のそりと目を開けて、ぼんやりと周囲を見回す。
あれ?ここはどこだ?
部屋で寝たはずではなかったか?

…ああ、そうか。
引っ越したのだった。
ここは、ゆかりさんの家にある、僕の新しい部屋だ。
痛い。頭も体も痛い!

「ああ、穂高。目が覚めた?」
声に従って首を回すと、ゆかりさんの心配そうな顔にぶつかった。
「大したことはないから心配はいらない。疲れが出たのだろう。」
白衣の宮田先生までいて、僕は事態を理解せざるを得ない。

「朝ご飯の時間になっても全然出てこないから、朝寝坊がすぎるわよってからかおうと思ったの。
そしたら、布団の中で真っ赤な顔して、荒い息をついていて。
おでこに触る前に、髪の毛越しに熱気が伝わってくるんだもの、びっくりしたわ。」
「ママがすぐに僕を呼んでくれてね。」
宮田先生の声は、あくまで優しい。
きっと、僕の病気を思って、とるものもとりあえず飛んできてくれたに違いない。
「ありがとうございます。すみません…。」
「なんのなんの。仕事だからね。」
「どう?どんな気分?」
ゆかりさんがさらに乗り出して問いかける。
「頭が痛いです。体も痛いかな。でも、これは荷物を運んだ筋肉痛かも。」
「そうだねぇ。」
宮田先生が笑顔を浮かべている。

「小さいころから、環境の変化に弱かったということは?」
先生に問われて、そういえばと思い出した。
「母から言われたことがあります。
卒業とか入学とか引っ越しとか遠足とか、そういうのがあると、決まって熱を出すのよって。 」
「うん、そうなんだね。今回もそういうことだろうよ。」
「まぁ!」
ゆかりさんが驚いたような、ホッとしたような声を上げる。
「すいません。虚弱体質で。」

「いや、君の場合は虚弱と言うよりも、レスポンスがいいと言った方が合ってるね。」
「レスポンス??」
「反応とか応答とか訳せばいいかな。」
「反応がいいってことですか?」
自分の吐息が灼熱の温度を保ったままなのを感じながら、僕は先生の意図を知りたかった。
「ああ、そういうことだね。」
「そんなこと、言われたことありませんよ。」
もぞりと寝返りをうって、体の位置を変えたとたんに、全身に得も言われぬ痛みが走る。

「ストレスと言うと、辛いことを我慢したときにたくさんかかるように思われているけれど、期待感も大きなストレスになることがあるんだよ。」
「ああ、マリッジブルーとか5月病とか。」
「そうそう。 人によっては巨大倉庫くらいにストレスをしまっておける仕組みを持っていることがあってね。
嬉しいことも悲しいことも、その都度ストレスになっているけど、どんどん倉庫にしまい込んで気付かないんだね。
ところが、倉庫にも限界がある。
ある日突然詰め込み過ぎて腐ってしまったストレスが大爆発したときには、もう手の付けようがない。
火を消すにも、片づけるにも、もう一度建て直すにもとんでもなく長い時間がかかってしまう。
時には爆発で散らばった毒素が体のほかの部分の病気の原因になったりね。 」
「ああ、それ、分かるわ。」
頷くだけの僕の代わりに、ゆかりさんが感心したように言う。

「でも、穂高くんの心身はそういう構造じゃないんだなぁ。 
片手で持てるバケツくらいしか、貯めておけないようだよ。」
巨大倉庫とバケツ。
いかにも自分が小人物と言われたようで憮然となるが、例えのうまさに笑えても来る。
「だからね、すぐに溢れてしまうけど、こうして熱を出すくらいで済むわけだ。
どっちがいいかは、一概には言えないけれどね。
巨大倉庫の持ち主は、通常はストレスの影響を受けないわけだからね。
けど、悪くないんじゃないかね、いい反応をしている体のおかげで、重大なことにならないなら、それで。」
僕が”重大なこと”をじっくりと経験したのを承知の上で、先生は笑いながら帰っていった。

