僕の主治医・恋待先生の手厚いサポートのおかげでレポートは無事仕上がり、チャレンジで受けてごらんと言われた試験もなんとか切り抜け、ごく普通の講義の日々が始まった。
残暑の9月はいつしか天高く馬肥ゆる秋になり、都会の街路樹も色づく頃になった。
僕は、治療を続けながらも不調になることもなく、何もなくなった髪が、産毛のように気持ち生えてきたりもした。
けど、産毛がふわふわしているより、何もない方がすっきりしていい。
僕はわざと安全剃刀を駆使して、全部そり上げてしまったりしていた。

姉さんとひとつ部屋で暮らし始めて3か月近くになった。
もともとおしゃべりな人ではないのだけど、なんとなくぼんやししていることが多い。
でも、ルナソルのバイトは続けているし、故郷にいたころと同じように、とびきり美味い飯を作ってくれる。
そういう点は変わりなかった。

オーナーとのことはすでに聞いていたけれど、それが元気のない原因なのだろうか。
いつもの姉さんなら、わりとスパッと思い切りそうなものなんだけどなぁ。

もう一つ、姉さんについて気になることは、荷物が増えないことだった。
もともと、多くのものを処分してこっちにやってきてくれた。
捨てられないものは、母さんの骨がある寺の住職が預かってくれたそうだ。
それでも、段ボールにひとつふたつのことらしい。

肌寒い日が増えてきたから、さすがに着るものは真夏のようにはいかない。
でも姉さんは「私は暑がりだから大丈夫。まだ寒くないよ。」と取り合わない。
センスのいい人だから、都心のデパートに並ぶ服に心惹かれないわけはないと思うのだけど、行ってみればと勧めても、まったく行こうとしない。
あきれた僕は、駅前の衣料品店でシンプルなグレーのカーディガンを一枚選んだ。
柔らかくて軽くて、これなら邪魔にもならないだろう。
僕の普段着に比べたらずいぶん高かったが、仕事着のことを思えばワイシャツ1枚分にもならない。
姉さんには、本当はもっと素敵なものを着てほしいくらいだ。

「これさ、気に入らないかもしれないけど、よかったら寒いなと思った日に着てよ。」
僕が袋ごと差し出すと、姉さんは誕生日のプレゼントが入った包装紙を決して破くまいと開く子供のように、そっとテープをはがしてグレーの塊を引き出した。
「あら。」
ボタンをはずし、そっとそっと袖を通してみる。
「あったか〜い!ありがとう、サトル。」
姉さんの久しぶりに見る嬉しそうな顔に、僕は心の温度が何度か上がる気がした。
「よかった、似合って。」

すると、柔らかな袖の感触を撫でながら楽しむ風だった姉さんが、ふと改まった顔をして僕を呼んだ。
「サトル。」
「なに?」
「あのね、母さんの生命保険のお金の中から、私に200万円くれないかな。」
「いいよ。好きなように使えばいい。」
「ありがと。助かる。」
「引っ越しでもしたいの?」

僕がずっと感じていたのは、そのことだった。
もともと僕は一人暮らしをするつもりでここにきた。
二人暮らしでは多少狭いが、もともと狭いところで暮らしていたから、窮屈で困るというほどのことはない。
でも、姉さんにも姉さんの人生がある。
故郷には、とても好きで楽しんでいた農家の仕事もあった。
いつまでも、僕のそばで僕の世話をさせるのは申し訳ない。
でも、いてくれないと心細い。ほんと、心細い。

「うん。引っ越そうと思う。」
やはり、そうだったか。
「この近く?それとも、帰るの?」
「グァテマラ。」
「え?」
「グァテマラ。」
「ええっ!?」

姉さんは、つまみにフライドチキンでも買ってくるわというのと同じくらい気軽に、その国の名前を言った。
あんまり軽々というから、距離感がつかめない。

「それって外国だよね?」
「当たり前でしょ。地理、習ったでしょ?」
「中米ってやつだよね?危険はないのか?」
「まあね。」
「なんで?なんでグァテマラなんだよ!」
「コーヒー豆、作ってみたくて。」
「えーっ!」
「グァテマラレインボーって、知ってる?」
「へ?いや、初めて聞いた。」
「くっきりと派手な虹色の布なの。手織りでね、ほんとに虹色をしているの。」
「へぇ。それが?」
「たまたま見かけたんだけどね、それに、惚れちゃった。
着るものや、ラグとか、いろんなところに虹をまとっているのよ。
すごいと思わない?」
「なんだよ、その理由。」
「それに、いろいろなコーヒーを飲んでみたけど、私、グァテマラが一番好きだったのね。
だから、この豆はどうやって作っているのかな?私も作ってみたいなぁと思ったのよ。」
「そんな…。」
「今すぐでなくていいけど、サトルはきっと私の気持ち、分かってくれると思うわ。
私、行ってみる。応援してくれるよね?」
「え?ああ、まぁ。」
姉さんに勝てるはずない。

「いつ、帰ってくるの?」
「わからないわ。」
「住む場所とか、働く農園とか、もうあてはあるの?」
「全然ない!」
「おい…」
「だから、最初に行くのは日本大使館かなぁ。あはは。」

それで、意図的に荷物を増やさなかったのか。
なんだよ、おい!とざわめく心の正体は、自分にもっと早く相談してほしかった裏返しだ。
でも、姉さんの気持ちもわかる。
相談されていたら多分、止めていたから。

「あんな鮮やかな虹に囲まれていたら、心配事も消えてなくなりそうじゃない。」
姉さんが呟いたから、僕ははっとした。
「心配事があるのか?」
姉さんは目を丸くして、意外そうな顔をする。
「うん、ちょっとね。」
「なんだよ、言ってみろよ。僕じゃ相談に乗れないようなこと?」
姉さんはくすくす笑うと、寂しそうな顔になって、小さくきっぱり言い切った。
「私の気持ちの問題なの。
だから、誰にもどうにもできないことなの。
だから、虹のそばにいたいの。
ごめんね、心配事の隣にいる勇気がない姉さんで。」

僕はあの時、姉さんが何を言っているのか全然分かっていなかった。
まさか、姉さんの心配事が、僕が死ぬんじゃないかということだなんて、思いも寄らなかった。
だから、胸をたたく勢いで言った。
「いいよ、逃げちまえ!
心配事なんて、気にするな。
好きなことして生きようよ。僕も、そうするからさ。」
「うん、ありがと。」

そうと決まれば早かった。
姉さんはあっという間に旅支度を整えて、虹の国へ飛んで行ってしまった。


グァテマラレインボーPhoto by 世界ワイド劇場 
 


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