「ルー、どうした?」

前を歩いていた史彦が振り向いた。
「もう、ここでいい。寒いっ!」
私が足を止めた右側に、一軒の飲食店があった。

『カピバラ食堂』
暖簾に染め抜かれている。
変わった名前だ。
しかし、食堂を名乗るからには、食事ができるにちがいない。
蕎麦屋のような引き戸はしっかりと閉じている。
当然だろう。
2時間ほど前から降り始めた雪はどんどんひどくなって、車が走らない道路は、すでに真っ白になっている。

「ルーがいいなら、ここにしよう。」
本当は、史彦もいい加減寒かったのだろう。
数歩戻ってきて、私の前に立ち、引き戸を開けた。

「いらっしゃいませ。」
涼やかな女性の声がする。
史彦に続いて店に飛び込み、後ろ手で戸を閉めた。
顔の皮膚がヒュッと炎に照らされたように暖かな室内だ。
肺の中に突然入ってきた温度のある空気のおかげで、私はようやく呼吸ができるような気がした。

帰ったばかりの客がいたようだ。
声の女性はテーブルに残ったティーカップやグラスをトレイに乗せ、一目でわかるくらい丁寧にテーブルを拭き清めているところだった。
「お寒かったでしょう。お好きなテーブルをお選びください。」
初めて来たとは思えないほどフレンドリーに、けれど決して馴れ馴れしくない言葉に、私は半ば感心し、すでに居心地がよくなっている自分に気付いた。

史彦は、店の一番奥にある、先ほど女性が拭いたばかりのテーブルを選んだ。
私はコートを脱ぎ、マフラーと手袋と帽子を取り、隣の椅子に並べて置いた。
帰るまでに乾くといいけど。
さっき口喧嘩をしたばかりの史彦と、この帽子が乾くまで、ここに座っている自信はなかった。

店内には、私たち以外は誰もいない。
まだ閉店には2時間ほどありそうな気がするが、こんな雪の夜に、わざわざ外食する人もいないと思われる。
まして、それほど目立つ場所にある店でもなかった。
そう思って店内を見回すと、蕎麦屋にあるとしか思えないテーブルや椅子と、壁に描かれた巨大な温泉カピバラの絵がなんとも不釣合いだ。
それに、このテーブルの後ろの窓辺に飾られた花は、さりげないけれどかなり高級で、 細々と続けている街の定食屋には実に不釣合いに見えた。

「こちらにメニューを置きます。どうぞごゆっくりお選びくださいね。お水をお持ちしましたけれど、何か温かいお飲み物を先にお持ちしましょうか?」
そう言いながら差し出されたおしぼりが温かくて、それだけで胸がジーンとしてしまう。

「先にメニューを見てもいいですか?」
史彦が聞くと、
「もちろんです。どうぞ。」
女性は一度置いたメニューを開いて、史彦に手渡すと、静かに下がっていった。
その挙措のひとつひとつが上品で、私はうっとりしてしまった。

「あれ?ここ、定食屋じゃないんだ。」
史彦が言うので、女性を追っていた目をメニューに向けて驚いた。
定食もあるけれど、フレンチもある。イタリアンもある。あ、ベトナム料理まである!
ひときわ大きく書かれた「カピバラオムレツ」は、どうやら看板料理のようだ。
メルヘンだわ!どんなオムレツかしら?
私はすぐに注文するものを決めた。

例によって、史彦はまだ迷っている。
メニューが定食だけとか、フレンチだけとかなら、まだ時間が短縮できたかもしれない。
でも、こうまでワールドワイドにおいしそうなものが並んでいると、史彦の手順ではどうにもダメだ。
メインがこれなら、ワインは…いや、こっちだとワインじゃなくて…まてよ、前菜にこれを食べたい、するとメインは…
もはや頭の中はカオスの世界に違いない。

その時、引き戸が若干乱暴なほどの音を立てて開き、初老の男性がひとり飛び込んできた。
「いやー、ひどい降りだ!開いててくれてよかったよ。」
どうやら常連さんのようだ。
「まあ、星川様!」
先ほどの品のよい女性が駆け寄った。
男性から鞄を受け取ると、当たり前のように窓際の席に置いた。

