5月の、とある日曜日がやってきた。
味のみなもとスタジアムは、真新しく改装された駅から歩いて10分ほどの場所にある。
日本代表の壮行試合とあって、車道と同じくらい幅の広い歩道はブルーのTシャツを着た観戦客に覆い尽くされている。
誰もが熱に浮かされたように戦況を予想し、勝利を予感して興奮を抑えられない顔、顔、顔。

スミレも高鳴る胸を押さえもせず、チヨコ先生と連れだってスタジアムに向かっている。
9800円もしたレプリカTシャツは財布に堪えたが、買わずにはいられなかった。
お気に入りのスキニーデニムを合わせ、バッグは考えた末に、大学時代持ち歩いていた、グレゴリーのナップザックを引っ張り出した。
よく冷やしたアイスティの水筒と、大きめのタオル。
チヨコちゃんとつまむチョコレートに、のど飴。
午後の試合だけに、日差しが強い時に備えて、サンバイザーとサングラスも入れた。
それから…しばらく考えて、カメラを忍ばせた。

背負ってみると、それなりの重量になる。
重たいなと思ったものの、歩きだせば気になるほどでもなく、チヨコと待ち合わせてからはおしゃべりに夢中で、背中の重さなど一切気にならなくなった。

松重が小学校の子供たちに用意してくれた席は、なんとスタンド正面にあった。
こんな席は取ろうとして取れるものではない。
角度はないがピッチに近いので、フォーメーションを見るには不向きなものの、選手の表情や声には近くて、子どもたちは大喜びしている。

サッカー通のスミレがリードして、チヨコと2人、席を決めた。
ピッチに近すぎず、ドリブルも両方のゴールも視界にきちんと入る絶妙の位置だ。 
チヨコの隣の席には、チヨコのクラスのジュン君とお母さんが先に座っていて、先生こんにちは!と挨拶を交わしている。
先日、チヨコが「精神貴族だね」と評したお母さんは、女手一つでジュン君を育てている。
偶然だろうか。素人はもっと前に座りたがるのに、こんな位置を選んで座るとはサッカーに詳しいのかなとスミレは思った。
 
わざわざ別日程を調整してまで行ったという個人面談の後、歯切れの悪い説明しかしてくれないチヨコに何度かツッコミを入れ、ジュン君のお母さんとのやり取りを聞きだしていたスミレは、自分の両親と引き比べずにはいられなかった。
若くして妊娠が分かり結婚を決めた両親は、自分だけでは背負いきれない現実を互いになすりあったのではないかと、松重家の家庭訪問を終えた後のスミレは長年の疑問にようやく答えらしきものを見つけていた。
 
自分の夢に気づいた父は、娘や妻の存在を理由に、夢の追求をためらった。ゆえに、自分を応援してくれない妻を恨み、娘を重荷に感じ、結局は命がけで夢からも家族からも逃げた。
母は、家族を守る大変さに気づいた時、協力的でない父を責め、恨んだのだろう。ゆえに、父を追いこみ、我が身を責め、常軌を逸することで私を育てる責任から逃げた。
そういうことだったのだろうと思うと、その幼さ、正解に手が届かない切なさに改めて涙が浮かんだ。
だが、その時に思い出したのが、ジュン君のお母さんのことだったのだ。

ジュン君の母の場合、好きになった男性が大きな夢を追いかけ、チャンスをつかんだと知った時の行動は明快だった。男は、愛する女性がいることを言い訳にせず、自分の夢をかなえるという厳しい課題に真正面から挑んだ。女はその成功を信じ、自らは自分に宿った小さな命をひとりで生み育てるという厳しい課題に真正面から挑むことにした。
2人とも、相手の存在を理由に自分の課題から逃げなかった。
なんと、すがすがしいことだろう。
なんと、気持ちの良い生き方だろう。

この親子が、豊かな幸せを感じつつ生活しているらしいことは、チヨコの話でも、普段ジュン君を見ていても感じることだったが、今、すぐ隣の席に座った2人は、真新しいサムライブルーのTシャツを着て、目も表情もキラキラと輝かせていた。
いったいこの少年の父親は、どんな夢を追いかけていたのだろうか。
その夢はかなったのかな。
ジュン君が生まれたことも知らずにいるらしいけれど、こんなにいい子だと知ったらどう思うかしら。
スミレは楽しげに語り合っている母と子から、しばらく目が話せなかった。

「ママ、このTシャツ、かっこいいね!タキザワって書いてあるの、ほんとにかっこいいね!」
ジュン君の声が響いて、ママは楽しげに笑っている。
「やっぱり応援したいものね。テレビで見るはずの試合にこうして来られたんだもの、神様にありがとうって気持ちよね。そのかわり、しばらくマクドナルドには行けないわよ。」
「いいよ、いいよ!」

日本サッカー協会が認定しているレプリカTシャツはけっこう高いのだ。
スミレが買った、背番号や選手名が書いていないものでも1万円近い。
お気に入りの選手の名前や背番号が入っているものは13000円ほどする。
パート先のスーパーの制服のまま授業参観に来たという母は、今回だけは大奮発したのだろうか、2人そろって話題の滝沢健太のネームが入ったシャツを着ているのだ。

キックオフまではまだ30分以上あるというのに、見知った顔が集まって、あたりはお祭り騒ぎになっていた。 






もうひとつのエッセイブログ『ゆるるか』不定期に更新中!



人気ブログランキングへ