「先生、私、決めました。
大きな夢を持ちます。その夢も、もう決めました。」
小学1年の聡明な少女は、目をダイヤモンドのように輝かせている。
白桃のように染めた頬は、この少女の真剣な思いを言葉と一緒になって伝えようとしている。

「どんな夢ですか?」
花恋の期待する通りの問いかけをして、スミレは答えを待った。
花恋は手すりを離し、スミレの方を向くと、凛と立って答えた。

「大おばあさまは、お仕事に夢中になりすぎて、幸せな家庭を作れなかったとおっしゃるの。
花亜おばさまは、本当はとてもお仕事の才能がおありだったのに、仕事も家もお捨てになって、目の前の幸せだけを選ばれたわ。
それを知っている母は、父に頼まれたこと以外は会社のことはせず、家庭のことだけが自分の役割と思っているみたい。 
松重に生まれた女の人は、みんななんだかうまくいっていない気がするんです。
それで私、どうするのがいいのかな?ってずっと考えていました。
弟が生まれることになって、別に私が跡を継がなくてもよくなったし。
私、自由だなぁ、なんでもできるなぁって。
けど、なんでもできると、何していいかわからなくて。

でも、先生、今日わかりました。
私は、誰とも違って、今までおばさまたちがなさってきたことよりひとつ、多くを望んで努力しようと決めました。
会社のこともできるようになって、でも、 すっごく幸せな家庭も持って、子どもも育てます!」

「ええ。花恋さんならできますよ、きっと!」
この小さなレディは、間違いなく、今の言葉を実現するのだろう。
スミレは確信した。
「それでね、先生。 私、松重にプロサッカーチームを作ります!
それで、私のチームに滝沢選手に来てもらいます!
だって、サッカーと滝沢選手が本当に好きになったのですもの!」
今度はスミレが、花恋に近づいて、彼女を抱きしめた。

お帰りの時間ですよと花恋を呼びに来た安住に誘われて、スミレも一緒に帰ることにした。
もう少し、誰かと一緒にいたかった。
誰か?
違う。この人たちと一緒にいたいのだわ。

花恋をリムジンに乗せてから、スミレも乗せようとした安住が、小さく言った。
「スミレさん、私も今夜は本当に感動しました。
私も、今からでも遅くない、夢を持とうと本気で思いましてね。
さしあたり、滝沢選手にあやかって、お嫁さんを探そうかと思います。」

スミレは、気のきいた答えをして、安住を笑わせたくなった。
「安住さん、私、あなたと結婚するような気がします。」
自分の口を突いて出た言葉の意味を理解するのに時間がかかったが、安住が目を丸くしている間にわかってしまい、頭を抱えた。
「あ、いえ、そういうわけでは…きゃー!」
安住が爆笑している。
素敵な笑顔だ。
たまらなく恥ずかしいことをしてしまったが、どうやら安住を笑わせたいという目論見だけは成功したようだった。



ワールドカップ本大会が終わって、3ヶ月が過ぎた。
身体ごと融けてしまうのではないかと思った猛暑も今は思い出になるほど、爽やかな涼風が吹いている。 

「いいかい、みんな。ボールは足のここで蹴るんだ。
でも、蹴るのと同じくらい、転がってきたボールをピタッと止めることが大事なんだよ。
やってみるからね。よく見ててね。スミレ先生!パス出して!」

1年生2クラスの合同体育に、滝沢健太が出張授業に来てくれている。
大学までサッカー漬けで過ごしたスミレは、滝沢のパートナーとして、模範を見せるのにはもってこいだ。
子どもたちは、有名選手と担任との意外なコラボに狂喜乱舞している。

「さ、わかったかな?じゃ、やってみて!」
滝沢が言うと、子どもたちはボールを蹴りながら校庭に散らばっていった。 
「滝沢さん、大丈夫ですか?痛みませんか?」
スミレは心底心配だった。
「ええ。まだリハビリ中なので、思い切り走ったり蹴ることはできないけど、痛みはありませんから、心配しないで。」
「そうですか?ならいいけど、絶対無理はしないでくださいね。」
「大丈夫ですよ。俺もサッカー教室で人生棒に振る気はないし。それに、今日は久しぶりにいい気分ですよ。やっぱり、ボールに触っていると、気持ちが違ってくる。」

