一晩点滴を打ってから連れ帰ってもらったゆかりさんの家で、僕は結局1週間を寝て過ごした。
悪い病気の再発ではなく、季節外れのインフルエンザだったと分かった時は、安心するやら拍子抜けするやら、なんとも複雑な心境だったが、高熱の原因がはっきりすると、それはそれでやはり辛くて、我ながら情けないことになった。

もし一人暮らしのアパートに帰って、腹が減った時には自分でどうにかしなければならない状態だったら 、少しはシャキッとしたのかもしれない。
でも、温かくて作り立ての消化が良くて美味い食事が、声をかける必要すらなく、そっと運ばれてくるし、朝になるとパリッと洗濯をして洗剤が香るようなパジャマが出てきて着替えさせてくれるし、何不自由ない。
湯上りに体を冷やさなければ、さっと汗をながすための入浴もOKとのことで、自分の部屋では味わえない、ヒノキの浴槽でたっぷりのお湯の水圧を感じたりしていると、かえって病気でいるほうが都合がよいような気がしてしまうほどで、なんだか気合いが入らない。

四六時中見張っていなければならない状態ではないからと、ゆかりさんは店にいることが多い。
この部屋が小紫のほうに寄っているからだろう、 時折カチャンカチャンと食器を洗う音がしたり、まな板の音が響いたりする。
夜になればカラリンコロンとカウベルも聞こえる。
ああ、みんなあそこにいるんだなと思うと、それだけで温かい。
それだけで、具合が悪いことが心の負担にならなくなる。

ゆかりさんは食事を運んできてくれると、僕が食べ終わるまでの間そこに座って、 なにかれとなく話していく。
その様子は入院中の姉さんを思い出させた。

抗がん剤治療は副作用が出る。
基本的に苦しいわけだが、それでもふと、ましな時がある。
そんな時を見計らうように、姉さんとあれやこれやよもやま話をする。
「姉さん、あのさ、一度も聞いたことがなかったけど、僕たちの父親ってどうして死んだの?」

姉さんにとっては唐突すぎる質問だっただろう。
眼玉を丸くむき出して息を止めた後、ふぅっと力を抜いて、弱々しく笑った。
「なに?突然。」
「前から気になっていたんだけど、なんだか母さんには聞きづらかった。姉さんも全然父親の話をしないし。」
「それはね…。」
「事故?それとも、病気?もしかして、僕と同じ病気とか?」

姉さんはしばらく言いあぐねていたけれど、 まぁ、もういいかとつぶやいて、話してくれた。
「母さんはあんたに、父親は死んだと言っていたけれど、本当は死んでないのよ。」
「は?うそ!」
「よく考えてごらんなさいよ。うちに仏壇あった?お墓参りに行ったことある?」 
「あー、そういえば、ない。」
「そういうことよ。」
「まさかそんな!2時間サスペンスじゃないんだからさぁ。」
「でもその、2時間サスペンスなのよ。」

会社が倒産したのに、父親は通勤しているふりをして、半年も毎朝、母さんが作った弁当を抱えて出かけていたそうだ。
給料は、景気が悪いからと、現金袋にいくらかずつ減っていく収入をそのまま、母さんに手渡していたらしい。
それがある日、ぷつりと帰ってこなかった。
それきりなのだそうだ。

「そんなバカげた話ってあるか?」
僕は自分の病気も副作用の吐き気も忘れて起き上がった。
「バカげているかどうか知らないけど、事実なんだからしかたないじゃない。」
給料うんぬんのくだりは、姉さんが後から母さんに聞いたらしい。
ということは、失踪したのか。

「あんたを身ごもったと母さんが気付いたのは、父さんがいなくなってから2か月も後だったんだって。」
「ってことは、することしてから間もなく消えたって?」
「ま、そういうこと、かな。」
「ふざけんな〜!」
「だって、できたかどうかなんて分からないものでしょうが。」
「そうだけどさぁ…。」

ひとりで僕を産んだ母さんは、姉さんによく言い聞かせたらいい。
この赤ちゃんは母さんのあなたとでかわいがってあげましょうね。
お父さんが死んでしまったのだから、3人で助け合わないと。

死んでしまったと、姉さんも一度は信じたそうだ。
でも、中学生の時に、お墓参りに行きたいと母さんに問いただした。
賢い娘のことだ。
母さんも、無駄に隠し立てするより、味方につけようと思ったのだろう。
そうして、のんびり屋で体の弱い弟には、「死んでしまった」で押し通す約束をしたのだと言う。

まったく、もう。
まんまと、騙された。

「探したの?」
「もちろん。捜索願も出したし、心当たりは全部探したって、母さん言ってた。」
「どうして失踪なんてしたんだろう。僕たちを置いて…。」
「真面目な人だったみたいだから、会社が倒産したなんて言い出せなくて、苦しくなっちゃったのかしら?」
「意味わかんねー。 会社の倒産って、ひとりの社員のせいじゃないだろ?」
「まあね。」
「それとも、父さんが何か会社に迷惑をかけて、それで倒産したとか?」
「解らない。でも、違うんじゃないかな?」
「姉さんは、父さんのこと、何か覚えているの?」
「うーん、ほんの少しね。」
「どんなこと?」
「もう20近くも前になっちゃったから、ちゃんとは覚えてないのよ。
でも、ひとつだけ、すごくはっきり覚えていることがある。」
「何?」

姉さんは、また、話すかどうか、迷っている。
「話すから、ちゃんと寝なさい。疲れちゃうわよ。」
いくらか話をそらして、それから、大した記憶じゃないよと言わんばかりに、さらりと言った。
「父さんが会社から帰ってきて、あたしが玄関で出迎えて、父さんの黒い鞄を受け取るの。そうしたら、おっきな手で頭を撫でられて、『気が利くいい子だね』って言われた。」

それだけ言うと、姉さんは椅子から立ち上がり、「ちょっと喉乾いちゃったから、外出てくるね。」と行ってしまった。

僕は、姉さんが言いよどんだ理由をようやく覚った。
姉さんは、父親との、僅かであっても愛された記憶が残っている。
でも、それが、僕には望めなかった。
姉さんはそのことに気兼ねしたのだろう。

そんなこと、気を遣わなくていいのに…と思った端から、羨ましいなという気持ちが入道雲のように沸き立ってきた。
自分で自分の気持ちが抑えられなくて驚く。
これまで、密かに、何度も思い描いた様々なシーンがある。
「父親」という架空の存在と僕との、絵空事。
あのうちの、どれかひとつだけでいい。
確かな現実であったなら、僕はどれほど嬉しかっただろう。
でも、それは望みようもないのだと諦めるしかなかった。
なのに、もしかしたら、僕の父親は今もどこかで生きていて、ある日突然、僕の目の前に現れるかもしれないと思うと、僕の頭の中はこんがらがった毛糸みたいに、どうしようもなくなってしまった。

不意に吐き気を催して、ぐぐぐと唸る。
唸る喉の底から、味わったことがない感情がじわりじわりと滲む。
これは、怒りか、憎しみか。
それとも…


窓の外で大きな雷鳴が響いた。
いくつかの轟音の後で、強い雨が降り出した。
ずぶぬれになったのか、姉さんはあの日、病院に戻ってこなかった。





人気ブログランキングへ