「ルー、どうした?」
「ねぇ、聞いた?林田さんと佐伯主任の電撃結婚!」
取引先から急いで駆け付けた私を見るなり、瑠寿香が声をひそめて耳打ちした。
「そんな話がしたくて呼んだの?」
書類が詰まったトートの外ポケットからタオルハンカチを出した私は、これ見よがしに首筋の汗をぬぐった。
いくら今日の営業部一の話題といっても、噂話のために千葉にいた私を都心のレストランに、ランチに間に合うよう来いと呼びつけるなんてどうかしてる!
けっこう本気で走ってきたこと、気づいて感謝してほしいわ、くらいの気持ちがわざとらしい行動をさせていた。

「違うけど、びっくりしたじゃない?」
「そりゃねぇ。ルーはもう食べたの?私ランチまだなのよ。注文していい?」
「私は食欲ないから、今日はコーヒーだけにする。注文して。」
だったらなぜランチに?といぶかりながら私はメニューを手に取った。
けど、移動の疲労でたいして見る気にもならない。
目が合った店員がやってくると、すぐに注文した。
「明太子スパゲティとアイスティ。アイスティはすぐに持ってきてください。」

「ねぇ、みいちゃん。佐伯主任、ひどくない?林田さんって長男なんでしょ?」
「ああ、 どっちが苗字を変えるか勝負したって話?」
「それよ!それが愛する男性に対する仕打ちかしら?」
アイスティが待ちきれなくて、私はテーブルの水に手を伸ばした。
この店のウォーターサーバーはおしゃれだ。
テーブルに1本ずつ置かれたボトルは、もとはペッシェビーノというイタリアワインのボトルだ。

このボトルのラベルをはがし、滅菌消毒してウォーターサーバーに使っている。
中にはミントの枝と、薄くスライスしたレモンが一枚。
そしてキンキンに冷えた水が入っているのだ。
いつもこのボトルの水が、外回りからたどり着いた喉を爽やかに潤してくれる。
OLの幸せは、職場に複雑な人間関係がないことと、近所に気の利いたランチの店があることだわ…。

「で、なんだっけ?」
「だから、佐伯主任よ!どうして自分が林田の姓を名乗らないの?今なら夫婦別姓だってアリでしょ?」
「ああ、その話ね。あれは、佐伯主任の愛の証よ。」
「それが分からないのよ。どうして、年下の夫に自分の姓を名乗らせるのが愛なの?」
「わからないかなぁ。佐伯主任はバツイチでしょ?」
「知ってる、知ってる。前の旦那さんは、確か開発部の…。」
「そう。今は偉くなってもう部長さん。」
「離婚の原因とかは知らないけど、佐伯主任、そうとう参っていたわよね。」
琉寿香もその頃の佐伯主任を思い出したようだ。

そのころはまだ主任ではなくて、私たちと同じ平社員だった。
明るいというよりは勝気で、向日葵というよりはカトレアのような女性だった。
「結婚して、名前を変えて、離婚して、また旧姓に戻して。
心の痛手が大きい時に、煩雑な手続きにはほとほと痛めつけられたって、何かの時に話してくれたことがあるの。」
「その煩雑な手続きを、今度は林田さんになすりつけたんでしょ?!」
「ルー、それって、一面的すぎる。」
私の言い方がきつかったからか、琉寿香は息を引いて、ちょっとむくれた。

「佐伯主任は、林田さんのこと、真剣に愛しているんだと思う。
今度は絶対に別れたくない、一生添い遂げたいって思ってる。
だから、保険をかけたんだと思うな。」
「保険?」
「そう。林田さんといえば、営業部きっての…。」
「めんどくさがり!」
「でしょ?だから、結婚する時に、名前を変更する手続きが面倒であればあるほど…。」
「そっか、二度としたくないと思うわね、彼なら。」
営業部の人たちの帰社を待って、経費を清算する仕事を一手に引き受けている琉寿香は、林田さんの面倒くさがりを生々しく思い出したのだろう。
「つまり、林田さんに離婚手続きが面倒だから、別れるのはやめようって思わせるためじゃないかって、私は思うよ。」

「でも、やっぱりそれって、どうかな。」
「なんで?」
「はっきり言えばいいじゃない。私と別れないでって。」
「まぁ、言ってもいいけど、結婚する前の年上の女からそんなこと面と向かって言われたら、けっこう重いと思うよ〜。」
「重いかな?本音で語り合うことこそ大事だと、私は思うわ!」
「そうかなぁ。本音だからこそ、簡単に言わないほうがいい時も、あるんじゃないかな、おとなの世界ってさ。」

琉寿香は、私の答えが不満だったようだ。
ふたりの間にねっとりした空気が停滞した。
話している途中で届いた明太子スパゲティが乾いてしまう前にと、話半分にせっせと口に運んだのが気に障ったのかしら?
そもそも、なんでわざわざ忙しい日のランチ時に、どうしても会いたいなんて言ってきたんだろ?

