ねえ、そこのあなた。
「僕はいま、嬉しいんです!」
そんなふうに呼びかけても、不気味がらずに返事をしてくれそうなのが、この街・須万町だ。

すっかり陽が落ちた商店街がキラキラと輝いている。
僕に理性がなかったら、スキップでもしようかという気分だった。
働く場を得たことが、これほどまでに嬉しいとは!

家に向かいながら、僕はさっきのゆかりさんとのやり取りを思い返していた。

「そうと決まったら、まず着替えね。先生、黒いズボン持ってる?」
ゆかりさんは、僕のつま先から頭まで視線を往復させながら、着せ替え人形を手に持った幼稚園児のように目を輝かせた。
「ええ。スーツの下ですけど。あ、高校生の時の制服もまだ着られます…。」
「体型が変わっていないことを自慢したいわけ?」
「そ、そんなんじゃありません!」

どうも、何を言ってもからかわれてしまう。
「それに、僕を先生と呼ぶのはやめてください。」
「あら、学者先生なんだから、先生と呼んで何の不都合があるの?
それに、水商売の世界ではね、恰幅の良いお客様は「社長さん」、ほっそりしたお客様を「先生」と呼べば間違いないのよ。」

なるほどと思う。
社長さんと言われて悪い気がする男はそれほど多くないだろう。
しかし…。
「でも、僕は客じゃないわけですし。」
「まあ…そうだけど。」

小首を傾げて考える風だったゆかりさんは、いいアイディアが浮かばなかったようで、話題を戻した。
「では、一旦帰って着替えていらっしゃい。家は歩いて行けるんだったわね?」
「はい。線路の向こうですけど。」
「では、すぐにいってらっしゃい。あ、それから。」
ゆかりさんに背を向けかけた僕は、立ち止まって振り返った。
「履歴書もね。ある?」
「もちろん!」

カラリンコロン。
僕の背中でカウベルが小さくなった。

履歴書。
29社目の不採用通知をもらったあと、投げやりな気持ちを無理やりエネルギーに変えて、あと1枚だけと指に言い聞かせて書いた履歴書があった。
書くだけで、使う気のない履歴書のはずだったが、あの努力が報われる。
今夜試しに…と言われただけなのに、僕は明らかに舞い上がっていた。

大急ぎで着替えて店に戻ると、ゆかりさんもすっかり着替えて支度を整えていて、夜のママの顔になっていた。
それでも、あの人懐っこい雰囲気は隠しようもない。
店の奥を示して、カバンやコートやマフラーを置いて、ズボンとシャツだけでいらっしゃいという。
言われたとおりにして戻ると、ゆかりさんはいたずらっ子の顔をして、黒いベストを差し出した。
「これ、その上に着てちょうだい。それがあなたの制服ね。」

はいと受け取ってみたら、黒いのは背中だけで、前面はなんとも表現のしようのない、七色の細かい糸が輝いている。
「派手ですよ!」
僕はこんなキラキラしたものを着たことがない。
全身全霊で似合わないと感じたのだ。

「自分のために着ると思うから抵抗を感じるの。
勘違いしないでちょうだい。
あなたを飾るために着るのではなく、お客様の目を楽しませるために着るのよ。」
これでは、言い返しようがない。
僕は苦い薬を一息で飲み込むのと同じ思いで、袖を通した。

「履歴書は?」
「これです。」
カウンターに出しておいた紙を手渡すと、ゆかりさんはざっくりと目を通して、すぐに顔を上げた。
「あなたに、源氏名をつけることにしたの。」
「源氏名ですか?ホステスじゃないんですけどね。」
「似たようなものでもいいでしょう?本名では味気ないし、化けられないでしょう?」
「化ける…。」

ここを見てと、ゆかりさんはカウベルのドアの脇にある、小さな掲示板のようなものを指差した。
見上げると、小さな真新しい木の札が掛っている。
ゆかりさんがはずして手渡してくれたのを見ると、黒々とつやのある楷書の筆文字で「穂高」と書いてあった。

「穂高?」
「そう。それが今日からあなたの源氏名よ。」
「穂高…」

ほたか、ほたかと何度か口の中で繰り返す。
なんとも不思議なざわめきが、胸の底の方に広がった。
「あなたがいないときは、こうして裏返しておいてね。来たら、こうやって名前を前に。」
「わかりました。」
「それから。」

次から次へと出てくる驚きで、僕は足の裏が地面から浮いているような感覚を味わっていた。
「靴を磨いて。今すぐ。」
「はい

ゆかりさんはたった一言で、僕を地面に戻してくれたのだった。






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