「やあ、すまないね。 」
ランチプレートが半分以上、僕の空きっ腹に収まった頃、オーナーがカウンターの中に戻ってきた。
「これ、うまいっすね。」
「だろ?大して変わったものでもないしボリュームで訴えるようなこともしないと決めたんだけどね、素材にはこだわっているんだ。その、ディップにしたきのこたちは長野から取り寄せた。」
「いや、いいですよ、これ。」
「そうか、嬉しいな。」
と、素直に喜ぶ顔がどこかいたずらっ子のようで、こういうところが姉さんも好きだったのだろうなと思ってしまう。

「食後のコーヒーはどうする?」
飲むか飲まぬかと聞かれたのではない。
「酸味が勝った豆で、アイスがいいです。」
「酸味か。では…定番のキリマンジャロを水出しで用意してあるから、それにしよう。実験台だから、割引価格だよ。」

首をかしげて待っていると、間もなく背の高いグラスが出てきた。
窓越しの日差しを浴びて、氷を沈めた琥珀色の濃淡が光る。
「水出しコーヒーは時間がかかるから、前日から用意するんだ。おまけにね、これは、ひとつ手を加えてみたんだ。わかるかい?」
「え?」
見ただけではなんのことかわからない。
ミルクもガムシロップも足さずに味わってみる。
口の中に爽やかな酸味と香味が広がる。

「よく冷えていて美味いです。こういうのが飲みたかった!って感じ。」
「でしょ?で、気付いた?」
「さあ??」

僕が答えに気付いたのは、幾口か飲んだ後だ。
「あ、わかった!氷ですね!」
「そう。普通の氷では後になるほどコーヒーが薄まってしまうから、氷も同じ水出しコーヒーで作ってみたんだ。」
「そういうことですか。手が込んでますねぇ!」
「でも、凍らせたコーヒーの味がどうなるのか、それを飲んだ人がどう感じるのか、まだお試し中というわけ。」
「いや、美味いですよ。確かに、これなら、話に夢中でちょっと氷が融けてしまっても、水みたいなコーヒーにならないですね。」
「ミルクやガムシロが変に主張することもあるまい?」
「確かに。でも、アイスコーヒーって、早く飲まないとそうなるって先入観があるから、平気だよって言われてもなんだか急いじゃうな。」
「ははぁ。なるほど。」
笑ってくれるかと思ったのに、オーナーはものすごく真剣な顔で聞いて考え込んでいる。
職人肌なのだなと、改めて思う。

オーナーは貴船という。
日本人なら知らぬものはいないと言ってもいい、和菓子の貴船屋の三男坊だと知ったのは姉さんが話してくれたからだ。
なるほど、それなら、東京のど真ん中に手の込んだ大きな店を構えても金に困ることはあるまい。
貴船屋の本店は京都なのだそうだ。
こっちにいると貴船屋のイメージは「盆暮れ正月の気が張った贈り物」なのだが、京都ではあっちこっちの茶室に和菓子を届けるのが本業なのだという。

そういう菓子なら、僕もデパ地下か何かで見たことがある。
何がどうなってできているのか知らないが、椿やら梅やら、里芋やらが練り切りという菓子になっていた。
いかにも甘そうで、うまそうで美しかったが、小さいくせに高かった。

貴船屋ではまだ父上が健在で、会社を切り回しているそうだが、経営を学んだ長男と菓子作りを継いだ次男がいて、三男のオーナーは好きに生きていいと言われたという。
羨ましいような、酷なような、複雑な話だ。
家業を3つに分ける方法はなかったのだろうかなどと、無関係な僕は無責任に感じたものだが、そんな簡単な話ではないのだろう。

結局オーナーは東京で店を開いた。
それも、和菓子とは関係のない店を。
その胸の内は僕には計り知れない。
でも、「貴船の坊(ぼん)」のお遊びと言われないように気張ってきたのだろうとは思う。
ただ、オーナーはいつも真剣で人懐こい笑顔で、気安くて一本気で、およそ「気張る」という言葉とは無縁だ。

「葉月ちゃんから連絡は?」
「コーヒーを送ってくれました。元気そうですよ。」
「そう。それならよかった。で、君は?」
「この前、季節外れのインフルエンザにかかって、ビックリしましたけど、基本は元気にやってます。」
「熱が出たり?」
「けっこうな高熱で、タクシーでそこへ運ばれてしまいました。」
僕は病院の方を指さしながら言った。
「大変だったね。でも、インフルエンザでよかった。」
「ええ、本当に。」
オーナーは僕の病気のことをよく知っている。
グァテマラに旅立つ前の姉さんに、この子をよろしくと頼まれてもいる。
オーナーは律儀にその言葉を守ってくれるが、必要以上に連絡をしてきたり、様子を聞きたがることはない。
だから僕は、彼を頼りにできるのかもしれない。

出会ったときは印象の悪かったこの男を頼りに思うまでになったのには訳がある。
姉さんが、この男に惚れたのだ。
あの時は、姉さんを盗られてしまいそうで、多分相手がオーナーでなくても気に入らなかったと思う。
でも、今になってみると、あの頃の姉さんの気持ちが、少しだけ分かるような気もするのだ。

母親を亡くし、間もなく弟も病に倒れ、慣れ親しんだ仕事を惜しげもなく辞めて上京してくれた姉さん。
初めての土地で、それもこの大都会で、口には出さなかったけれど、どれほど心細かったことか。
そんな時、母さんが生前飲みたかったと言い残したコーヒーが縁で出会った仕事場のオーナーは、顔も人当たりも抜群にいい。
地元の人に愛される繁盛店を作った張本人。
きっと、たまらなく魅力的に見えたことだろう、必要以上に。

心の中の言葉を、それほどためらいなく口に出すのが姉さんだ。
丁度僕が退院したころ、姉さんは心に育った思いをオーナーに告げたらしい。
すると、オーナーはこう言った。
「ごめんね、葉月ちゃん。君の気持ちには応えられない。知らなかったかもしれないが、僕には妻がいる。」

旅立つ前の姉さんからこの話を聞いた時、僕の心からオーナーを悪く思う気持ちが消えたのだ。
オーナーが、妻に知られなければ自分に思いを寄せてくる若い美人とどうにかなってもいいと考えるようないい加減な男でなかったことに感謝するべきだろう。
いや、こういう答えを出す男だから、姉さんは好きになったのだと思いたい。
姉さんの東京での初めての恋は、瞬殺で撃沈したのだが…。

そんなことがあっても、バイトを辞めたり、辞めさせたりしないところが、この二人らしい。
とはいえ、オーナーはともかく、姉さんはそれなりに落ち込んでいたのだと思う。
そんなこととはつゆ知らず、僕は空元気で働いている姉さんの店で、恋待先生と僕の病気の話をしてしまった。
姉さんにとってそれが、泣きっ面に蜂どころでは済まないなんて、気付きもしないで。





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