「ルー、どうした?」

嫌だと思ったら、もうダメだった。
あれほど愛した人なのに、どうしてここまでと、自分でも思う。
でも、もう戻れない。
あなたはすでに、私が愛したあなたではない。
いえ、変わったのは私かしら。

「どうしたんだよ。早く来いよ。」
夫がまた声をかけた。
「今、いいところだから、あとちょっと。ごめんなさいね。」
「またかよ。」
吐き捨てるような声がした。
またかと言いたいのは私の方。
でも、両手で口を押さえてこらえた。
大事な日までは、些細なことにも気を配らなくてはならない。

結婚して6年。
子どもはまだいないけど、それなりに幸せに暮らしてきた。
職場結婚だったが、今は別々の会社に勤めている。
つまり、ダブルインカム ノーキッズ。お金に不自由はない。
夏休みを合わせてとって海外旅行にも行ったし、お正月に限らず、双方の実家を行ったり来たりもしている。
どちらの親もみな健在で、穏やかな人柄の人たちだから、もめ事もない。
まだ20代の後輩が、事故で障害を負った親御さんの介護に頭を悩ませている。
愚痴っちゃいけないと思うし何も嫌なことはないのだけど大変なんですと打ち明けられた時、心の底からその重みに同情した。
そして、少しでも彼女の気持ちを自分の痛みとして感じたくて、いずれ私にもそんな日が来るのだと考えてみた。
が、ずっと遠い先のようにしか感じられず、ぼんやりとかすんでいて実感が湧かないのだ。
仕事と家事の両立も、夫の手助けもあって、それほど悩んでこなかった。
結局、私は幸せなんだと本気で思っていた。
半年前までは!

私の毎日で、これだけはと大切にしている時間がある。
家事を終わらせたあと、入浴を済ませ、布団に入る前のほんのひととき、読書をするのだ。
これは子どもの頃からの習慣で、私の精神安定剤と言ってよい。
夫も理解してくれ、一緒に並んで、それぞれ好きな本を読んでから眠りにつくのが常だった。
それが、半年よりも少し前、疲れたという夫に先に休んでもらうことが増えるようになった。
別段、気にしてもいなかった。
確かに、一日中パソコンや書類と格闘したら、もう活字は見たくない気分になることもあるだろう。
私がベッドに行くころには、夫はすっかり眠っている。
そうこうしているうちに、夜のことが、まったくなくなった。
私は夫に尋ねてみた。私の本がいけないの?それとも、私?
すると夫は言ったのだ。どちらも違うよ、すまないね、俺が疲れているだけだよ。

それから、今度は夫がちゃんと声をかけてくれるようになった。
それが、決まって、私が本を読んでいる時なのだ。
夢中になっていて気付かなかったこともある。
呼んだのに返事がないから寝ちゃったよと言われた。
私は夜の読書をやめた。
すると、今度は夫の帰宅が遅くなったり、酔って帰ったりするようになった。
そうして、私が本を読んでいる時に「限って」、ルーおいでと呼ぶのだ。
おかしいと気付かない方がおかしい。

世間の女性たちは、こんな悩みを誰に相談するのだろう。
母にはとても聞けないし、仲が良くても同僚に尋ねる気にはなれなかった。
仕事の合間に「ねぇ、あのことどうなった?」と尋ねられたり、毎朝顔色を覗われたりすることを想像しただけで気が重くなる。

そうだ、鈴香がいるじゃない。鈴香なら打ち明けてもいいかな。
私と同期の総合職で、何かと気が合い仲が良かったのだが、鈴香はあっという間に結婚して寿退社した。
やはり同僚だった私の夫・謙司とも鈴香の夫ともみな顔なじみで、双方の結婚式にも出席し合っている仲だった。
もともと、男好き…いや、合コンが好きで男あしらいもうまかった鈴香なら、こんな相談にも乗り慣れていて、私の話も気軽に聞いてくれるに違いない。
思いついただけでどこか救われたような気がした。
このまま抱えているより、ずっといいわ。
とはいえ、すぐに連絡する気にもなれず、明日にはと思った夜のことだった。

帰宅した夫が、テーブルにゴロンとスマートフォンを置いた。
「買い替えたの?」
「ああ。仕事で使うし。みんな持ってるからな。社に戻らなくてもネットが使える環境がやっぱり欲しくなったんだよ。」
以前は、ケータイなど電話とメールさえ使えれば十分と言っていたのに、急に気が変わったのだろうか。
それとも、仕事で不都合が?と思いつつ、似たような仕事をしていて困っていない自分の旧式の携帯電話を思うと、何かがひっかかった。
「やっぱり面白い?話しかけると返事をするってホント?ケータイからのメールってどんなふうに見えるの?絵文字は使えるの?」
欲しいわけではないものの、興味津津の私は矢継ぎ早に質問しつつ、夫のスマホを手にした。

