さよりさんが袖にした男は、話してみたらとってもいい人だった。
そのことが、僕の心に言葉にならない何かを残した。
人は言葉だけでは測れない。
服装は人の鏡と言うけれど、鏡は内側や裏側まで映すわけではない。

彼は半年、さよりさんに夢中になったと言っていた。
たぶん貯金も使い果たしたのだろう。
昨夜、彼から話を聞いている間は、さよりさんのことがひどい人に思えた。
けれども、彼が言っていた通り、さよりさんは自分の仕事を忠実にしていたにすぎないのだろうと思うと、それがひどいとは言えないと思い直した。
何より彼は、最後の瞬間以外は、夢を追い続けたのだ。

でも、あんな純粋な人の思いを弄んだも同然ではないかと思うと、さよりさんにはやっぱりいい気持ちがしない。
彼女にどこか好感を持って幸せを願っただけに、自分まで騙された気がするのだ。

なんだか落ち着かない。
正解がないのは気分が悪い。
誰が悪くて、誰がいいのか。
どうなることが成功で、何が失敗か。
僕が間違いを犯したことは疑いない事実だけれど、さよりさんと彼とのことはどうなんだ?

もやもやしたまま家にいても落ち着かないので、朝食を終えると、僕は早々に小紫に向かった。
このところ、少し疲れを感じることが続いたので、開店2時間前…つまり午後4時…の出勤が多かった。
だから、無理くり詰めていた時に比べると、給料はずっと控えめになった。
それでも、過労で倒れて働けなくなるより、ずっといいだろう。

小紫では、ゆかりさんが例によって、店内の観葉植物の手入れをしているところだった。
「おはよう。来ると思ってたわ。」
ゆかりさんには敵わない。
「落ち着かないから…。」
「そんなことかと思ってね。」

ゆかりさんは手にしていた霧吹きと布を置くと、ふわりとカウンターに入った。
「コーヒーでも飲みながら話しましょうか。」
ゆかりさんのコーヒーは本当に美味しいから、僕はこれでようやく落ち着けるのではないかという気がしてきて、まだ何も話していないうちからホッとしてしまう。

「さて。なんでも聞くわよ。」
香ばしい湯気が立つカップをふたつカウンターに置くと、僕の隣に腰かけた。
「ゆかりさんがどうしてお客様の話に口を挟んではいけないと言ったのか、今回僕は身をもって知りました。」
「どう知ったの?」
「そこで話されていることの真意は、お客様にしか分からないから…でしょうか。」
「真意ね。。。」

どうやら、そのへんに引っかかるのは正解らしい。
「そうやって、人の顔色から当たりはずれを探るのは卒業しなきゃね。
いつまでも、独り立ちできないわ。」
話の方向がいきなり逸れて、僕は面喰った。
「え?」

「まぁ、今回だけは教えてあげるとしましょうか。
それとも、自分でもっと考える?」
「いえ、教えてください。僕は、なんだか割り切れないままなんですよ。」
「だから、割り切りたいわけね?」
「はい!」
「残念ね。」
「えっ?どうしてですか?」
「これからする話はね、割り切れない話だからよ。」

ゆかりさんの言葉に首を傾げながら、僕には尋ねたいことがいろいろとあった。
「ゆかりさんは、さよりさんがそういう人だということを知っていたんですよね?」
「そういう人って?」
「言葉巧みに男の人に取り入って稼ぐような…」
「非難がましい言い方ね。
でも、そういう商売をしていることを知っていたかと言われたら、知ってたわ。」
「どうして放っておくんですか?もっとまっとうな仕事をしたらいいとは思いませんか?」

ゆかりさんの目がギラリと光った気がした。
初めて見る恐ろしい目は、女豹と表現されるにふさわしく、僕が今まで見たことがないものだった。
背筋が凍る。
僕は何か間違ったことを言ったのだろうか。
ゆかりさんの視線はこれまでの仲間を見る目ではなく、獲物を狙う肉食獣の本気を湛えているではないか!

「まっとうな仕事って何?
あの子の仕事がまっとうでないなら、あなたの仕事はまっとうなの?」
「…そういう意味では…。」
「では、どういう意味なの?
あなたが昨日お客様に話していたことは何だったの?
その場の口から出まかせ?」

こんなゆかりさんは本当に初めてだ。
これまで、注意されたと思うことはあっても、叱られたというほどのことはなかった。
自分はなかなかうまくやっていると思っていた。
この道に向いていたのだと、密かに自負心を抱いてもいた。
それなのに、こんな言葉を浴びるなんて!!
何でも聞いてあげると言ったのに!
油断させておいて責め立てるなんて!!

