7月ももう終わるころになって、ようやく梅雨が明けた。
といっても、僕は喜んでいるわけではない。 
仕事がはかどる、大工は夏が勝負だ!なんていう元さんや、野菜の季節がやってきたぜ!と張り切る長さん、これからは熱中症と夏風邪で患者さんが増えるんだよぉと嘆き半分、どこか嬉しそうに見えなくもない宮田先生と違って僕は全然嬉しくない。
夏は嫌いだ。
何度経験しても嫌いだ。
暑いのは本当に苦手だ。

子どもの頃に、何か余程嫌な経験でもしたのだろうかと思い出してみるのだが、これといって思い浮かばない。
思い出したくもないほど強烈な思い出なんだろうか?

今夜は、さよりさんが言っていた、あの会社の夏祭りだ。
強引な誘いに負けて、僕はつい、行くことにしてしまった。
というのは表向きのこと、あんなふうに声をかけてもらって、僕はまんざらでもなかった。
やっぱり、無視されるより、ずっといい。

ところが、当日になってジワジワと焦りが出た。
何を着ていけばいいんだろう?
まさか、バーテンダースタイルで行くわけにもいかない。
でも、そうしないと、Tシャツとデニムくらいしか持っていない。
それでは気分も見た目もパッとしない。

待ち合わせの時刻まではまだ間があるから、急いで買いに行くこともできる。
けれど、袋から取り出したての折り目が付いたシャツを着ている自分を想像したら、なんだかものすごく気合いが入った初心者みたいで恰好がつかない。
ポロシャツ?それとも?
イメージもわかない。

子どもの頃、母さんや姉さんと一緒に、毎年夏祭りに連れて行ってもらったじゃないか。
あの時、周りの大人は何を着ていた?
思い出してみようとするが、ぼんやりかすんでいてよく分からない。
母さんの笑った顔、姉さんのビーチサンダル、それから?

こういうことは、いくら考えたところで答えは出ないから、素直にゆかりさんに聞いてみることにした。
「夏祭りに行く男というのは、何を着ているものですかね?」
「そうねぇ、普通でいいんじゃないかしら。」
その「普通」が一番困る。
今夜何食べたい?と聞いて、何でもいいよと言われた時と同じくらい困る。

「ああ、そうそう。よかったら、これ着て行ってみない?」
ゆかりさんはそう言うと、自分の部屋に行き、白い畳紙に包まれた着物を持ってきた。
そのまま居間に座って見せてもらう。
中から、男物の浴衣が出てきた。

「これは?」
「だいぶ古いものだけれど、きちんと手入れをしながら保管してあるから、いつでも着られるわ。
帯も、下駄も、ほら、そろえてあるし。」
ゆかりさんは、家族について多くを語りたがらない。
僕はいまだに、彼女が既婚者なのか、子どもがいるのかなど、まったく知らずにいる。
でも、問いかけたことがない。
問わない僕だから、ここに置いてもらえるのだと思っている。
だから、その浴衣はどなたのものですか?とは問わずにおくことにした。

「お借りしてもいいですか?」
僕は渡りに舟と飛びつくことにした。
大学の学部にいたころ、少しだけ茶道をかじったことがある。
学園祭の発表会の時には、浴衣姿で茶をたてた。
まったく知らない着物ではない。
もっとも、あの時の浴衣は借り物で、自前のものなど持ったことがないのだが。

おかげで、僕は服選びの苦痛からあっという間に解放された。
ゆかりさんにちょっと手伝ってもらって浴衣を着た後は、時間を見てでかければよいだけだ。
6時に正門前で…と言われている。
あの会社までの道のりは、歩いていくこともできるのだが、駅前でちょっとお金をおろしてから、ひと駅電車に乗っていくことにした。
下駄では歩き慣れていないから、少しでも歩く距離を縮めておくのは悪くない。

さほど混んでいないだろうと思っていた車内は、意外と人が多い。
ユニフォームを着て真っ黒に日焼けした小学生の団体を、小柄で若い女性がひとりで引率している。
このユニフォーム、持ち物ならばサッカーだろうか。
子どもたちなりに精一杯おとなしくしているのだろうが、甲高い笑い声、一斉のどよめき、なかなかに騒々しい。

僕がつかまったつり革の隣に、引率の小柄な女性がいる。
彼女も真っ黒に日焼けしている。
つり革を持ちながら、周囲に目を配り、声が大きすぎたりすると、キッと目配せをしている。
長い髪をポニーテールにして、一切の無駄がなさそうな引き締まった容姿に、自分とは異世界の何かを感じる。
彼女もまた、Tシャツにジャージ姿だった。

「お前さぁ…。」
子どもたちの中でも年齢が上に見える少年が、彼女に話しかけた。
少年は彼女と同じくらいの背丈をしている。
「何?」
お前と呼ばれても、彼女は文句ひとつ言わない。
「お前も一応女なんだからさぁ、試合の行き帰りくらい化粧するとか、普通の服着るとかしろよ。」
「ピアスとかネックレスとか、ネイルとかしろよ!」
最初の少年より年下の子が一緒になっていうと、そうだそうだと他の少年たちもはやし立てる。
「電車にジャージで乗ってる女なんかいないぞ。」

