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今ここで生きていることを楽しむためのブログ

師になる人へのメッセージ

陰の立役者

 こんばんは。Hikariです。

 

 今日は更新がこんな時刻になってしまいました。でも、書きますよ!

 

 

 昨日、24時間テレビで70キロマラソンにチャレンジした萩本欽一さんの様子をまとめた番組を見ました。24時間テレビそのものはまったく見なかったのですが、欽ちゃんのマラソンだけは、ずっと気になっていました。

 

 予定の時間にはゴールできなかったとのことですが、完走したんですね。

 

 24時間テレビの翌日には、よくこのマラソンのまとめ番組を見ます。

 

 それは、芸能人が完走したかどうかに関心があるのではなくて、ある一人の男性を見たいがためです。

 

 その人の名は坂本雄次さん

 

 マラソンのトレーナーです。研ナオコさんの時にも、杉田かおるさんの時にも、丸山弁護士の時にも、今回の欽ちゃんの時も、選ばれたランナーの隣を走っていた、あのトレーナーさんです。

 

 彼は、ランナーの様子をじっとみつめて的確な指示を出し、スピードを計算し、マッサージをし、アイシングをし、励まし、痛み止めを勧め、走りながらスタッフと打ち合わせをしていきます。

 

 自身だってランナーと同じだけ走っているのに、休憩中に誰かがマッサージをしてくれるでもなく、アイシングをしてくれるわけでもありません。

 

 やっぱり、疲れていると思うんですよ。

 

 24時間テレビのマラソンは、彼なしでは成立しないと思います。もう、断言です。

 

 ランナーが武道館に戻ってきます。

 

 主役は坂本さんだ!と思うくらい活躍していても、坂本さんがいなかったら、このランナーはとっくの昔にリタイアしていたはずだと思っても、彼はランナーと握手を交わすと、武道館のドアの中へランナーを送り込みます。それきり、感動の拍手とフィナーレの場にはいないのです。

 

 あそこまで一緒に走ったなら、最後まで一緒にいたいというのが人情ではないだろうか?と、毎年思います。

 

 坂本さんだって、疲れきったランナーが長い階段で転びはしないか、へたりこみはしないかと、気がかりなことでしょう。

 

 でも、坂本さんにスポットライトがあたることはなく、「完走!」の記事が踊るスポーツ新聞でも、坂本さんのトレーナーぶりに行数を割くところはあまりないのです。

 

 私は、坂本さんを見るたびに、「師」というものの本質を見る思いがします。

 

 常に弟子を冷静にみつめて、その状況を把握し、弟子が持つ力を最大限に発揮させるべく、自分の疲れも忘れてとことん付き合う。でも、最後の最後には弟子を手放して、表舞台に送り出し、自分は陰にかくれてしまうのです。

 

 ゴールの感動にひたるランナーが喜びのインタビューを受けているとき、坂本トレーナーに対する感謝の気持ちを言葉にできない年には、ものすごくがっかりします。ああ、このランナーは自己中心的だなと思います。

 

 私にとって、24時間テレビマラソンの主役は、毎年坂本トレーナーなのです。ご自身がことし還暦を迎えられるとか。プロとはいえ、すごいことではありませんか!

 

 今年も、坂本トレーナーに大拍手!!なのでした。

 

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相手を思いやる心

 こんばんは。Hikariです。もう、日付が変わりそうな時間の更新です。あ、変わっちゃった

 

 うっかりと、日焼け止めを忘れたまま、夏の街を歩いてしまいました。ずっと白いままできた腕が、あっというまに小麦色。指先までヒリヒリします。

 

 日焼け止めを忘れるなんて、犯罪ですわ!という声が聞こえるような気がして(ご存じない方は『コスメの魔法』シリーズをお読みくださいネ)ドキドキ。

 

 

 

 さて。

 

 明日は二人目の弟子が、次なるチャレンジに挑む日です。

 

 今日は午後から一緒に最後の詰めをしようと約束をしていました。そうして、私は夏の街へと出かけていったのですが・・・

 

 留守中アクシデントがあり、多くの方が弟子にさまざまなアドバイスをくださったことが、戻ってからわかりました。

 

 几帳面な弟子は、それをすべて真に受けて、自分のすることへ、あれこれと改良を加えていました。

 

 待って、待って。言われたことに一理あるのは確か。でも、取り入れるかどうかはちょっと待って!

 

 その場にいたなら言えたはずのその一言が、いなかったばかりに言えませんでした。

 

 午後5時ごろになって、もう一度アドバイスがしたいとおっしゃる方がいて、今度は私も、ひとり目の弟子も同席しているところでアドバイスをお願いすることにしました。

 

 すると、そのアドバイスは、アドバイスと言うよりも「頭ごなしの非難」でした。

 

 もちろん、ご当人は、弟子のことを思いやって、なんとかチャレンジを首尾よく過ごしてほしいと思う一念からおっしゃっているのです。

 

 でも、明日の朝にはもう本番というこのときになって、「頭ごなしの非難」が相手に与えるダメージの方を考えてほしかったと、私は思うのです。

 

 なんとかうまくやってほしいという自分の気持ち。

 

 よし、できるぞという、相手の気持ち。

 

 この場で、どちらが大事なのか。それを考えてほしかったのです。

 

 私にとっては、当然といえば当然過ぎるほど、この場で大事なのは、弟子が「よし、私は大丈夫」と感じることです。

 

