桜が散り、気温が高くなり、春の嵐がいくつか過ぎた。
淡い桃色の代わりに、目を驚かすばかりに鮮やかな赤や紫がかったピンクが道端を彩っている。
この季節を新緑と呼ぶのだろうが、必ずしも緑ではないことを僕は知っている。
意外とベージュや黄、赤い新芽は多いものだ。
遠目からでは緑に埋もれてしまうが、一つ一つの梢は、花もみじに負けぬほどにぎやかだ。

年度末とか年度初めとか。
大学にいたころは「送別会」だの「新歓」だのとにぎにぎしかったが、Bar小紫では年度の切れ目など大した波ではなかった。
宴会の流れの客もいなくはなかったが、それほど多くもない。
お客様の言葉の端々に、「忙しくてやってられないよ」と聞こえてはいたのだが。
僕は平穏な毎日を心穏やかに繰り返していた。


その夜、彼女はすでに相当酔っていた。
「あら、さよりちゃん、久しぶりじゃない。いらっしゃい。」
ゆかりさんがそう言って迎えたから、僕にとっては初めてのお客様だったけれど、「小紫」にとっては常連さんなのだろう。

たぶん、きれいな人なのだ。
季節外れの黒革のロングブーツ、短いタイトスカートは白っぽく、加減によっては胸元がこぼれるのではないかと思うほど大きくあいた黒いブラウスに、きらきらした糸が混じっている襟のない白い上着をちょっとだらしなく羽織っている。
服の強いコントラストに負けないほど印象的なのは、長い髪だ。
椅子に腰かけたらお尻の下に敷いてしまうのではないかと思うほど、長くまっすぐに伸びている。
千鳥足と言っては失礼だけど、確かではない足元で店に入ってくると、自分からスツールの一つにすがるように座って、ゆかりさんに言った。
「ふう。ママ、コーヒ。正気に、戻りたい。」

はいはい、というゆかりさんの返事を聞いたかどうか、彼女はテーブルに突っ伏した。
あの、水を…と僕が氷を多めにしたグラスを届けると、何拍か遅れて急に身を起こした。
最初は怪訝そうに、そのうちやけに強い目力で、僕を睨んでくる。
「な、なんでしょう?」
「あんた、誰?」
「ほ…穂高です。新入りです。よろしくお願いします。」

じっと見つめてくる黒目が大くて、濡れ濡れと光っている。
そして、酔いのバロメーターのように、目のふちが真っ赤になっている。
目力をかけ続けるのは辛いのか、不意にどんよりしたかと思うと、「あ、そ。」と、またテーブルに突っ伏した。
僕は泥酔した女性がとても苦手なことに、働き始めて間もなく気付いていた。
なんだかもう、どうしたらいいのか分からない。
この人も、何か無理難題を言い出して絡まれるのではないかと思うと、突っ伏してくれたくらいで丁度良い。
僕はそそくさとカウンターの陰に隠れた。

「さよりちゃん、ほら、コーヒー淹れたわよ。」
ゆかりさんがわざわざカウンターの外に出て、彼女の肩をたたく。
うーん、とけだるい声をあげて、彼女はのっそりと身を起こした。
「あー、ママ、ありがと。うん、いい香りがする。」

他に客がいなかったからだろう、ゆかりさんは彼女の隣に座って、一緒にコーヒーを飲むつもりのようだ。
深夜0時を過ぎている。
こんな時間にコーヒーを飲んだら眠れなくなるだろうに、などと考えている自分が可笑しくなった。
何を言っているんだか。
どっちにしたって、僕らが眠るのは朝方じゃないか! 

「何?また何かしでかした?」
隣に座ったゆかりさんの声はどこか子供をからかうような口調をしている。
珍しいことだな、と思う。
彼女は何も答えず、酔った風貌のわりにはしっかりした手元で、コーヒーにミルクを注いだ。
「失礼ね。何もしてないわよ。」

「うそうそ。あなたがしばらく顔を見せない時は決まって、男に入れあげている時でしょ?
今度は?どんな人?」
彼女は一瞬険しい顔をする。
でも、ふっとその険しさが抜けていって、少女のような笑顔になる。
「あたし、頭悪いから、うまく言えないよぉ。」

それきり彼女は黙ってしまい、それでも表情だけは美味そうにコーヒーをすすった。
隣でゆかりさんも無理に畳みかけることなどせず、静かにカップを傾ける。
僕はふと、この女性には、何か悩み事…困りごと?…があるのではないかと考えた。
悩んだら相談すればよいというけれど、相談ができるくらい整理できた時には、案外答えが出ているものではないだろうかと、僕は思う。
もちろん、例外は多いだろうけれど、本当に悩んでいる時、一番苦しい時というのは、それを言葉にできない時なのではないかと思うのだ。
そんな時、周りの人にできることは、ただただそばにいてあげることかもしれない。

