和尚さんが悟りについて語るというその話に、一同聴き入る形になった。
問答というのだろう、和尚さんは一方的に話すのではなくて、何かと皆に問いかける。

「人には『感情』というものがあるだろう。どんなものがある?」
「感情…うれしいとか、楽しいとか?」
「悲しいとか、さみしいとか。」
「切ないとか、やるせないとか。」
「怒りとか、憎しみとか、嫉妬とか。」
「そうだなぁ。いろいろとあるなぁ。人は四六時中、その感情を抱いているだろう?」
「確かに。何も感じていない時でも、安心とか平和とかいう感情を抱いている時と言えるかもしれませんわね。」
「うむ。その通りだなぁ。」
ゆかりさんの答えは、和尚さんの考えにしっかりと沿ったものであったらしい。

「ほとんどの人が、感情には感じたいものと感じたくないものがあると思っている。
たとえば、嬉しいとか楽しいとかなら、感じていていい。
でも、怒りとか憎しみとかになると、これはいらないと思う。」
「そりゃそうだ。怒ったままでいるのは気分が悪いし、体にも悪いと言いますよ。」
「うむ、うむ。」
「それに、感情って伝染するじゃないですか。」
そう言い出したのは、内装工事の会社社長である元さんだ。
「俺がイライラしたり怒りながら仕事をしていると、社員にも伝わって、現場の雰囲気が悪くなって、普段ならしないようなミスをしたりするもんだ。」
「そうだな。ウチでも、母ちゃんの機嫌が悪いと、売り上げが落ちるよ。」
そう受けたのは八百屋の長さんだ。
「怒りみたいなよくない感情は、早く切り替えた方がいい。」
「でも、切り替えようと思えば思うほど、しつこく心に残ったりすることもあるわね。」
「ああ。」
「あるある。」

「そのことよ。」
和尚さんは我が意を得たりと微笑んでいる。
「人はよい感情を抱くと、『ずっとこの感情を感じていたい』と思う。
よろしくない感情を抱くと、『こんな感情でいたくない、なんとかせねば』と思う。
これはつまり、どういうことか。」
「どういうことか?」
「うむ。
それはつまり、人はどちらにしろ、内側に沸き起こる感情にいつもじっと目を向けているということではあるまいか?
特にそれがよろしくない感情の時、どうにかしようとあがいて、原因を考えたり、対処法を考えたり、切り替えようと努力したり、捕われて悩んだり、せずにはおれない。」

声に出して答える者はない。
それぞれが、自分の思考に浸り始めた。

「そのうち、あまりにいつでも、長いこと我が感情をみつめるあまりに、自分とは自分の感情そのものだと思うようになる。」
「幸せな人生…って普通に言うものなぁ。」
「そう。そのこと、そのこと。」
「それで、幸せってのは、楽しかったり嬉しかったりするほうが、悲しいとか腹が立つとかよりも多いことを言うものなぁ。」
「うむ、うむ。
そうやって、人は自分の感情が自分そのものだと考える。
そのように教えられるし、人や子に教えもする。
ところが、違うのだなぁ。」
「えっ?違うんですか?」
「違う。我らは感情ではない。」
「どういうことでしょう?体の感覚が大切ということでしょうか?」
「いやいや。そういうことではない。」
「では、いったい?」
「それはなぁ…たとえ話をしてみたほうが分かりやすいだろう。」
「はい、どのような?」

「感情とは、空に浮かぶ雲のようなものと思ってみたらよい。」
「雲、ですか?」
「そうだよ。楽しいとか、嬉しいとかいう感情は、さしずめ夕焼けのようなものだなぁ。」
「夕焼け…。なるほど。」
「格別な喜びは…ほれ、虹のようなものだと思えばよろしい。」
「夕焼けに虹ですか?」
「どうだね?夕焼けや虹をずっとそのままとどめておくことができるだろうか?」
「それは無理ですね。」
「夕焼けなんて、刻々と色を変えるよな?」
「虹もそうだね。長く出ている時もあるけれど、薄くなったり形が変わったりして、あっという間に消えてしまう。」
「その夕焼けも虹も、空気の中の水蒸気…雲があってのものだろう?
では、その雲そのものはどうだ?」
「雲そのもの?」
「そうだなぁ。決まった形がなくて…。」
「いつ出ると決まった時間もなくて…。」
「絶対あるものでもなくて…。」
「いつも見えるとも限らない…。」
「であろうなぁ。雲とはそういうものだ。
感情というのは、その雲のようなものなのだよなぁ。」
「なるほど!少し分かる気がしますね。」
「どんなに素晴らしい気分であっても、いずれ形が変わり、消えてなくなる。どんなに分厚い、どす黒い雲であっても、いずれ流れて消えてなくなる。」
「おお。確かに、確かに。」

皆が感心する中で、ひとり沈思していたゆかりさんがポツリと言い出た。
「では、人は雲のようなものということでしょうか。
だとすると、なんだかずいぶんと頼りない話ですね。」
そのつぶやきを聞いて、男衆がはっとする。
和尚さんはニコリというよりニヤリと笑い、膝を打った。
「そこだよ。」
「え?」
「みなさんは、おのが人生が雲でよいかな?」
「雲でいいか?」
「雲のような、さだめなく頼りなく、消えゆくものだと思うかね?」
「でも、人はいずれ死ぬし、楽しみも苦しみも消えゆくものだとしたら、雲みたいなものってことじゃないですかね?」
「ほほほ。違う、違う。そこが違うのだなぁ。」
「違うと。では?」
「それ、それ。ここが肝要だ。それはね…。」








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