息を飲む風景とはこのことだ。
見渡す限り一面の…


「穂高、じゃ、これとこれを重ねて…そうそう。そっちに風呂敷を置いておいたからお願いね。それと、そこの魔法瓶にお湯もね。」
そういうと、ゆかりさんは隣の家に戻っていった。

よく晴れた日曜の早朝のことだ。
ゆかりさんは薄手のベージュのカーディガンにチャコールグレーの暖かそうなロングスカートといういでたちでお弁当作りに励んでいた。
僕は言われるままにゴボウをささがきにしたり、から揚げにする鶏肉を密封袋にいれて下味をもみ込んだり、太鼓型のおにぎりに海苔を巻いたりした。
このおにぎりが実においしそうで、ついつい海苔を巻いた手でお重に戻すより、自分の口に放り込みたくなる。
緑は青菜、赤は紫蘇、ピンクに見えるのは鮭だな、黒っぽいのはワカメにしらすとゴマだろうか…ごはんにいろいろなものが混ぜてある。 

6人分の弁当は壮大なスケールで整えられ、今、きちんと風呂敷に収まった。
「それにしてもゆかりさん、『魔法瓶』だなんて、昭和だなぁ。」
独り言を言いながら、僕はトクトクと小気味よい音を立てながら、沸騰したお湯を溢れさせないように注ぐ。
一度『魔法瓶』と言われたら、今はこれを何と呼ぶのか、思い出せなくなったのが可笑しかった。

「ああ、できたみたいね。さ、でかけましょう!」
ゆかりさんはすっかり着替えて、遠足に行く小学校の先生のようないでたちになっていた。
「そんな服、持っていたんですね。」
僕が言うと、ゆかりさんは怪訝な顔をする。
「あら、私だってズボンはくわよ。」
「ゆかりさん。」
「なに?」
「今は、ズボンじゃなくて、パンツっていうんです。」
「ぱ…。あら、そう。」

僕は大きな風呂敷包みを抱え上げようとした。
「あ、いいのいいの。それは置いていくの。」
「えっ?どうして?せっかく作ったのに。」
「いいのよ。後で取りに来るから。」
「取りに来る?」
意味がさっぱり分からない。
ゆかりさんはさっさと店の外に出て、早くしましょう、カギを閉めるわよと急かしてくる。
僕は自分のリュックだけを片手に、ピョンと外に出た。

待ち合わせ場所は元さんの家だ。
僕は初めて来たのだが、思っていたのとは全然違う佇まいに愕然とした。
これって…
でも、口に出すと何か失礼な言い方にしかならないような気がして、一生懸命我慢した。
宮田医院の先生や八百屋の長さん、ご隠居生活の徳さんはすでにそろっていて、ワンボックスの荷台に何やら積み込んでいるところだった。
いや、積んであったものを下ろしている。

「おお、ママ。」
「おはようございます。楽しみで、夕べは眠れなかったわ!」
「嘘でもそういわれると、運転に張り合いが出るねぇ。」
元さんが嬉しそうに応じている。
我々は、集まってすぐ、この街を脱出した。

高速道路はまだ渋滞が始まる前のようで、元さんのワンボックスカーは滑るように進んでいく。
並んで走っている車の中をなんとなくのぞき込む。
二人連れ、家族連れ、こんな日でも仕事の人。
こちらの車はと見れば、常連さんたちが他愛ない話題で笑い興じている。

ふと思い立って、僕はゆかりさんを呼んだ。
「ゆかりさん、ゆかりさん。今日は僕、仕事じゃないですよね?」
「え?何?」
「僕、今日は仕事じゃないですよね、これ?」
「仕事のはずないでしょう。今日は時給にもならないわよ。それが、何か?」
「じゃ、今日は皆さんに質問しても、話に割り込んでもいいんですよね?」
「ん?何のことだ?」
ゆかりさんが答える前に、元さんや徳さんが反応した。

「なんでもないわ。穂高、今日は仕事じゃないと言った手前、好きにしてもらっていいわよ。」
ゆかりさんがバツが悪そうに認めてくれたので、僕は早速、車に乗る前も乗った後も気になっていた疑問を解消することにした。

