春が来た。
僕が小紫に来てから7度目の桜が咲いた。

街のいたるところで、例年になく寒い日が続いて開花宣言されてからもなかなか満開にならなかった桜がやっと咲きそろい、淡い桃色の香りを漂わせている。
行き交う人々の声も、冬よりはいくらか高く、元気を増したように聞こえる。
僕の胸にも、明るさと力強さが湧いてくるような気がする。


「マスター、ビール持ってきたよ。ここに置いていい?」
解体業でもするようなつなぎ姿に金髪で、ビールケースを抱えて現れた青年は、先月から酒屋のバイトを始めた達也君だ。
「そこね、いま片付けの最中でちょっと物を移動させるから、そのままドアのところに置いておいて。」
「はーい!」
姿の割には素直で気持ちの良い返事をする。
年のせいで配達が苦痛になってきたと嘆いていた酒屋夫婦は、こんな働き者のバイトが飛び込んできて大喜びだ。
バイトにしては破格の給料を支払っているという噂を耳にしている。
それで、達也君もますます気を入れて働くのだろう。
この展開には、きっと僕も一役買っているに違いない。


「おい、マスター。来たよ。」
小紫の正面の入り口から堂々と入ってきたのは、仕事着に大工道具を抱えた元さんだ。
サラリーマンと違って定年退職しなくていい職人の元さんは、社長業もそのままに、悠々と仕事を楽しんでいるように見える。
今日も血色がいい。
「ありがとうございます。ここなんですけどね…。」
「ああ、任せとけ。こんなの工賃もらうほどでもない簡単な仕事だよ。」
いつもビールケースを置くあたりに椅子を、カウンターの中にテーブルを移動させておいたから、床が広がって見える。
床板のところどころ傷んで、浮き上がったところがあるのだ。
床にしゃがみこんだかと思うと、元さんはあちらこちらを金づちでコンコンと叩き始めた。
浮き具合を確かめているのだろう。
コンコンコン、コンコンコン。
リズミカルな音を聞きながら、僕は机で埋まったカウンターに、つま先立ちで身を細めて入った。

今夜のメニューは何にしようか。
奥の厨房へ戻りながら、冷蔵庫の中を頭に羅列してみる。
「マスター、いる?」
勝手口から声がかかった。
「いますよ。ああ、そこ、ビールケースがあるから気を付けて!」
「はいはい、見えてますよ。」
僕が急いで勝手口に向かうと、声の主は両手いっぱいのホウレンソウを抱えて待っていてくれた。
「スミさん、ありがとう。」
「まだ少し早いかもしれないけど、よく茂ったから、間引きも兼ねてね。」
「ええ。いいですね。柔らかくておいしそうですよ。」
「よかった!それで、次に植えるものは考えておいてくれた?」
「それなんですよね。ゆかりさんならどうするかと思うんだけど、いろいろ浮かびすぎて決まらなくて。」
「そうかい。サキエさんたちが、ソラマメはどうかなんて言っていたけどね。」
「あれ?ソラマメって、冬の前に植えるんじゃなかったかなぁ?ゆかりさんと蒔いたことがありますよ。」
「ああ、それは種で植えた時だね。サキエさんたち、どこだかでしっかり育った苗を見つけたそうだよ。」
「そういうことですか!それならいい。6月ごろに収穫できたらいいなぁ。」
「ふん。では、ソラマメをたっぷり育てようかね。」
提案が採用されたからだろう、スミさんの頬に朱が指して、日焼けした顔いっぱいに笑顔が広がった。
「はい、お願いします。」
「任せとけ!」
僕に土がついたままのホウレンソウを押し付けると、スキップでもしそうな足取りで帰ってしまった。
ソラマメはいろいろな料理に使える。
僕はすっかり楽しみになってしまう。

ゆかりさんが大切にしていた畑は、僕の力だけではどうにもならないので、今では街のお母さんたちのお願いして、管理してもらっている。
バイト料というよりはお駄賃みたいなものしか払えないのに、お母さんたちは親身に通ってくれている。
僕にとってもありがたいが、お母さんたちにも、生活に張りができたのだとかで、とても喜ばれているのだ。
彼女たちの元気な姿を見、明るい声を聴くのは本当に清々しい。


「おおい、マスター、ちょっと来られるか?」
振り向くと、元さんが立ち上がって、作業着の袖で額の汗をぬぐいながらこちらを見ている。
「はい。ちょっと野菜を置いてきますね。」
「おお。」


僕の小紫は、今日も元気いっぱいだ。





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