 弟子の分際ですから、やることの手ぬるさはあります。ちょっと交代して私がやって見せるだけで、アドバイスをくださった方は「ああ、やっぱりうまいねぇ」と、ため息を漏らします。当然ですよ、師匠ですから。

 

 でも、今の弟子に、師匠と同じことをせよという方がムリです。

 

 そうではなくて、弟子ができる範囲のことの完成度を極限まで高めていく。そうして、「まだ至らないところはありますが、これが私の精一杯です、どうぞご覧ください」という気持ちを持たせる。

 

 今日はそれが目標のはずでした。

 

 そうして、弟子自身に、もっとうまくなるにはどうしたらいいのか知りたい、もっと変わりたいという謙虚な向上心が芽生えたときにこそ、改めて、そのためにはね・・・と、追加情報を提示する。

 

 人にものを教えるというのは、そういう、どこまでも相手主体の話なのです。

 

 いいか、すごいことを教えてやるから黙って聞きなさい、というようなやり方は、時に必要なこともあるかもしれませんが、概して、受け取り手を傷つけるだけです。

 

 

 

 先ほど、悔しかった・・・と、弟子からメールがきました。

 

 悔しかったよ、私も・・・と、返信をしたところです。

 

 でも、弟子は言います。今日一日私を見ただけのあの方の言葉より、Hikariさんの言うことを私は信じます。Hikariさんが大丈夫だというから、私は大丈夫です。

 

 それが、ただもう、うれしくて。

 

 これが、教えることの醍醐味だと思います。

 

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「手放す」と「見捨てる」

 おはようございます。Hikariです。

 

 日曜日に、私の弟子たちはとても大事なときを迎えていたわけですが、夕方までに受けた連絡によると、それぞれがそれぞれの持ち味を生かして、なかなか好感触の終わり方をすることができた様子でした。

 

 昨日、当人達に会って様子を詳しく聞きましたが、少し時間がたって、冷静さがもどってきているせいか、自己分析も冷静さを増していて、出来事のプラス面もマイナス面も見られるようになっていました。

 

 結果は少し先になりますが、今年も、こうして弟子たちに出会うことができて、役に立つことができて、私は本当に幸せだなぁと思います。

 

 

 ところで。

 

 日曜日の記事に、

 

最後には、弟子の力を信じて、祈るしかできなくなるんですよね。手放すしかなくなる。

 

 私が今年になって「手放す」ということにこだわっている一面が、またここでも影響しているように思われます。

 

 と書いたところ、「手放す」のと「見捨てる」のとの違いについてお考えになった方がおられました。

 

 そこで、今日は私と弟子達とを例にして、その違いについての思いを書いてみようと思います。

 

 

 

 弟子達、と面白がって呼んでいますが、謝礼を受け取っているわけではありません。その割には時間も体力も気力も知力も思いっきり使う、ボランティアです。

 

 ときどき、彼らの目に、私の存在はどのように映っているのかな?と思うことがあります。

 

 この人たちは、なぜ、私がそうまでして彼らを手伝うのか、その理由について、どんなふうに理解しているのだろうかと。

 

 いつか直接聞いてみよう。うん。

 

 では、これまでなぜ直接尋ねなかったのかというと、私は充分に「報酬」を得ているからなのです。

 

 その報酬の名前を「信頼」といいます。

 

 例えば、日曜日に、人生指折りであろう緊張の時が終わり、その建物を出た瞬間に、彼らはケータイから私に電話をかけてきました。

 

 恋人でもなく、ご両親でもなく、友だちでもなく、私に。

 

 きっとケータイを握りしめて、自分を待っているに決まっている私に。

 

 本人達はそろって「緊張しませんでした」「冷静にうまくできました」と喜んで報告してくれましたが、その話の内容ときたら、すっかり舞い上がっていて、要領なんか得やしません。それでも、その電話を、私は確かに待っていました。

 

 Hikariさんが待っているから。

 

 その思いが、彼らが、彼らを手放した私から「見捨てられた」とは思っていなかった証拠になると感じます。

 

 

 

 金曜日に。

 

 顔を見ながら話ができる最後の時に、私はこんなことを言いました。

 

 ずいぶん長いこと、一生懸命やったよね。よく諦めないで、投げ出さないでついてきたね。もう、教えられることは全部教えてあるし、準備もできている。日曜日には、もう私にできることは何もないよ。あとはあなたが自分の力を最大限に発揮してくるだけだよ。私はあなたの成功を祈っているしかできないけど、家にいて、ケータイはそばに置いておくから、困ったことがあったら電話しなさい。落ち着くくらいはできるかもしれないからね。

 

 困ったら電話しなさい、とは言ったものの、そんな時間がないこともまた、双方の共通理解でした。

 

 でも、彼らは、自分がそうやって応援されていることをはっきりと理解したと思います。

 

 私はもう、あなた方のことを手放すしかない時期にきてしまった、ということを告げたわけですが、でも彼らは「見捨てられた」とは思わなかったのです。

 

 その分かれ道はどこにあったのでしょうか。

 

 それは、多分、彼らの「愛情を認知する力」と、私の「愛情を認知させる力」との相乗効果であったと思います。

 

 いくら愛していたって、それを相手が分かるように伝えなければ、愛されているとは気づけないものです。気づけなければ、愛されていないのと同じです。

 

