瞳。
明らかに日本人ではないのだが、どこか親近感を覚える顔だちをしている。

少年は、立ち止まった姉さんの脇にピタリと寄り添って、片腕で抱き付いている。
姉さんは、その子の肩に、掌をそっと載せている。
その黒い瞳が、僕をソフトフォーカスで見つめている。
なんだ、この光景は?

「紹介するわね。彼はマルコ。」
「マルコ?」
「そう。同じ農園で働いていた人の息子。」
「同じ農園…息子…。」
「いろんなことがあってね、私、この子を育てることに決めたの。」
「育てる…。待って、この子の親は?」
「…亡くなったの。」
「へ?」

言葉だけ書くと、僕が姉さんに尋ねているようだけれど、本当は違う。
尋ねているのはすべて貴船オーナーだ。
僕は驚きのあまり、声も出ない。

「ちゃんと聞かせて。その前に座って。」
「ええ。はい。ありがとう。」
姉さんはオーナーが差した席に先にマルコ少年を座らせると、隣に自分も腰かけた。
「ちょっと落ち着こう、うん。コーヒーを淹れよう。」
「ありがとうございます、オーナー。」
今度は姉さんも丁寧に答えた。
カウンターに戻る前のオーナーに背中を押されて、僕は姉さんの前の席に腰かけた。
そこには、さっきまで僕が飲んでいた水があった。
僕は無言でボトルから水を注ぎ、喉を鳴らして飲み込む。
レモンの味がするはずなのに、少しも分からない。
さっき少年の後ろから入ってきた男性客が隣の席で何かを注文している。
姉さんの後で雇われた、年かさの店員が聞き取ってメモをとる姿を僕は呆然と眺めた。

オーナーは、アイスコーヒーを4つトレイに載せて戻ってきた。
ホットは丁寧に淹れるから時間がかかる。
アイスは先に作って保存してあるから、グラスに注ぐだけでよいのだ。

「もう一度聞かせて。どうして君がこの少年を育てようと?」
この冷静沈着なオーナーでも、この顛末には慌てているらしい。
僕よりも、姉さんよりも先にアイスコーヒーをごくりと飲むと、すぐに問いかけた。

「この子の母親は私が農園に行って間もなく、この子を産んだの。
まだ15だった。
苦しい初産で、命を落とした。」

衝撃的な話だった。
けれども、聞き知ってはいたのだ。
国によっては、12や13で嫁ぎ、出産することも少なくないと。
この日本だって、100年遡れば、それが常識だったはずだ。

「それから、父親がこの子を育てたの。
日本とは少し違うやり方かもしれないけど、愛情いっぱいに育てた。
農園で働くみんなが家族のようなものなの。
だから、私も一緒に彼の成長を見守ってきたの。

先月のことよ。
この子の父親は農園の仕事でシティに出かけて、事件に巻き込まれたの。
強盗殺人だった。
グアテマラは拳銃を持ってもいい国なの。
シティは首都だけれど、治安がとても悪い。
分かってはいたのだけれど、まさか自分の身の回りであんなことが起きるなんて思っていなかったわ。」

姉さんはマルコ少年の頬を撫でる。
少年はこの話が分かっているのかいないのか、表情を変えずに姉さんを見上げている。

「突然父親を失って、呆然としているこの子を毎晩抱いて寝たの。
この子の両親は流れ者だったらしいの。
母親の方は農園の誰かの娘だと思っていたのだけど、事件の後で、そうじゃないと知ったわ。
二人とも、どこから来たのか、誰にも何も言っていなかったのよ。
だから、この子は身寄りを完全に失ってしまったの。

そうして、私も考えたの。
私はいつまでここにいるのか、何をしたいのか、何をしたくなかったのか。
これからどうやって生きていくか。
そんなことをいろいろとね。」

なんだか分かる気がする。
身近な人の死は、誰もを哲学者にする。
生きるとは?幸せとは?と問わずにはいられない。
僕は、僕自身のために、それを問い続けてきた。
いや、問うことを禁じて、今を生きてきたと言った方がいいかもしれない。

