その場限りの約束ではなく、僕は本当にゆかりさんの家に引っ越すことになった。
あの方々を見送った次の日、常連の元さんや長さんたちが来た時に、珍しくゆかりさんがそんな話をし始めたのだ。
ゆかりさんが他の客との会話の内容を、いくら常連とはいえ、他の客にするなど今までに聞いたことがない。 
それだけ、ゆかりさんの心にも深く残る出来事だったのだろう。

「じゃ、穂高くんはここに越してくるのか?それはいい。」
もっといろいろ言われそうに思っていたけれど、常連さん方は手を打ったり深く頷いたりで、あっという間に話がまとまってしまった。
「あそこのアパートの大家は…ああ、大丈夫だ。話しておくから、いつでも都合がいい時に出られるだろうよ。」
「え?」
「だって、俺の幼馴染だもんねぇ。」
と、八百屋の長さん。 

「引っ越し屋なんか頼むんじゃねーぞ。俺らでやってやる。」
「おう。その分、ここの飲み代、一晩分くらいおごれよ。」
「それじゃ、かえって高くつくような…。」
「おい、真に受けるな。冗談だよ。」
「ほっ。」
「荷物まとめとけや。」
「はい。」
元さんは、仕事で使っている軽トラックを運転してくるだけでなく、荷物運びまで手伝ってくれるという。

僕のためにそこまで?と感激しかけたが、ニブい僕でも気が付いた。
みんなみんな、ひとり暮らしのゆかりママを心配していたのだ。
そういえば、僕を雇ったとき、ゆかりさんはみんなに僕のことを「用心棒よ」と紹介したっけ。
僕は1年ちかくをかけて、みんなから安心できる用心棒として認められたってことか。

実は僕だって同じなのだ。
今のところ、僕の方が圧倒的かつ一方的に世話をかけているけれど、それがいつまでも続くとは限らない。
あの元気な母さんだってそうだった。
また明日会えると思っていたくらいなのに、何の前触れもなく逝ってしまった。
吉高様だってそうだ。
あんなに力強く、戦争や人生を語ってくれたのに、次にまた会えるのは当然と思っていたのに、その機会は二度とやってこない。
それがゆかりさんにも起きたら?と思うと、僕は何もせずにはいられないのだ。
いずれ失うさだめであっても、手の届かないどこかでその日を迎えるのではなくて、脇に寄り添っていたいのだ。

これは甘えか?
それでも構わない。
僕は最後まで甘えよう。
そう覚悟を決めたのだから。

長さんが言ってくれた通り、引っ越しを申し出ると、長いこと暮らしてくれたからと、年明けの1月には越してよいことになった。
契約更新にははずれた時期だったが、違約金なども発生しないという。
「いやさ、実は、今引っ越してもらって、次の学生さんが契約に来る前に内装直して、ちょっと家賃の見直しなんかもしてさ、新しい契約にするってのも、大家にはおいしい話なんだよ。」
仲介の不動産屋がこっそり教えてくれたから、僕はどこか心疚しい気分だったのを吹っ切ることができた。

小さな一間のこと、引っ越しの荷造りなど簡単と思っていたが、そうでもなかった。
とにかく本が多い。
手放す気もさらさらないし、かといって、段ボールに何箱あるかというほどだ。
大きな箱に入れると重たくなって運びづらいから、わりと小さな箱を選んで詰めていく。
すると、箱の数が増える。
ため息が出てきた。

しかも、さっさと詰めればよいのは分かっているのだけど、久しぶりに手にする本をつい開きたくなり、開くと懐かしくて読みこんでしまう。
ふと気づくと、1冊段ボールに放り込むだけのことに15分もかかったりしている。
これではいつになっても引っ越しなどできるはずがない!
僕はまた一つ世間を知った。
荷造りから手伝ってくれる引っ越し屋さんがあるというが、こういうムダな時間を作らないための、ありがたいサービスなんだってこと。

拍車をかけたのは、往診帰りだという宮田先生が寄ってくれたことだ。
「穂高くん、何か手伝えることはないかと思ってねぇ。」
恐縮しつつもありがとうございますと甘えることにしたのが、かえっていけなかった。
「おや、これは遠野物語ではありませんか。」
「先生も読んだことが?」
「ええ。大学生の時にねぇ。懐かしいなぁ。確かこのあたりに…おお、あったあった。ほら、ここね、私はここが好きでねぇ。」
「ああ、いいですね。そういう切り口というか、語り口というか、いかにも柳田国男らしい。」
宮田先生が意外にも文学に造詣が深いことを知り、僕は嬉しくなってしまった。
しばらく語り合ってから、ひとり本に没頭し始めた先生を見ているうちに、音をたてて邪魔してはいけないと、僕も手を止めた。
ひとりでやっていた時は1冊15分だったのに、宮田先生がやってきてからは1冊目にすでに30分経っている。
「先生、お茶でも。」
「ああ、ありがとう。この河童のところを読み終えたら手伝うからね。」
これでは、進むはずがない。