 神様の愛情のことを語っているのではありません。同じ言葉を話す人間同士の話です。

 

 だったら、愛する相手に、愛されていると自覚できるように愛情表現するのもまた、惜しみない愛情ではないでしょうか。

 

 君が気づけないほうが悪いんだよ、なんていう愛情の伝え方は、私には愛の出し惜しみに見えます。

 

 それでも、一生懸命伝えた愛が伝わらなくて、手放すことを「見捨てられた」と相手が受け取ったなら、多分、その相手には、「見捨てられた」という経験が必要なのでしょう。だから、その経験が終わるまで、見捨てずに見守ることでしょう。

 

 つまり。

 

 自分は愛のうちに手放されている・・・自立する時期がきんたんだな・・・と思うか、自分はもう愛されていないんだ、見捨てられるんだ・・・まだ一人ではなにもできないのに・・・と思うかの差は、その時までに過ごした密度と濃度と、愛の伝え手の表現力にかかっているのではないでしょうか?

 

 ということで。○ささん、ご質問ありがとうございました。これを読んだ感想を是非お聞かせくださいませ。お考えになっていたこととズレていたら、ごめんなさいね。

 

 今日の最後は、いつも弟子たちに言う「本音」で終わりましょう。

 

 私ね、あなたと一緒にこうして過ごすのが、本当に楽しくてしかたがないの。面倒だとか付き合ってやっているとか、一度も思ったことがないよ。他の人でもよかったのに、私を師匠に選んでくれて、信用してくれて、ありがとね。

 

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今年の弟子達

 おはようございます。今日もようこそおこしくださいました!

 

 昨日は更新ができなくてごめんなさい。

 

 ちょっとね・・・。でも、ご心配なく。からだは元気なほうです。

 

 

 さて。

 

 このブログを長くお読みの方は、私が毎年「弟子」を育成していることをご存知かと思います。

 

 何のための弟子かはお話できないのが本当に残念なのですが、年に一人か二人、手塩にかけて育てているわけです。

 

 一年で終わる人、二年、三年目に突入する人とさまざまでしたが、みんな無事に「卒業」していっています。

 

 今年は、その弟子が二人います。

 

 一人はよく知っている人なのですが、もう一人は、今年4月に降って湧いたようにやってきて、5月末から弟子になった人です。最初の関門が7月にあるこの世界で、これはかなりキツい。

 

 しかも、この弟子、いろいろ話してみると、へぇぇぇっ、と思うようなことを言うんです。例えば・・・

 

 「私、しかられたことがないんです。もちろん、注意はされたことありますよ。でも、小さい頃から母親がいつも家にいて、祖父母もいて、愚痴でも何でも聞いてくれたし、いいところをみつけて誉められて育ったし・・・。いやなこととか辛いことって、全然経験がないんですよね〜。」

 

 ・・・・・それはうらやましいねと答えつつ、なるほどと納得でした。

 

 私の弟子を卒業する頃には、みんな「トータル人間力」を上げていくことになります。どの方向に上げるのかは人それぞれだけど、かならず、大きくなっていく。

 

 どうやら今年の弟子は、神様に「君はもっと痛さや、辛さ、切なさ、やりきれなさ、挫折、そういうものを理解できるようになりなさいね」という課題をいただいている人のようです。

 

 私のそばに来てから、この人の人生は大きなうねりに巻き込まれているようで、いろいろ起きているんだと話してくれました。

 

 そんなものを目指さなければ、その天真爛漫なまま、生きていくことだってできるかもしれないのにね。あえて、そうでない道を選ぶんだね。

 

 しかし。

 

 おもしろいなぁ。

 

 神様が、私に期待している役割が、見えるような気がするんですよ。

 

 「どうして私のところに来ると、みんな何らかの『課題』に直面しちゃうのかねぇ・・・

 

 今年も言い続けていることですが、「どうして」と言いながら、本当はわかっているんです。

 

 そういう人を支えるのが、私の役割だから。

 

 だったら、私は淡々と、その道を行きましょう。

 

 ・・・・・うそです。右往左往しながら進みますわ。

 

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力を合わせていじめ対策!

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 今日もようこそ!

 

 どうやらからだは順調に快復を続けているようで、早起きがまったくできないくらいよく眠れるようになりました。

 

 多くの精神的原因を抱えた病気は、眠りがいつもと変わるところから気付くことができます。私の場合、背中が痛くて夜中に何度も目を覚ますところから「おかしいな」と思い始めました。

 

 その背中の痛みは、胃潰瘍から来ていたようですが、おととい、もうひとつ原因があったとわかりました。枕です。どうやら使っている間に高さが合わなくなってしまったんですね。

 

 引っ越しを期にだいぶ処分したものの「枕長者」でしたので、これならという一品を持ち出して換えてみると、とたんに夢も覚えていられないほどの眠りに。

 

 枕というのも、当たり前に使っていて、なかなか「合わないかも?」って気づかないんですよね。小さなサインの内に気付くことができたら、こんなふうに悪くならずに済んだのかもしれません。

 

 同じように、考え、行動することで、いじめも減らせるんですよ。

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もっと調和を

278cc44b.gif 月曜日。今日もお越しくださってありがとうございます。

 

 週末の自由時間を満喫して、充分にリラックスできたからでしょう、今朝はすっきりと仕事モード。

 