「サトル。
あなたに謝らなくてはならないわ。」
姉さんは言葉を切って、グラスに手を伸ばした。
小さな水滴が付き始めた細長いグラスが、すっかり日に焼けた姉さんの手の中に半分隠れている。

「私が日本を離れたのは、恋に破れたからじゃないの。
本当は、あなたを失うのを見るのが怖かったの。」

僕は息が止まった。
姉さんが言っている意味をちゃんと理解しなきゃ。
そう意識すればするほど、頭がガンガンと音を立てて混乱した。
僕がいたから、姉さんはここにいられなかったということか?

「私にとってあなたは、最後の家族よ。
それが、重い病気にかかって、治ったとはいえ、いつ再発するか分からないなんて言われて、私は怖くて怖くてしかたがなかったの。
あなたのそばにいて、あなたの支えにならなければとも思った。
でも、そうやってあなたにのめり込んで失ったらと想像すると、ショックの大きさが恐ろしくてどうしようもなかった。
それで、まだあなたが病院にいるうちから仕事を探して、気を逸らしたの。
だけど、仕事をしていても、ダメだった。
今度は、あなたを失ったときに、どうしてもっと近くにいてやらなかったんだろうと後悔する自分を想像して、苦しくて、苦しくて。
私には、あなたのそばにいることも、いないこともできなかったの。

そんな私を救ってくれたのは、母さんだった。
ある朝、母さんの夢を見たの。
おいしそうにコーヒーを飲んでた。
ルナソルでバイトをしたのも、母さんがコーヒーを好きだって知らなかったことがきっかけだったけど、この夢の中でも母さんはあの笑顔でコーヒーを飲んでいて、言ったの。
『不思議ね。コーヒー豆って日本ではできないのよね。どこでどんなふうにできているのか、見てみたかったわ』って。

その夢は、私に日本を離れる口実を作ってくれたの。
できるだけ遠くて、開発途上の国で、連絡なんかとれないところを選んだ。
そこでせめて5年、暮らそうと思った。」

僕には姉さんが5年といった意味が分かっていた。
僕の病気は5年再発しなければ、完治といっていいらしい。
姉さんはそのことを言っているに違いない。

「まずは5年。
サトルは大学院に行ったから、院を終えたところで5年経ったのだけど、念をいれてあと1年。
それでもサトルはやっぱり元気で、仕事も始めたというし、本当はもう、向こうにいる理由がなくなっていたの。
そんな時に、マルコのお父さんのことが起きた。
私、帰ろうと思った。
マルコと一緒に、サトルのいるこの日本へ。
そうして、マルコに、昼でも夜でもショルダーバッグがどこにかかっているかなんて気にもかけずに歩けるこの国で、この子を成長させてあげたいと、心から思ったの。

サトル、ひどい姉さんだったわ。
ほんとうにごめんなさい。」

僕こそごめん。
姉さんの気持ちなんか、全然分かっていなかった。
ただの自由人だと思ってた。

言葉にならない僕の気持ちは、ちゃんと姉さんに伝わったらしい。
姉さんは、微笑んで僕を見つめている。
今度は僕が、姉さんの思いを丸ごと受け止める番だ。
僕は本気でそう思った。







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明け方になってうとうと寝入るなんて、こういう場合よくあることだろう。
眠れなくたってしかたない。
頭の中に、いろいろな姉さんの「男」が浮かんでくる。
引き締まった体躯の黒人男性が浮かぶ。
これは、米国大統領のイメージだ。
かと思えば、筋肉が目立つ、真っ白い歯が印象的な笑顔。
これは、ニュースで見たばかりのプロボクサーか。
日本人男性も浮かぶ。
「ボランティアで教師をしていたところで葉月さんに出会いまして…」なんて挨拶まで浮かんでくる。
青い目に白い肌、金髪がクルクルフワフワと頭にのっている陽気な男が出てきて、「ハヅーキィ!」なんてハグしていたりする。 
どこかで見た映画俳優のような気もするが、もう分からない。

