「ルー、どうした?」
パパの声が泣いているように聞こえたから、私はびっくりしてパパの顔を覗き込んだ。
やっぱり、パパの目には涙の粒が光っていた。

「いったい、どうしたって言うんだ?」
パパがもう一度言った。
ルーお姉ちゃんにすがりつき、やせ細った両方の肩をつかむと、ゆさゆさと揺さぶった。
でも、ルーお姉ちゃんは表情ひとつ変えずに、パパの顔を見ようともせず、ぼんやりとしている。

ここは、ルーお姉ちゃんが入院している病院で、このお部屋にはお姉ちゃんしかいない。
お隣のベッドは空いていて、ママが休む時に使っていたそうだ。
でも、今、ママはいない。
看病に疲れて、倒れてしまったママは、いま、家で眠っている。

「どうしてなんだ?何度検査しても、お医者さんは病気はもう治っているって言っているんだぞ。
なのに、退院の日になると、決まって高い熱が出たり、意識を失ったりする。
もう5回もだぞ!
どうしてだ?家に帰りたくないのか?
お医者さんは、これは体の病気ではなくて、心の病気だと言っている。そうなのか?」

私はまだ子供だけれど、パパが本当に困っていることだけは分かる。
でも、もしもルーお姉ちゃんが本当に心の病気なら、そんなふうに責めているみたいな言い方をしてはいけないんじゃないかという気がする。
そして、思った通り、無表情なお姉ちゃんが、表情を崩さないまま泣き出した。
どこか遠くを見ているような眼から、大粒の涙だけがこぼれ落ちている。

「ママは倒れてしまったぞ。
ママを困らせて嬉しいか?
本当は、ママが気に入らないんだろう?
というより、俺に復讐したいんだな?そうなんだろ?」

ルーお姉ちゃんは、返事をしない。
ただ、涙だけを流し続けている。
私はとても怖くなった。
小さいころからそうだった。
私は、お姉ちゃんが、いつもとても怖かった。



年の離れた姉妹で、私が小学校に上がるより早く、お姉ちゃんは高校生になった。
そして今年、私が1年生になった。
お姉ちゃんは高校2年生になったが、急に学校に行かなくなった。
最初は具合が悪いって言っていたけど、だんだん、元気な日でも家にいるようになった。
私が学校から帰ると、ママとお姉ちゃんがテレビを見ながら笑っていて、私はなんだか仲間外れにされたようで、悲しくなってしまったものだ。

でも、それも最初のうちだけだった。
ママは私が帰ると、すぐに私の話を聞いてくれた。
楽しそうに笑ったり、ほめてくれたり、教えてくれたりした。
だから、帰った時にママがお姉ちゃんと二人で笑っていても、平気になった。
私は、ママが私に向くと、夢中になって学校の話をした。
それで、話し疲れて、ふと気づくと、ルーお姉ちゃんが、ゾッとするような視線で、少し離れたところから私を見ているのだ。

お姉ちゃんはおとなしくて優しくて、私たちはケンカなんかしたことがない。
どちらかというと、私がわがままを言ってお姉ちゃんを困らせるのだけど、お姉ちゃんがいつも譲ってくれて、ケンカになる前に終わる。
そうすると、ママが言うのだ。
「ルーはさすがお姉ちゃんね。心が優しくて素敵な女性。でも、マユ、あなたはわがままでいけないわ。ルーお姉ちゃんを見習いなさい!」
そうして、ママは私の頭にコツンとゲンコツの真似をする。
「ごめんなさい…。」
私があやまると、決まってママは私を抱き寄せて、ギュッとして、「いいのよ、分かれば。」って許してくれるのだ。
私はそんな時、とっても嬉しくなる。
けど、そういう時も、気が付くと、お姉ちゃんが怖い目で私を見ている。
それで、余計ママにしがみつく。
ママは、私が自分から離れるまで、抱き寄せていてくれるのだ。