それまで、夫のケータイを覗き見たことは一度もない。
する必要もなかったし、人間としてしてはいけないことだと思っていた。
それに、テレビで「男のケータイの中に女の幸せは入っていない」なんて言っているのを聞いてから、ますます見る気にはならなくなった。
その時も、夫の秘密を覗こうと思ったわけではない。
ただ、面白そうな機能に関心を持っただけだ。
「どこ触ると立ち上がるの?」
言いつつ、広い画面を見よう見まねで指でなでる。
すると、セキュリティ發鯑力せよ、というような画面が出た。
ちょっと驚いて夫の顔をみると、夫は慌てたふうもなく、スマホを取り上げて両手の親指で何事かを打ち込んだ。
そうしてひとしきり、メールの画面などを見せてくれてから、ぽんと鞄に放り込んだ。
家族割は引き続き使えるのかな?と思ったし、お前も一緒に替えようよと言ってくれたら考えたのにとも思ったけれど、口には出さなかった。

その時はそれで終わったのだ。
いつもならテーブルに出しておくケータイを、なぜ鞄に入れたのかなんて気にもならなかった。
けれども、いつものように本を読んでいた時だった。
寝室から、小さく笑い声が聞こえた気がした。
続いて何か、話し声。
怪訝に思った私は、そっと様子を見に行った。
ああ、なぜそっと行ったのだろう。
「どうしたの?」って普通に言えばいいのに。
扉の向こうを見る前に、夫の声を聞き取った。
「ああ、替えたよ。大丈夫。仕事で使うって言ったら納得してたよ。……うん、うん。そうだね。これからはLINEでね。大丈夫だよ。あいつはLINEの使い方なんて知らないし、興味もないよ。それに、このスマホには12ケタの暗証番号を入れたから。うん、すごいだろ?絶対に見られる心配はないよ。じゃ、続きはLINEでね。」

やっぱり、女がいるんだ!
もうずっと前から分かっていた気がした。
はっきりそうと分かってしまうのが怖かった。
足音をさせないようリビングに戻ってから、カッと熱くなった胸と混乱し続ける頭で考えた。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
あの人に確かめようか。
でも、立ち上がれなかった。
立ち上がれないから、確かめられない。
自分でも言い訳だと分かっていたけど、どうしようもない。
そう思ったとたんに立ちあがり、また寝室を見に行く自分がいた。
ドアをそっと開け、隙間から夫の様子を見た。
ベッドに腹ばいに寝そべって、笑い声を立てながらスマホをいじっている夫の後姿を見ながら、LINEってのをしているんだろう、その女相手に、と確信した。
そして、さっきの、高校生のような話し方をしていた夫の声を思い出したら、急激な吐き気が突き上がってきて、思い切り両手で口を塞いだ。
苦しくて、両目からぼとぼとと涙が落ちた。

翌日。
私は出勤途中で鈴香に連絡を入れ、相談したいことがあると頼み、帰り道に立ち寄らせてもらうことにした。
一日、もやもやと仕事に集中できず、ミスばかりして上司に叱られ、ますます落ち込んだ。
何度も行ったことがある鈴香の家にたどりつき、鈴香の顔を見たとたんに涙がこぼれた。
「ごめんね。急に。」
「いいのよ。どうしたの?何かあったのね?」
「うん。それがね…。」
私は恥も外聞も捨てて、夫の浮気のことを鈴香に話した。
鈴香は途中から黙って私に話をさせ、真剣な表情で耳を傾けてくれた。
「そうか。でも、思いすごしなんじゃない?ちょっとした遊び相手とか、可愛がっている部下とか。」
「そうかもしれない。でも、私、もっと深い仲だと思う。」
「女房が思うほど夫モテもせず、って言うよ。」
「だけど…。」
だけどと言いながらも、私の思いすごしだとキッパリ言ってくれる鈴香の言葉が天の声のように聞こえ、一晩極限の緊張を続けてきた心と体が緩んで、少しずつ温度が戻ってくるような気がした。
鈴香はいい友達。
ありがたいな、ほんと、こんな思いやりのある友達がいて、私は幸せね。


