体がピクンと震えて目覚めた。
ああ、今のは夢だったのか。
入院したときのことを思い出していたのだ。
そうだ、いま何時だろう。
いつの間にか外が暗くなっている。
小紫に行く時間だ。
いや、行けそうにないと電話しなければ。
ケータイは…そういえば、いくらか前にもこうして手探りをしたが、見つからなかったのだった。
体を起こして…でも、腕にも背中にも力が入らない。

あの時は電話一本で故郷から駆けつけてくれた姉さんも、今は遠くグアテマラにいる。
僕の病気について僕自身が説明を聞いたのは少し後になってからだったが、きっと姉さんはすぐに聞いたにちがいない。
運よく空いていたベッドに緊急入院することが決まると、姉さんは「一度帰るけど、大丈夫?」と聞いた。
診察室で気を失った僕は、目覚めたばかりで、自分が真っ白い部屋の、長いカーテンで囲まれたベッドに寝ている理由が飲み込めなくて、そこへ姉さんの質問だったから、余計に頭が混乱して、考えもせず「大丈夫。」と答えた。

姉さんは僕の頭をぽんぽんとふたつ軽くたたいてカーテンの向こうに消えた。
弟をよろしくお願いしますという姉さんの声が離れたところから聞こえた。
僕は頭の芯がしびれていて、そのままうつらうつらとしていたようだ。
きっと、薬のせいなのだろう。

次に姉さんが現れたのは、たぶん翌日の夕方だったと思う。
「サトル、大丈夫?」
「ああ、姉さん。うん、多分。どこへ行ってきたの?」
「仕事、辞めてきた。それから、あのアパートも解約しちゃったからね。」
「え?」
「今日から、あんたの部屋に同居する。」
「うそだろ?」
「あと、大学にも行って、事情話して、ちょっと休むって届けてきた。」
「僕、そんなに具合悪いの?」
「ちょっと時間がかかるらしい。」
「そうなの?」
「でも、治療法は分かっているらしいから、大丈夫だよ。多少辛いこともあるかもしれないけど、頑張ろうね。絶対治るし。」
「姉さん、そんなに簡単に仕事辞めちゃって大丈夫なの?」
自分が何か重大な病気らしいということに衝撃を受けすぎて、その点について思考を前に進めることはできなかったが、たった1日で退職して引っ越ししてきたというのが信じられなくて、そちらに興味が引き付けられた。
「大丈夫、大丈夫。あたしね、生活費以外は使い道がなかったから、けっこう貯金あるんだよね。母さんが残してくれたものもあるし。それに、しばらくは失業保険もらえるし。」

たった1日で惜しげもなく、故郷での仕事を辞めてきたという姉さんに、僕が受けた衝撃はお金のことではなかったのだけれど、その時は、では何なのかといわれても、よくわからなかった。

僕のために、姉さんは生活というか、人生を変えたのだと気付くまでには何日もかかった。
ひどく迷惑をかけているのだと思うと、僕はおどおどした。
だとしても、毎日姉さんが来てくれることで、僕がどれほど安心したか知れない。
完全看護の病院なのに、姉さんは、本当に毎日やってきては、僕の病室で過ごしてくれた。

本格的な治療が始まると、説明で聞いた以上に辛いものだった。
四六時中吐き気に襲われ、伸ばしかけていた髪がごっそりと抜け続けた。
ピーナツの殻みたいな形をした金属の容器を抱えて、今にも吐きそうな胸苦しさに悶えている時に、姉さんが背中を撫でて「苦しいね、代わってあげたいけど、いつか終わるからね、頑張って乗り越えて…」と囁いてくれた。
あの声がなかったら、僕はあの苦痛を乗り越えられたのだろうかと、今でも思う。
その証拠に、姉さんがいない真夜中に、あの吐き気に襲われた時の辛さは堪えがたく、ボロボロと涙を流して泣いた。
日中は考えない、「なんで僕がこんな目に合わなくちゃならないんだ」という答えのない問いが浮かぶのも、決まって真夜中のことだった。

スリムが当たり前だった僕が、真ん丸な顔になった。
ムーンフェイスと呼ばれる、この治療の副作用と聞いてガックリする僕の横で、姉さんはケラケラ笑って歌うのだ。
「アンパンマンは君さ〜♪」
「やめろよぉ。」
「いいじゃない。薬が終われば元に戻れるんだから。」
無神経なと怒る気にもならない。
隣のベッドからもクスクスと笑い声が聞こえる。
姉さんはいつもそんな軽口を言っては、僕を笑わせようとしてくれていた。


ガチャガチャと玄関のドアノブが音を立てた気がして、僕はまた夢想から現実にもどった。
誰だ?
強盗だったらどうしよう。
ガシャッ。
鍵が開けられたようだ。

「穂高、いるの?入るわよ。」
遠慮がちな声がした。
「穂高?穂高!」
ゆかりさんだった。

「すみません、熱を出しちゃったみたいで。」
「連絡もなく休むなんて、おかしいから。何回電話しても出ないし。」
「カギは…?」
「何言っているの?もしもなくしてしまったら家に入れなくなるからって、スペアキーを私に預かってほしいと言ったのはあなたでしょう?」
「ああ、そうでした…。」

人の声が自分に向かって話しかけてくれる。
ただそれだけなのに、僕は地獄で蜘蛛の糸を掴んだカンダタのように、救済された気がした。
ほっとして、ほっとしすぎて、泣きたくなった。

ゆかりさんが部屋の明かりをつけたから、眩しくて、目の前が真っ白になる。
枕もとの体温計に気付いたらしいゆかりさんが、もう一度検温しようと、僕の腕を動かした。
「今、何時ですか?」
「11時過ぎたところね。」
「そんなに。朝から調子が悪くて、昼過ぎに動けなくなって…。」
「わかった。いいから黙って寝てなさい。」
ピピピという電子音。体温計を引き抜いて、ゆかりさんが息を飲むのが伝わった。
「宮田先生を呼びましょうね。」
「ゆかりさん、僕は…。」
「わかってる。知ってるから。」
「なぜ?僕は何も言ってませんよね?」
「お姉さまからお手紙いただいたのよ。いいから、安心して。大丈夫だからね。」

ゆかりさんが、宮田先生とケータイで話し合っている。
そうか、姉さん、ゆかりさんに僕の体を見守るよう、頼んでくれていたのか。
僕が自分で言い出せないのを見越して。
ふん、姉さんたら、僕はもう子供じゃないんだぞ。
そんなに甘やかさないでくれよ。

心の中で悪態をつきながら僕は、今ここにいない姉さんと、今ここにいてくれるゆかりさんの気配に包まれて、ぐっすりと眠ってしまった。






人気ブログランキングへ