そのことに気付いたのは、桜前線が東京にやってきて数日たった頃のことだった。
僕は毎日毎日アパートと小紫を往復していて、季節の移ろいが目に入らない。
それでも、そんなことは全くお構いなしに、時は流れていた。

「徳さんたら、そんな憎まれ口を言うもんじゃないわ!」
ゆかりさんの朗らかな笑い声が響く。
常連のお客様しかいない時で、源さん…じゃなかった、元さんや、宮田医院の先生や、八百屋の長さん…何かの折に「おいこの八百長!」と言われている…の席にゆかりさんも加わって、 楽しそうに話していたのだ。

ちなみに徳さんはすでに定年を迎えて今は悠悠自適…いささか暇を持て余している。
ほかのみんなは定年がない仕事ばかりで、バリバリの現役だ。
住んでいる場所は近くても、そこは異業種交流。
質問も、勝手に会話に割って入ることも禁じられている僕だけれど、傍にいるだけで十分に面白い話が聞ける。

「先生、水割り、もう一杯いかが?」
ゆかりさんは、会話が途切れた時にすかさずそんなことを言って、先生の返事を待たずに腕を動かしている。
「ママが作ってくれるんだから、断ったら病気になってしまうよ。」
おかしなことをいって、笑いあっている。

そこへ、カラリンコロンとカウベルが鳴って、二人連れの客が入ってきた。
「いらっしゃいませ。」
出迎えたのは僕だ。
初めて見る二人だったが、僕が勤めている期間が短すぎるから僕が会っていないだけということは十分ある。

「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ。」
ゆかりさんが後ろから声をかけた。
僕はコートを預かって、ハンガーにかける。
二人連れは興味深そうに店内を見回している。
「何になさいますか?」
ゆかりさんは親しげに問いかける。
「そうだなぁ。ビールで腹がいっぱいなんだが、久しぶりに会った友人でね、話が尽きなくて。」
「それはそれは。お楽しいですね。」

二人連れはゆかりさんより若く見える。
50代というところだろうか。
二人とも、ゴルフ帰りのような気楽な恰好をしている。
土曜の夜10時。
店に一番活気がある時間だ。

「どうしよう。」
二人はメニュー表を見て、注文するものを相談している。
本当に、飲み足りないわけではなさそうだ。
「ほんとは、俺たち二人とも甘党でね。酒も飲むけど、飲み倒れたい口ではないんだよな。」
「そうそう。大福の方が好きだったりする。」

「ええっ?そうなんですの?」
ゆかりさんは楽しそうに話を受ける。
「それでしたら、駅前のコーヒーショップでお話の続きでもよかったのでしょうに、こちらを選んでくださって、本当にありがたいことです。何か、お気にかかるようなことがありましたかしら?」
「わからないけど、なんとなく。なぁ?」
「そうそう。話しながら歩いていて、なんとなく、じゃ次はここにしてみようかってね?」

どうやら、初来店のお客様で間違いなさそうだ。
ゆかりさんは小首を傾げて考えてから、ポンと手を打った。
「でしたら、梅酒などはいかがでしょう。ソーダで割っても美味しいですし。ほどよい甘さのものがあります。」
「それはいいね。」
「あとは、カルーア・コーヒーもございます。若い女性好みと思われているようですが、コーヒーがお好きな方には楽しんでいただけると思うのですけれど。」
「そうか、その手もあったね。」

二人は梅酒とカルーア・コーヒーを一つずつ頼むことにしたようだ。
ゆかりさんがカウンターの奥に入ったので、僕は水とお手拭きをテーブルに届けた。

「ママ、こっちにも梅酒ちょうだい!」
「はい。おひとつで?」
「いや、ふたつ!」
「大丈夫ですか?もうずいぶん召し上がっているのに?」

常連さんのテーブルで話を聞いていたのだろう、4人のうち2人が、梅酒を飲みたくなったようだ。
「じゃ、穂高、これをあちらのテーブルにね。」
そういうと、常連のテーブルを僕に任せて、ゆかりさん自身は新規のお客様のところへ行った。
「なーんだ、穂高くんか。ママは来てくれないんだなぁ。」

徳さんが憎まれ口を言う。
聞こえているのだろうが、ゆかりさんは意に介さない。
新規のお客様のところでしばらく会話に加わった後、盛り上がるふたりを残して、ゆかりさんはそっと席を立った。

常連さんたちが先にお開きになり、新規のお客様もご機嫌で帰った後、静かに店じまいをしていた時、僕は気付いたことを尋ねてみることにした。
「ゆかりさんは、他のお客様がいるとき、常連さんの方に行かなくなりますよね?」
「あら、気付いたの?」
「なんとなく。それに、常連さんしかいない時は名前を呼んだりするけど、名前のわからないお客様がいらっしゃるときは、常連さんの名前を呼ばなくなる。」
「あらまぁ、よく見ていること!驚いた!」

やはり、そうだった。
「なぜですか?」
「なぜだと思う?」
「うーん、平等にしたいから?」
「うふふ。まぁ、そういうことね。でも、少しニュアンスが違うわ。」
「どう違うんですか?」
「そうねぇ、言葉にするのは難しいけど…誰もに特別だと思っていただきたいから、かしらね。」
「誰もが特別、ですか?」
「そう。名前を呼ばれる人と呼ばれない人がいたら、呼ばれる人が特別な存在って感じがするでしょう?」
「それはそうですね。」
「でも、お名前を知らない方は呼べないし、一見さんにいちいちお名前をうかがうのはかえって失礼よね。」
「はい、確かに。」
「だから、名前を呼ぶ以外の方法を使う。それだけのことよ。」
「そこのところを、もう少し詳しく聞きたいな。教えてください。」
身を乗り出した僕を、ゆかりさんは軽くかわして微笑んだ。

「センセ、だめよ、答えは自分で考えなきゃ。」
「だから、先生はやめてくださいってば!」
それきりゆかりさんは答えてくれず、僕はまた観察を続けるしかなくなった。







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