後悔というのは、どうして先に気付くことができないのだろう。
先に気付いてさえいれば、こうして後からくよくよと考え込むこともなく、時間も無駄にならないし、健康にもよいだろうに。
そうはいっても、今回は、実は先に分かっていたのだ。
分かっているから「ルール」として守るよう、あんなに言われていたのに。
直前に注意まで受けていたのに。

おんなじことを飽きるほど繰り返し考えて、一夜まんじりともしないまま寝返りを打ち続けているうちに、カーテン越しに明かりが差し込んできた。
むくりと身を起こし、僕は机の向こうのカーテンと窓を開け放った。
僕の部屋は、路地裏のアパートの2階にある。
窓を開けた姿勢で振り向けば、全て見渡せるような小さな部屋だ。
寝返りを打ちすぎて、斜めにまがった布団が見える。

そのまま外へ目を移すと、見慣れすぎて何も感じない風景の中から、何かが僕の目を引き付けた。
猫だ!
路地の向こうの家を囲む灰色のブロック塀の上に、白い猫が乗っていたのだ。
僕が突然窓を開けたからだろうか、猫は体を寝そべらせたまま、頭だけをクッと上げて僕の方を見ている。
あれはメス猫だろうか?
思ったとたんに、また夕べの出来事が僕を飲み込みにやってきた。

僕はいったい、何にこれほど動揺しているのだろう。
夕べのさよりさんが、とても綺麗だったこと。
見た目のよい男連れであったこと。
その男が、僕の好みではなかったこと。
甘ったれた声で、さよりさんを口説いていたこと。
「今夜だけ、俺のものになれ」という、あの言葉。
ゆかりさんの禁を破って、そんな男はダメだと割り込んでしまったこと。
怒った男の顔、困ったようなさよりさんの顔。
支払いをしてもらえず、ゆかりさんに迷惑をかけたこと。
男にどう思われようとかまわないが、さよりさんがあきれているだろうということ…。

なんであんなことを言ってしまったのだろう。
後になって考えてみれば、あの男も本気ではなく、酒の場の戯れで言っていただけかもしれないではないか。
それどころか、本当は二人はもうしっかりとつながっていて、ただの言葉遊びだったのかもしれない。
実は、さよりさんの方が夢中になっていて、これまで苦労して彼との関係をつないできて、いよいよ彼が本気を出してきた…それが本気かは怪しいが…のを、さよりさんは喜んでいたのかもしれない。

考えれば考えるほど、僕はバカげたことをしでかしたと思えてくる。
他人が立ち入ることではなかったのだ。
さよりさんに助けてくれと言われたならまだしも、勝手に割り込んだのはまずかった。

しかし…。
僕は自分の行動の軽率さを反省しても、まだ落ち着くことができなかった。
その反省なら、昨夜帰宅する前に、もう何度も噛みしめていたのだ。

瞬きを忘れていたようだ。
白猫を見ているつもりが、いつの間にか何も見ていなかった。
眼球が乾いてカピカピする。

僕は一度ぎゅっと目を閉じ、もう一度開いた。
白猫が、前足をつっぱって、思い切り背中を伸ばしている。
いいなぁ、お前は悩みなんてないだろ?
いや、これも勝手な言い草だ。ごめん。

ぐずぐずと考えているうちに、何を考えているのか分からなくなってきた。
どれもこれも、根拠のない空想をいじりまわしているだけではないか!
現実的に考えよう。
今夜行動できることは何だ?
今から挽回できることは?

雑多な思考が乱れ舞っている海の中に手を入れて、ぐるぐると探し物をしていたが、手の回し方を変えたとたんに、指先に触れるものを見つけた。
あ!

僕は、恐れている。
失敗した僕を、ゆかりさんはもう受け入れてくれないのではないか。
さよりさんに嫌われたのではないか。
あの男がまた、苦情を言いに来るのではないか。
そうしたら、僕はどうすればいい?
そうして、何より僕自身が、失敗した僕を受け入れられずにいるのだ。

僕はずっと、引っ込み思案で地味で、人とうまくやるのが苦手だった。
だから本と研究を相手に生きようと思ったのだ。
それが、思いがけず小紫に雇ってもらって、人々と袖すり合う距離で、快適に過ごせる自分を見つけた。
それは何とも言えず温かくて、柔らかくて、心地よかった。
思っていた以上に、僕はこの温かさに酔っていたのかもしれない。
失いたくないと、思い始めていたようだ。
いや、少し違う。
失うことはなさそうだから、もっと広げていきたいと思っていたのだ。
それが…!

思わず、大きなため息をつくと、白猫がタイミングを合わせたように塀を飛び降りて、姿を消してしまった。
「腹、減ったな。」
独り言を言って、窓を閉めた。
夕べの雨は止んでいたけれど、湿った空気が肌に冷たい。

そういえば、おととい、ゆかりさんに何かもらったのだった。
中を確かめもせず、言われたとおりに冷蔵庫に入れた包みを出してみる。
中から、真空パックに入った煮魚が出てきた。
金目鯛の煮つけだ。
赤い皮に白い身、醤油の色がじっくりとしみ込んでいる。

僕はすぐに炊飯器に手を伸ばし、引き出しから小さな米櫃がわりの箱を取り出した。
炊きたての飯が食いたかった。
冷蔵庫にはネギしかなかったから、味噌汁の具は長ネギ一つ。
それでも、ゆかりさんをまねて、鰹節からだしをとった。

1時間後、湯気を立てる飯と味噌汁、煮魚が座卓に並んだ。
「いただきます。」
味噌汁、飯、金目の順に箸をつける。
「うまいなぁ。」
声に出して言った。飯もネギも煮魚にもそれぞれの甘みがあって、体中の細胞が喜ぶほどにうまい。
その豊かな甘みが、心の中の苦味を薄めてくれたようだ。

「しょうがない。謝ろう。」
モリモリと飯を食ったら、肚も括れた。
もともとひとりでいいと思っていたのだ。
わずか数か月前までは、温かさが欲しいなど、思ってもいなかったじゃないか。
よし。

茶碗を洗って歯を磨くと、僕はもう一度カーテンを閉めて、布団に潜り込んだ。
うまい金目だった。
またゆかりさんに助けられた。

その日、昼過ぎに起きてから、スッキリ風呂に入って出勤した。
ゆかりさんには改めてお詫びをし、損をかけた分を、僕の給料から引いておいてほしいと申し出た。
それでも、ゆかりさんはいつもと同じ笑顔で、叱りもしないけど、許すとも言わない。
僕はいたたまれない気持ちだったが、そうこうするうちに開店時間になった。

前日は来なかった常連さんたちがやってくる。
店内は、いつものにぎやかさだ。
何も知らない常連さんたちを見ていると、夕べは夢を見ただけで、本当は何事もなかったのではないかと思えてくる。

カラリンコロン。
カウベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
振り向いた僕は、そのまま凍り付いた。
視線の先に、あの人が立っていた。







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