『Luna Y Sol』。
その店の看板に書かれた文字が英語でないことくらいしか、僕には分からなかった。
姉さんにそっと尋ねると、ルナソル、と答えた。
そのやり取りを聞いていたらしい男が、勝手に割り込んできた。

「Lunaは月で、Solは太陽。真ん中のYはイと読むんだけど、店の名前では省略ね。
で、月と太陽だから、朝から晩まで。つまり、一日中ステキなところだよって気持ちを込めて名付けたんだ。
ちなみに、スペイン語だよ。」
なるほどと、一瞬感心しかけたが、いかんいかん。
僕は、どうもこの男がいけ好かない。
初対面で、ほとんど会話らしい会話もしていないのにいけ好かないなどと言ってはいけないが、女の勘に勝るとも劣らず、弟の勘というのは鋭いのだ。

案の定、姉さんは男の話にかなり嬉しげに聞き入っている。
数年来の農作業から、2か月ほどでは全く褪せない小麦色の肌に、真っ白いシャツが眩しいほどに似合っている姉さん。
スペイン語だと?
日本人は、日本語が美しく話せればいいのだ。
無意味な反感がどこから湧いてくるのか自覚できるだけに、よけいに気に食わない。

「私ね、サトル、コーヒーのことをもっと知りたくなったの。」
「ふうん。」
木で鼻をくくったような返事をして、僕は人間たちから目を逸らす。
けっこうキツい坂の途中、住宅街の真ん中に、ルナソルは存在感をありありと示して建っていた。
白い壁のオシャレな家が並ぶ中、ルナソルは驚くほどのオレンジ色をしたレンガで覆われていた。
通りからわずかに奥まった扉までの間には真っ白な石畳が敷かれ、両脇には濃い緑の葉が、ほどよい高さで茂っている。

こげ茶色の木の扉を押すと、カウベルが鳴った。
店の中も、石畳のような質感の床になっている。
オーナーらしき男の年齢には不釣合いな、使い込まれて味の出たテーブルや椅子が、真っ白い店内に温かみを添えている。

カウンターの向こうには、20cm四方くらいに区切られた、ドアと同じ色の板で作られた格子の棚が広がり、一目で美しさに吸い寄せられるようなカップたちが並んでいる。
ただ、美しいと言っても、ウエッジウッドだのロイヤルコペンハーゲンだのといった、紅茶に似合いそうな人工的な煌めきの美しさではない。
ただただ、存在感のある、はっとさせられるような器たちだ。

そういえば、平日の昼下がりというのに、それなりに客がいる。
ひとりでいるテーブルはほとんどなくて、二人、三人と楽しげに語り合っている。
喫茶店なんて何度も入ったことはないけれど、この店はけっこう大きい方なのではないかと思う。
テーブルが、1、2、3、4…8つもある。
それに、カウンター席。

奥の席にいた年配の品がよさそうな夫人がそっと手を挙げた。
「葉月ちゃん。」
男が声をかけるのよりも一歩早く、姉さんは僕の脇を離れて、そちらへ向かっていた。
「君のお姉さんは本当によく気が付く。動きも機敏で素晴らしい。こういう人に働いてもらうと、手放したくないと思うのは当然だろ?」
突然何を言い出すかと思えば、この無礼な男は、人の大事な姉を「ちゃん」づけで呼んだ挙句に、手放したくないときたもんだ。

僕は男に答えてやる義務はないとばかりに、格子の棚に目を戻した。
さっき見た中にひとつ、僕を釘づけにしたのがあったのだ。
丁度両手の中にすっぽりと収まるほどの大きさで、外側が、驚くほど鮮やかな黄緑色をしている。
そこに、花が一輪。
あれは、多分姫百合だろう。
内側はどうなっているのだろうか…

カリンと、水滴をいっぱいにつけて氷だけになっていたグラスの中で、その氷が音をたてた。
飲もうと思ってグラスを手にした僕は、そのままテーブルに戻す。
グラスの下の方で、アイスコーヒーが何倍にも薄まって、わずかに残っている。
ばつが悪くて、水滴に濡れた指をナプキンで拭いてみた。

「オーナー。」
注文を受けたらしい姉さんが男を呼ぶ。
図々しく、僕の目の前に腰かけていた男は、立ち上がりながら言った。
「次はホットでいかがですか、お客様。あちらのカップでお気に召したものがあれば、それを使ってご用意いたします。」
「あの、黄緑の、姫百合がついた…。」
僕はつい、本音で答えてしまった。
「かしこまりました。少しお待ちください。」
男は、先ほどまでの馴れ馴れしさとは打って変わって、丁重に頭を下げるとカウンターの向こうへ帰っていった。

伝票をちらりと確認する。
密閉されたガラス容器の一つから、豆を取り出すと、カリカリと音がし始めた。
「ああやってね、ご注文をいただいてから豆を挽くのよ。」
いつの間にか戻ってきた姉さんが言う。
カウンターに遮られてよく見えずもどかしく思ううちに、次に見えたときには男の手にポットがあって、その口から細く湯が流れ出るところだった。
しぐさのひとつひとつに、真剣さが宿っている。
じきに、音もたてずに、ひとつのカップ&ソーサーがカウンターに置かれた。
真っ白い器を、姉さんがすっと受け取り、トレイに乗せて運んでいった。

目をカウンターの奥に戻すと、男があの黄緑色のカップを棚から下ろしたところだった。
これも、コーヒーマジックか。
僕は、さっきまでいけ好かないと反感しか感じなかった男のすることから、いつの間にか目が離せなくなっていた。





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