Bar小紫で働き始めた僕が最初に迎えたお客様は源さんだった。
もっとも、『源さん』という名前が最初から分かったわけではない。
いつも濃いグレーの作業服を着ている。
ひどくではないが、日焼けをした精悍な様子から、屋外での仕事が多いのだろうと思われる。
年齢は50代後半といったところか。
渋い声をしていて、なかなかの男前でもあった。

「ん?なんだ、坊主?」
カラリンコロンとカウベルが鳴ると同時に入ってきたその男は、僕を見て開口一番そう言った。
「あ、はぁ、あの…」
「いらっしゃいませも言えんのか、この未熟者が!」
いきなり叱られた。

「あら、いらっしゃい。」
「ママ、なんだこの青二才は。」
「昨日から来てもらっているバイトの子よ。穂高というの。よろしくね。」
いくら世間知らずの25歳でも、ここは僕も一緒に頭を下げるところだということくらいは分かった。
「ふん。なんだよ。これからはひとりでやってくんじゃなかったのか?」
その人はゆかりさんに文句を言いながら、まるで教室の自分の席に座るように、なんの迷いもなく一つの椅子に腰かけた。
そのあまりに砕けた口調と慣れた様子から、この人は常連さんで、この席がお決まりなのだろうと思った。

「ひとりでもいいつもりだったのだけど、ご縁があってのことだから。まあ、用心棒のようなものね。」
ゆかりさんはカウンターの中に戻って、何かを用意し始めた。
僕はそこに突っ立ったまま、何をしていいか分からない。

「用心棒がほしいなら俺に言えばいいだろが。
こんなひょろひょろしたヒヨッコに、用心棒が務まるもんか。」
坊主、未熟者、青二才、ヒヨッコ…もう、言いたい放題だ。
しかし、僕は黙って聞いているしかない。
これも、雇用契約に入っていたことだからだ。

『お客様には、注文のこと以外の質問をしてはいけない。
お客様がおっしゃることに言い返してはいけない。
お客様から尋ねられたこと以外、口を出してはいけない。
お客様から聞いたことは、いついかなる時でも口外してはならない。』


「守秘義務というわけですね。
それはわかるけど、もしも犯罪のにおいがするとか、危ない話とか、そういう時でも黙っているんですか?」
雇用契約を読んだとき、紙をテーブルに戻す前に、率直な疑問を投げかけた。
「そうねぇ。そういう時には、私だけに相談してちょうだい。」
それ以上、問いかけようがないほど明快に、ゆかりさんは僕の疑問を一蹴した。

「坊主、バイトなら突っ立ってないで、手伝ってやれ。」
「あ、はい!」
言われて慌ててカウンターに駆け込む。
でも、手際のよいゆかりさんの何を手伝うこともできない。
「使えないやつだなぁ。」
このときになってようやく、源さんの声が緩んで、攻撃からこき下ろしに変わった。

「ママはこんな優男が趣味だったのか?」
「どうかしらねぇ。」
ゆかりさんは用意したグラスをコトンと源さんの前に置いた。
きっと、定番になっているのだろう。
だって、店に来てから何も注文していないんだから。

「てめえ、ママに手なんか出したら承知しないぞ。」
やってきて30分もしないうちにグラスを飲み干して帰ろうとする。
手を出すなんて、いろんな意味でとんでもありません!、と言いかけて息を飲む。
それも、言い返すことに当たると気付いたからだ。
「は、はい。」
「よし。じゃ、またな。」

「またな」は僕に向けられたのではなく、ゆかりさんだけへの挨拶だ。
そこは僕に対する厳しい声とは別人のように、ツヤのある声だった。
カラリンコロンとドアが閉まり、僕は体中にたまっていた二酸化炭素を一気に吐き出した。
「緊張した?」
ゆかりさんは、明らかに面白がっている。
「いいわね。こういう感じは、新鮮で。」

今のお客様はこういう方で、こんな好みだから、こんなサービスを…
ゆかりさんからの説明が続くのを期待して、僕は全身を耳にして待った。
けれども、ゆかりさんは何にも言わない。
「お腹が空いた子犬みたいな目をしたってダメよ。」
心の中は見透かされていたのに!

「お客様のことは、いついかなるときも口外しないのだったでしょう?」
「何も教えてもらえないんですか?それじゃ、僕はどうすればいいんですかぁ?」
「自分でわかった分だけでいいじゃないの。」
「そんなぁ。また使えない坊主だって言われますよ!」
「使えない坊主のどこがいけないの?」
「は?」
「だって、実際にまだ使えないのだから、そう言われても当然でしょう?」
「それは…そうですけど。」
「見栄を張っても意味がないわ。
私はあなたが『まだ使えない期間』も雇うと言っているのよ。
お客様から何を言われようと、気にしない、気にしない。」
「でも、今のお客様の名前も僕には分からなかった…。」
「ふふふ。いいのよ、それで。」

取り付く島もなく、僕は引き下がった。
暗中模索。なんと心細いことか。
人から丸裸の言葉を投げかけられることに慣れていない僕は、この状況がとてもつらく感じた。

「小僧。今日もいるのか。もうやめたかと思ったのに。」
「いらっしゃいませ。」
「ふん。今日は挨拶ができたじゃねえか。」
翌日現れたあのお客様は、やはり容赦ない。
「よぉ!源さん、こっちこっち!」
翌日は、すでに客がいた。
その客が『源さん』と呼んだから、僕はようやく、彼が『源さん』なのだと分かった。
ということは、先に来ていたお客様たちも常連ということか。

その夜、店じまいをした後、僕はゆかりさんに尋ねた。
「源さんとおっしゃるのですね?」
「なぜ?」
「ほかのお客様がそう呼んでいたから。」
「ええ。そうね。それでいいわ。
尋ねず、口答えせず、そうやって黙って耳を傾けていれば、お客様のことは自然に分かってくるわ。
それでいいのよ。」

僕は、1級遮光のカーテンを引き開けて、2級に変えたくらいの気分になった。
例え見えずとも、この暗がりの向こうに明かりがあると分かることがこんなにありがたいなんて!

源さんは、2日と空けずやってくる。
そうして、言いたい放題にからかっていく。
僕の着こなしに一番の文句をつけたのも源さんだった。
でも、僕が新しいワイシャツを手に入れた日に、ふんと鼻を鳴らしてOKをくれたのも源さんだった。
「馬子にも衣裳って本当なんだなぁ。」
坊主に小僧、今度はとうとう馬子になった。
「ま、ちゃんとすればそれなりに見えることがわかって、よかったじゃねぇか。なぁ、坊主。」

僕の心に両腕があったら、思い切りガッツポーズを決めただろう。
それほど、この一言が嬉しかった。
僕は思う。
いつか源さんにちゃんと穂高と呼んでもらえるように、ちょっと頑張ってみようかと。







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