窓の外は、春の雨が降っている。
音もなく、糸を引くような雨だ。
さっきまでにぎやかに飲んでいたお客様方がお帰りになり、ふと客足が途絶えた。
Bar小紫は町の小さな店だから、こんなふうに、開店している時間でも、誰もいなくなる時がある。

僕は珍しく小さな疲れを感じて、テーブルに載っていたグラスや皿を下げ、綺麗に拭き清めたあと、そのままその椅子に腰かけた。
窓越しに、外が見える。
道路の向こう側にある街灯が五月雨をオレンジ色に照らし出している。

誰も通らない。
店の奥でゆかりさんが洗い物をしている音がするだけで、先ほどまでのにぎわいが嘘のような静寂だ。
今日はいつもの常連さん方もやってこない。
頭の中に、どうでもいい思考の切れ端が浮かんでは消える。
どういうわけか落ち着かない。
けれど、自分が落ち着かない理由には何も思い当たらない。

心の座りどころが見つからないまま、僕はただ外の雨を眺める。
この雨は、明日の朝には上がるのだろう。
そうしたら、また青空になって白い雲が浮かび、風が乾いて気も晴れるだろう。
そうだ、このモヤモヤした気持ちは天気のせいだ。

僕はともすれば頭をかすめる小さな可能性を無視して、半ば強引に答えを出した。

カラリンコロン。
背中でカウベルが鳴る。
どこか救われたような感覚がさっと広がって、僕は急いで立ち上がった。
「いらっしゃいませ。」

店の入り口で傘を置き、薄いベージュのコートの袖についた雨粒を軽くたたいて払っていたのは、さよりさんだった。
背後に、背の高い男性が立っている。
僕は気安い声をかけそうになったのを飲み込んで、初めての客を案内するような顔をして二人を先ほど僕が座っていた席に誘った。

僕がおしぼりを用意しに戻る間、ゆかりさんが奥から出てきて、二人に挨拶をしている。
「ママさんか。ね、グレンフィディックあるかな?」
男の声がする。
世慣れた声だ。よく通る。そして、話し方のどこかに、相手の懐に忍び込もうとする甘い媚があるような気がして、僕は小さな不快感を覚えた。

「はい、ございます。」
「では、ストレートで。君は?」
「私はね…。」
彼女の声は小さくて、僕の耳に届かない。
「はい。すぐにご用意します。」
ゆかりさんが戻るのと入れ違いに、僕は二人のテーブルに、おしぼりに水、お通しの小皿を運んだ。
僕がいる間は会話を途切れさせた二人だが、離れると、また何事か低い声で話し始めた。

コートを脱いださよりさんは、濃紺のワンピースだった。
膝が見える程度のスカート丈は白くて細い脚によく似合っている。
ふっくらとした長袖がシースルーで、内側の腕が透けて見える。
襟がないから、ほっそりとした首にかけられたしなやかな金のネックレスが、さよりさんの動きにつれて形を変える様子がよく見える。
そんなふうに、長い髪を掻き上げるとなおさら…

僕はカウンターの中に戻った。
後は、呼ばれでもしない限り、僕が出ていくことはあるまい。
ゆかりさんが運んだ酒の琥珀色がやけに輝いて見える。
二人は、コンとグラスを合わせて、小さく飲み込んだ。

やはり、綺麗な人だなと思う。
初めて会った日になりゆきで、さよりさんの名前の由来やお父さんのことを聞いてしまったからだと思うが、他の客に比べて、ひときわ親近感がある。
たぶん、僕と同じくらいか、二つくらい年下かもしれないと思う。
こんな僕にでも女友達はいなくもないが、さよりさんのようなタイプとは接点がなかった。

そう考えて、ふと思考が立ち止まる。
さよりさんみたいなタイプって、何だ?

