「あのー、褒めてくれそうな気配だけで嬉しいですので、馬子にも衣裳だなぁって言うのだけはやめてください。」

こんなセリフを何度も言った。まぁ、照れ隠しだ。
僕の真新しい高級ワイシャツは、やはりとても評判がよかった。
まず、ゆかりさんがひどく褒めてくれた。
それから、常連客の源さんも、いつもの悪口をやめ、目を細めてくれた。
確かに、気分がいい。
思い返せば、服装で人から褒められたなんて、人生初ではないだろうか。

服一枚替えただけで、なんだろう、これは。
けど、あの店員が言った通りで、この1枚9800円のワイシャツを身に着けるたびに、そうして、それを着ることが当たり前になるにつれ、自分がなんだか一回り成長したような気がするのだ。

待てよと思う。
成長したというのは気のせい。
持ち物が豪華になっただけで、自分自身は何も変わっていないんじゃないのか?
慎重で貧乏性の自分が言う。

いや、ちがうよ。
豪華な持ち物を持ってみようと勇気を奮ったことが成長なのだよ。
そういう声も聞こえる。

どちらが正しいのか、僕は知る由もない。

しかし、再び問題が発生した。

ゆかりさんに言われているとおり、着替えた後で事務所にある姿見の前に立って全身をチェックすると、どうも何か違和感があるのだ。
数日間、その違和感の正体が分からなかったのだが、ある日、唐突に理解した。

ズボンだ!
こちらは毎日クリーニングするわけではないから、100均ワイシャツの時のように切り裂けたわけではない。
カウンターの奥に立っているから、お客様から何か言われるわけでもない。
だから、気付かなかったのだが、気付いてみれば、明らかに上半身と釣り合っていない。
買ったのは、えーっと、大学に入った時だから6年前だが、着た回数は大したことないから、ヨレているわけではないのだけど、なんだか変だ。
それから、毎日磨くようになった靴もそうだ。
高校の卒業式でも履いていたローファーが、いくら穴が開いていなくても、このワイシャツと一緒にはできないことがはっきりと理解できた。

僕は再び、あの初老の男性店員がいる百貨店に足を運んだ。
もしも彼が休みかなにかでいなかったら、迷わず出直そうと覚悟してのことだったが、運よく彼はそこにいて、先客の案内を終えたところなのだろうか、広げたワイシャツを何枚か、丁寧に折りたたんでいる最中だった。

「おお。先日のお客様ですね。いらっしゃいませ。いかがですか、シャツの着心地は。毎日着ていただいておりますでしょうか?」
「ええ。着てます。すごく評判いいですよ。でも…。」
言いよどむ僕に、彼は眉を曇らせて心配そうな顔をした。

「でも、ワイシャツだけではダメだって、気付きました。」
「とおっしゃると?」
「ズボンも、かなりお手頃価格のスーツを、大学に入る前に買って、それをいまだに大事に着てるんです。」
「いまどき珍しいほど、物持ちがよくていらっしゃるのですね。」
貧乏性と言わずに物持ちが良いというと、褒め言葉に聞こえるから不思議だ。

「ズボンだけじゃありません。もしズボンを買い替えたら…
トータルコーディネートって、こういうことだったんですね。」
店員は先ほどまでの心配そうな顔をやめて、微笑を浮かべた。
「なるほど、そういうことでしたか。」

僕は、その店員がまた素晴らしいズボンを選んでくれることを疑わなかった。
色は黒と決まっている。
ワイシャツがそうだったように、太りすぎても痩せすぎてもいない標準体型だから、サイズ選びにも困らないだろう。
今日はいくらと言われても変な声を出さないように、財布に余分なお金を入れてきてある。
さあ、来い!

ところが、店員が僕を案内した先は、ワイシャツを選んだ高級な雰囲気漂う売り場ではなく、違うフロアのずっと気安い雰囲気の一角だった。
店内にはどこにでもいるようなサラリーマン風の、今日はセーターにデニム、チノパンといった男性客がけっこう佇んでいて、吊るしのスーツや色別に分けられ、見事なグラデーションになっている何百本ものネクタイの中から、お気に入りを探し出そうとしていた。
そちらの若い店員とごそごそと話していた彼が戻ってきたとき、腕に黒いズボンが下がっていた。
「これなどはいかがでしょう。」
「え?」

僕がどれほど拍子抜けしたか分かるだろうか。
1本2万円、3万円と言われるのを覚悟してきたのだ。
なのに、ズボンから下がっている値札は5000円台だ。
そんな安物でいいのか?

