あれからひと月たったのに、彼女たちはやってこなかった。
あの品の良い6人組のことだ。
ひと月半になっても、やっぱり現れない。
どうしたのだろうかと気がかりになる。
お珍しいこと、お風邪でも召したのかしらとゆかりさんと話し合ううちに、世間はすっかり冬枯れて、クリスマス色一色になった。

人々はやってきては笑い語らい、ほろ酔いに機嫌をよくして帰っていく。
僕らは寝て起きて、食べて働いて、今日もこうして生きている。
とりたてて事件と呼べるようなものもなく、特別な幸運と騒ぐようなこともない。
平凡で平和な毎日。

過去に煩うこともなく、未来を憂えることもない。
ただ、毎日を慌ただしくも穏やかに過ごせる幸せを、僕でさえ感じる日々だった。
小紫の前を通りかかり、張り出された求人広告を見て、ここで働こうと思った自分をほめてあげよう。
姉さん、僕はちゃんと普通の幸せを生きてるよ。


カラリンコロン。
カウベルが鳴る。
振り返りながら口が自動的に答える。
「いらっしゃいま…。」

言葉の最後の飲んだのは、その集団が黒づくめだったからだ。
明らかに通夜の帰りなのだろう。
泣きじゃくりながら支え合うふたり、白いハンカチを握りしめたままの手、おぼつかない足取りで入ってくるひとり、またひとり。

あの、ご婦人方だった。
待ちかねましたよ、どうなさいましたと問うこともできず、ハッとする。
ひとり、足りない。
とても嫌な予感がする。
いや、今までだって、体調がすぐれないとかご用だとかで全員そろっていないことは何度もあった。

ゆかりさんも気づいて、カウンターの奥からドアまで出てきて迎える。
「しばらくお見えでなかったので気がかりに思っておりました。今日はまた…。」
そういわれてまたハンカチで目を覆ってしまった人を抱きかかえるようにいつもの席に誘いながら、ゆかりさんが僕に目くばせをした。
折しも他のお客様は誰もいない。
僕は一つ頷くと、そっと外へ出てOPENの札をCLOSEDに裏返した。

「お寒かったのではありませんか?すぐに温かいお茶をお持ちしましょう。」
ゆかりさんはカウンターに戻る足で、暖房の温度を上げている。
僕はお決まりのおしぼりと水を運びながら、彼女たちの疲れ切った様子に胸を打たれた。
いないのは、あの、戦争の時の話をしてくれた一番年上に見える女性だった。

ゆかりさんが運んだ茶の湯気を吸いこんで、ひとりが重い口を開いた。
「よっちゃんが、亡くなってしまったの。」
それだけで、続きは言葉にならない。
ゆかりさんも僕も、席から立ち去りかねて、誰かが話を継いでくれるのを待った。

「よっちゃん…吉高さんというのだけれど、わたくしたちは『よっちゃん』とお呼びしていたの。
よっちゃんはね、この前こちらに寄ってから少し後にね、風邪をひいたの。
矍鑠としていたでしょう?
よっちゃんも自分のことを丈夫な性質だと信じていてね、風邪くらいなんのって、病院にも行かなかったみたいなの。
でも、なかなかよくならなくて、なんだかこじらせたみたいって。
じきに肺炎を起こして、入院してしまったの。
それからはあっという間だったわ。」

その場にいる全員の心を、哀しみのさざ波が覆っていく。
前回会った時にはあんなに元気だったのに。
あんなに心に響くお話をしてくれたのに。
どうしてこんなことに?
僕には死というものが近いようでも遠くて、関わりなく生きているつもりでいるのに、こうして不意に真横に立たれると、どうしていいのか分からなくなってしまう。

最初に話を切り出した女性が、バッグからひとつの封筒を取り出したのは、その時だった。
白いハガキ大の封筒には、どうやらきちんと封がされているようだ。
遺言だろうか。
僕はゆかりさんと眼を合わせると、そっと立ち去ろうとした。
「待って。ここに座って、一緒に聞いてちょうだい。」
「でも…。」
「いいの。ママも穂高くんも、一緒に考えましょうって、よっちゃんに言われたでしょう?」
僕らはためらいつつも、皆さんの輪の中に入ることにした。