「これは星川様。しばらくお見えにならないから、どうなさったのかと妻といつも話していたんですよ。」
厨房から、オーナーと思われる男性が出てきた。
熊に例えるしかないような大柄な人物で、この人がこの上品な女性の夫かと思うと、美女と野獣という言葉しか思い浮かばない。
この組み合わせも不釣合いだわ。

「いろいろあって、忙しくなってね。」
「スミレさんはお元気ですか?」
「ああ。元気なようだ。でも、まだ会わせてもらえなくてね。あちらの小学校に通い始めて、なんとかなじんだらしいのだけど。」
「そうですの。お寂しいですわね。」
「いつも気遣ってくれてすまない。一人暮らしになってからも、わりと自分で飯を作っているんだが、今夜は帰っても家が冷え切っているのだと思うと、どうもまっすぐ帰る気になれなくてね。せめてスミレがいてくれたらと、また思ったよ。」
「そんな時によくこちらを思い出してくださいましたわ。感謝申し上げます。」
女性が深々と頭を下げた。

「星川様。今夜は何に致しましょう。なんでもお作りしますよ!」
オーナーは、奥さんと同じカピバラの縫い取りがあるエプロンをしている。
それがまた、似合うような、不釣合いなような、不思議な感じだ。
「そうだなぁ。冷え切ったから、ビーフシチューにでもしてもらおうか。ライスの気分ではないから、パンを少しだけ、ガーリックトーストにして添えてくれ。」
「かしこまりました。」
オーナーは無骨な顔を笑顔満面にして厨房に消えていった。

「では、ワインは赤になさいますか?」
「ああ、そうだね。」
星川様と呼ばれた客が答えると、厨房から声だけが聞こえた。
「では星川様、ワインを少し残して、私どもにいただけませんか?」
「構わないよ。一緒に飲もう。」
「いえ、そうではなく、ヴァン・ショーをこしらえようと思います。」
「おお!それはいいね。ぜひ頼むよ。」

「ちょっと、史彦!いい加減に決めてよ。私、お腹空いちゃったんだから。」
「うるさいな。決まったよ。」
そういって格好つけて手を挙げて女性を呼んだ。
「はい。お待たせいたしました。」
「こちらの前菜と、ビーフシチュー。僕にもガーリックトーストにしてくれますか?」
「はい。承りました。」
「ルーは?」
「私はこの、カピバラオムレツを!それと…。」
「はい?」
「ヴァンショーって何ですか?」

本当は史彦の注文を聞いて、何よ真似して!と言ってやりたかった。
でも、私も美味しそう!と、話を聞いていて思ってしまった。
「ホットワインのことを、フランス語でそういうのです。赤ワインにはちみつやレモン汁、いくつかのスパイスなどを入れて作ります。体がとても温まるのですよ。こんな雪の夜には、お帰りの寒さを減らしてくれるかもしれません。」
「それ、私も飲んでみたい…。」
「かしこまりました。このまま降り続いたら、明日の朝には雪だるまが作れるほど積もりそうですもの、ぜひ温まってくださいませね。」
「私の故郷では雪なんてめったに降らないし、私、雪が積もるのを見るのは初めてなんです。雪だるまなんてテレビや映画でしか見たことないわ!」
「まあ!暖かい地方のご出身ですのね?」
「ええ。」

史彦も同郷なのだ。
高校からの知り合いだったけど、就職のために上京してから再会した。
同郷のよしみ、なんとなく心寂しいところに話が合って付き合いだした。
上京して2年。
史彦と付き合い始めて1年と何か月。
東京で初めて迎えた昨年の冬は暖冬で、雪の少ない冬だったから、こんな雪を見るのは初めてだ。