 で、「普段目をそらしちゃっていたものに注目してみたら・・・」という実践報告を続ける予定だったのをちょっと変更して、とんがった話題にいってみましょう。

 

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隠れたカリキュラム

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 みなさん、おはようございます。今日もおこしくださって、ありがとうございます。

 

 今日は、いつもとちょっと趣向を変えて、報道をにぎわせている「高校の必修逃れ」について触れてみたいと思います。

 そんなものに興味はないという方もいらっしゃると思いますが、お話したい主題は全ての人に意味あることと思いますので、どうかお付き合いくださいませ。

 

 私は、高校に勤めている間に、3回、カリキュラムを編成したことがあります。先ほど調べてみたところ、そのうちに2回分(2校分)は、今年も実施されているようです。

 かつ、私の雇い主(教育委員会)は、今回の41都道府県400校以上に及んだ「必修逃れ高校」を、公立・私立の別なく、1校も出していません。

 そのような立場から、この問題を見てみたいと思います。

 

 我が家がこの報道に触れた最初の会話は、「教育委員会は何をしていたんだろうね?」でした。

 我が雇い主は、それはもう、くどくどと、しつこく、これでもかと調査をしていました。具体的にいうと、毎年、指定された提出用のカリキュラム表のほかに、教務用(先生たちが使う時間割表)・配布用(生徒達が使う時間割表)を併せて提出しなくてはなりませんでした。

 その上、年に少なくとも1度は指導主事が巡回してきて、校長や担当教員がカリキュラムについて直接説明した上で、「指導」を受けていました。

 つまり、教育委員会をごまかすこと自体、不可能な体勢でした。

 さらに、我々の自治体は、よい意味でも悪い意味でも、学校の中に「抵抗勢力」が存在し、そういう不正(つまり、最終的には校長が違反を容認したと見える結論を出すこと)が、表沙汰たにならずにいられるほどの団結力がありません。かならず、不正として白日の下にさらされてしまうでしょう。自浄作用といえばそうですが、早い話、一枚岩ではないわけです。

 だから、ごまかせたらどんなに楽かと、考えるだけ時間のムダでした。

 今回、不正が発覚した多くの学校は、そういう意味で、教育委員会が機能を果たしていなかったのと、現場が強固な一枚岩で教育に向かっていたという点においては、共通しているのだと思います。

 

 ここで、専門用語を解説したいのですが、ここまでですでに使った「カリキュラム」という言葉、これは、簡単にいうと、「その学校に入学した生徒が卒業までに、いつ、どの科目を、何時間学習するのかを計画したもの」です。

 高校のカリキュラムは、各学校が生徒の実情に応じて編成するものと決められています。が、まったく好き勝手にやってよいわけではなくて、学習指導要領に組み方のルールが決められています。学習指導要領は法律に準じるものとされていますから、各学校はこのルールの範囲内でカリキュラムを編成することになります。

 学習指導要領は、文部科学省のHPで誰でも読むことができます。

 『新学習指導要領』

 

 さらに報道で使われている「必修」という言葉、これには二つの意味があります。

 ひとつは、かつて使われていた「必修」で、必修得科目・・・例えば、5段階で3以上の成績をとる・・・のことです。現行の学習指導要領では、必修得科目というのは設定されていません。

 もうひとつの「必修」が必履修科目です。これが現在問題になっているものです。ここでいう「履修」とは、簡単にいえば「授業に参加すること」です。各学校で何をもって「履修した」と認定するかが決められていますが、「法定時数の1/2以上の出席」などのルールが考えられます。

 法定時数とは、1単位=50分授業を35コマが標準、と学習指導要領で言っている時数のことです。

 現行学習指導要領で、必履修科目と決められている科目の一覧は、こちらなどで見るとわかりやすいです

 つまりですね、どんなに少なく見積もっても、31単位分は、必履修科目になります。(LHRや総合的な学習の時間はカウントしていません。)

 通常の高校の時間割は、50分授業が6時間目まで。つまり、1週30コマ分しか枠がありませんから、31単位となると、1年生だけで必履修を全部やるというのは不可能です。

 更に、科目の組み合わせが問題になります。

 例えば、中学校の社会科では、歴史(主に日本史)と地理とを並行して学び、公民分野もやることになっています。

 実質、歴史にふれるのは、年間20時間程度と思われます。

 その人たちを「日本史はわかったろうから次は世界史ね」というのは、無理があると思いませんか?多くのケースでは厳しいです。よほどの進学校なら違うのかもしれませんが・・・。

 世界史をやるなら、先に「世界」を認識してもらおうと考えます。すると、1年でやるのは、必履修のうち、世界史ではなく、「現代社会」とか「地理」とかになるでしょう?すると世界史は2年か?となるわけですが、進学校なら、1年次末には受験科目を絞り込みますから、「私のセンター試験は日本史と地理でいきます」とか言う向きに、「でも授業は世界史だよ」というのは酷だ、というのが、今報道で流れている、学校側の説明ですね。(学校側も話しやすいことを言っているだけで、コトはそんなに短絡ではないと思うケド。)