「ねぇ、穂高。
ちょっと考えてみてほしいの。
たとえば、お医者様って誰もが認める素晴らしい職業よね?
でも、自分の思い込みで勝手で未熟な手術をして、たくさんの患者の命を奪ったかもしれない医者がいると報道された時、あなたはどう思うかしら?
学校の先生が、熱心さのあまり体罰を行ったと聞いたら?
恋に迷った警察官がストーカー行為を行ったら?」

それは極論でしょうとすかさず思う。
でも、言う気になれなかった。
どうせ否定されるに決まっている。

「そんなのは極論だと言いたいのでしょうね?
確かに、そんな人は全体のごく一部で、その職業の人は総じて善良だと言えますものね。
でも、私たちは、職業全体と向き合っているのかしら?
この小紫にいらしてお酒を楽しんでいらっしゃる方は、個人ではないの?
だったら、職業全体のイメージよりも大切なのは、その方個人がどうか、ということになるのではないかしら。」

僕の中で膨れ上がっていた悪意の風船から空気が抜けて、急速に萎んでいく。
その通りだ。
僕らはいつだって「その人」を目の前にしている。
目の前の人は、あらゆる可能性を持っている。
いい人か、悪い人か。

「この仕事イコール見下げた仕事という単純な等式もどうかと思うけれど、あなたのいい人か悪い人かという単純な分類も、どうかと思うわ。」
「違うんですか?」
「ええ。私は違うと思ってるわ。」
「どうしてです?
犯罪者は悪い、元さんたちみたいに地道に懸命に生きて人のことを思いやれる人は素晴らしい。
それのどこが間違っているんですか?」

「ある時点で、それは正解かもしれない。
でも、それだけが全てではないと、私は言いたいの。
犯罪を犯した人は、一生、あらゆる時点で悪いことしかしないのかしら?
地道に積み重ねたことは一つもないと言える?
一度も思いやりをもって人に接したことがないと言い切れる?
そんなことはないでしょう。

元さんたちはたしかにいい人たちだわ。
でも、元さんだって間違えることはあるし、思いやりとかけ離れたことを言ったりしたりすることだって、あるんじゃないかしら。
人はね、いいことをしながら悪いこともするし、悪いことを考えながらいいことも考えているものだと、私は思うのよ。
正しいことをしながら、身勝手で虫のいいことを考えていたり、疚しい気持ちでこそこそしながら、堂々と話していたりね。

でも、そんなことは、私たちには分からないでしょ?」

「分からない?」
「分からないわよ。
この店にいらしているのは、その方の人生のうち、ほんの一瞬みたいなものじゃないの。
その方の生き方とか、考え方とか、生活とか、理想と現実とか、そういうもののほとんどすべてが、この店の外で起きることでしょう?」

なるほど、確かにそうだ。

「だったら、こうは考えられない?
お客様の人生はお客様の問題で、知ることすらできない私たちにはどうしようもない。
でも、この店の中で、お客様がどう感じ、何を楽しんでくださるかには、私たちは責任を持たなくてはならない。」

責任?

「お客様が外の世界からここへ持ち込んでこられる何かには、我々は責任の持ちようがない。
でも、今ここで起きることには、全面的に責任を持つ。
美味しいお酒を飲んで、寛ぎたい方には寛いでいただき、喜びたい方には喜んでいただき、静かに落ち着きたい方には静けさを味わっていただく。
そうしてそのドアから出ていらっしゃるときには、外で流れている、もしかしたらけっこう厳しいかもしれない世界に、少し余分な元気を持って行っていただけたら、それが私たちの責任なのではないかしら。

私はね、そう思って店に出ているの。」

責任。

「人は白か黒かでは語れないわ。
出来事も、その場の理解だけでいいとか悪いとか言えない。
学校では教えてくれないけど、世の中は全部ひとつにつながっているの。
どこかに線が引いてあって、こっちだけが正しくてマルで、そちら側に入れば間違いない世界なんて存在しないのではないかしら?

どこまでも曖昧で変わりやすい。
だから人は悩みもするし、迷いもする。
答えがない世界を一生懸命生きるのが、この世だと思うわ。

誰も唯一の答えを持っていないし、教えられもしない。
絶対なんてもの、どこにもないのだわ。

絶対がないから、人は支え合って、話し合って、知恵も力も出し合って生きるの。
少なくとも私と私のこの店は、そういう人と場所でありたいわ。」

僕は立ち上がり、黙ってゆかりさんに頭を下げた。
納得するとかしないとか、そういうことではなかった。
僕もまた、迷いながら生きる人間として、彼女の言葉だけを正解と断じて自分で考えることを放棄してはいけないのだ。

でも、ひとつだけ確かなことがある。
これまでの僕の考え方は幼すぎたということだ。
あらかじめ用意された正解を探し当てるようなやり方では生き抜けない場所が、今、僕が生きている世界なのだ。

「もっと考えてみます。」
「ええ、それがいいと思うわ。」

ゆかりさんが、ようやくいつもの笑顔を見せてくれた。

「今日は時間がたっぷりあるから、床を磨き上げようかな。」
「あら、助かるわ。お願いね。」
「はい!」

僕はこの日、遅まきながらやっと、社会人になれたのかもしれなかった。








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