「なんだって?!」
岩城さんは舘さんに体ごと詰め寄った。
「どういう意味だ。ゴールテープが見えただと?」
舘さんは小さく頷くと、そのまま俯いて言った。
「ガンだそうだ。余命宣告というのを受けたよ。あれは、ドラマだけじゃないんだな…。」

普段はあれほど聞き耳を立てていると見せてはならないと口を酸っぱくして言うゆかりさんが、あからさまに目を剥いた。
こんなゆかりさんを見るのは初めてかもしれない。
そして、それ以上に驚いた顔をしているはずの僕は、ゆかりさんと目を合わせている。
お客様を見てはならない瞬間なら、互いの顔を穴が開くほど見つめるしかない。

「だってお前、そんなこと…。」
「驚いたよ。今年はいつもの健康診断ではなくて、半世紀生きた記念に人間ドッグを受けてみようかと、半ば冗談で行ってみただけなんだ。」
「ああ。」
「そうしたら、再検査だ、精密検査だと続いて…。挙句に、手の施しようがないガンです、今後の生き方を選んでくださいって言うんだから、どうもこうも…。」

そんなことがあるのだろうか。
セカンドオピニオンは?ちゃんと確認したのだろうか。
僕は、姉さんが病気だと言われたのと同じくらい動揺していた。
もっとも僕の姉さんには、病気の方が寄り付かないと思うが。

「嫁も、嫁の両親も言うから、いくつかの病院で検査を受けた。
結果はどこも同じだったよ。」
「そうか。それでも間違いじゃないかと…。」
「いや、もう、診断結果を疑うのはやめた。」
「そんな…!」
「限られた命だと分かっても、治療を受けることは当然できる。
でも、病院にこもって治療するのではなく、家にいて、したいことをして過ごすこともできる。
どうしたいかと聞かれたよ。」

舘さんは、こうしてグラスに指をかけながら話している姿を見ているだけでは、そんな病気があるようには見えない。
話もしっかりとしているし、顔色が悪いわけでもない。
だるそうにも、痛そうにも見えない。
それなのに、何年、何十年と生きるのが難しいなんて、そんなことがあるのだろうか。

「あと1年。あと1年なんだそうだ。」
「うそだ。」
「うそじゃない。どこの医者も同じことを言っていた。」
「医者は神じゃない。」
「俺は考えたよ。息子はまだ幼い。できるだけ長く生きて、彼の成長を支えたいし、見守りたい。」
「ああ。そうだろう。」
「だから、治療を受けてくれと、奇跡的に治るかもしれないと、嫁は毎日言うよ。」
「当然だ。」
「俺も最初はそのつもりだった。でも…。」
「でも、何だ?まさか、治療は受けないつもりじゃないだろうな?」
「治療は…受けない。そう決めた。」
「お前!」

岩城さんは乱暴に立ち上がった。
そうして舘さんの肩を両手で握り、がくがくと揺さぶる。
「お前、何言ってるんだ!なんなんだ!」
叫び声一歩手前の最後は、涙が湿らせて、言葉になっていない。
ゆかりさんと僕は、もう一度目を見かわした。
止めなくていい。止めてはいけないと。

「もう少しだけ、聞いてくれないか?」
舘さんが、岩城さんの手首をそっと持って見上げている。
岩城さんは鼻をすすりながら、椅子に戻った。

「最初から諦めたわけじゃないんだよ。
俺だって、治るものなら治りたい。
でも、もしもそれが叶わないなら…。
俺なぁ、人生で初めて、生きるために必死で考えたよ。
必ず死ぬって書いて必死だろ?
おかしいよな、生きるために必死って。」
「冗談言ってる場合じゃない!」
「ああ、悪い悪い。」
「その、必死で考えた結論が、治療しない、なのか?」
「簡単にたどり着いたわけじゃないんだ。」

そう言って舘さんは言葉を切った。
そして、はっとしたように周囲を見回し、僕たちのところで視線を止めた。
「すみません。お二人とも…。」

僕は内心で飛び上がった。
きっと聞き耳を立てていたことをご不快に思われたのだ。
お詫びしなくてはと動き出す前に、ゆかりさんが頭を下げていた。
「申し訳ございません、不調法をいたしました。」
「いやいや、そうじゃありませんよ。こんな話、声も潜めずにしていたら、聞こえて当然ですし。そうじゃなくて、これから僕が話すことを、お二人も聞いていてくれませんか。」
「は?」
「最後まで聞いていただければ、お願いした理由もご理解いただけると思います。
客のわがままだと思って、聞き届けてやってください。」
舘さんはゆっくりと頭を下げた。

断ることができようか。
ゆかりさんの目くばせで、僕は店の外へ出て、看板を裏返した。
戻り際、カギをかけるのも忘れなかった。
その間に、ゆかりさんの提案で、席をテーブルの方へ移した。
四人で座るにはそちらの方がよいし、カウンターのスツールより座りやすく、疲れにくいからというのも、理由のように思う。

舘さんが、席を移る時に「あそこにあるハイランドパークの25年を」と言ったのを、僕の耳が聞き取った。
ゆかりさんは「召し上がって大丈夫なのですか」とは言わない。
かしこまりましたと答えて、音もたてずに用意した。
それをテーブルに運ぶと、そのまま空いている席に座ったゆかりさんは、僕にも隣に来るように言う。
僕たちは、舘さんの話の続きを待った。





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