僕が大学・大学院とかけて研究してきた『源氏物語』 に、源典侍(げんのないしのすけ)という女性が出てくる。
人生40年で長生きのお祝いをしたというこの時代で、60歳近くの”超おばあちゃん”なのだけれど、色事には見境がなく、光源氏に艶めかしい視線を送っていい仲になると、親友の頭中将(とうのちゅうじょう)が挑み心を起こしてこのおばあちゃんにアタック!結果、彼女は当代の美男トップ2とお付き合いをするという、世にもめでたいことになる。

時に光源氏は18歳。
現代なら十分犯罪の匂いすら漂う話だが、平安の雅に現代の刑法を持ち込んでも意味がない。
この源典侍は、もともと源氏の父・帝に仕える女性である。
典侍というのは役職名で、国からお給料をもらう、れっきとした国家公務員なのだ。
帝の身の回りの世話もするし、宮中祭祀の仕事もある。

あまたの女性とお付き合いする光源氏も、興味本位に手を出したものの長く付き合う気はなく、源典侍のキャピキャピした態度に辟易して、そっけなくなる。
すると、父の帝が源氏に注意するのだ。
「彼女も相当な年だし、あまり恥をかかせてはいけないよ。」

僕はこの源典侍という女性は、かつて帝のお相手もしていたのではないかと考える。
江戸時代の大奥と違って、一度トップの相手をした女性は誰とも付き合っちゃいけないなんてルールはまだないのだ。
そこらへんの根拠が、どこかからみつからないかと探したのだが…。

そんな事情で、僕は源典侍という色っぽいおばあちゃんがとても好きだ。
まぁ、源典侍に限らず、源氏物語に出てくる人はどの人も魅力的で、大好きなのだ。
こうなると、類は友を呼ぶというように、僕の周りは源氏物語にまつわるような人が引き寄せられてくる。
人付き合いは苦手だし、友達も多くはないけれど、どこか源氏につながっていくことがある。

この「小紫」もそうだし、ゆかりさんの名づけの理由も、源氏物語ゆかりの…文字通りゆかりのものだった。
そうして、源さんも現れた。
こういうことを密かに考えるのは楽しい。
いつか絶世の美女の「藤壺」さんや恨みがましい「六条さん」が出てきたりするのだろうか。


僕が小紫の仕事にだんだん慣れて、源さんをはじめとする常連さんたちのからかいにも動揺しなくなってきたある日のことだ。
その日、僕は日中、銀行だのなんだのを回って、開店間際に出勤した。
このころになると、店の正面のドアから入ったりはせず、台所の脇にある勝手口から入ることが習慣になっていた。

預かっている鍵でドアを静かに開け、音を立てずにそっと入る。
中の様子が分からないうちに、いきなり大きな声であいさつをしたりもしない。
早めにいらっしゃるお客様もあるからだ。

「ママ、あれはなかなかいいじゃないか。」
「あら、そうかしら。」
やっぱりそうだ。源さんが来ている。

鞄をロッカーにしまいながら、僕は二人の会話を聞くともなしに聞いた。
「その割には、少しも褒めてやってくれないのねぇ。」
ゆかりさんの声がからかうように言う。
「褒めてなんかやるもんか。でも、無駄口をきかず、よく客の声に耳を傾けている。若造のわりには、駆け出しの心得がわかってるようだ。ま、ママがよくよく仕込んでいるんだろうけどな。」
「うふふ。仕込んだところで、すぐにできるとは限らないことでしょう?」

二人はどうやら、僕の話をしているようだ。
しかも、悪い話ではなさそうな…
怖いもの見たさというか、なんともいえない興味に突き動かされて、僕は二人に気づかれないようにそっと話を聞き続けた。
「気に入ったのか?」
「そうねぇ。一緒にいて苦痛がまったくないのはありがたいわ。それに、本人はまだ気づいていないようだけど…。」

ママの言葉の最後が聞き取れなくて、思わず身を乗り出した刹那だった。
「なんだ、坊主!来てたのか。」
源さんに見つかってしまった!

「いらっしゃいませ、今来ました。」
僕は自分の言葉に不自然さがないかどうかを慎重にチェックしながら平静を装い、入り口脇に掲げられたボードに名札「穂高」をかけた。
注意深く二人の様子を観察したが、どちらも、僕が盗み聞きをしていたとは気づいていないようだった。

「そうそう。穂高、これを作っておいたから、お使いなさい。」
ゆかりさんはそういうと、プラスチックの小箱を差し出した。
受け取り、ふたを開けてみる。
中には「 Bar小紫 穂高 」の文字と、小さく店の電話番号が書かれた名刺が入っていた。

「うわっ!」
綺麗だなと、素直に思った。
厚手の紙は薄紫色をしていて、必要最小限のことしか書いていない。
余白のこの名刺はなんとも言えない存在感があり、このところ当たり前になりつつあった「穂高」という名前の漢字が、改めて美しく思えた。

「これ、どんな時に使うんですか?」
社会に疎い僕は、かなりおろかな質問をしたのかもしれない。
源さんが鼻から太い息を吐き出して、あきれたように言った。
「そりゃ、相手の名刺がほしいときに決まってるだろうが。」

なるほど。
そうすれば、質問をしなくても、相手の名前を教えてもらうことができるってことか!
僕は一番上の一枚をそっと取り出して眺めたあと、源さんに向かって差し出した。
「穂高です。よろしくお願いします!」
本当は、源さんの名前はもう知っているからいいのだけど、なんだかそうしたかったのだ。

「お、おうっ。」
源さんはいくらかあわてた様子で立ち上がると、作業着のうちポケットをガサガサして、白い名刺を取り出した。
「ふん。もらっといて…やるよ。ほれ。」
源さんが差し出した名刺を両手で受け取り、目を落として、僕は思わず「えーっ!」と声を出してしまった。

「ん?なんだ坊主。人の名刺見て『えーっ』とは何事だ?!」
「ゲンさんって、源氏物語の源じゃなかったんですね!」
「なんだそりゃ?」
「僕、勝手に源さんだと思ってしまっていて…。」
「そんな書きにくい字でたまるか!ついでに言うと、おれはゲンではなくて、ハジメだからなっ!」

『鈴木インテリアデザイン  社長 鈴木 元』
僕の膝からも腰からも力が抜けて、ずっこけてしまった。







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