 そんなふうにして、自分の学校の生徒達が、どういう構造のカリキュラムならば、中学校からの連続で、学びを重ねていけるのかを考えるわけです。

 そこに、「各学校の特色作り」と「数値目標」が導入されました。

 簡単に言うと、各学校は「伝説」を持つことが要求されました。

 ・あの学校は部活が盛んだ
 ・あの学校は現役進学率が高い
 ・あの学校に行くと英語が話せるようになる
 ・あの学校は中途退学者がいないそうだ
などなど。

 それを数値化して、目標にし、達成するようにという話が出たわけですね。

 ・毎年何個の部が県大会に出場する
 ・現役進学率80%以上
 ・中途退学者数5%以下
などなど。

 数値にならない特色を持った学校もたくさんありますね。伝統芸能の継承とか、地域の祭の活性化とか、福祉ボランティアの必修化とか・・・

 当然、そこに時間をかけたい。ところが、枠は3年間で90コマしかない。

 卒業要件というのがあります。

 たぶん、多くの学校が「必履修科目を全て履修し、かつ80単位以上の修得をもって卒業を認定する」などとなっていると思います。(だから今回の問題で「卒業できない生徒」が出ていると報道されているわけですね。)

 当然、生徒のニーズ、保護者の要望、地域の要請なども重要です。教員定数・配置なども関係します。受験動向や大学入学後の必要性なども調査します。

 

 先ほど31単位以上は必履修だと書きましたが、逆に言うと50単位以上は学校が自由に組み立ててよいことになります。(学校設定科目といって、その学校独自の科目をおくことも認められています。手続きは大変なんだけどね。)

 カリキュラム作成というのは、こういう条件の下に、必死になって組み立てていくわけです。当然ひとりでできる話ではないので、プロジェクトチームが常置されていて、3年がかりくらいで原案を練っていくのが通常かと思います。

 余談ですが、知っている範囲での話、これらの諸条件をすべて理解して、原案の原案を組み立てられる人というのは、各学校に若干名ずつしかいないのが実情ではないでしょうか。

 それほど、カリキュラム作りというのは、難しいものなのです。

 ここまでは前置き。ここからが本題ですよ

 作るのがどんなに難しくても、長々説明してきたこれは「表(おもて)のカリキュラム」です。

 これが「教育」であるなら、「ビジネス」の時以上に真剣に取り組まなくてはならないのは、「隠れたカリキュラム」のほうだと、私は思っています。

 その計画表どおりに行われる授業に出ていれば、相応の知識は得られるでしょう。

 でもね、学校というのは、知識を伝達する会社ではないの。

 教科書には書いてない、大事なものをいっぱい、学ぶ場でもあるのね。それが「隠れたカリキュラム」。

 例えば、協力とか、思いやりとかいうのもそう。挫折経験とか、恋愛とかもそう。義務とか権利とかもそう。大学さえ入れれば殺人犯になってもいいわけではないの。

 必修逃れのカリキュラムを実施していた学校はね、「目的を達成するためにはルールを無視してもかまわない」という隠れたカリキュラムを教えていたことになるの。

 ルールを守るのは義務だよね。権利というのは、義務を果たした先にあるもの。必履修科目を履修せずに卒業していいよというのは、「義務を果たさなくても権利を主張していいんだよ」という隠れたカリキュラムを教えたことになるの。

 それでいいと思う?

 政府は、当該生徒にレポートや試験を課して、一定以上の理解を示した生徒には履修を認定しようという方向で検討を進めているようだけれど、これもおかしな話。政府自らが、「履修」と「修得」をごっちゃにしてしまったことになる。「すでにわかっていることなら、授業は履修しなくてもいいよ」という隠れたカリキュラムを伝えることになるのよ。

 教育を舐めんなよっ、と思う。

 必修逃れに何らかの形で関与した教師、管理職、教育委員会、文科省の担当部署などは、あらゆる意味で、生徒達に不利益をもたらしたんだよ。

 しかも、進学校だらけ。そこを卒業した人から、将来、さまざまなポジションで指導的役割を果たす人材が出るということよ。国の代表者・会社の代表者・地域の代表者・もちろん教育者も・・・。それが、そんな教育を受けていていいと思う?

 猛省するしかあるまい。

 今後、さまざまな方法で、救済策が講じられていくのでしょう。その策の裏で、「過ちは正さなくてはならない」「目的を達するにもルールがある」「自分さえよければいいものなんて何もない」「ウソは痛い目を見る」という隠れたカリキュラムがきちんと伝えられていきますように。

 隠れたカリキュラムという発想は、教育界以外にも通用することです。

 たとえば、さまざまなブログを読んでいると、そのブログの記事の内容とは別に、受け取る雰囲気がありませんか?

 このブログを読んでいると何か安らぐ、というのもあれば、楽しくなるというのもあるし、何か緊張するとか、叱られている気がするとかいうのもあるかもしれません。もちろん受け取る側のコンディションも大きく関わるのですが、それが、隠れたカリキュラムと同じことです。

 自分から、言葉や動作に併せて「何が」伝わっているのだろうかと、時折観察してみることは、とっても大事なことだと思います。

 

 というわけで、休日をいいことに、長々書きました。ここまで読み通された方、ありがとうございました。

 また明日お会いしましょう。

 外は雨が上がって、気温も高くなってきました。
 心穏やかな休日となりますように。

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沖縄に学ぶ多様性と許し

 みなさん、おはようございます。今日もおこしくださってありがとうございます。

 土曜日が出勤だったので、今日は代休。のんびり寝過ごして7時に起きてみたら、お外は霧がかかってヒンヤリとしています。

 