挙句には、自家用ジャンボ機のタラップを降りてくる姉さんの腰に手を回したアラブの大金持ちが出てきて、「うわぁっ」とうめいた自分の声の大きさに驚いて目が覚めた。

おいおい…。
自分でツッコミを入れるくらいしか、このシーンを笑う術が分からない。
コミカルなほどに慌てている自分がそこにいた。

よく考えてみれば、ねえさんが成田のホテルに男といること以外、なにも分からない。
どうして突然帰国したのか、そちらの方が大事かもしれない。
それも、男、か?
姉さんはじゃーねと言って、連絡先も教えてくれなかったし、今日どうやって会えるのかも言わなかった。
こんなの、蛇の生殺しだよぉ!

それでも腹は減る。
僕は下に降りて、台所の冷蔵庫を開ける。
この台所は店のキッチンとは別の、生活専用の場所だ。
それほど大きくもない冷蔵庫で、さすがゆかりさんの管理が行き届いているため、無駄なものや古いものが隅っこに残っているなんてことはない。
「…朝っぱらからなんだけど、チャーハンでも作るか。」
チャーシューを厚めに切って刻んでいたら、少しだけ心の波が凪いだ気がした。


姉さんから連絡が来たのは、昼前11時ごろになってからだった。
ホテルを出て、そちらに向かっているところなの、ルナソルで12時、来られるかしら?
当然来ると思っている強引な問いかけが姉さんらしくて笑える。
「ああ、大丈夫。」
「じゃぁまた後で。」
いつどんな連絡が来ても飛び出す準備ができていた僕は、そのまま外に出た。
姉さんのことだ、きっと間際になって呼び出すに違いないと思ったのが大当たりだった。
貴船オーナーのルナソルまでは、それほど遠い道のりではない。
最後の上り坂のきつさを除けば!
でも今はまだ、心地よい乾燥した風が吹く季節だ。
梅雨まで少し間がある。
きっと気分よく登れるだろう。


それでもわずかに汗ばみながら入ったルナソルは、いつものようにホコリを感じさせない乾いた空気に満ちていた。
「おや。こんな時間に珍しい。」
貴船オーナーはいつもの爽やかな笑顔で迎えてくれる。
「連絡、ありました?」
前後を省略して尋ねる僕に、オーナーはきょとんとする。
「姉さんが、帰ってきたんですよ。連絡、なかったですか?」
「そうなのか!いや、何も。」
オーナーも驚いている。
「何かあったのかな。それとももう満足したのかな。」
「解りません。それに、どうやら男が一緒らしい。」
「男?」

貴船さんは、渡航前の姉さんが恋に破れた人だ。
そんな人の店にわざわざ連れてくるなんて、結婚でも約束した男とした思えない。
「あたし、幸せになりますっ!ってか?」
ひとりごとをいいながら、案内されるままに席に着く。
緑色の瓶に冷えた水を無意識のうちに飲む。
いつものように、かすかにレモンの味がする。

「12時にここへ来るっていうから。」
「おや、そうなの。何年になるかな。久しぶりだ。」
オーナーは本当のところどう思っているのか、平然としている。
「では、もう少しで着くかな。今日のランチをぜひ食べて行ってほしいね。」
そういうと、わざとか忘れたのか、オーナーは僕の注文をとらずにカウンターの向こうへ下がってしまった。

それから15分ほどだろうか。
不意に姉さんが店に入ってきた。
「ああ、ここは涼しい!」
見れば、小さなバッグひとつしか持っていない姉さんは、別人のように陽に焼けている。
その分、以前よりもずっと強そうに見える。
男が、いない。

「サトル!」
姉さんもすぐに僕に気付いたようだ。
足早にやってくると、立ち上がりかけの僕をギューッと抱きしめた。
「おい、やめろよ。」
心にもないことを言っても、姉さんはそのままくっついていて、「元気そうでよかった!」とつぶやいた。

