「あら、バーテンダー希望?」
その女性は、柔らかな声で問いかけてきた。
こげ茶色のロングスカートに、白いモヘアのような、ふわりとしたタートルネックのセーターを合わせている。
髪を染めていない。
きれいに白くなった髪を、ほどよくショートカットにしている。
小さな顔はきちんと化粧しているけれど、刻まれたしわを殊更に隠す気はないようで、それがなおさら、ずっと前から知り合いのような親しみを感じさせるのかもしれなかった。

「そういうわけじゃないんですけど。」
僕はつぶやいた。
「そうなの。それにしては熱心に読んでいた気がしたけれど。」
「職が決まらないんです。今日も不採用通知をもらって…。」

僕は自分で自分が言っていることに驚いて、言葉を切った。
初対面の、ひとこと声をかけられただけの人物に対して言うことではなかった。
何を言っているんだ、僕は!それも、感情を丸出しにして。
彼女を見ていることができなくなった僕は、また視線を求人広告に漂わせた。

「それは気が塞ぐでしょうね。よかったらお茶でもいかが?」
「は?」
「まだ日も高いし開店前だから、お酒ではなくてお茶ね。丁度私も一息入れようと思っていたところなの。いかが?」
「はあ。」
「さ、寒いわ。入って。」

その時、彼女は僕に何を見たのだろう。
客商売をしている女性とはみな、こんなふうに警戒心がないのだろうか。
僕は、僕を警戒しない相手に、いつの間にか警戒することを忘れたのか。
それとも、自分で思う以上に傷ついて、人恋しくなっていたのだろうか。

ミルクの香りに誘われた子犬のように、僕は彼女の後ろについて暗い店内に足を踏み入れた。
見上げるほどの高さがある棚には、数えきれないほどのボトルがきれいに並んでいる。
カウンターの前には、スツールが5つ。向かって左端には腰よりも低い扉があって、カウンター内との行き来をするらしい。
向かって右の席は壁が隣になっている。
その右の席の背中に、ソファーとテーブル席。4人掛けだろう。
つまり、満席になっても客は9人しか入れない構造のようだ。
小さな店だなと思った。

少し迷ってから、僕は真ん中のスツールに腰かけた。
カウンターの向こうでは、女性がこちらを向いて紅茶を淹れているところだ。
一息入れるというから、簡易なものと思っていたけれど、見たことがない美しいティーポットに湯を注ぐと、彼女はその上からキルティングでできたカバーのようなものをかぶせた。
それから、後ろの戸棚の扉をひとつ引き明け、中に並んだカップ&ソーサーを楽しげに眺め、小さくうなずくと、2つを選んでそっと取り出した。

若いとはいいがたい年齢であることに間違いはないだろう。
髪だって真っ白だ。
けれども、なんとしなやかな動きだろう。
そういえば、話し方も物柔らかで、耳に心地よいだけでなく、心まで柔らかくしてくれるようだった。

「お好みはあると思うのだけれど、これはこのまま召し上がってみて。」
「あ、ありがとうございます。通りすがりの者に…。」
「おかしな人だこと。」
彼女は美しい琥珀色の液体を程よく満たしたカップを差し出しながら、笑い声を立てた。

「ここはバーですから、いらっしゃる方はみんな、初めは通りすがりの方よ。」
「あ、なるほど。」
うまく言い返されてしまった。
言われるままに口に運んだ紅茶は、かすかにイチゴの香りがした。
可愛らしい味だと思ったが、喉を通り過ぎた後に、体がパッと熱を帯びていく。
いつの間にか、度数の高いアルコールをブレンドしたようだ。

「これは…。」
「気付いた?ストロベリーティーに、スパイス代わりの仕掛けを、ちょっとね。」
「温まります。」
「よかったわ。今日はけっこう冷えるから。嫌いな味ではない?」
「ええ。おいしいです。なんだかホッとします。」
「それは何より。」

僕は、すっかり彼女の世界に取り込まれてしまったようだった。






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