日本代表の惨敗は、初戦で滝沢が敵の激しいファウルプレーを受け、腰を痛めたのがきっかけだったと言わざるを得ない。
担架でピッチから運び出され、そのまま病院に向かったと聞いた時は、体中が震えるほどの恐怖を覚えた。
学校の体育館をパブリックビューイングにして、スミレたちと一緒に見ていた霧島親子は声をあげて泣き出したほどだった。

滝沢の怪我は深刻なものだったが、彼は少しも深刻にならなかった。
連日報道される談話は、彼の精神がいかに強いかを物語っていた。
「怪我で戦線離脱したのは悔しいし、応援して下さったみなさんには、期待に応えることができず、本当に申し訳ないと思っています。
でも、俺はこれから新婚になる身ですからね。
妻の温かい看病を受けながら、息子を急に転校させることもなく、親子水入らず、大好きな日本でゆっくり過ごすチャンスをもらったと思っています。
この怪我がなかったら、ハネムーンも1週間が限度ですからね。
ツイてますよ!」

一時は選手生命が終わるかと言われた滝沢だが、日本で治療に専念した結果、順調に回復し、あと少しで練習にも復帰できるというところまできている。
霧島親子…すでに入籍したので、滝沢親子と呼ぶべきか…もともに、ドイツへ旅立つ日が近づいている。
そこで、滝沢選手の提案で、体育の授業でサッカーをする時、ゲストとして彼を迎えることにしたのだ。
プロ選手のこういった地道な貢献はけっこう真剣なものだと聞いていたが、Team Takizawaの面々も一緒に来るし、校長の許可をもらったいくつかの報道機関もやってきて、盛大なものになった。

「パパ!スミレ先生!!」
ジュン君が駆けてきた。
手をつないでいるのはヒデ君だ。
1学期初めの頃、いろいろうまくいかなくて、スミレをさんざん悩ませたヒデ君は、少しずつ問題行動が減って、今ではすっかり落ち着いている。
「パパとヒデ君と3人で練習してもいい?」
ジュン君の願いを聞き入れ、スミレは3人を送り出した。

少し離れたところでは、花恋がサッカーボールを抱えたまま、Team Takizawaのスタッフと話しこんでいる。
「あの松重財閥のお嬢さんですか!これはこれは。
はい、私がエージェントといって、滝沢の契約その他を取り仕切っています。
それが、何か?」
「例えば、今の契約が切れた後にですね、滝沢選手と契約を結びたいと考えたら、どんな準備をしておけばよいのか、教えてくださるかしら?契約金の想定はいかほど?」
「は?」

グラウンドの周囲には、滝沢を一目見ようと、1年生だけでなく、学校中の保護者…9割9分が母親だが…が取り巻いて、コソコソ話してはキャーッと歓声をあげている。
そのなかからひとりが、スミレに近づいてきた。

「お母さん、ヒデ君、見てください。あんなにいい顔で笑ってる!」
スミレがいうと、ヒデ君のおかあさんが嬉しげに答えた。
「先生のおかげです。ヒデを追い詰めていたのは私だったのに、先生は私の話を親身になって聞いてくれて、私に大事なことをいくつも気付かせてくれました。私、あれから考え方を変えて、夫とも姑とも、いろいろ話し合っています。すぐにはうまくいかないこともあるけど…ヒデは変わったわ。ありがとう、先生。」
そういうとお母さんは照れくさそうに、ヒデ君の方に近づいて行った。

「やったじゃない、スミレ先生!」
チヨコが聞いていたようだ。
「私も逃げない、ヒデ君とお母さんのこと、しっかりと向き合ってみるって、宣言したもんね。望みがかなったね。」
「ありがと、チョコちゃん。でもね、私、この仕事…。」
何か言いかけたスミレを、子どもたちが呼んでる。
「何?」
「ううん。なんでもない。行ってくるね!」

先生!こっちこっち!!
小さな手がスミレを招いている。
今、目の前のことに一生懸命になろう。
スミレは思い切り駈け出した。

抜けるような青空の下、子どもたちの無邪気な歓声と白と黒のたくさんのボールが、校庭を楽しげに跳ねまわっていた。


おわり







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