ルーお姉ちゃんが学校に行かなくなって3か月、長い夏休みがやってきた。
毎日ママとお姉ちゃんと過ごしているうちに、私はお姉ちゃんが学校に行けないことを忘れてしまっていた。
なんだか、家にいるのが当たり前だったから。
でも、9月になって、私がまた学校に行くようになると、お姉ちゃんはどんどん具合が悪くなって、とうとう入院してしまった。

ママは毎日病院に通って、お姉ちゃんのそばにいるようになった。
完全看護とかいって、別にママがいなくても困らないらしいのだけど、ルーお姉ちゃんが喜ぶからといって、ママは毎日毎日、病院に行った。
学校から帰っても、ママが家にいないのはとっても寂しかった。
それでも我慢できたのは、お姉ちゃんが心配だったのと、夜帰ってきたママが、お布団に一緒に寝てくれるからだった。
ママに頭をなでてもらい、暖かい腕に包まれていると、一人で寝る時よりもずっとよく眠れた。

お姉ちゃんが落ち着いてきたからというので、私はパパと一緒にお見舞いに行った。
11月の初めだった気がする。
ベッドの上で、かわいいパジャマを着て座っているお姉ちゃんはずいぶん元気になっていて、ママと笑いながら話をしていた。
私にも、珍しく、お姉ちゃんから話しかけてくれた。
「マユ、ママがいつも病院でごめんね。寂しいでしょ?」

私は答えた。
「ううん。大丈夫だよ、お姉ちゃん。おうちに帰ってから、ママと一緒に寝てるから、寂しくないよ。だから早くよくなってね!」
「そう。よかった。」
お姉ちゃんの声はいつものように優しくて、口元は笑っていたけれど、目が青白く光った気がした。
怖かった。

そのあとだろうか。
病院から、夜になると電話がかかってくるようになった。
お姉ちゃんが夜になるとひどいことになって、看護師さんがママを呼ぶのだ。
晩御飯の前に一度帰ってきたママは、また病院に行かなくてはならない日が増えた。
そのうち、夜になっても帰ってこなくなった。
ママが病院にいると、お姉ちゃんはひどいことにならないらしく、パパもママも、私に我慢してねと何度も言った。
私は、寂しくて不安だったけど、パパが仕事から急いで帰ってきてくれるようになったこともあり、一生懸命我慢することにした。



「復讐、なんだろ?」
パパがまた言った。
恐ろしい声だった。
「違う。」
低い、乾いてかすれた声。
それがこの日初めて、ルーお姉ちゃんが出した声だった。。

「じゃ、何なんだ?本当の気持ちを話してくれ。あのことを根に持っているのだろう?」
「根に持って?」
お姉ちゃんの声が、悪い魔女のように変わっていた。
「根に持つ?そんな言い方しかできないの?私をずっとだましていたくせに!」
「やっぱりそうか。そういうことか。」
私には意味が分からない。

「マユ、教えてあげる。」
ルーお姉ちゃんの口元が、醜く歪んだ。
お姉ちゃんは、お人形さんみたいに綺麗で、私はいつもうらやましくて、私もお姉ちゃんみたいに綺麗だったらよかったのにって思っていた。
でも、今はもう思わない。
それほど、お姉ちゃんの顔は醜かった。

「やめないか!」
パパが私の腕を引っ張って、病室から連れ出そうとした。
「あたしはね、ママの子供じゃないの!パパはあんたのママと浮気して、私を生んだママを捨てたのよ。私はまだ小さくて、何も覚えていなくて、あんたのママを自分の本当のママだと思ってた。でも、違ったの。学校で戸籍謄本のことを習ったから、興味本位で自分の戸籍謄本をとってみたの。それでわかったのよ。パパを問い詰めたら、白状したわ、本当のことを!」