 昨日、沖縄で命を教わったというお話を書きました。沖縄については、2005年8月にも一度記事にしたことがあります。(豊かってすばらしい

 その時にも書きましたが、沖縄は、命の基準だけでなく、私が教壇に立つ根底をも作ってくれたのです。

 1年前には言葉にならなかったことを付け足したいと思います。

 私が沖縄に学んだ「教壇に立つ根底」とは、言い換えれば「多様性」です。

 ひめゆり学徒隊を引率した先生に代表される、戦争に生徒を参加させ死なせてしまった日本中の教師にとって、痛恨の事実は、「戦前・戦中に『生徒は死ななくていい』『子どもを戦争に行かせるのはおかしい』と思うことがなかった点です。

 ドラマを見ていると、「戦争には反対だが、取締りが厳しくて反抗のしようがない」とか、「本当は子供たちよ死なないでと言いたかった」とかいう設定が出てきます。自分の命惜しさに、子ども達を売ったかのような教師として設定されているものも見かけます。

 きっとそういう方もいたのだろうと思います。 

 でも、私が沖縄で知ったのは、そうではなかったのです。

 まったく、疑問にも思わなかった。

 自分も、生徒達も、国のために戦争に加わるのは当然だと思っていたのです。子ども達が死ぬのは悲しいです。自分が死ぬのは怖いです。でも、それは想定の範囲内で、「避けられるもの」として認識されていなかったのです。

 彼らがそれを認識したのは、戦争が終わってからです。

 戦争が終わって、時間がたって、あの戦争は間違いだったと言われて、天皇が神ではなくなって、学校が変わって、教科書が変わって、そうしてわかったんです。

 私が、生き残った教師達の悔恨を忘れられないのは、彼らの過ちが「本当はわかっていたのにできなかった」から起きたのではなく、「最初から誤っていた」から起きたという点に起因します。

 彼らが生き延びて、何かできることがあると感じたとしたら、やはりそこに原因があったのだろうと思います。

 まったく誤ったことを教えて、まったく誤った指導をして、たくさんの子ども達を死なせてしまった。もうひとりたりともこういう教師を出さないように、教育を変えなくてはならない!

 ひめゆりの生き残りの方々は師範学校の方だっただけに、戦後教壇に立たれた方が多いようです。それもきっと同じ思いだったでしょう。

 もし、教師の中に、最初から「これはおかしい」と思える人がいたならどうだったでしょうか。この国の当時の教育が、「おかしいんじゃないの?」という声の存在を認めるようなシステムだったら、あんなにたくさんの子どもや住民が死ぬことはなかったのではないかしら。

 いえ、そうなら、戦争は起きなかったんじゃないかしら。

 だから、私が修学旅行を計画した時、他の先生方と相談して、「平和を教えるのはやめましょう。」ということにしました。

 「教える」のは大切です。でも、もっと有効な方法がある。

 それは、生徒自らが平和に「気付く」ことです。

 私たちは自分の学校にいる生徒の知識や感性、好奇心の特徴などを考えて、そういう結論に至りました。(だからこのやり方がどこの児童・生徒にも共通だとは思いません。)

 2年の秋に修学旅行です。事前学習は1年のうちから行われました。

 身近な高齢者に戦争の記憶を聞いてみる、身の回りにある米軍基地を調べ、実際に足を運んで見学してみる、映画『月桃の花』を鑑賞する。なぜそうするのかについて多くを語らず、ただそういう経験を積み重ねました。

 沖縄に行ってからも、旧海軍司令部壕ひめゆり平和祈念資料館・生き残りの方の体験談を聞く・沖縄県平和祈念資料館平和の礎韓国人慰霊塔ガラビガマ糸数壕にもぐる、ゾウの檻米軍基地を見学するなど、立場の違うさまざまな情報源をめぐり、学校にもどってから思いを話し合うという形をとりました。

 多様性。

 彼らも、沖縄からいろいろなことを感じ取っていました。いろいろな視点に立っていました。修正が必要な部分、追加情報が必要な部分などは事後学習の中で話し合われていきました。

 そして、一度の体験で、その後のすべてを決定してしまうようなプリンティングを避けました。平和や命について、彼らに考える入口を作れたらそれでいいと考えていましたから。その後の人生で起きるさまざまな体験から、自分の考えを構築していってほしい。そう考えました。

 私たちの目論見は成功だったのでしょうか。

 それはわかりませんが、なんとなく、沖縄の、あの先生たちは喜んでくれたかな?と思いました。

 

 最後に。

 沖縄について、ものすごく感動していることがあります。

 それは、あの先生たちを生かしておけたという懐の深さです。

 現代は、なのか、本州は、なのかわかりませんが、人の過ちを責めに責めて当然といったような空気が当たり前のようにあります。

 自分も過ちを犯すかもしれない存在という認識があったなら、そんなふうにはしないでしょうにと思うのだけど、過ちを犯したんだから非難されるのは当たり前でしょう、恥をかくのは当然でしょうとでもいうような風潮を感じることがあります。

 テレビのワイドショーなんか見ていると、とくに感じますよね。

 もしも当時の沖縄に同じ空気が流れていたら、18人中、たった2人生き残った引率の先生を、責めに責めて自殺に追いやることもできたのだろうと思うのですよ。大事な大事な娘達を殺された親がたくさんいたんですから。

 でも、沖縄はそうではなかった。彼らに生きる場所を与え続けた。そうして、彼らが過ちを修正する時間と機会を与え続けた。

 彼らの人柄ゆえだったのかもしれません。けれど、それはすごいことだと思いませんか?