僕は、彼女がなんて答えるのか、少年たちと同じくらい興味を持ってしまった。

「あのね、試合の前に普通の服着た監督を見て、やる気が湧く?」
「着替えればいいじゃん。」
「あたしが着替えに行っている間、みんなの気持ちとか練習とか、緩んじゃうんじゃない?」
「そんなことないよ!」
「そうか、ないか。みんなならそうかもね。でもね…。」

さっきまでゲームがどうの、スマホがどうのとワイワイいっていた20人ほどの子どもたちが、いつの間にか彼女の声を聴き始めている。
それほど大きな声ではないのに。
統制のとれたチームのようだ。

「あたしはまだ先生になって間もない半人前だからね、偉そうなことは言えないんだけど、みんなと一緒にいるときって、あたしはみんなと同じでいたいんだよね。」
「なんで?別にお手本とかいらねーし。」
「うん。お手本なんてすばらしいものにはもともとなれないし…。」
「それじゃダメじゃない!」
子どもたちが笑う。

「けどね、例えば、運動会を考えてみてよ。
みんなは今日みたいに、決められた体操着を着ているでしょ?
見に来るお母さんたちは体操着?」
「そんなことない!体操着だとヘンだよ。普通の恰好。」
「だよね?ネックレスとかピアスとかは?」
「してるねー。」
「うちの母ちゃん、けっこう気合い入ってる!」
「そうそう。お母さんたちはそれでいいの。だって、応援団だもん。」
「うん。」
「じゃあ、運動会の時、先生たちがみんなお母さんと同じ格好していたらどう思う?」
「えー?なんか変。」
「変?
じゃ、先生が服はジャージを着てるけど、ステキなネックレスしてたら?
ダイヤがキラキラとか、真珠がずらりとか。」
「あー!なんかすげーヤダ。」
「雰囲気壊すねー。」
「雰囲気壊す?
じゃぁ、ネックレスはやめて、ピアスして、綺麗なネイルしたばかりだから綱なんか持てないよ、って言ったら?」
「うわ、サイテー!」
「ピアスしててボール当たったら怪我するよって、ママが言ってた。」
「そうだね、危ないってのもあるね。
じゃ、もし、先生が救護の係で、みんなのかけっこやダンスは一緒にやらないとしたら、オシャレしてもいい?」
「…うーん、どうかな?」
「オレはヤダな。」
最初に化粧しろと言った少年が言い出した。
「だって、あんたたちは走る人、私は関係ないって言われているみたいな気がする。」
しばらく真面目な顔で聞いていた隣の少年も言い出した。
「運動会の朝、先生が、僕たちのことじゃなくて、自分のネックレスとかピアスとかのことを考えてたんだーって思うと、なんだかちょっとがっかりするね。」

「あたしもね、そうなんじゃないかな?って思うの。
あたしはね、役割は違うけど、いつでも一緒に走る気だよ、君たちと心は一つだよっていうのを、服装でも表したいんだよね。」
「そうなんだー。」
「わかった!だから校長先生もカッコ悪いジャージなんだね?」
「スゲー古いデザインのやつ。着慣れてないから似合わねーんだよなー。」
「でも、校長先生のジャージ見ると、今日は特別な日なんだな!って、ドキドキするよな?」
「うん!」

「いろんな考え方があるし、みんなが私みたいに感じるわけではないと思う。
でも、あたしは、みんながジャージで試合のことを考えるときは、私もジャージで、みんなの気持ちになって、みんなと一緒に試合のことを考えたいの。
オシャレは別の時にいくらでもできるからね。
それに…。」

彼女はジャージのズボンを引っ張った。
「これ、あたしが今一番気に入っているスカートより高いんだよ!」
「えーっ!」
「大人になって、一生懸命仕事してお給料いただくと、こんな楽しみがあるんだよっていうことよ。」
「へー!」

「お前さぁ…。」
最初にこの話をし始めた少年がしみじみと言う。
電車はそろそろ次の駅に近づき、減速し始めている。
「オレ、初めてお前のこと、先生って呼んでやってもいいと思った。」
「じゃ、これから、お前じゃなくて、先生って呼んでくれるの?キャプテン?」
「ま、気が向いたらね。」
「しかたないか。あまりに未熟者だからねー。
いつも先生って呼んでもらえるように、これからも精一杯頑張ります!」
「ま、頑張れば?」
少年の偉そうな答えと同時に電車が止まり、ドアが開く。
子どもたちの盛大な笑い声が湧き起こった。

僕はその笑い声を背に、電車を降りた。
空には雲ひとつなく、あちらこちらから蝉の声が降り注いている。
電車の冷房から一気に外の蒸し暑さに投げ出されたのに、僕の心はさわやかなままだった。










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