私には何の事だかさっぱり分からない。
パパは私を引っ張る腕から力が抜けてしまったようで、ドアの近くでお姉ちゃんに言い返した。
「ママはお前の本当のママになろうと、努力してきたじゃないか。ずっとお前だけを大事にして、自分の子供を産もうとはしなかった。」
「当たり前でしょ!あたしのママが自殺したのは、あの人のせいなんだから!」
「ルー!お前、どうしてそんなことを!」
「おばあちゃんに聞いたのよ。自分のことだから、きちんと知りたいって言ったら、話してくれたわ!」
「お袋…バカなことを…なんで俺に言わないんだ…。」

「マユ!あんたのママは、私からママを奪ったのよ。だから私はあんたからママを取り上げてやる!」
私はお姉ちゃんの言うことが怖くて、パパの後ろに隠れて、足にしがみついた。
パパが私の背中を抱いてくれた。
「やめないか。この子には何の罪もない。恨むなら俺を恨め!それに、出来事はお前が思っているほど単純じゃなかったんだ!」

不意に、ヒーッとひきつるような笑い声が、お姉ちゃんの口からこぼれ出た。
黒板を爪でひっかいたような笑い声は、止まることなく響き続けた。
バタバタと何人かの足音が聞こえ、扉が開いて、駆け込んできた。
お医者さんと、看護師さんたちだ。
「さ、お部屋から出てください。お嬢さんも、ね?」
若い看護師さんに背中を押されて、廊下に出た。
「許さない!とことん不幸になればいい!」
扉が自然と閉まる寸前に、呪いの声が聞こえ、扉が閉まると同時に途絶えた。

ベンチがある待合室まで行くと、パパは力なく座り込んで、両手で頭を抱えた。
私はパパがかわいそうで、パパの短い髪を撫でてあげた。
「マユ。」
パパが顔を上げて、私に言った。
「パパもママも、お姉ちゃんが何をしようと言おうと、決してマユを悲しませたりしないからね。」
「うん。分かってる。」
私は心の底から、パパの言葉を信じていた。
「お姉ちゃん、かわいそう。」
私がつぶやくと、パパが消えそうな声で言った。
「そうだね。」
「お姉ちゃんは、私のこと、嫌いだったんだね。」
パパは、答えない。
「私のことだけじゃなくて、パパのことも、ママのことも、嫌いなんだね。」
「どうも、そうみたいだ。参ったな。」

私は心が石になったみたいに重たくなっていた。
真っ暗な部屋の中に閉じ込められたみたいな気持ちだった。
生まれて初めて、本物の憎しみを目の当りにしたからだろう。

でも、私はひとりではなかった。
パパがいて、ママもいる。
でも、お姉ちゃんはひとりぼっちなんだな。
寂しいだろうな。

パパを元気づけたかったけど、なんて言ったらいいかわからなかった。
パパ以上に疲れて、病気になってしまったママに、どうしてあげたらいいかも分からない。
自分が、思っていた以上に子供で、どうしようもなく無力であることにムシャクシャした。

「なぁ、マユ。」
「なに?パパ。」
「おうちに、帰ろうか。」
「うん。」
「ママと3人で、ごはん食べよう。」
「うん。」
「パパは思うんだ。今日はいい日だって。」
「どうして?ルーお姉ちゃんにひどいこと言われたのに?」
「ルーお姉ちゃんがひどいことを言ってくれたからだよ。」
「わからない。私、怖かった。」
「お姉ちゃんはずっと、本当の気持ちを言えなかったんだ。でも、今日、やっと、本当はとても怒っていて、寂しくて、どうしようもなかったんだってことを、話してくれたんだよ。」
「……。」
「だから、今日はいい日だ。」
「そうかな?」
「まずはね、マユ。パパとマユが元気になろうな。」
「どうして?」
「パパとマユが元気になれば、ママもきっと元気になるよ。そして、3人で元気でいたら、お姉ちゃんにもいつかきっと、元気を分けてあげられる。」
「そうだといいね。」
「ほんとにね。」

「さあ、帰ろう。今は、離れることが愛だと思う。」
パパの言葉の意味は分からなかったけど、私はこの日、少しだけ、愛の意味を知った気がした。






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