「おーい、穂高。やってるか?」
威勢の良い足音と一緒に、元さんがやってきた。
「おう、先生もいたか。ん?何やってんだ?」
「いえね、懐かしい本があったものだから、ちょっと拝借して。」
「おいおい、先生よぉ。それじゃ引っ越しになるめぇ。」
「ああ、すまないね。あとちょっと…。」
未練たっぷりにしている先生の手から年季の入ったハードカバーを取り上げると、元さんは威厳をこめて宣言した。
「読みたかったら引っ越した後で読めばいいだろう。
ちょっと手が空いたから見に来てみたらこの体たらくだ。
こういうことはな、機械的にやらねば進まんのだ。
ほれほれほれ!」
「あーっ、元さん、丁寧にやってくださいよぉ。貴重な本もあるんですから!」
「何言ってんだ。本なんて、そう簡単に壊れるもんでもないだろに!」
「元さんが今持ってるそれ、1冊2万円くらいしますよ。」
「え?」
元さんの目玉が飛び出しそうになった。
「後ろに2500円って書いてあるぞ。」
「ええ、発売したときは。でも、希少価値の高い本で、今売りに行くと2万円くらいになるんです。」
「へーっ!お宝だねぇ。」
「ですから丁寧に!そんな本もたくさん混ざっているんです!」
「けどよ、穂高。そんな貴重な本を、こんなところにただ山積みにしていたのか?」
「ほかに置きようがなくて…。」
「それはいけねぇなぁ。畳の上に寝かしておくんじゃ、本も虫食いやすくなるだろ?」
「そうなんですよ。日焼けもさせたくないし、虫食いなんてとんでもない、けど、ほら、もう本棚もいっぱいで。」

小さな本棚に重量オーバーするまで詰め込んである本をしばらく見つめているうちに、元さんの目の端がキラリッと光った。
「穂高。持っている本で一番大きなのはどれだ?」
「大きい、ですか?それなら…これですかね。」
元さんはジャンパーの内ポケットからメジャーを出すと、本の高さを測りながら尋ねた。
「これ、何冊ある?」
「このサイズはこの1冊だけです。次に大きいのがこれくらいかなぁ、これは10冊くらいあります。全集だし。」
「ほうほう。次は?」
「一番多いのがこのサイズですかね。これは数えきれないくらいあるなぁ。」
「あとは文庫か?」
「いえ、文庫と同じくらい、ちょっと背が高い新書がありますね。」
「なるほど。わかった。」
「わかったって何が?」
元さんは次々と本の高さを測り、本の山を見回してメモしながら力強く宣言した。

「ゆかりさんちで借りる部屋はもう決まったんだよな?」
「はい。ここの倍くらい大きな部屋なんですよ。いやぁ、もう、夢のようで。」
「こっち側、壁だったよな?」
「ああ、そうですね。窓のこっち側が壁でしたね。」
「よっしゃ。本棚を拵えてやる。」
「え?」
「これ全部立てられるだけの本棚を作りつけておいてやろう。」
「本当ですか!?」
「ああ。地震が来ても倒れないようにしっかりと耐震もして。」
「すげーっ!」
僕は思わず叫んでしまう。
「でも、家に傷がつくんじゃないですか?それに、そんなにでかい本棚、高そうだし。」
「家に傷はつかないようにするし、ついたらそれもお前が家を出るときに直してやるさ。
それになぁ、まあ、これだけ重い本になると廃材で作るわけにはいなかいんだけどな…。」
元さんがニヤリと片方の口元を引き上げて言った。
「実はな、先日、顧客の言う通りに作った棚がキャンセルになったんだよ。
とにかく細かい注文で念入りに拵えたのに、向こうの都合でいきなり断ってきやがった。
腹が立つやら困るやらで、キャンセル料をふっかけたら、材料費と工賃をひいても儲けが出るくらい払ってもらえたんだよなぁ。」
「げっ」
「それがさ、でかいから壊して板に戻そうかと思っていたところでよぉ。」
「もしかしてそれを?」
「おう。格安でつけてやる。」
「格安って、すでに儲けが出ているのに、僕からも?」
「当たり前だろが。俺も商売だ。それに、人間タダだったと思うと、大事にできないからなぁ。」
「大事にします!だから譲ってくださいっ!」
「おお。話が分かるじゃねーか。」
「だって、この本全部立てておけて、いつでもサクッと引き出せる環境で暮らすなんて夢のようですよぉ。」
僕は思わずヨダレが垂れてしまった!
「ただし、出世払いで!」
「出世なんぞしねーくせに、何言うか。即金だ即金っ!」

実は畳を上げて、床材を補強し、そこだけ畳ではなくフローリングに直して本棚を入れたのだと知ったのは、引っ越した後のことだった。
静かな大晦日をひとりだけのアパートで迎え、にぎやかな新年会に加わり、あれよあれよといううちに引っ越しの日を迎えた。
あれほど手こずった荷造りも、みんなの手を借りて一気に進み、運び出されていく。
ゆかりさんの家には必要ない家財道具は処分するか売るかしてしまった。
でも、母さんが持たせてくれた炊飯器とアイロンだけは、押入れの隅でいいから、一生持っていよう。

大家さんの立ち合いで、引き渡しが済み、最後のカギをかけるとき、言いしれない寂しさが胸を覆った。
「さよなら、僕の家。」
ここで過ごした7年ほどの月日が、あれこれと浮かんでは消えていく。
しばらくは、姉さんだって住んだのだ。

カギを2本、大家さんの手に戻すと、僕は右手の甲でこぼれそうな涙をぐいと拭った。
「よしっ。」

人の温度を感じる暮らしは久しぶりだ。
僕はこれから、どんな毎日を送るのだろう。






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