大学4年で2週間の教育実習を迎えた。
大学を離れての実習はこれが初めてではない。
障害児が通う学校へ2日間、高齢者介護施設へも5日間、どちらも2年の時に体験に行った。
高校の教員免許だけなら不要な7日間だが、僕は中学校国語の免許もとるつもりだったので、この介護等体験実習というのが必要だった。

どちらも、人生初の場所で、右も左も上も下も分からない時間を過ごしただけで、精神的に得るものは大きかったけれど、何かをやりとげた気分にはとてもなれなかった。
でも、一緒に実習に行った学生の中には、その体験に深く感動し、ますます先生になりたいと思った、という人も少なくなかった。
そのへんから、僕は少しズレていたのかもしれない。

緊張と変な気負いで心がパンパンに膨れていた初日、 指導教官の後をついて回り、授業の様子を見学するばかりの2日目はあっという間に終わった。
3日目からは、早くも授業を受け持った。
現代文だ。

指導教官は、6月に実習に行った僕のために、2年生の現代文の教科書の、一番最初の評論文をとっておいてくれた。
分かりやすい文章だと思った。
これを生徒に理解させればよいのなら、自分にもできそうだと感じ、指導教官の配慮に心から感謝した。
指導教官は4種類・2学年にわたって授業を持っていたが、僕が担当させてもらうのは2年A組の現代文と、2年C組の古文だけだった。
指導教官がほかのクラスで同じ題材の授業をするのを見学させてもらうこともできる。
至れり尽くせりの待遇だったと言える。

初めての授業…つまり、最初の週の水曜日、A組の女子生徒が授業の後で質問に来た。
「さっき先生がおっしゃった、太宰治の小説、もう一度タイトルを教えてください。」
「ああ、『葉桜と魔笛』ですよ。」

授業の本筋のことではなかった。
説明のついでにちょっと触れた、太宰の小説に興味を持ったようだった。
長い漆黒の髪をした女生徒だ。
人形のように色白で、憂いを帯びた佇まいをしている。
目を彼女の後ろに移せば、チャイムと同時に飛びつき合ってじゃれていたり、早くも弁当を頬張りながら笑い興じている姿があちこちに見える。
それに比べると、まるで10も年齢が違うのではないかと思われるほどの落ち着きで、その女生徒はそこにいた。

「ありがとうございます。後で図書館で探してみます。」
「ああ、あの、それなら、明日僕のを持ってきてあげましょうか。」
「えぇっ、いいんですか?」
「いいですよ。繰り返し読んだから多少くたびれていますが、読むのに支障はないでしょう。それに短い話ですから、すぐに読み終えられますよ。」
「ありがとうございます。では、明日職員室にうかがいます。」

いまどきの子…といっても、僕と6つほどしか違わないわけだけど…の割には、美しい日本語を話す子だなと思った。
まさか、教育実習の大学生ごときに、質問をしてくる子がいるとは。
それも、意地悪やからかいではない質問を。
あの子が僕の授業を通じて国語に関心を深めてくれたなら、こんなに嬉しいことはない。
僕はすっかり教師気取りで有頂天になり、自分が犯した初歩的で重大なミスに気付かなかった。

次の日の指導案を提出し、急いで帰った僕は真っ先に、いつも手の届くところに置いてある太宰の文庫を鞄に入れた。
そして木曜日、僕はいつ彼女が来るかと、どこかそわそわと待っていた。
けれども、彼女は現れない。
古文の授業は、指導教官がやりかけていた品詞分解を引き継ぐ形だったので、指導の準備もさほどなかった。
職員室で、息詰まる思いでプリントを作成していたが、そう長くはかからない。
僕との約束を忘れてしまったのだろうか。
まあいいか、明日はまたA組での授業があるしと思い直した。

思い直しながらも、なんとなく、2年A組の教室を覗きに行ってみた。
もしもヘンに思われたら?
そうだ。板書の練習をしに来たと言えばいいだろう。
なぜ僕は言い訳を考えている?
何も疚しいことなどないのに。

彼女は、教室にいた。
ひとりで。
本を読んでいた。
本を買ったときの表紙ではなく、紺地に花柄のきれいなブックカバーがかかっていて、何の本かは分からない。
級友は下校するか部活に行くかしたのだろう。
別の階にある音楽室から、ブラスバンドの演奏が響いてる。
あれは、ツァラトゥストラかく語りきの、冒頭だ。

「おや、まだいたんだね。」
自分の声が不自然でないか、慎重に聴きながら偶然を装った。
「あ、先生。これ、面白いんです。つい夢中になってしまって。」
そういって彼女は、片手で本を少し持ち上げて見せた。
「そうなの。僕はちょっとここの黒板を借りて、明日の授業の練習をしたかったんだけど、邪魔になりそうだからほかの教室を借りることにするよ。」
「いえ、丁度いいところでしたから、私が帰ります。どうぞ使ってください。」
「いや、あの、邪魔してしまって…。」
「大丈夫ですよ、先生。」
「そうだ、これ…。」
僕は抱えていた教科書とノートに挟んでおいた太宰を取り出した。
「昨日約束した本、持ってきたんだけど、それが読みかけのようだから、これはいいね。」
「いえ、先生。ありがとうございます。お借りしてもいいですか?先生の実習が終わるまでには必ずお返ししますから。」
「そう?じゃあどうぞ。」
「ほんと、ありがとうございます。では、さようなら。」

丁寧に頭を下げて背中を見せた彼女が、ふと立ち止まって振り向いた。
「先生は明日も、黒板の練習にいらっしゃるんですか?」
まさか、君に本を渡すための口実だったとは言えず、つい
「あー、多分。僕は国語の先生になりたいくせに、字が汚いから。それに、どうしてもまっすぐ縦に書けないし。」
彼女はこのときはじめて、くすりと笑った。
「もしも、お邪魔でなければ、私、明日もここで本を読んでいてもいいですか?」
「もちろん。ここは君の教室ですから。お借りするのは僕のほうです。」
「じゃ、また明日。」

僕は先生として生徒に受け入れられている。
そう思えてならず、僕は心がふわふわと浮きたつような喜びを感じた。
教壇に一歩上がると、するつもりのなかった板書を練習してみる。
まっすぐに書けないのは本当だ。
でも、落ち着いてよく見ると、黒板には5センチ四方くらいのマス目がうっすらと描かれているではないか!
なんだ、これに沿って書けば、曲がることもないわけだ。

窓の外を眺めやったときの、黄色い夕日を覚えている。
ああ、教職は楽しいな。
あの時確かに、僕はそう思った。
思ったのに。





人気ブログランキングへ