「元気だよ。夜の仕事だから日焼けはしてないけどね。」
「ほんと。モヤシみたいに真っ白!」
貴船オーナーが近づいてきた。
「オーナー!お久しぶりです。」
「おかえりなさい。元気そうだね。」
おかげさまでと姉さんが答えるのを聞きながら、僕は『おかえりなさい』をまだ言っていないことにやっと気が付いた。
しまった。

「なんだか、お連れさんがいるそうだねぇ。」
これもオーナーに先を越された。
「ええ、そうなの。驚かせてはいけないと思って、外に待たせているんだけど、連れてきても?」
「もちろんだよ。なぁ、サトル君。」
「は、はい!」

姉さんは一度も座ることなく、身を翻して扉の外に出た。
いよいよ、姉さんの「男」とのご対面だ!
僕は知らず知らずのうちに体中の筋肉をこわばらせている。
奥歯がギリギリと音を立てそうだ。

もう一度扉が開いて、姉さんが入ってくる。
その後からついてきた男は…

えっ??




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グァテマラの姉さんからコーヒーが届くたびに、いったいあの人はどんなところでどんなふうに暮らしているのだろうか、何をしているのだろうかと考える。
電話もないというし、手紙も滅多に来ない。
僕からも送らない。
だから、全然分からない。

頭の良い行動派の姉は僕の心配なんかいらないくらい、自分でやっていける人だ。
きっと日本の小さな常識やしがらみから解放されて、のびのびやっているに違いない。

ゆかりさんのように、日常を離れてやりたいことがある、というわけでもない僕には、非日常のことをしろと言われて思い浮かべられるのは姉さんくらいだった。
「連絡してみようか。」
自分のひとりごとが耳に届いてハッとする。
「いや…パスポート、まだ生きてるかな?」

電話も使えない、手紙はいつ届くか分からないなんて人へ連絡しても、返事を待っている間に1か月くらい経ってしまうかもしれない。
住所は分かっているんだから、直接行ってしまった方が確実なのではないか。
だいたい、姉さんの家なんだから、許可をとらなくても会いに行くくらいいいだろう。

思いついたら、何か偉大な発見をしたような、高揚した気分が胃の下の方から突き上げてくる。
「おお。いかにも非日常だぁ!」

動き回ることをあまり好まないで生きてきた僕にしては、これは非日常を超えて大冒険だ。
世間には、ちょっとまとまった休みがあるとすぐに海外へ飛び出していく人々がいることを、小紫に来てから知った。
僕には想像もつかない行動力だけれど、その人たちには日常を支える楽しいイベントのようだ。
僕は信じられない思いで体験談を聞くばかりだった。
店が再開したときに、「僕も…」と珍しい異国の話をする自分を想像する。
ああ、ダメダメ。
ここは僕の話をする場所じゃなかった!

いつの間にか外は真っ暗で、元さんが帰っていった夕方からずいぶん時間が経っていることにようやく気付いた。
「腹、減ったな。」
このところ、ゆかりさんの手の込んだ美味い料理しか食べていない。
自分のためだけに厨房に立つのは、やっぱりなんだか億劫だ。
「コンビニ、久しぶりだな。」
ついでに貯金を確認するか。
さらについでに、旅行会社の窓口がどこにあるか確認しておいて、明日一番で行ってみよう。
ようやく自分がしたいことが見つかって、自責の念から解放された僕は、着替えもせぬまま外に出た。
22時。
今の僕にとっては昼間と変わらない。


コンビニで稲荷寿司とビールを買ってきた。
それをつまみながらインターネットで調べてみる。
甘じょっぱい稲荷がなんだかたまらなく美味い。
350mlのハイネケンがグイグイと減っていく。

なんと、グァテマラは物価が安い。
宿泊費もいらないと思えば、一日1000円もあれば足りそうだ。
旅行費用の大半は航空機代。
空港から姉さんの住まいまではどのくらいかかるのだろう。
飛行機は…一番安くて…往復40万くらいか。
いや、120万くらいのほうが多いな。
そういえば、母さんの生命保険料を使わせてほしいと姉さんが言ったときも200万とかだった。
なるほど。
大した使い道もなくコツコツ貯めていたし、それこそ母さんの保険も使ってよければ苦になる金額ではなさそうだった。