丁度その時、チャイムが鳴った。
小走りにインターホンを覗き、ちょっと待っててね、荷物みたいと言って印鑑を持って出て行った鈴香を見送り、冷めきった紅茶に手を伸ばした時、ふと、そこに鈴香のスマホが置いてあることに気がついた。
「鈴香もずっとケータイだったのに、替えたんだ。みんなスマホになっちゃうなぁ。」
なんとなく手に取り、画面をスクロールしてみた。
すると、LINEと書いたアイコンが出てきたので、そこに指を載せてみた。
どこをどう押したのかわからないが、ずらりと画面が変わって、メッセージがいくつも並んでいる画面になった。
それを見て、私は石になった。

夫の顔写真と、確かに「謙司」という名前が並んでいる。
写真からの吹き出しに、「今、なにしてる?」というメッセージ。
その下には、鈴香の顔。「あなたのこと考えていたとか、言ってほしい?」
また夫の顔。「考えてた?」
鈴香の顔。「教えない。ルーに気付かれてない?」
夫の顔。「気付きっこないよ。あいつを誤魔化すのは簡単。」
鈴香の顔。「だよね。ウチの夫も楽勝。」
夫の顔。「面倒だから離婚なんて考えないけど、お前のことは絶対手放さないから。」
鈴香の顔。「ルーには悪いけど、だまされてもらう。私も、あなたがいなくちゃダメ。」

私はそれ以上読めなくて、あちこちをめちゃくちゃに押して画面を切った。
着ていたシャツの裾でゴシゴシこすって指紋を消すと、もとあった場所にスマホを戻した。
そのすぐ後に鈴香が戻ってきた。
「ごめんね、待たせて。なんだか宅配の人が荷物間違えちゃって。」
「そう。」
「話が途中になっちゃったね。」
「うん。ごめんね。鈴香の言う通りかも。私、ちょっと考えすぎよね。」
「そうだよ。ご主人、優しい人じゃない。ルーを裏切ったりしないよ。」
「ありがと、鈴香。私、帰る。」
「なんで?せっかく来てくれたんだからご飯食べていってよ。夫は先週から海外出張で留守なのよ。」
「そ、そうなんだ。でも、今日は帰るわ。」
「じゃ、無理に引き留めないけど、いつでも相談に乗るからなんでも話してね。いい?ひとりで思いつめないでね。」
「ええ。」

だまされた。だまされた。だまされた。
うそつき。うそつき。うそつき。
裏切り者!裏切り者!裏切り者め!!
絶対、絶対、絶対許さない!

ボロボロ泣きながら、めちゃくちゃに歩いた。
悔しかった。
悲しかった。
切なすぎて、このからだを切り裂いてしまいたいとさえ思った。
頭の中で研ぎ澄ました刃物を抜き、何万回も夫と鈴香に切りつけた。
ねじ伏せ組み倒し、際限なく踏みつけ、蹴りつけ、喉が裂けるまで罵倒した。
それでも飽き足りない自分のどす黒い毒に自分が中毒した。

女として鈴香に負けたことよりも、信じていた夫が私の友達と浮気をしていたことよりも、私をズタズタにしたのは、あのふたりが、私を簡単にだませると思っていたことだった。
馬鹿にされた。
他のことすべてを許したとしても、ただその一点だけは許せなかった。
せめて顔写真じゃないとか、実名を出さないとか、そういう気遣いを見ていたら、ここまで怒り狂うことはなかっただろう。
しかし、ふたりは私を馬鹿にしきって、一切の配慮をしなかった。
ひとでなし!
あのふたりがひれ伏し、涙を流し、見苦しく許しを請うても絶対に許さないと、憎しみを深く心に刻んだ。

あの日から半年。
私はいまも、何も知らない顔を続けている。
そうして、前にもまして真剣に本を読んでいる。
「ルー、来いよ。どうした?」
夫の身の毛もよだつ誘いに、さも申し訳なさそうに言い訳をするのにも慣れた。
夫は文句をいいながらほくそ笑んでいるに違いない。
愚か者め。
今に見ているがいい。

私はかつて手に取らなかった推理小説ばかりを読んでいる。
そこには、許しがたい人非人を完璧な手段で亡きものにした天才たちが溢れている。
不運なことに、天才は天才を呼ぶらしい。
あり得ないほどの推理力と行動力で決して見えないはずの犯罪計画を明らかにする刑事がいて、天才たちは「罪」を暴かれる。
そのたびに、私は我がことのように悔しくて、われ知らず涙がこぼれる。
あなた方の仇も私が打つわ。
今に見ているがいい!
私はきっと、成し遂げる。
この許しがたい愚か者たちを、私の手で、しかも完全にそうとは知られない完璧な方法で、この世から葬り去って見せるわ。






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