「あ、あの『死ぬまでにしたい10のこと』ですか?」
「ええ、そうよ。これはね、よっちゃんからの最後のお願いなの。」
「どういうことでしょう?」
問いかけながらゆかりさんは、近くの椅子を引き寄せて僕の隣に座った。
「つい先日なのよ。病院にお見舞いに伺ったときに、これをお預かりしたの。
早く元気になって、あの話の続きをしたいと思い、カードに答えを書いておいた、でも、退院のどさくさで失くしてしまうといけないから預かっておいてって。」
「まぁ、そんなことが。」
テーブルの真ん中に置かれた白い封筒を皆で見つめる。
「ええ。だから私たち、よっちゃんの快気祝いはこの小紫で、みんなでカードを持ち寄って、『死ぬまでにしたい10のこと』を発表しあいましょうって約束したの。ね?」
呼びかけに応じて、うなだれた頭が一様に頷く。
「でも、その夜なのよ、急に悪くなって…。」

ゆかりさんがすっと立ち上がり、カウンターの奥に入ったのはその時だった。
僕もつられるように後を追うと、「これを運んで」とワイングラスが並んだトレイを渡された。
意図を察して僕はテーブルに戻り、音をたてぬよう念入りにグラスを置きならべた。
僕の後ですぐに戻ってきたゆかりさんの手には赤ワインのボトルがある。
「献杯しましょう、皆さま。吉高様のご冥福をお祈りして。」

改めて涙する仲間たちが鳴らすグラスで、その日の会話が封切られた。
「では、あたくしから申し上げますわ。あたくしね、死ぬまでにもう一度、ナイアガラの滝を見に行きます!」
「ナイアガラ?」
「ええ。大学を卒業するときに、記念にと海外旅行に行きましてね、その時に見たんです。
あの、足元から削られていくのではないかという迫力と、吸い込まれてしまいそうな水の勢いは忘れられない思い出なの。
でも、思い出にしておかないで、もう一度この体で味わうわ。」
「すてきね。」
「その時は私もご一緒したいわ!」
「ええ、よかったらみんなで行きましょう。」

「私は…毎日1回は、大笑いすることにしました。」
「まぁ!」
「何か特別なことをしなくても、毎日毎日を楽しいと思って暮らせるようにと考えた末に思いついたことなの。」
「なるほど!」
「でも、今日みたいな日は目標達成とはいかないわね。」
「しかたがないわ、そんな日もある。」

「私は食いしん坊でしょう?だから、いろんなものを『美味しい!』って感じられるうちに、いろんな土地の美味しいものをいただく旅をしようと決めました!」
「まぁ、あなたらしいこと!」

「私はね、象に乗るわ!」
「ゾウ?鼻の長い?」
「そう。だから、インドに行かなきゃ!」
「あら、できるわよ、インドに行かなくても。すぐそこで。」
「え?」
「千葉県にあるのよ、ゾウに乗れるところが。」
「やだわ、それホントなの?」
「ホント、ホント!」
「あんなに考えたのに、やだわぁ。じゃ、明日にでもできちゃうじゃない!」
「ええ。なんなら撮影係としてご一緒してもよろしくてよ。」
「もう、がっかり。明日は無理でも今週末には願いが叶う距離だわね。はぁ…」
「あらあら、よかったじゃないの、格安ですぐに夢が叶って。」

少しずつ笑顔が戻り、わずかずつ笑い声が立つ。
僕はお客様の笑顔がこんなに嬉しいものだと、これまで思っていなかった自分に気が付いていた。
笑ってほしい、元気を取り戻してほしい。
ここに座ってから、そればかり考えていた。

でも、無理矢理に笑わせたいわけではないんだ。
面白いことを言って笑わせたいってことではない。
ご自身の思いを温めてもらって、内側からあふれるような笑顔を見たい。
そのために僕には…小紫は何ができるんだろう…そう考えてみる。
笑顔が浮かぶかもしれない10分先を思って、今できることをする。
それが、僕の仕事なのかもしれない。