20時間も飛行機に乗るんだなぁ。
どんな気温だろ。服はどのくらい持って行こうか。
いっそ、向こうで手に入れるつもりで、下着だけでいいか…。
最近はあまり出番がなくなった、グレゴリーのリュックひとつで行けたなら、なんだかカッコイイかも。
考えていたらすっかり面白くなってしまった。
今までどうしてこんなに面白いことを面倒に思っていたのだろう。

とにかく、自分の手だけではどうにもならないのは明らかだった。
駅前に旅行会社があるのはさっき確かめた。
10時になったら行ってみよう。
今夜は早く寝ることにしようと、風呂に向かった。
ゆかりさんがいる時と違って、風呂も自分で用意しなくてはならない。
ひとり暮らしの時には当たり前だったことが、今ではすっかり頼りきりになっている。

目を閉じて、シャワーを顔の正面からザバザバと浴びたときだ。
不意に、すっかり忘れていたことを思い出した。
あれは、僕がまだ小学校に上がる前ではなかっただろうか。
そうだ、病院で見た出来事だった。

幼いころから体が弱かった僕は、始終熱を出しては母さんに抱かれて病院に行っていた。
その時もきっと、熱を出したのだろう。
僕は病院の待合室にいた。
母さんがそばにいなかったのは、医者と話していたのか、トイレにでも立っていたのか。
とにかく、僕はひとりだった。

ひとつ向こうの長椅子に、僕と同じくらいの歳の男の子がパジャマ姿のまま、母親の隣に座っていた。
ひどく泣いている。
大きな泣き声で、僕もびっくりして見つめていた。
母親が静かにしなさいとヒステリックな声をあげて注意する。
男の子はますます大声を上げる。

僕の母さんは、あんなふうに恐ろしい声で真っ赤な顔をして怒ることはない。
だから、僕はその女の人が怖かった。
目が離せなくなった。
女の人が不意に荒々しく立ち上がった。
膝に乗っていたバッグが床に落ちて散らばった。
女の人はバッグには目もくれず、掌を一閃させた。
バシッ!
掌はものすごい速さで、男の子の頭を横から叩いていた。
男の子は長椅子に倒れそうになり、それでも堪えて泣いている。
バシッ!
もう一発。
僕は恐ろしくて声も出ない。
男の子が今にも死んでしまうのではないかという声で泣き叫んだ。
すると、女の人は泣き声に負けないほど悲痛に絶叫した。
「だから、あんたなんか産みたくなかったのよ。あんたなんかいらなかったのよ!」
そうして、床に落ちたバッグをガサガサと拾い集めると、泣いている男の子を残して、待合室を出て行ってしまったのだ!

後はよく分からない。
白衣を着た人がやってきて、男の子を抱いていたような気もするし、女の人を追いかけていったような気もする。
すっかり混乱し、恐ろしくなった僕まで泣き出していたけれど、母さんが戻ってきていて、僕を抱きしめてくれた。
僕は母さんにすがりついた。
あの時の母さんの大きさや温かさ、玉子焼きみたいな匂いも思い出した。
僕は思ったんだ。
あの男の子がお母さんの言うことを聞かずに泣いたりするから叩かれたんだ。
わがままを言って困らせると、おかあさんに捨てられてしまうんだ。
僕の母さんも、そうなんだろうか。


どうして今、あの出来事を思い出したのか分からない。
あの時の僕は、自分が見たものや感じたことを母さんに説明するには幼すぎた。
さらに、僕の前であの男の子の身に起きた出来事と、自分のこととを区別する力もなかったようだ。
僕はすっかり怖気づいたのだ。
母さんの言うことを聞いて、おとなしく、いい子でいなければいけないと思い込んだ。
僕はなかなか丈夫になれなかったから、何もしなくても迷惑をかけているのだから、なおさらおとなしいいい子でいなければ。
損な思い込みが、僕の様々な選択の基盤に、ひたひたと流れ続けていたのだ!
僕の行動原則は、母さんに見捨てられて一人ぼっちになる恐怖を避けることが最優先だったのだ!