「驚いていらっしゃるようですが…。」
初老の店員は、僕の反応を予測していたようだ。
「いや、そういうわけでは…。」
「これは失礼いたしました。私が勝手に、とても高価なものを勧められると思っていらっしゃったのではと想像してしまいました。」
ごめんなさい、あなたのアタリですと、声に出して言えなかった。

「これが、僕におすすめなんですか?」
「はい、そうです。」
「どうしてですか?」
店員の胸元のネームプレートに「姉小路」と書いてあることに、この時になって気付いた。

「お客様のお仕事では、見せる要素が強いワイシャツと違って、ズボンは仕事着です。
ワイシャツ同様、清潔でサイズが合ったものを選ぶのは大切です。
でも、仕事着と考えると、素材はウールやシルクなどではかえって扱いにくく、気温が一定に保たれている室内では蒸れたりすることもあって、あまりお勧めはできません。
形が崩れにくいこと、しわになりにくいことなどが素材よりも優先するのではないでしょうか。
デザインは、このように、股上が深くて、屈んでも背中のシャツが出る心配のない、定番のものがよろしいでしょう。
こちらは、流行と関係のないデザインですから、お値段も抑えられるわけです。」

シルクとは考えなかったが、ウールくらいは考えていた。
「では、素材は何ですか?」
「ポリエステルです。洗濯しやすく、型崩れしにくいので、見栄えがいたしますよ。」
「そういうものですか…。」
「ご予算がおありなら、黒いベルトも新調されては?」
「ああ、なるほど。ベルトもカサカサにめくれて、茶色い革が見えちゃってますから、それもいいかもしれない。」
「それと、もしかしたら靴、でしょうか?」
どうやら、姉小路さんはとても気が利く店員さんだ。
馴れない買い物に対する緊張や困惑が減って、本当に助かる。

「そうなんです。靴も選びたくて。姉小路さん、一緒に来てくれますか?」
不意に名前を呼ばれたことが彼の目を少しだけ丸くしたけれど、顔のしわを深くして彼は笑顔になった。
「はい。お供させていただきます。すぐ隣ですので。」
「では、ズボンも洗い替えが欲しいから、2本お願いします。」
「ありがとうございます。では、丈を合わせて詰めますので、その間に靴を選びに参りましょう。
あ、ちなみに…。」
姉小路さんはこのときはじめて、からかうような口調で言った。
「こちらのスラックスは2本目半額セール中ですので、かなりのお値打ち品でございます!
それに、お客様が今日着ていらしたそちらも、洗い替えの中にお入れになっていいと思いますよ。」
「そうですか??」

靴を選んでみたら、このズボンもよいと言われた意味が分かった。
靴は消耗品だからという姉小路さんの言葉を受けて、あらかじめ姉小路さんが選んでくれた5足を次々に履いてみた。
どれも、ローファーとは違う形をしている。
中でも、つま先が、こう、とがった形をしているのを履いた途端、僕はバーテンダーになれた。
そういうことだったのか!

「これが気に入りました!」
「はい。とてもお似合いです。一番お似合いになるものを選ばれましたね!お客様はセンスがよくていらっしゃる。」

ああ。
センスがよくていらっしゃる!!
そんな褒め言葉が僕に向けられるなんて!
お世辞だ。お世辞なのだ。
わかっちゃいるけど…あははっ。
気分上々だ。

「姉小路さんのおかげで、なんだか服を買うのが楽しくなりました。」
「それは痛み入ります。過分なお褒めの言葉を頂戴いたしました。」
僕は両手に提げた派手なチェック柄の紙袋を見下ろして、ふと気づいた。
「あのー、靴下も買おうかな。さっき靴を履いてみるとき、僕の白い靴下を履き替えたでしょう?」
「あれですか。」

姉小路さんは、このときは微笑まずに真顔になり、僕の耳元に顔を寄せてそっと言った。
「差し出がましいことですが、白いスポーツソックスは、もういけませんよ。
おうちの中か、スポーツの時だけになさいませ。
かといって、革靴に合わせる、薄くてツルツツしたものでは汗を吸いませんし滑るから、お気に召さないかもしれません。」

そして、姉小路さんの声はさらに小さくなって、こう続いた。
「ソックスはこちらでお求めになることはございませんよ。
お宅のご近所でもお求めになれますでしょう?
いつも買い求めになるところへいらして、よくよくお選びになるほうが、お気に召すものがあると存じます。
ここは、高いです!」

僕は思わず吹き出してしまった。

そうか。
何が何でもここ、というわけではないんだ。
靴下は帰りにキオンに寄って買おう。
姉小路さんの思いやりとユーモア、的確なアドバイスに感謝して、僕は百貨店を後にした。

僕は、姉小路さんがとても好きになってしまった。
また服を選ぶ必要があるときには、きっと姉小路さんに頼もうと思った。
他の百貨店に行くなど考えられない。

心躍るとはこういう気分のことを言うのだろうか。
僕は帰りの電車の中で、その日のことを思い返していた。
姉小路さんが僕にしてくれたことが「接客」「サービス」なんだな。
僕が始めたのと同じってわけだ。
相手をこんな気分にさせるのがこの仕事だとしたら、これって、すごくステキなことなんじゃないか?

僕はようやく、僕の仕事が好きになれそうな気がし始めた。








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