「ルーってば、ほんとに話したいことは何?」
食後に、少しぬるくなり始めたアイスティを飲みながら尋ねると、ルーは勢いを取り戻した。
やっぱり、何かあったんだわ。

「彼と、別れたの。」
「うそ!なんで??」
2人は相思相愛だったんじゃなかったの?
話を聞くばかりで会ったことはなかったけれど、琉寿香とは同期同学年の気安さで、飲みながら、食べながら、彼とのホットな話題を微に入り細を穿って聞かされてきた。

「夕べ、聞かれたのよ。今まで付き合ってきた男は何人?って。」
「へぇぇ。で?」
「迷ったけど、答えたわよ、正直に。」
「何人くらいだっけ?」
「8人…かな。」
「ルーは続かないからねぇ。」
「ふん。そしたら、彼、その8人とはどこまでいってたの?って言い出して。」
「どうしてそういう話になっちゃったのよ?」
「一緒にドラマ観てたのよ。ほら、最近すごい視聴率で話題の、夫婦がそれぞれに浮気するやつ。」
「ああ、あれ。なんでそんなもの、2人で観るかな?」
「なんか、関係ない世界だからさ。で、私が聞いたの。あなたもけっこういろいろ付き合ってきたんでしょ、今再会したら、そういう関係になっちゃうわけ?って。」
「おお、大胆な質問だね。」
「そしたら、彼、過去は過去で、今は君だけだよーって。」
「全然雰囲気悪くないじゃないの。それがどうして別れ話になるの?」
「で、今度は彼に聞かれたわけ。君は何人くらい付き合ったの?って。」
「なるほど。で、8人と正直に答えたわけね。で、どういう付き合いだったかと聞かれて、まさか…。」
「答えたわよ、正直に。だって、過去は過去だって彼もいうし、愛し合う2人の間で秘密はいけないと思ったから。」
「はぁ???」
「私、悪くないと思わない?だって、彼を信じて正直に言うことのどこがいけないの?うそよりいいに決まってるじゃない!」
「正直って、8人とも深い仲でした、あなたが9人目ですって言っちゃったってこと?」
「うん。そしたら急に立ち上がって、寝室に行ってごそごそしてるなーと思ったら、トランク持って出てきて、さよなら、君とは無理だって出て行っちゃったのー。んで、今朝になっても帰ってこなくて、メールも電話も着信拒否された!」

琉寿香は待っている。
私が「それは彼の横暴だわ」とかなんとか言うのを。
でも、言えるはずがない。
彼は、真実が知りたかったわけではないのだろうと分かるから。
自分が彼女の中の一番だと、確認したかっただけではなかろうか。
いつか何かがあったとき、自分も1/10の男だと言われるのかと思ったら、堪らなかっただろうな。

うそがいいとは言わない。
誤魔化すのが最善とも思わない。
けれど、彼女は本当に彼を愛していたのだろうか。
愛とは、自分がうそをついた痛みを抱え続けることよりも、真実を知った相手の心の痛みを避けてやりたいと思うことではないのだろうか。
そもそも、いくら過去は過去と言われたからといって、何を言っても相手が傷つかないと思うほうがどうかしている。
相手が私のありのままを100%受け入れなくてはならないと思うなんて、それこそ子供じみた甘えなんじゃないかしら。
自分をしっかり持った大人なら、許せないことや譲れないことが、ひっそりと、でも確かにあるはずだもの。

私はそれを琉寿香に伝えようかと考えた。
でも…。
やめておこう。
私は彼女の友達で、教育係じゃないもんね。
それに、私が感じることがすべて正しいとは限らない。
私の口からは、彼女の思い違いを指摘する言葉の代わりに、まったく違うものが飛び出していた。
「ね、ルー。やっぱり私、デザート食べたいわ。ケーキ、一緒に注文しない?」
「ケーキ?なによ、人が深く深く傷ついているときに!」
「それとね、佐伯夫妻の結婚パーティー、企画しようよ。主任ったら、再婚だから何もしないなんて、私たちが面白くないわ!どう?何かしたくない?ねぇ、ねえ!」








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