まだ大したことはないけれど、ちょっと人生経験を積んでみたら分かることだった。
あれは人の身の上に起きたことで、僕と僕の母さんのことではなかった。
母さんは、僕があんなに気遣わなくたって、大丈夫だったと思う。
それとも…?
それより、僕のこれって、世間で言う「マザコン」ってやつじゃないか!

シャワーを切り上げて、そわそわしたまま部屋に戻った。
おかしなことを思い出したものだ。
おかげで、自分のことがまた一段理解できた気がするけど。
母さんはもうこの世にいない。
僕は、母さんに捨てられないように気を付けながら、家の中から出ないで囚人のように過ごす必要なんか最初からなかったし、今はさらに自由なんだ。

何かが光っている。
ケータイに着信があったらしい。
確かめると、公衆着信とある。
このケータイに電話が来ることなどめったにないから、これは事件だ!なんて思う。
そうか、ゆかりさんが家のことを気にしてかけてくれたに違いない。

丁度その時、掌の中のケータイがブルブルと震えた。
びっくりして、取り落としそうになる。
慌てて液晶に表示された文字を見ると、また公衆着信だ。
なんだか、おっかなびっくり出てみる。

「はい。」
「あ、サトル?あたし!」
「は?」

僕をサトルと本名で呼ぶ人と最近あまり会っていない。
まして女性なんて?

「は?じゃないわよ。あたし。葉月よ。」
「えーっ、姉さん??」
「もう寝てた?」
「いや、起きてたけど…。え?何?グァテマラから電話してんの?」
「違うわよ。さっきね、帰ってきたの。」
「帰って?さっき!?」
「そう。一応連絡しとこうと思って。明日、時間ある?」
「時間はあるけど、何、どうしたの?何かあったの?」
「そういうこと、全部説明するから。今夜は疲れたからもう寝るわ。」
「どこにいるの?」
「成田。今夜はホテル。」
「はぁ。」
「会わせたい人もいるし。」
「なんだよ、それ。まさか男じゃないだろうな?」
こういう時の決まり文句だよね、このツッコミは。
「うん、男の人。じゃ、明日また電話するわ。おやすみー!」

なんでこのタイミングで帰って来るんだ?
一方的に切れたケータイを握ったまま、一世一代の冒険旅行が泡と消えたことを噛みしめた。
自分の部屋にいながらでもジェットコースターに乗った気分は味わえるんだなと、冷静に考えている自分に、僕は満足した。

でも、次の瞬間。

「なにーっ!男だとぉぉ!」
なんだよ、これ。
僕、妬いてんの??!






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尼寺に行くわねと、ゆかりさんは宣言して、いそいそと出かけてしまった。
店に残った僕は、急転直下の展開について行けず、ぼけっとするばかりだ。
車が飛び込んできて店をぶっ壊すなんて想像もしていなかったし、店がぶっ壊れたからといって、ゆかりさんが以前からの念願を叶えるチャンスだと言い出すなんて思いもしなかったのだから、心の準備ができていなくてもしかたがないじゃないか。

自由な人だなぁ、ゆかりさんは。

半ばあきれる思いでいたが、前の仕事を終わらせて日が落ちる頃にやってきた元さんの話を聞いて、ちょっとだけ納得した。
店の改修は、もう何年も前からの懸案だったと言うのだ。

元さんはすでに、改修案の設計図を持っていた。
費用のことも計画済みらしい。
改修計画が止まっていたのは、なんと僕を雇ったからだとも聞かされ、眼を丸くした。
仕事を始めてすぐに休業ではかわいそうと思ってくれたということだろうか。
一緒に働いてみれば、僕は病弱で世間知らずで、きっと放り出せなかったんだろう。
心底優しい人だからな。

