教育実習が始まった月曜から衝撃の告白を聞かされた金曜まで、梅雨時にも限らず一度も雨が降らなかった。
なのに、土曜日は、早朝からしとしとと、絹糸を引くような雨になった。
僕は思うように眠れず、右へ左へと寝返りを打つばかりの夜を持て余した。
義理の父親からあらぬ振る舞いをされていると告げたあの女子生徒を思うと、居ても立っても居られない。
けれど、自分に何ができるのだろうか。
答えはみつからない。

自分がいまこうして煩悶している間にも、またひどい目にあっているのではないかと思うと、内臓を搾り上げられるような痛みが突き抜ける。
息が詰まってあえぐ。

誰にも言わないでと、彼女は繰り返した。
その思いに逆らってよいものだろうか。

いっそ警察に相談するのがよいだろうか。
僕がきっかけと分からぬよう、うまく実情を探ってはくれないか。

いや、警察は、目の前で起きるとか本人の訴えがあるとかでないと動かないと聞いたことがある。
そんなの、だめだ。遅きに失する。

逆光の中で、黒いシルエットの肩が震えていたのを思い出す。
ぐずぐずしている場合じゃないと、布団を蹴り上げて飛び起きる。

でも…。

長い長い土曜日は、そうやって焦燥のうちに過ぎた。
何を食べ、何を見、何をしたか、何も覚えていない。
ただただ、おろおろするばかりだった。

日曜日も雨は降り続いた。
蒸し暑くて、それだけでも気は晴れない。
やるせないほどに苛立つ空気と、時折不意に沸騰し、逆流するかのように感じる血流。
いっそ何も聞かなかったことにして、彼女の願い通り誰にも言わず、僕の胸の内に秘めておくのがベストだと、何百回も思おうとした。

けれども、結局僕にはそんな割り切りができなかった。
実習生とはいえ、彼女は今、僕の生徒なのだから。

やはり、指導教官の山田先生に相談するのが一番いい。
山田先生ならば、彼女のために最もいい道へ導いてくれるにちがいない。

一度そう心を決めると、月曜を待つ気になれなかった。
日曜日はもちろん学校は休みだが、山田先生はソフトテニス部の顧問でもあるから、部活に来ているかもしれない。
今思えば、あの雨の日にテニスをしているはずはないと思うほうが自然だが、その時の僕にはそんな常識さえ浮かばず、普段着に傘一つで学校へ向かった。

「練習は中止にしたんですけどね、たまった仕事をちょっと進めようかと思って。どうしたんです?何か指導案のことでも相談に?明日でも間に合うのに。」
山田先生はしんとした職員室で、生徒の作文を読んでいるところだった。
職員室に人の気配がないことを、僕は天の助けだと思った。
「山田先生、実は、生徒から大変なことを聞いてしまって…。」

僕は彼女から聞いたままを、できるだけ正確に、山田先生に伝えた。
初めは片手に赤ボールペンを持ったまま半身で聞いていた山田先生だったが、途中からペンを置いて、椅子ごと僕の方に向き直って聴き入ってくれた。
「そうですか。そんなことが…。」

僕の話を聞き終えると、山田先生はしばらく考え込んだ。
僕はその場に立ったまま、山田先生の考えがまとまるのを待った。
僕だってあんなに長く考えたのだ。
時間がかかって当然だと思った。

けれども、山田先生の沈黙は、長くは続かなかった。
「わかりました。彼女の担任に相談をとも思ったけれど、それより僕からさりげなく彼女に聞いてみることにしましょう。事実確認ができるまでは、知っている人の数は少ない方がいいでしょう。」 
その言葉で、僕はあらゆる重荷から一気に解放された気がした。
「ありがとうございます!よろしく願いします。」
肚の底から感謝し、学校を出た。
手に余る難問は一気によき道へと引き継がれ、僕の裁量から去っていった。
雨はますます降り募っていたけれども、帰りの足取りは軽かった。

途中でトンコツラーメンに舌鼓を打ち、帰宅すると同時に布団に倒れ込むと、翌朝まで、僕は一度も目を覚まさなかった。

事件は、月曜日に起きた。

週末に仕上げると約束してあった指導案が一文字も進んでいないことを確認すると、山田先生は月曜日一日を指導案づくりにしてよいと言ってくれた。
ホームルームも実習の一部だけれど、その日はそれも免除だという。
正直、職員室にこもっている免罪符を受け取った僕は、内心ほっとしていた。
この状況で、不意に彼女と対面するのが怖かった。

この教材のまとめが、研究授業になる。
この教材で、彼らの人生に役立つ何を伝えたいか。
それを、どうやって伝えるか。
僕は考えに没頭した。
指導案の白紙が、次第に文字で埋まっていく。
頭の中で、僕は何度も教壇に立ち、説明し、生徒の答えを聞いた。

「あの、ちょっといいですか。」
山田先生に呼ばれて我に返った時、時計はすでに午後5時を過ぎていた。
「はい、何でしょう。たくさん時間をいただけたので、指導案ならもうすぐ見ていただけるくらいになりそうです。」
「いえ、そのことではなく、ちょっと校長室へ。」
「あ、はい。」
あのことだなと、ピンときた。

山田先生に続いて校長室に入ると、驚くことに、大学のゼミの教授が校長の横に立っていた。
教授が実習中に訪問することは聞いていたが、水曜か金曜のどちらか、僕が授業をする日だと聞かされていた。
何か予定が変わったのだろうか。
怪訝に思いつつ、言われるままに、黒い応接セットのソファーに腰かけた。

「あなたから情報があった生徒の件ですが…。」
口を切ったのは、僕の正面に座った校長先生だった。
校長先生の隣には、一足遅れて山田先生が座った。
教授は僕の隣で、硬い表情をしている。