 私は思います。

 人は、償うから許されるんじゃないんです。

 許されたと思うから償えるんです。

 沖縄と沖縄の人々は彼らを許した。だから彼らは償うことができた。だから戦争直後に自殺しなかった。だから私たちは今これを学べる。

 彼らがどのように死を迎えたのか私は知りません。

 もし、彼らが、年を取り、今生の命尽きる日を迎えたのであったなら、それは究極の許しだったろうと想像します。長く、辛く、困難な学びの人生に終止符を打つ喜び。生ききった者のみが味わう達成。例えそこにまだまだ学びの余地があったとしてもです。

 私は、沖縄のような人になりたいと思います。

 

 では、また明日お会いしましょう!

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私は沖縄に命を教わった

 みなさん、おはようございます。今日もおこしくださってありがとうございます。

 いくら朝寝坊してもよい日曜なのですが、いつもの時間に目が覚めました。

 夜明けです。

 少しずつ空に赤みが差していきます。

 

 さて。

 私が初めて沖縄に行ったのは、1994年10月のこと、勤務していた高校の修学旅行の引率でした。その前年でしたか、修学旅行に航空機の利用が許可になり、思い切っての計画でした。でも、行くほうも初心者なら、迎える沖縄にとっても修学旅行初心者。

 那覇空港を出たときの、高温多湿の空気。今でも鮮明に覚えています。

 「だめだ、こりゃ!」

 私は高温も多湿もきわめて苦手です。丁度今頃の季節だったわけですが、朝晩涼しくて油断すると風邪をひく地元からは、いくら暑いといっても秋は秋、程度の認識しか持てず、まさかまだタンクトップに短パンでいいとは思えなかった・・・。

 バスでホテルに行って荷物をおろし、すぐに海岸へ遊びに行きました。30分くらい自由時間があったんですね。服のまま、とめるのも聞かずに海に飛び込んで、大目玉をくらっているアホンダラが何人もいたのを覚えています

 白い珊瑚がいっぱいで、海岸と言えば裸足で遊ぶものと思っていた一同は、一様に悲鳴をあげます。痛い

 この学年のさまざまな失敗を教訓に、次の年から半袖・短パン・ビーチサンダル・水着という、新たな持ち物がしおりに加わったのでした。

 と、私の初沖縄の記憶は、この到着時の出来事と、あとひとつしか残っていません。ちょうどこの年をはさんで前後数年ずつの記憶を失っているからです。

 失った期間の記憶は、ひどく断片的で、白黒映像で、動きがありません。そして、ほとんど人物が出てきません。群像として、塊のように見えます。

 ところが。

 あとひとつ残っている、その年の沖縄の記憶は、鮮明な青なんです。

 一枚の大きなボードに文章が書き付けてあり、背景が青空なのです。

 ひめゆり平和祈念資料館。

 400人近い生徒達が全員館の外に出たのを確認するのが、私の仕事だったように感じます。その青いボードの前で、けっこうな時間立っていたような気がします。

 一生本なんか読まないぞと決めてあるような子どもたちでしたが、資料館の「証言の部屋」とでもいうのでしょうか、大きな本の形をした、学徒のみなさんの証言や写真を、じっと読んで動かなくなってしまったので、私も一緒に証言や写真を丁寧に見て歩いたのです。(ひめゆり学徒隊のことは、こちらのサイトなどがとてもわかりやすいと思います。)

 私はその時、負傷者の切断された手足を捨てに行ったとか、傷口からわいたウジをとってあげたとか、自決の場面など、生徒達が大きな衝撃をうけたこととは違うものを見ていました。

 それは、私と同じ立場の・・・教師達の・・・悔恨でした。

 沖縄は、ご存知のとおり、日本で唯一、住民をまきぞえにした地上戦が行われたところです。とてつもない数の住民が、アメリカ軍によってというより、日本軍によっても死なされています。

 ひめゆり学徒隊の生き残りは、学徒さんだけではありませんでした。そこに教師もいたのです。

 18人の引率教師のうち、16人までもが戦死しています。

 生き残った教師の、悔恨の思いを読んだのではなかったかと思います。

 慄然としました。

 なぜ自分は、子ども達を戦場に連れ出すことに疑問すら感じなかったのか。なぜ彼女達が次々と死んでいくのを守ってやれなかったのか。なぜ自分は生き残ってしまったのか。

 その2年前、私はひとりの教え子を交通事故で亡くしていました。自分のクラスではなかったし、週に2時間授業で会うだけでしたが、屈託のない笑顔が突然教室から消えた事実は重く心にのしかかって、なかなか消えるものではありませんでした。

 もしもそれが200人以上の数になり、もしもその死の原因を全面的に自分が作ったとわかったら、どうだろうか。どれだけ悔やむだろうか。どれだけ自分を呪うだろうか。どれだけ亡くなった子ども達に詫びるだろうか。詫びても詫びても何も元にもどらないと知りつつ。