「元さん!元さんは確か、インテリアデザイナーでしたよね?」
「ああ、そうだが。なんだよ突然?」
「さっきお宅を拝見したとき、なんだかいろいろな道具とか、ペンキとか、山ほどあったじゃないですか。
あれって、もしかして、内装工事とかする道具じゃないですか?」
「そうだよ。」
「デザイナーさんて、自分で工事もするんですか?この車にもペンキのあとがいっぱいついているし。」
「小僧、ケータイ持ってるか?」
「はい。」
「じゃ、調べてみな。」
「はい?何を調べるんですか?」
「辞書を出して、内装ってことばを英語にしてみな。」
「ああ、はい。えーっと、和英辞典を…っと、えっ?インテリアデザインって書いてありますよ!」
「そうそう。だから会社は『鈴木インテリアデザイン』、内装をする俺は…」
「インテリアデザイナー…うそぉ!そんなでいいんですか?」
「いいも何も。俺の職業を俺がどういおうと勝手だろうが!なんか文句あるのか、小僧!!」

「元さんの仕事は、そこらへんでは『塗装業』って言うんだろうなぁ。
内装だったら壁紙貼ったり、塗装したり、いわれりゃ照明だの棚だの。
こう見えて、元さんは腕がいい。
何でもこなすし、仕上がりがいいときてるから、評判の職人なんだ。
実際、いくらか前までは元さんところも『鈴木内装』だったし。」
説明してくれたのは、僕の隣に座っている宮田先生だった。

「けどよぉ、『鈴木内装』なんて、昭和の匂いがプンプンするだろ?
昭和がいけないわけじゃないんだが、なんだかパッとしないっていうか、貧相というか。
実際、仕事も細って、俺自身がなんだかやる気なくなっちまったんだよ。
そんな時、ママがヒントをくれてなぁ。」

「ヒントですか?」
「おう。名前を変えちゃえば?って。」
「それで?!」
「俺は考えた。
商売をしているとわかるんだが、名前を聞いただけでパッと、イケそうだとかダメだなこりゃとか、響いてくるものがあるのは確かだ。
だったら、せめて俺自身が名乗って愉快な名前にしてやろうと思ったんだ。」

「それから、小紫でみんなで考えたんだよなぁ。」
八百屋の長さんが面白そうに言う。
「いろいろ案が出た。でも、やたらとハイカラなのにすると、俺が気後れしちまう。それに、実際の仕事とあんまりかけ離れていてもダメだ。」
「そこで、落ち着いたのが『鈴木インテリアデザイン』だったわけですね?」
「そうそう。辞書にものっているし、うそはついていないものね?」
ゆかりさんが、その頃のやり取りを思い出しているのだろう、やさしい微笑みで元さんを見ながら言う。
「変えてびっくり。仕事がどんどん来るようになるし、話題にもなる。ママ様様だよ!」

元さんは、滑らかな運転を続けながら、僕の疑問を解消してくれた。
「そういうことでしたか!」
「ウチの八百屋も一緒に改名しようと言ったら、母ちゃんにケツを蹴られたよぉ。」
車内が爆笑に包まれる。
「長さん、なんて変えようとしたんですか?」
「『ベジ長』!」
「………やめといてよかったかも…。」

名付けるとは、その人の枠組みを決めるようなものなのだろうか。
僕も穂高という名前をもらって、なんだか以前の自分とは少し違う自分を生きている。
穂高になる前の僕は、年上の人に誘われたからと言って、のこのこと花見についてくるようなことはしなかった。
穂高は、僕に、今まで見たこともない風景を次々に見せてくれる名前だ…


早起きをしたせいか、僕はいつの間にか寝入っていたようだ。
「穂高、穂高。ついたわよ。起きて起きて!」
「え?あ!すみません!」
慌てた僕は車のどこかに頭をぶつけた。
「あいたた!」
「ほら、いいから見て!」

指さされた方を見てみる。
息を飲む風景とはこのことだ。
見渡す限り一面の、人の波の向こうにそびえる、桜、桜、桜…










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