母さんが死んだときのことを思い出しながら、いつの間にか僕はうとうとと眠ったようだった。
肌がベトついて、呼吸が苦しい。
まずいな、と思う。
僕にとって発熱は、あまりいいことじゃない。
普通の人以上に、警戒が必要なのに。

目を閉じたままケータイを手探りする。
だめだ、どうしてないんだろう。
目を開けて、首を左右に動かしてみる。
こめかみのあたりから頭の中心へ向かって、ズキンと何本かの稲妻が走った。
医者に、行かないといけない。
今、何時なんだろう?

あの日もそうだったと、思い出す。
僕らが母さんの死から立ち上がったあの翌日、姉さんが一緒にここまで来てくれて、学生生活課の職員に事情を話してくれたおかげで、僕は最大限の同情と親切とで大学に迎え入れられた。
姉さんがちゃんと仕事を持っていたことと、母さんの生命保険が意外なほどの金額だったことで、僕は頑張ってアルバイトをしなくても学業を続けられそうだった。

ところが、入学して間もなく、ちょうどこんな梅雨のある日、僕は高熱を出した。
立ち上がることもできず、具合が悪いと言って呼べるような友達も知人もまだなくて、僕は途方にくれた。
それでも、ひとりでいることが怖くて、僕は姉さんに電話をかけた。

姉さんは、わかった、静かに寝てなさいねと言って電話を切ると、半日もたたずに、僕の部屋にやってきた。
「ちゃんとご飯食べてたの?」
「あ、姉さ〜ん。」
「苦しい?」
「うん。頭痛くて、気持ち悪い。」
「これ、今日が初めて?」
姉さんが持ってきたらしい体温計を僕の脇から抜くと、一瞬目を大きく見開いてから、僕の顔を覗き込んだ。

「いや、初めてじゃないんだよね。」
「あんた、前からよく熱出したもんね。こっちに来てからも?」
「うん。慣れない生活に疲れたか、風邪ひいたかと思ってたけど…。」
「病院行こう。」
「うん。でも、どこへ行ったらいいか、わからない。」
「ってことは、今まで熱出しても病院に行ってなかったのね!
もうっ!
こういう時はどこでも行けばいいのよ!!」

そう言うと、姉さんはどうやったのか、手際よくタクシーを呼んだ。
「さ、起き上がれる?」
という頃には、なんと運転手が手助けに部屋まで上がっているではないか。
「す、すみません…。」
「いえいえ、困った時にはお互い様ですから。」

そういえば、姉さんは、ふと思いついたことを、あっけらかんと口に出したり、人に頼んだりすることがよくあった。
中学の先生に聞いたのだが、修学旅行の時、行程を聞いた姉さんは「せっかくそこまで行くのだから、こんなことをしてみたいなぁ」と、何か言ったらしい。
すると、クラスの生徒たちが、それはいい、ぜひやりたいと騒ぎ出した。
その話が飛び火して、隣のクラスも、そのまた隣も、やろうやろう、ぜひぜひと「世論」を形成したらしいのだ。
旅行担当の教師…その人が僕にこの話をしてくれたのだが…が、しぶしぶ旅行社に尋ねるはめになった。
「生徒がこんなことをしたいと言うんですがね。今更無理ですよね、ね?」
教師の方では、はい無理ですと言ってもらって事を収めようと考えていたらしいのだが、意外な返事が返ってきた。
「ちょっと調べてみたら、実現は可能です。料金も増えません。それに、ちょっと面白そうですね。」
とうとう、姉さんのつぶやきは実現したのだそうだ。
実際にやってみると、これが大ウケで、添乗員からも「今後、モデルコースとして提案してみたい企画を教えていただきました」と、かえって感謝されたと言うのだった。

自分の思いに素直になれたら。
最初にちょっと感じる本音に耳を傾け、大事にすることができたら。 
そう感じることが、それまでにも何度かあった。
この時もきっと、到着したタクシーの運転手に、僕を抱えてほしいと頼んでくれたのだろう。
何か願いがあっても、思わず飲み込んでしまう僕とは真逆の姉は、近場でいいのよと口では言いながら、直観に従ったのだろう、大学病院の救急窓口に僕を運んだのだ。
きっと、すったもんだがあったろうと思う。
けれども、それがよかった。

診察に出た医師は、僕の経歴を聞き取り、検温をすますと、僕の腕をしげしげと見つめて尋ねた。
「この大きなアザは、何かにぶつけたの?」
「アザ?」
そんなものができていることさえ知らなかったのだ。
医師は、改めて僕の体をあちらこちらと見つめた。
一緒に診察室に押し入っていた姉さんも一緒になって覗いてくる。
気恥ずかしいといったらなかった。
しかし、恥ずかしがっている場合ではなかったのだ。

「君!」
脇に控えていた看護師を呼ぶと、どこか切羽詰まった声で命じた。
「血液検査!」
病院にたどり着いたことで、しかも、そこに姉さんが一緒にいてくれることで、すっかり気が緩んで、もう治ったも同然のつもりでいた僕は、なぜ発熱で血液検査をするのかわからず、ちょっとたじろいだ。
次の瞬間、僕の腕は医師の手の中をスルリと抜けた。
ここから先、僕には記憶がない。
そのまま意識を失って、倒れこんだそうなのだ。