 青いボードの前で、私は考えていたように思います。

 なぜ、その先生たちは、その後の人生を生きられたのだろうか。なぜ自殺しないでいられたんだろう。

 私の疑問がそんな形をとったのは、私自身が、当時、自殺願望の塊だったからです。

 1年ほど前から、記憶がなくなるほどの局面でした。胃に穴があくのは当然、他にもいくつもからだの不調を抱えていました。なにより、目の前の問題は解決しないのではないかと思えました。それを解決しろと毎日のように電話がくる。叱責される。もういい、もういやだと思っていました。そこに、重要な仕事の責任者という立場がありました。こんなことでは大きなミスをして新聞沙汰になるに違いない。そんな思いの中で、でも、どうしたらいいのか、何一つ思いつくことができませんでした。

 もしも今、タイムマシンが使えると聞いたら、飛び乗って真っ先に当時の自分のところに行って、「大丈夫だよ、今はどうにもならないとしか思えないけど、実は解決するんだよ、だから平気だよ」と言って抱きしめてあげたいと思うくらいの様子でした。

 その時の修学旅行に、私は掌に握れるほどの青い結晶を、鞄の底に忍ばせて持っていました。いえ、当時はいつも持ち歩いていました。

 そのころ、とても信頼していた友人に化学者がいました。その人に尋ねたのです。

 飲んだらあっという間に死んでしまうような、コバルトブルーの薬品ってないかな。

 あるよ。

 私は暑いのがキライなくせに、真夏の空の色がとても好きです。自殺に関する本も読んで、どうするのが一番人様にご迷惑をかけず、賠償請求にも至らず、スッキリサッパリ死ねるのかを研究したつもりになっていました。

 当時の私の状況を知っていた友人は、私の意図を的確に把握したと思います。でも、何も言いませんでした。

 数日後、とても美しいコバルトブルーの結晶を作ってくれました。

 「致死量だから。」

 そう言っていました。それが大嘘だったとわかるのは10年も後の話です。

 3センチ四方くらいのかたまりで、一度に飲み込むには大きすぎ、砕くには硬すぎました。迂闊に扱うと解けてなくなるというので、ガラスの容器に入れて密封しました。本当に美しい青い炎のような色のかたまりでした。

 それでも、すっかり致死量だと信じた私は、「これでいざとなったら何とでもできる」と、かえって落ち着きを取り戻しました。

 そんな私でしたから、学徒とともに戦場に行き、生き残った先生の気持ちを思った時、当然見えるべき答えがすぐに見えなかったとしても不思議はありませんでした。

 青いボードの前で、ふと、気がつきました。

 つまり、

生きている間は

生きなくちゃ

ならないんだ。

 答えにならない答えですね。でも、その先生の立場に自分をなぞらえた時、自分に自殺という選択肢を与えないのが、最大の贖罪なんだということを理解したんです。恥ずかしくても責められてもののしられても生きる。

 私は思いました。

 今の私は、この先生ほどに辛いだろうか?・・・いいえ!

 この先生が生きて果たしたものほどのことを、私は果たしたか?・・・いいえ!

 ではなぜ、私だけ現実から逃げていいんだ?・・・NO!

 私は自殺する精神的根拠を失い、代わりに生きる基準を手に入れました。

 それでも、本当に「死んでしまおう」という気持ちを捨てるまで、何年もかかりました。次の桜を見るまで生きてみようか、もう一度桜を見るまで・・・これは以前書いたことがありますね。

 以後、仕事で辛いことがあったときには、いつもひめゆりの先生方を思い出します。そして、「これはあの先生が背負ったほどに辛いことか?」と自問します。すると、不思議と、行き詰っていた問題に何かしら新たな方向が見えてきたりします。時折、私の守護霊さまのなかにあの先生がいらっしゃるのでは?なんてことを考えたりしたほどです。

 ∞生きていられる間は、どんなことになっていても、生きていていいんだよ。生かされているのだから。

 あの時期に沖縄に行ったから、ああいうことを考えて、こういう記事が書けるんだなと思います。

 沖縄に、他の都道府県とは一味違った印象を持ち続けているのは、こんないきさつからなのでした。

 それから3年後、今度は私が修学旅行の計画をすることになり、沖縄修学旅行を実現することになります。明日はその時に学んだことを書きましょう。

 

 ちなみに。

 その時のコバルトブルーの結晶は、ずっと化粧台の引き出しに隠してありました。10年後のこと。

 あれ、本当に飲んでいたらどうなったの?

 友人に聞くと、「ちょっとお腹が痛くなったかな。」

 「え?死なないの?」

 「当たり前でしょ、自殺ほう助罪に問われるのはゴメンだよ。」

 「何なのだましたのね。で、どのくらい飲んだら死ねたのよ。」

 「う〜ん、1キロ・・・いや、500グラムでいいかな。」

 「アホかい。ステーキじゃあるまいし、あの硬い石、そんなに食べられるわけないでしょ

 「あはは、ステーキが食べたいって言ってくれたら、すぐにおごったのにね。」

 チャンチャン。

 この友人には、いくら感謝してもし足りない気がします。

 

 さらに。

 今回この記事を書くにあたり、その結晶の写真をお見せしようと思い、化粧台に行きました。

 ない。

 ないです。

 どこにもない。

 ぜ〜ったいここに入っているはずなのに。

 引っ越しの時も見失わないように気をつけたのに。

 ない。

 

 ガラスの容器と一緒に解けて消えたのか?

 不思議。

 

 あれ、もしかしたら、ほんとは致死量だったんじゃないかな。

 そんな気がしてきた・・・

 

 では、また明日。

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