この女性もそうなのかな?
だからゆかりさんが、こうしてそっと寄り添っているのかな?
僕は二人の姿をカウンターごしに、グラスを磨きながら眺めていた。

すると、不意に彼女が僕を見た。
「何?」
僕の視線が強すぎのかもしれない。
しまった、と思うがもう遅い。
その、ドギマギした逡巡が余計にいけなかった。
「ホタカくんだっけ?あたしに何か言いたいことでもあるの?」
「いえ…そういうわけでは…。」
「じゃ、なんでジロジロ見ているのよ!」

ああ、穏便に済ませたい。
僕は心から祈らずにはいられない。
質問はいけない、お客様に逆らってもいけない、だけど今ここで、お客様は何か言うに言えない悩みを抱えておられるのかと考えておりましたなどと正直に言うことが、いい答えだとも全く思えない。
困った!

「いえ、あの、『さより』さんとおっしゃるのだなぁと思って。」
「はぁ?」
「ママがそうお呼びしているから…。」
「そうよ。それが?」
「サヨリといえば、こう、細いくちばしがついているみたいな、スマートな魚にもいるじゃないですか。そろそろ旬だなぁ、今度回転寿司に行ったら、サヨリの握りを食べようと考えてました!僕大好物なんですよぉ、甘みが何ともうまいじゃないですか。それに、干物にしても絶品ですよ。いい名前だなぁと…。」

ゆかりさんがプッと吹き出した。
しゃべりすぎたんだ!
僕は口を閉じたが、彼女の表情にはありありと、先ほどまで抜け落ちていたある種の感情が浮かんでいる。
あれ?褒めたつもりなんだけど…

「間違えられたのよ。」
「えっ?」
「だから、間違いなの。」
「間違い、ですか…。」
明らかに質問になるから、何が?と聞き返したいのをこらえる。

「名前よ。あたし、ホントは『さゆり』になるはずだったの!」
「さゆりさん…。」
「あたしの親だけあって、父親ってのがほんとにバカでさ、ろくすっぽ字も書けなかったらしいのよ。
でも、あたしが生まれたとき、どうしても役所に行って届けを出すのは自分がするって言って聞かなかったんだって。
それで、母さんがあたしにつけた名前は漢字で、ほら、吉永小百合と同じ漢字ね、でも父親には難しいからって、ひらがなでいいってことにしたんだって。
そこまでは、まぁ、いいわよ。」

ゆかりさんは、この話の顛末を知っているらしい。
微笑を浮かべたまま、黙って、残り少なくなったコーヒーを傾けている。

「で、役所に行って、緊張しまくって出生届を書いたんでしょ。
ひらがなを一文字書き間違えた!」
「ああ、「さゆり」の「ゆ」が「よ」になった!」
「そう!
まったく、あり得ないでしょ?
隣り合わせの字だけど、ひらがなだよ?!
どんだけバカかっつーの!」

彼女は残りのコーヒーをぐいっとあおって、ソーサーにカップをカチャンと戻すと、驚く話を続けた。

「しかも、ひらがなだからって、ふりがな欄を書かなかった。
きっと、窓口の人の確認もろくすっぽ聞いてなかったんだと思う。
母さんのところに飛んで戻ろうとして、役所を飛び出して、役所の前でバイクにぶつかって即死だよ。」
「えええっ!」
「まったく、横断歩道のわたり方、小学校で習わなかったのかねー?
あたしは生まれて1日で父親を失って、母さんはたった1日で子連れの未亡人ってわけ。」
「それは…。」
お気の毒ですなんて言えるわけがない。

「その後さぁ、予防接種だのなんだの、役所から呼び出しが来るたびに『さより』って書いてあって、母さんも、印刷が間違ってるなぁと思っていたらしいけど、小学校に入ることになって、いよいよおかしいと気付いて、役所に確認に行ったんだって。
それで、判明したわけ。
父親の手書きの書類も見せられたんだってさ。」
「間違いなら、その時直してくれてもいいのに…。」

「ううん。あたしがね、いいって言ったの。」
僕は質問の代わりに、目を大きく開けて見せた。
「だって、父さんが命がけでつけてくれた名前だから…。
その日から、あたしはさゆりをやめて、『さより』になったの。
おかげで、魚だ寿司だ干物だと生臭い話ばっかりなんだから。
やってらんないわよぉー!」
言葉は投げやりだけど、口調と表情が笑っている。
そのまま目を伏せた彼女が、なんだかとてもかわいらしく見えた。
そそっかしくて、急ぎ足に家族をおいて行ってしまったお父さんを、彼女はちゃんと愛しているのだろう。

「僕は女優の名前と同じ小百合さんより、おとうさんが間違えた『さより』さんの方が好きです。
あ、僕が好きかどうかは関係ないか…!」
「ううん。ありがと。父さん、天国で頭かきながら喜んでると思う。」

酔いが醒めてきたのか、店に来た時とは別人のような、角の取れた表情で言う。
幸せになってほしい女性だなぁと、僕はしみじみ思った。






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