姉さんのコーヒーはやっぱり美味い。
残りの粉は小紫に持っていこう。
真夜中のコーヒーが好きなさよりさんに出してもいいし、ゆかりさんに淹れてもらって二人で楽しんでもいい。

姉さんに叩かれた頬と頭の痛みが、記憶の底からじーんと蘇る。 
冷めないうちにカップの中身を飲み干して、すかさず片づけにかかる。
ミルは定位置に。
カップはこのまま乾いてしまうと渋が残るから、できるだけ素早く洗うのがいい。

どうも、今日は体調が悪い。
こんなに母さんのことを思い出すのも、きっとそのせいだ。
体が熱い。
でもそれは、気温や湿度が高いからから、体温が高いのか、その境目がわからない。
今のうちに小紫へ行ってしまえば、もしも熱が出てもゆかりさんがいる。
でも、窓の外で向こうが煙るほどに降っている雨を見ると、その気が萎える。

ちょっと横になろうか。
一度片づけた布団を敷いて、ゴロンと横になってみる。
今、何時なのだろう。
布団が熱い。部屋が暑い。

母さんの通夜や告別式のことは、会社の人たちが何もかも取り仕切ってくれ、姉さんと僕はただ泣いていればよかった。
それしかできなかった。
僕を思い切りたたいた姉さんの心の痛みは計り知れなかった。
「ごめん、あんたは何も知らなかったんだもんね。」
という端から、
「けど、なんで電話くらいしなかったの?」
になり、
「こんなことになるなら、北海道なんか行かなきゃよかった」
になり、
「あたしが大学に行くの、母さん本当はすごく推してたのに。行けばよかった。」
になった。
後悔の渦で息もできないほど溺れていた。

僕は僕で、あの朝、なんで時間より早く出てしまったのだろうとか、一緒に行きたそうな様子だったのをもっと真剣に考えればよかったとか、約束通りあの日のうちに電話しなかった自分のいい加減さを呪ったり、姉さんを待たせたり、姉さんだけに痛みを負わせた時間を思うと申し訳なくて、悲しいとか辛いという以前に、もう消えてしまいたかった。

そうやって僕らは、10日ほども二人で家にこもって泣き続けた。
心配した会社や近所の人たちが、時々食べるものを届けてくれたり、様子を見に来で慰めてくれたりしたが、少しずつ足も遠のいて…だって、何も言うことがなくなったのだろうし、悲嘆にくれる姉弟を見るのは辛いだろうし…最後の方は誰も現れなくなった。

本気で心底泣き続けると、10日もすると涙は涸れるものらしい。
僕らはふと、もがきぬいた体から力を抜いたのだろう。
実は水面の上に空気があることを、10日ぶりに思い出したのだ。
「サトル、お腹空かない?」
姉さんが聞いてきた。
「そうだね。空いたかもしれない。」
「まともに食べてなかったもんね。何か作るよ。」
「いいよ。姉さんも疲れてるし。」
「ううん。何か、作りたい。待ってなさい。」

姉さんはいかにも重たそうな体を起こし、立ち上がると、冷蔵庫を開けた。
「……買い物、行った方がよさそう。」
そんな、面倒だからいいよと言いかけたけれど、黙っていた。
姉さんの気持ちには、何一つ逆らいたくなかった。

「あ、これ。」
買い物に行こうとした姉さんが気付いたのは、置きっぱなしになっていた母さんのバッグだった。
もう何年前から使っているのか、すっかりくたびれているのだけど、母さんはこのバッグを使い続けていた。
子どもたちの持ち物や着るものにはあれこれ言うくせに、自分の持ち物にはまったく気を使わない人だった。
「だった」と思った自分に、また傷ついた。

姉さんはそのバッグを持って、僕が座ったままのテーブルまで戻ってきた。
ペタンと座ると、バッグを開けて、中身を覗く。
見慣れた財布と小銭入れ。タオルハンカチ。ポケットティッシュ。
「これ、何だろう?」
姉さんが取り出したのは、手帳と呼ぶにはかわいらしすぎる、にぎやかな花柄の表紙をしたノートのようなものだった。
白くて細いボールペンも添えてある。

僕の目の前まで差し出して、姉さんはそのノートをパラパラとめくった。
「これって…」
「日記、かな?」
「うそ!母さん、日記なんて書いてた?」
「僕は気付かなかった。姉さんは?」
「知らない。初めて見た!」

カバンの中に忍ばせてあるところを見ると、母さんは会社にいる間とかに、これを書いていたに違いない。
文字は確かに母さんのもので、走り書きではなく、キチンとテーブルにノートを置いて、丁寧に書いた文字が並んでいた。
姉さんが、あるページで指を止め、じっと読み始めた。
そこには、こんなことが書いてあった。

「今朝は葉月がご機嫌で、あの子の笑顔を見ていると、本当に気分がよくなる。
葉月には、都会の暮らしや学生生活よりも、農業の方が合っているのかもしれない。
大切なのは、あの子が笑っていて、健康で、自信を持って毎日を生きていることだけ。
それさえあれば、私も幸せでいられる。
大学のことではあの子を困らせてしまったけれど、ちゃんと気付けてよかった。」

「母さん!」
一度止まった涙が、また溢れ出していた。

別のページには、こんなことも書いてあった。
「ああ、コーヒーが飲みたい!
インスタントではなくて、丁寧に豆を挽いて、じっくりお湯を注いでいれた、香りのいいコーヒー。
最後に飲んだのはいつかしら?
そんな贅沢している場合ではないことくらい、よく分かってる。
だから、考えるだけ。
モカ、キリマンジャロ、ブラジル、グァテマラ !
ああ、美味しい!」

「母さん、コーヒー好きだったの?」
「知らない。缶コーヒーだって、飲んでいるところ見たことないし。」
「こんなに好きだったんだね。」
「言ってくれたら、バイト代でおごれたのに。」
「ほんと!もしも1杯500円でも、平気だったのにね。」
「飲ませてあげたかったね。」
「お供えしようか。」
「うん。」

最後のページを見た。

「今日、優が東京へ行ってしまった。
あんなに赤ちゃんだったのに、あっという間に大きくなっちゃった。
あの子が生まれた時のことを思い出す。
私は優しい子に育ってくれればそれでいいと言っているのに、あの人は、賢い子に育ってほしいと言って譲らない。
だから、「優」という漢字を「サトル」と読ませることにした。
二人とも、これならばととても気に入ったのだった。
私みたいな母親で、父親がいなくて、残念に思うこともあっただろうに、優も葉月ものびのびと、優しい子に育ってくれた。
それに、ふたりとも、とっても賢い。
私たちの願いはどちらも叶ったのだから、すごい。
私は本当に幸せ。
今日から、私はひとりで暮らす日が増えるのだろう。
でも、一生懸命働いて、あの子たちが帰ってくるこの場所を守っていよう。
あの子たちが私を心配して、自分のしたいことを後回しにすることがないように、しっかりと生きていこう。
葉月、優、あなた方がいてくれなかったら、私は生きる意味がわからなかった。
私の子どもに生まれてくれて、本当にありがとう。」

僕も姉さんも、声をあげて泣いた。
僕を見送って家に誰もいなくなった時、母さんは初めてこのノートを家で書いたのだろう。
書き終えて、ノートをカバンに戻した後で倒れたのだ。

泣いて泣いて、声が出なくなった時、姉さんが僕の肩を揺さぶって言った。
「今のあたしたちを見たら、母さんが悲しむね。心配、するよね。」









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