最初のうちは、高校を出てすぐ東京に来ていた史彦の都会的な行動が目新しくておしゃれに見えた。
でも、史彦には毎日会えるわけではないのだ。
なぜなら、デートと言えば、高層ビルのレストランやオシャレなバーばかりだから。
ワイン選びのためにソムリエと会話して、ギャルソンと素材の話で盛り上がり…。
よかったのだ、初めは。
でも、今ではすっかり、鬱陶しくなってしまった。

私は庶民なのだ。
おしゃれなレストランもたまにならばいいけれど、毎回では肩が凝って疲れてしまう。
着ていく服を用意するにもお金がかかる。
まだお給料をもらい始めたばかりで、家賃を払ったら、それほどゆとりはないのに!
私は映画館に行かなくても、家でレンタルビデオを2人で観られたら、それでいい。
でも、私のためにいろいろ考えてくれているのだと思うと、なかなか文句が言えなかった。

でも、今日はとうとうキレてしまった。
こんな雪の中だというのに、予約したレストランに行くという。
でも、私は、あまりの寒さに長靴を履いて家を出た。
だって、ブーツで出たら、たった一歩で滑って転んじゃったんだもん!
雪の上なんて歩いたことないから、長靴にしなかったら、待ち合わせ場所まで行くこともできなかったんだもん。

長靴でレストランに行けるかと叱られて、私はいい加減頭にきた。
レストランより、寒がりの私のことを気にしてよ!
それでも会いに来た私のことを褒めてよ!
怒り心頭の私は、ガシガシ勝手に歩き去った。
さすがに史彦は追いかけてきてくれて、あれこれ言ってきたけど、無視してやった。
そうしているうちに、どこにいるのか分からなくなってしまった。
しょげ始めた私を追い越して、史彦は少し先を黙って歩いた。
そうして、このカピバラ食堂にたどり着いたのだ。

先にビーフシチューの用意ができたようだ。
向かいに置かれた皿の中から、香ばしいブラウンソースの香りが漂ってきて、鼻孔をくすぐる。
軽くソテーしたホタテの貝柱を生ハムで巻いて、オリーブオイルにレモン汁、塩とわずかな胡椒だけでいただいた前菜があまりに美味しかったから、このビーフシチューもとびきりおいしいだろうと思われる。
案の定、先にスプーンを握った史彦は、得も言われぬ顔をしている。

向こうのテーブルにかけた客も、オーナーに賛辞を送っている。
私もそれにすればよかったなぁと思ったところへ、オムレツが届いた。
真っ白で大き目の皿の上に、本当にカピバラがうずくまっているみたい!
お尻の方を少しだけ、スプーンで削って口に入れる。
ふっわふわの玉子がトロリンと口の中に広がる。
こんなにおいしいオムレツを食べたのは、人生で初めてだった。

美味しいものを食べると、人は冷静になれるものらしい。
私は先ほどの怒りがすっかりどこかへ行ってしまったのに、半ば驚いた。
でも、今日こそ、はっきり言わなくちゃ。

「おや、電車が止まってしまったようだ。」
厨房からオーナーの声がした。
「まあ、大変。お客様、大丈夫ですか?」
きれいに平らげた皿を片づけながら、店の女性が尋ねた。
「止まってしまったのなら仕方ないわ。なんとかします。」
「どちらへお帰りですか?」
私が家の場所を告げると、女性は小首を傾げながら下がっていった。

「ねえ、史彦。わたし、これから、高級レストランには特別な日以外は行かないからね。」
「どうして?」
「ほんとは、疲れてしまうのよ。たまにならいいわ。でも、毎回では疲れちゃう。お金もかかるし、くつろげないし、嬉しくないの。」
「喜んでもらえてると思って、一生懸命探したんだぞ。」
「わかってる。だから、言えなかった。」

私たちの間に、気まずい空気が流れた。
「付き合ってもう1年になるんだよ。もう、特別じゃなくていいんじゃない?」
「そうか?」
「そうだよ。」
「女は高級な方が喜ぶんじゃないのか?」
「そういう人もいるかもしれない。でも私は、ワインに前菜にメインにとかじゃなくて、オムレツで十分美味しいんだよ。焼き魚でいいし、里芋の煮っ転がしでいいんだ。一緒に美味しいもの食べられたら、それでいいの。」