男は、たぶん値の張る黒いスーツで、ネクタイをしていない襟のボタンを一つ多く外しているから、筋肉質の胸元が覗いている。
白いワイシャツの襟の内側に柄布が使ってある。
おしゃれなものだなとつい目が留まった。

さよりさんは先日とは全くちがって、しゃんと座って表情をころころと変えながら、楽しげに男と言葉を交わしている。
時折笑顔のままうつむくと、長い髪がさらりと顔にかかる。
それを反対側の手で、ゆっくりと掻き上げる。
その時の白い指先が、なんとも艶めかしく、優美に見えて、見ていてはいけないと思う端から盗み見ている自分がいた。

「…ね?」
「でも…。」
二人の会話は聞こえない。
恋人同士、なんだろうなと思う。
少し、がっかりしている僕は、何を期待していたのだろう。

「穂高、ちょっとこちらへいらっしゃい。」
案の定、ゆかりさんに呼ばれて、そんなに見つめているもんじゃないわとたしなめられた。
「すみません。なんとなく、この前の様子が気になっていたから…。」
「あら?」
ゆかりさんが僕の顔を覗き込む。
「普段はあまり言い訳なんてしないのに、珍しいわね。」

「ちょっと!」
男性の声がした。
反射的に、僕はゆかりさんの前から身を翻して、テーブルに駆け寄った。
「そんなに急がなくていんだんけどさ。これ、もう一杯もらえる?」
「かしこまりました。」

頼まれてもいないのに、テーブルの水滴を拭き清めた。
男にとって僕は、いてもいないのと同じ存在になったようだ。
僕の目の前で、男は言った。
「な?いいじゃないか。今夜だけ、俺のものになってくれ。」

僕は下を向いたまま目を剥いた。
なんだと??
空いた皿を片手に重ねてしまったから、もうすることがない。
僕は去り際に、さよりさんの表情をちらりと捉えようとした。
戸惑いではなく、はにかみが浮かんだ横顔に、僕の胸はドキリと波打った。

いったんカウンターに入り、グレンフィディックの12年物、細長い緑のボトルを手に取ると、すぐにテーブルに戻った。
静かにグラスに注いでいる間も、男はさよりさんを押し続けている。
「な?いいだろ?今夜だけでいいんだ。な?」
ボトルから零れ落ちた最後の一滴がグラスに落ちたとき、さよりさんが何か答えようとした。

その刹那、僕はゆかりさんに言い渡されていた禁を破ってしまった。
「だめです、さよりさん!
今夜だけなんて言う男の言いなりになっちゃダメだ!
だって、明日の朝には捨てられるってことですよ!
そんなの、ダメです!」

あっ、と思ったときにはもう遅かった。
あっけにとられた顔をしていた男の顔が、みるみる憤怒に彩られていく。
さよりさんは目を丸くして凍り付き、カウンターから飛び出してきたゆかりさんが、お客様、申し訳ございませんと丁重に何度も頭を下げながら、僕の腕を引っ張って、奥の台所に押し込んだ。

「なんて失礼な店なんだ!
客の話を盗み聞ぎして、口出して、おまけに説教か?
何様のつもりだ!ええっ??」
「大変な不調法をいたしました。」
ゆかりさんはまだ謝っている。

「行こう。君がお気に入りの店だというから来てみたけど、最悪だっ!」
男は手荒くさよりさんの腕をひっぱり、引きずるように出て行ってしまった。
ガチャチャッと、乱暴なカウベルの音が響く。
当然、お代を置いて行くはずもない。

ゆかりさんはため息ひとつつくわけでもなく、黙ってテーブルを片づける。
叱られるのだろうと覚悟していたけれど何も言われず、ただ「きょうはもう店じまいにしましょう。」とだけつぶやく声がした。

「すみませんでした。」
「本当に悪いと思っていないなら、謝るのはおよしなさい。」
「でも…。」

叱られもせず、教えられもしないまま、ゆかりさんは部屋へと引き取っていった。
ひとり店に残った僕は、さっきさよりさんが座っていた椅子に腰かけて、外を見た。
僕は、間違えたのだろうか。

オレンジ色の街灯は、まだ細く落ちる雨を浮かび上がらせていた。







人気ブログランキングへ