「ね、穂高。」
宮田先生を見送った後、ゆかりさんが枕もとに戻ってきて真顔になった。
「はい。」
「あなた、ウチでお昼を食べなくなってから、どうしていたの?」
「どうって…。」

そうなのだ。
小紫に雇ってもらった最初のうちは、店にいる時間のぶんだけ時給を支払うという契約を最大限に生かそうと思い、朝から晩までここにいたものだ。
だから、昼ごはんもゆかりさんと一緒に食べさせてもらい、昼食代を払ったりしていた。
でも、それもしばらく続けると、ちょっと疲れてしまったのだ。
小紫の営業は、開店時間は午後5時、準備開始が4時と決まっているけれど、終わりが明確に決まっていない。
お客様の入りが少ない夜は早めに店じまいすることもあるし、常連さんの腰が重い夜は、深夜1時2時でも追い出すようなことをしない。
一番多いのが0時に閉めて、片づけをして、帰宅が午前1時過ぎ。
晩ご飯は、合間を見て、店の奥でゆかりさんの賄いを食べさせてもらう。
が、昼近くに起きるので、朝ご飯は食べず、近所のコンビニで弁当を買ってきたり、ちょっと蕎麦屋に入ったりして朝昼兼用の飯を済ませ、4時少し前に小紫に行くのが定番になっていた。

「そんなことだと思ってはいたのだけど、口を出すのもね。」
「すいませんっ。」
どうして謝るのかわからないけど、布団の中で頭を下げる。
「丈夫な体を保つのが特に大切な人なのに、食べることをそんなに軽んじていたなんて言語道断だわ。
食べてさえいれば何でもいいわけではないことくらい、知っていたでしょうに。」
ゆかりさんの口調は、叱ると言うより嘆いている。
「確かに、反応のいい体なのだとは思うわ。
だからこそ、強くなれるよう気遣っていれば、大病をしにくい体ってことにもなると思うの。
『病は気から』っていうけれど、不安や不愉快がなければ体は健康ってわけにはいかないわ。
気を健康に保つためにも、食べるものは本当に大切なのよ。
ここにこうして引っ越してきたからには、あなたには滋養のある、健康なものを食べてもらうわ!」
「健康なものを食べる??」
「ま、細かいことは熱が下がったらね。
まずは、どう?お腹空いた?」
「うーん、どうかな。喉は乾いたけど。」
「でしょうね。脱水症状には気を付けるよう、先生にも言われたわ。待っててね。」

目を閉じてゆかりさんが戻ってくるのを待った。
まぶたの中で、世界がグルグルと緑色に回っている。
気持ちが悪い。

「はい、これ、お飲みなさい。」
声がして、半身を起こすと、グラスを渡された。
水だ。
喉を鳴らして飲む。
冷たい。
口から喉へ、そのまま全身の細胞に沁みわたるようだ。
「富士山の伏流水に、伊豆大島で採れた塩を少しね。」
「伏流水?」
「あら、言わなかったかしら。うちでお客様に召し上がっていただいている物の水はすべて、富士の麓へ汲みに行っているのよ。」
「!」
「塩もそう。体によい、力のある塩を選びに選んでいるの。」
「塩も…。」
「野菜も、他のものもみんなそうよ。」
「そうだったんですか…。」
「食べるって、それほど大切なことだと思うの。
命を保つために、自然の力をいただくってことだからね。
まぁ、ほら、飲んだら少し眠ったら?
次に目が覚めたら、いまより楽になっているだろうって、先生もおっしゃっていたわ。
特に解熱剤なんか飲まなくても、自然に下がるだろうって。」
「すみません。」

僕が返したグラスを持って、ゆかりさんは静かに戻っていった。
僕はグラグラする頭で考えた。
ここに引っ越してきたのは、本当にすごい決断だったのかもしれない。
僕の命のためにも、幸せのためにも、未来のためにも。







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