5人の仲間たちが一通り『死ぬまでにしたい10のこと』を語り合った。
「さ、穂高くんの番よ。」
「若者は先が長いから、10では収まらないでしょうけど。」
「今一番したいことを聞かせてちょうだい。」
口々に勧められて、僕は自分でも言うと思わなかったことを言いだした。

「僕は小紫で働き始めて、この仕事の魅力がだんだん分かってきた気がしているんです。
もっといろいろなことができるようになって、もっとお客様の笑顔が見たいんです。
そのために、自分にできることを増やしたいって思います。
まず、ゆかりママにできることを全部盗んで、僕もできるようになります。
それから、学校にも通って、最新の知識も得たいな。
そのためにはお金もかかるので…僕、アパートを引き払って、ここに引っ越してきてもいいですか?
それが一番都合がよさそうな気がするんだけど…。」

まぁ!あらぁ、うわぁと歓声が上がった。
「大変よ、ママ。プロポーズされちゃったわよ!」
「あ、いや、そーゆーわけでは…。」
「こら、否定しないの!」
年上の女性たちにいいように弄ばれて、僕は口が勝手に言い出したことを早くも後悔し始めた。
自分の頬だけでなく、耳まで真っ赤になっていることが自覚できるだけに、理由をつけてカウンターの向こうへ隠れたい衝動に駆られた。

「では、私の夢を語りましょうか。」
ゆかりさんが騒ぎをそっと沈めるように語りだした。
「私の夢は、今決まったのですけどね、この未来ある青年を大きく大きく育てたいと思います。」
「素敵!」
「私にできることはなんでも伝えましょう。でも、この青年がここでは叶わない別の夢を手に入れたら、握り締めることなく羽ばたかせることも皆様にお約束しますわ。」
「そんな…。」
「それでこそママだわ。潔いこと!」
「だから、穂高。」
「はい!」
「いつでもいらっしゃい、荷物まとめて!」
「はい!!」

いっせいに拍手が沸いて、気が付けば泣いていた人の顔にも笑顔が宿っていた。
「あら、私、今日も笑えたわ。」
そんな声に、改めて笑い声が響く。

「では、よっちゃんの答えも聞きましょうね。」
「ええ。」
封筒を預かった彼女が、そっと封筒を取り上げて、ぷつりと封を開いた。
ゆっくりとカードを引き出して、全員に見えるように開いた。

「死ぬまでにしたい10のこと」
しっかりとした文字でタイトルが書いてある。
その下5センチほどのところに、同じくらいしっかりした筆文字で、こう書かれていた。

したいことはすべてし尽しました。
よき人生でした。
みなさまのお幸せを
遠くからいつもお祈りしています。
   みなさまのお仲間 よっちゃんより



「お見事。」
「ああ、あたくしたちは、素晴らしい先達に恵まれましたね。」
「ええ。出会えて、共に過ごすことができて、幸せですね。」
「本当に、本当に!」

ゆかりさんが、テーブルにあってひとつだけ、ワインが減っていないグラスをに、自分のグラスをそっと合わせて目を閉じた。
「ご贔屓、ありがとうございました。これからも、いつでもお立ち寄りくださいませね、吉高様。」


それからも、吉高様の思い出話が尽きないまま、いつの間にか22時を過ぎていた。
このご婦人方の帰宅には遅すぎる。
ご家族も心配だろうし、足元も気がかりだから駅まで送って差し上げてとゆかりさんに言われて、僕は皆さんを駅の中に消えてしまうまで見送った。

コートを着忘れて出てきたことに、帰り道になって気付いた。
寒い夜になっていた。
駅前通りのジングルベルが聞こえなくなると、住宅街は温度をさらに下げたようだ。
早く帰ろう。

丁度街灯の下、急いで歩き始めた僕のつま先にひとつ、小さな赤い塊があることに気付いた。
早咲きの侘助椿が一輪、ひっそりと落ちていた。
僕はそれをそのまま残していく気になれなくて、右手ですくいあげると、ゆかりさんが待つ小紫に向かって駆け出した。





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