すっかり陽が落ちた盆踊り会場は、昼間の間に温められ尽くしたアスファルトと、ごった返す人の熱気とで息詰まるほど暑い。
インドア派でかつ静かな夜型生活が板についた僕は、この暑さと人いきれで目が回りそうだ。
少しでも、今、ここのしんどさから脱出しようと目論む脳は、僕に「浴衣というのは洗濯機で洗えるものか、それともクリーニングに出すのか、こんなに汗をかいてはそのままというわけにはいくまい…」などと、我ながらピントがずれたことを考えている。

そんな僕と手をつないで、あちらへこちらへと引きまわしているのは、もちろんさよりさんだ。
これは、恋に落ちる寸前のふたりが「手をつなぐ」というよりも、人混みで見失うのを恐れた母親が子どもの手を「つなぎとめておく」に近い。

会社の盆踊りというものが想像できないままに来てみたのだが、普段大型トラックが何台も入ってきては転回していく広大なスペースにやぐらを立てて、一番高いところでは、お祭りらしい笛太鼓が引きも切らずに軽快な音頭を鳴らしている。 
周囲には、これも例年のことだそうだが、どれほどあるのかというほどたくさんの屋台が並び、射的だのヨーヨー釣りだの金魚すくいだの綿あめだの、にぎやかなことといったらない。
会社の人々は家族連れで来ているし、さよりさんの話によると、お得意様だとかご近所さんだとかも呼ぶのだそうで、かなりの盛況だ。 

今夜のさよりさんは、ゆかたを着ている。
会社の入り口で待ち合わせをした。
なかなか現れないので、誘ってくれたことを忘れているのではないかと思い始めたところへ、会社の中から彼女は現れた。
浴衣姿だった。
それも、紺地に朝顔なんていう、いかにも夏の浴衣らしいものではない。
白地に、真っ赤なボタンが咲きこぼれているのだ!
長い髪をアップに結い上げてあるのだが、ほろりと一筋ほつれている。
「ごめんね!穂高くん。どう?似合う??」
「ああ、とても。」
「ありがとー。穂高くんも素敵よぉ!」
と、突然、僕の浴衣の右肩にしがみついてきた。
ああそうだ、この人は夜の蝶だったのだと久しぶりに思い出した。
真に受けてはいけない。
こういうしぐさは「客あしらい」なのだろう。
そうして、この派手としか言いようのない(でも、その派手な浴衣が恐ろしく似合っている) 浴衣も、実はかつての「仕事着」だったのではあるまいか。

ねぇ、ちょっと座らない?と言い出すタイミングを見計らっている僕には気づきもしないのか、気付いていても知らない顔をしているのか、さよりさんは僕の手をぐんぐん引っ張って、金魚をすくってみたり、綿あめを買ってみたり、楽しそうにはしゃいでいる。
綿あめなんて、白いかうすいピンクか、そんなものだろうと思っていたが、いまどきは違うらしい。
どうやっているのかわからないが、真紫とか真っ青とか、真っ黄色とか、およそ食べ物とは思えない極彩色を選べる。
「あたし、この真っ赤がいい!」
「はいよっ!」
受け取った綿あめからはイチゴの香りがした。

ねぇ、ちょっと一息…
「穂高くん、あっち行ってみようよ!焼き鳥の屋台があるんだ!」
「え?ああ、うん。」
「ほら、金魚持ってて。」
「ああ、いいよ。」
「ほら、こっち!」
また腕を引っ張られて、人波を縫うように進むと、ひときわ大きく開放的なテントから、香ばしい焼き鳥の香りが漂ってきた。

「売り上げはどう?」
さよりさんが意外な声をかけると、
「姉御!見てくださいよ!もう半分以上売れちゃいましたよ。」
「食中毒なんか出さないように、ちゃんと焼くのよ!」
「おう!任せとけ!」

テントで白タオルを鉢巻きに焼き鳥を焼いているのは、先日、ゆかりさんと一緒に小紫に来た屈強な男たちではないか。
「あの日ね、打合せだったのぉ。」
「へー。」
ゆかりさんは僕に焼き鳥を買わせると、右腕に焼き鳥、左手に金魚の僕と手がつなげなくなったからだろう、僕の背中をぐいぐいと押して、広場の奥、きっと倉庫と車をつなぐあたりの階段に僕を座らせた。
祭りの喧騒から10メートル離れただけだが、ふいに静かさがやってきて、僕はそっとため息をつく。
「焼き鳥、食べようか。」
「そうだね。」
「あーっ、待ってて!」
「何?」
「ビール買ってくるね!」
飲む?とも聞かずにさよりさんは駆け出している。
飛び跳ねすぎて少し浴衣が乱れ始めている。
でも、それも可愛らしいと言えば、言えなくもないか。

祭りの楽しみはきっと、非日常性にあるのだろう。
自分の浴衣姿を見下ろしながら、まさに非日常と思う。
女の子に手を引っ張られて、金魚を片手に下げて、赤い綿あめを舐めさせてもらって、焼き鳥にビール?
こんなマンガみたいな時間が自分にもできるなんて。