史彦は今までの努力が否定されたと思ったらしく、むっつりと黙り込んだ。
「ヴァン・ショーでございます。」
丁度いいタイミングで、ホットワインが運ばれてきた。
ダブルグラスだから、グラスの中に濃い紫色が浮いて見える。
一口飲んだら、舌の上から喉を通って体の中心まで、じわっと温かさが広がった。
私たち、こんなことで気まずくなっちゃうのかな。
性格の不一致って、こういうことなのかな。

ホットワインは堪らなく美味しいのに、私はちょっと泣きたくなった。
その時だった。
厨房からオーナーが出てきて、私たちのテーブルの横に立った。
もう注文したものは残っていない。
伝票でも届けに来たのかと思った。

「遅くなりました。ご注文のデザートでございます。」
「え?デザートなんて頼んでません。」
「こちらを、どうぞ。」
「は?」

大きなオーナーの後ろから、奥さんが出てきた。
そして、私たちのテーブルの上に、サラダボウルのようなものを置いた。
その上に、高さ30センチくらいの、真っ白な雪だるまが載っていた。

「まだご覧になったことがないと、おっしゃったものですから。」
私は驚きすぎて、声が出なかった。
小さな雪だるまは、紙コップの帽子をかぶり、ニンジンの鼻がついている。
眼もある!よく見ると、目はコンニャクを切ったものだった。
いつの間に作ったのだろう?
私の些細なひとことを聞き逃さずに、こんなに大事にしてくれたんだ!
私は掌で、雪だるまの体を撫でてみた。
じんと冷たい。
掌は冷たいけど、心にはほっこりと明かりが灯った。

「ありがとうございます…。雪だるまがこんなに可愛らしいなんて、知らなかったわ。」
私はうそ偽りなく、心からの感謝を伝えずにはいられなかった。
「こんな雪の夜にお越しくださったのですもの、感謝申し上げたいのは私どもですわ。」
オーナーと奥さんは、私の喜ぶ姿が本当にうれしかったようで、にこにことふたり顔を見合わせてから、そろって厨房へ戻っていった。

「こういう特別も、あるんだな。」
史彦がポツリと言った。
「僕は横着だったかもしれない。人の評判を調べて、金さえ払えばいいものが手に入ると思ってた。それでルーが喜ぶのは当たり前だと思ってた。でも、人の意見を調べるだけで、僕自身で考えたことはほとんどなかったのかもしれない。」
「そんなことないよ。史彦にはとても大事にしてもらっているって、いつも思っていたよ。でも、これからは、普通でいようよ。高級でなくていいから、もっとたくさん会いたいな。」
「そうだね。このホットワインや雪だるまみたいにね。」

店を出るとき、温かい部屋の中で、あの雪だるまは2割くらい痩せてしまっていた。
でも、私はそれを手袋をはめた手で持って出た。
外はどこもかしこも真っ白で、音がない世界になっていた。
「電車は止まってしまったけれど、バスがまだ、動いているようです。バス停はこの通りの向こうの大通りに出たらすぐにありますから、どうぞお気をつけて。」

奥さんが調べてくれたらしい。
どこまで行き届いた店だろう。
「また来ます!」
そう答えたのは史彦だった。
「お待ちしております。今度はお足元のよい日に、お立ち寄りください。」
オーナーまでそろって見送ってくれた。

バス停まで、史彦と腕を組んで歩いた。
店に入る前とはくらべものにならないほど、寒さが気にならなかった。
史彦が持ってくれた雪だるまをバス停において、帽子の紙コップに、鼻のニンジンと眼のコンニャクを入れた。
全部持って帰りたいけど、バスの中に雪だるまは持ち込めない。
「それ、どうするの?」
「明日の朝、雪だるまを作って、くっつけるの。」
「じゃ、その雪だるま、僕が作ってあげるから、今夜泊まっていい?」
「……いいよ。」

私たちは、今まで以上に仲良しになった。






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