ちょっと話もしたいし、と言って僕をカウンターに座らせたオーナーだったが、僕にランチプレートを届けた後で呼ばれていった席の女性客と話が弾んでいて、なかなか戻ってこない。
かまわず舌鼓を打つ。
美味い。
家でもできそうなガーリックトーストだと、見たときには思った。
だが、フランスパンの焼き加減とみじん切りにされたキノコたちの風味が絶妙にマッチしている。
外は初夏だけれど、口の中には一足先に秋がやってきたような気分だ。

秋と言えば、思い出す。
抗がん剤治療で髪がなくなった僕の秋は、頭が寒いと感じるところから始まった。
大学1年の入学式を母の葬儀で欠席し、遅れて通い始めたとたんに病気になった。
けれども、大学というのは面白いところで、僕が休んだのは実質1か月にもならなかった。
始めのうちは授業が決まるまでのガイダンスとかで、必修以外は授業がなかったし、長い夏休みが闘病期間になったおかげで、9月から大学が再開する頃には、僕はまたキャンパスに足を運べるくらいには元気を取り戻していた。

ニットキャップが流行した年で助かった。
わりと短い残暑が過ぎると、キャンパスにはキャップ姿が溢れたから、僕だけ目立つことがなかった。
仮にキャップが流行っていなかったとしたら、僕はそのままの頭でキャンパスを歩いたのだろうか。
あるいは、ちょっと気恥ずかしくて、困ったりしたのだろうか。
今となっては、どっちでもよかった気がする。

僕が選択した授業の教授や、助教授や、講師の先生たちをひとりひとり訪ねて、最初の試験にどう向かったものかを尋ねたらいいと知恵を授けてくれたのは、ルナソルのオーナーだった。
「人って、自分を頼りに来てくれた人を無下にはできないものだよ。
まして君の場合、自分の不心得の帳尻合わせを頼むいい加減な学生とはわけが違うからね。」

学生生活課へ、長欠の説明をしに行くようにと教えてくれたのもオーナーだ。
実はそれが大正解で、親切な担当さんは即座にあちらこちらへ連絡し、僕が病気で休んだことが不利益にならないよう取り計らってくれた。
だから、先生巡りをしなくても、僕はそれほど困らなかったのかもしれない。
それでも、僕は先生たちに会って話してみたかった。
本当だったら授業で聞けるはずだった何者かを逃したことには違いない。
それが惜しくもあり、興味深くもあった。
それに、研究室というものに、何より興味が尽きなかった。

日本文学科でも外国語は必修で、担当の先生は通いの講師だったので部屋を持っていなかったから、授業の後で質問をしたがる女子学生が途切れるのを待って話しかけた。
「ああ、聞いてる。君か。大変だったね。」
気さくに返事をした、まだ若い講師は、テストは持ち込み可だから、力試しのつもりで受けてみたらいい、結果を見てからどうするか考えましょうと言ってくれた。

こちらも必修の生理学の教授は、僕にわざわざ椅子を勧めてくれ、そうか、君かと言いながら、インスタントコーヒーの瓶をとって、僕のためにカップを運んでくれたので、なんだかひどく恐縮した。
「筆記テストは厳しいでしょうね。ほかの学生のノートを写して丸暗記しても、なんの学問にもならないし。」
教授がいう「学問」の響きに、僕はしびれた。
「レポートをお願いするとしましょう。」
「わかりました。やってみます。で、何について書けばいいですか?」
「君が受けた治療について。」
「治療ですか?」
「どんな治療法があり、体にどんな影響があるか。どういうメカニズムで治るのかとかね。自分の体で体験したことをまとめればよろしい。」
「そんなでいいんですか?」
「それが一番でしょう。だってあなたは、そこから学んだことを一生忘れないでしょうから。」

古典文学の教授の部屋はすごかった。
壁という壁すべてが書架になっていて、本がぎっしりと詰まっている。
全集がいくつも、それから、ハードカバーでレア感満載の専門書たち。
教授の机の上には原稿用紙が広がっていて、万年筆が置いてあった。
何か、執筆中のようだ。
手書きなのか!
いかにも古典の教授らしい気がして、胸が高鳴った。

「何もしなくていいですよ。」
「は?」
「事情は分かりましたから、今回の試験は受けても受けなくてもよろしい。」
「では、レポートを。」
「いりません。授業を聞いてもいない学生のレポートを読む時間はないのでね。」
「え?でも…。」
「出世払いってことで。」
「は?」
どうも、この教授とはリズムが合わない。
「今回は免除しますから、次回はあなた本来の力より若干高い点をお取りなさい。」
「はぁ。」
「で、それを卒業まで続けたらよろしい。そうしたら、総合評価で卒業ということで。」
やっと分かった。
「いいんですか?」
「いいですよ。それより体を労わって、元気におなりなさい。そうして、本をたくさん読むこと。」
「はい!」
ありがとうございます。
僕は心からそう思って、頭を下げた。
この教授が、のちに僕のゼミの教授になる。

生理学のレポートを書こうとして、案外曖昧な理解しかしていなかったことに気付き、忙しい恋待先生を無理矢理昼休みに呼び出して教えてもらったのもルナソルだった。
「いい大学に入ったね。」
僕のレポートの話を聞くと、恋待先生は自分のことのように心底喜んでくれた。
「それに、この店のことは病院でも話題になっていてね。来たのは初めてだけど、なるほど美味い。これは忘れられないね。」

窓際の明るい席で、僕は恋待先生から改めて僕の病気と治療法について教えてもらった。
その時の会話を聞くともなしに聞いていた姉さんをひどく傷つけたと知ったのは、しばらく後になってのことだった。





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