「お待たせ〜!」
さよりさんが裾もはだけんばかりの勢いで駆け戻ってきた。
両手に大きな紙コップ。
ドン!と隣に座ったとたんに「かんぱーい!」
ゴクンゴクンと喉を鳴らして、あっという間に半分飲み干している。

「楽しい?」
不意に聞かれて、うん、と答えてしまう。
本当はこれが楽しいのかどうなのか、なんだかよく分からない。
「疲れた?」
いや、そんなことないよ。
そう答えるしかない。男だし。
「子どもの頃にね…」
焼き鳥を一本、さもおいしそうに食べた彼女が言い出した。
「飲んだくれの母さんと、母さんが連れ込んだ男しか家にいないわけだけど、近所では盆踊りがあるわけよ。
でも、親はほら、そういうの全く関心ないわけ。
自分たちが関心ないから、あたしが行ってみたがっているなんて、眼中にないのね。
お小遣いなんて持ってないし、でも興味はあるし、行ってみるのよ。
そうしたらさ、小学校の友達が親と来てるの。
かわいい浴衣着せてもらって、慣れない下駄はいて。
あれほしいって指差すと、金魚すくいもヨーヨーすくいも、綿あめも、何でもやらせてもらえてる。
うらやましかったなぁー。
指をくわえてみているって、ああいうことだよね。
いつか自分もって思ったなぁ。
家を飛び出してから、バイトして、お金好きに使えるようになってから、行ってみたのね、夏祭り。
でも、びっくりした。
全然楽しくないの。
お祭りを楽しいなぁって思う年頃を、もう通り過ぎちゃってた。
悔しかったなぁ。
ほんと、悔しかった。
でもね、今年、こうやって普通の仕事始めたでしょ?
会社がね、お祭りをするんだっていって、準備をするのよ。
当然、あたしも手伝うでしょう?
そうしたら、なんだかだんだん楽しみになってきてね。
会社の人も、毎年何かテントで販売するんだって。
それで、今年は何にしようか?なんて話に混ぜてもらったら、めっちゃ楽しくなったの。
それでね、今年はもしかしたら、お祭り楽しいかなぁって。
子どもの頃に味わえなかった楽しさって、年のせいじゃなくて、ただ、タイミングっていうの?そういうのだけかもって。」

「そうだったの。今日、楽しい?」
「うん!めっちゃ楽しい!!」
「よかったね。」
「うん!」
さよりさんが楽しいなら、その場に一緒にいられるなら、それが楽しいと僕は思った。

「ね、まだヨーヨー釣りしてないね?」
「あー!忘れてたぁ。」
「今度は僕もやってみようかな?」
「いいねぇ!行こう行こう!あ、ごみはちゃんと片づけるのよ!」

今度は僕が彼女の手をひいて、先ほど一度通り過ぎたヨーヨー釣りのプールの前に来た。
僕は、彼女と違って、子どもの頃から祭りとなれば母さんと姉さんと3人で出かけたものだ。
金がなかったのは同じ。
でも、母さんは全部だめとは言わなかった。
「いい?ひとつだけよ。どれにするか、よーく見て歩いて、よーく考えて決めてね。」
僕は毎年ヨーヨー釣りで、姉さんは毎年綿あめを欲しがった。
「だって、ヨーヨーは失敗するとゼロだけど、綿あめは絶対手に入るもんね!」
あの頃から姉さんはしっかり者だったなぁ。

僕は水色の地にオレンジや黄色の曲線が入ったヨーヨーを、さよりさんは白地に鮮やかな線が入ったヨーヨーを釣り上げた。
ふたりでハイタッチ、やはり祭りはひとりより二人で来る方が楽しい。

「あー、楽しかった!じゃ、今夜はこれで。」
「え?」
もっとずっと一緒にいられると思っていた僕は、肩透かしを食らったようで言葉が出ない。
「これから、焼鳥屋の当番なのよ。お化粧直して、ちょっと浴衣も髪も直さないと。」
僕も手伝おうか?と言ってみたが、会社の人のテントだからとスッパリ切られた。
「でも、帰る前にもう一か所、付き合ってくれる?」
もちろんいいよと答えると、彼女はヨーヨーから少し進んだ先にある、先ほどの金魚すくいのプール前に来た。
「その金魚、貸して。」
「これ?」
「おじさん、ありがと!もう十分楽しかったから、金魚を広いプールに返してあげて!」
言われたおじさんも目を丸くしている。
そんなことはお構いなしに、さよりさんは小さなビニール袋に入っていた金魚を1匹、大きなプールに戻した。
「あんたも、みんなと一緒がいいよね?」

戻した金魚はあっという間に他の金魚に紛れて、どれがそれだか分からなくなった。
立ち上がり、裾を直したゆかりさんは、プールに向かってキザなことを言った。
「二度と、釣られるなよ!」
「釣られてくれなきゃ、商売になんねーよぉ!」
おじさんの答えに大笑いしながら、さよりさんはじゃあねと鮮やかに身を翻して、駆け去ってしまった。

夏は始まったばかりだ。
でも、僕の夏は、今夜でもう十分かなという気がしていた。





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