僕は落ち込みかけた。
なんて迷惑をかけちゃったんだろう。
本当はもっと早く、綺麗な店にしたかったのだろうに。
僕のために犠牲を払わせてしまった…と思ったからだ。

「それはちょっと違うんじゃないかな?」
元さんは僕の気持ちを察したように、顔を覗き込みながら言った。
「そうでしょうか。なんだか負担をかけたなぁって気がします。
もっと自立した男を雇っていれば、計画通りに進められたんじゃないですか?」
「計画通りに進んでいたらどうなっていたと思う?」
「は?」
「直して1年もたたずに車が飛び込んできて、再修理ってわけだ。」
「あ…。」
「君が出会ったいろんな客たちとの出会いもなかった。」
「それは…。」
「あの人はそういう大事なものを当たり前に大事にできる人なんだよ。」
「はい。」
「すまないとか、迷惑をかけたとか思うのは、かえってあの人に失礼なんじゃないかねぇ。」
「……。」
「改修中は念願だった寺での暮らしを体験したいというのも、前から言っていたことなんだよ。」
「そうなんですか?」
「ああ。憧れていた尼さんがいるんだそうだ。」
「憧れ、ですか?」
「奔放に生きて、それを小説にしたり講演したりしているんだとか言っていたかな。」
「小説?それって…。」
「俺は関心ないから知らんがね。有名人なのか?」
「もしも僕が思うのと同じ人なら、かなりの有名人です。」
「そうか。いかにもあの人らしいなぁ。何歳になっても夢を捨てないってのはなかなかできることじゃないよ。」
「そうですね。」
「ところで、ここは無人になるから管理を頼むとも言われているが、君はどうするんだ?」
「ああ、そのことですけど…。」

そうなのだ。
僕はゆかりさんに約束させられた。
1か月ほど、ゆかりさんが尼寺へ行っている間、僕にも何か、非日常のことをしろというのだ。
学校と本と、ときどき病院、そこそこのアルバイトだけで暮らしてきたような僕には、この小紫での毎日そのものが非日常だった。
だから、改めて非日常のことをしろと言われても、何も浮かんでこない。
「本当はやりたかったけど、できていないことにチャレンジよ。」

やりたいことが決まっている人は簡単にそんなことを言うけれど、僕にはそんな雲をつかむようなことを考えさせられるのが苦痛だ。
「ママに『穂高がぐずぐずしていたら家から追い出して』って頼まれているからなぁ。
今夜くらいは大目に見てやるけど、明日はでかけろよ。
カギはもう預かっているからさ。」

元さんは壊れたところを一通りチェックすると、ひと月後に会おうと言って帰って行ってしまった。

おいおい、どうするんだよ、僕。
やりたかったけど、できていないことってなんだ?

僕は部屋に戻り、布団に寝転んで思いを巡らせてみた。
子どものころを思い出してみる。
母さんがいて、姉さんがいて、あの懐かしい小さな部屋が浮かんでくる。

どこかへ行きたいと思ったことも、誰かに会いたいと思ったこともない小さな自分がそこにいた。
大人になったら何になりたいと思ったのだっけ?
思い出せない。
同級生たちのように、野球選手だの弁護士だのと考えたことはなかった。

病気をしたときに、医者になりたいと思ったことがちょっとだけあったっけ。
でも、たちまちそんな気持ちは消えた。
自分には数学や理科の才能がなさすぎた。

母さんに楽させたいと思ったことはある。
どうやったら楽をさせられるのか、思いつく前に母さんは死んでしまったけど。

「うーん。」
声に出して唸ってみた。
思いつかない。

そのまましばらくウトウトと眠ったらしい。
不意に目が覚めて、と同時に浮かんだことがあった。
「そうだ。グァテマラの姉さんに会いに行ってみようか。」

ふううと大きなため息が出た。
僕の胸から外に出ようとしていた思いはこれだったらしい。
「パスポート、切れてないかな?」
僕は机の引き出しをガサゴソと探し始めた。




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