校長の視線を受けて、後を山田先生が引き継いだ。
「昼休みに、丁度彼女がひとりでいたので、最近困っていることはないかと、軽く尋ねてみました。
すると、驚いた顔をして、ぜひとも聞いてもらいたいことがあるというのですよ。
その場では話しづらそうでしたので、相談室に来てもらい、じっくりと聞くことにしました。
それによるとですね、どうも、あなたの説明とは少し状況が違うようなのです。」

「どういうことでしょう?」
僕は前のめりに尋ねた。
「放課後、教室で本を読んでいると、実習生がやってきて、しつこく話しかけるというのですよ。」
「ええっ?」
「近くに座ってきたり、馴れ馴れしく…気分を害したらすまないのですが、彼女の言葉を借りるとですね…接してきたりするとか。」
「そ、そんなつもりは!」
「これは、あなたの物ですね。」

山田先生が大理石を模したローテーブルにことりと置いたのは、僕の本だった。
彼女に貸した『葉桜と魔笛』だ。
「頼んでもいないのに、こんな本を押し付けられた、断り切れず借りてしまったが、触りたくないのでカバーをかけたと…。」
「う…。」
嘘だと言おうとして、ふと止まった。
確かに、彼女から貸してくれと言われたのではない。
読みたいなら貸しましょうかと言い出したのは僕の方だった。
それにしても、なんという悪意に満ちた誤解だろう!
いやならば、断ってくれればよかったのに!!

「金曜日も、ひとりでいるところへあなたが当然のようにやってきて、あれこれ悩みを相談され戸惑っていたら、君も話せと言われていよいよ気分が悪くなり、なんとかその場を逃れるために、でっちあげの相談めいた話をしたのだそうです。」
「で、では、あの話は嘘だと?」
「彼女はそう言っています。さらに、あの実習生の姿は二度と見たくない、あの人が来る間は学校を休むと言っています。」
「ご、誤解です。僕はそんな…。」

そこで、校長先生が厳かに言った。
「教室には行っていない、本も貸していないと?」
「いえ、そうではありません。それは僕の本ですし、教室にも行きました。彼女と話もしています。でも、邪な考えなんかかけらもありません!そんなのは誤解です!!」

「ええ。彼女の誤解かもしれません。でも、私たちは、私たちの生徒を信じます。」
揺るがぬ巨岩にぶつかったような衝撃だった。
「彼女の理解が誤解か正解かは別にして、彼女が誤解するような振る舞いが、あなたにあったという点が重要なのです。」
「…。」
僕は絶句するしかない。

「私たちが一番に大切にしたいのは、申し訳ないが実習生のあなたではなく、我々の生徒です。彼女を休ませてあなたの実習を遂げさせる選択肢は、私たちにはありません。彼女のクラスでの授業を続けてもらうことはできないし、他のクラスで研究授業をしてもらっても、教育実習全体の評価として、及第点を出すことは難しいでしょう。」
「あの…彼女と話し合わせてください。僕が誤解を与えたなら謝らなければならないし、僕が聞いたあの話も、嘘とは思えないんです!」

「お気持ちだけで。彼女にはそう我々から伝えましょう。」
山田先生が、いつもの穏やかな声で言う。
「実習は打ち切りということで。よろしいでしょうか?」
校長先生の最後の問いは、僕にではなく、教授に向けられていた。
「はい。承知いたしました。大変なご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。その生徒さんが受けた心の傷を、どうか…。」
「はい、お任せください。」

一緒に帰ろう、荷物をもっておいでと教授に小声で言われ、僕は宇宙遊泳でもするような足取りで職員室に向かった。
他にお世話になった先生方がたくさんいらっしゃる。
でも、僕はそこであいさつをする気にもなれなかった。

校門を出るときに一度だけ学校を振り向いた。
希望と期待に煌めていていた場所が、今では灰色にくすんだ降魔殿に見える。
グラウンドから響く野球部の声も、吹奏楽の音色も、全てが葬送行進曲だ。

「先生、僕は…。」
「ええ。分かっています。あなたはそういうことをする人ではないからね。
高校が生徒さんを信じるように、私は君を信じていますから。」
「あ…。」
ありがとうが声にならず、不覚にも、大粒の涙が零れ落ちた。
顔を上げられない僕に、教授はひとことの小言も苦言もなく、かといって慰めもしなかった。
「こんなことがあっても先生になりたいなら、実習先はいくらでもあるから、またチャレンジすればいいでしょう。でも、君、よかったら大学院で研究を続ける道を選びませんか?」

僕は黙って頭を下げ、身をひるがえして、ここ、貴船オーナーがいる「ルナソル」を目指して駆け出したのだ。

あれから、3年。
僕は二度と教育実習に行くことなく、大学院へ進んだ。
あの日、屈辱に涙が止まらない僕を、閉店時間を過ぎてもずっと見守ってくれた貴船オーナーとは、言葉では表せない絆を結んだ。

今まで思い出すことも避けてきたが、あの時の女子高生は、あれからどうしたのだろうか。
僕が秘密を守らなかったことを覚って、彼女はあんな言い逃れをしたのだろう。
それとも、はなから僕をからかおうとしていたのだろうか。
あの逆光の中で震わせた肩は、泣いていたのではなく嘲笑っていたのか。

それでも僕には今でも、あの時の彼女の告白は、真実だったのではないかと思えてならない。
学校は、彼女の言い分を信じて僕を切り捨てる見返りに、親による重大な犯罪行為を見過ごしたのではないか。
彼女は希望通り、地方の大学に受かって家を出られただろうか。
僕には一切関係のないことだが。





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