どうしても、ディナーを一緒にと言ってきかない大黒柱に抗いきれず、スミレは一度帰校して、退勤後に再訪することを約束させられてしまった。

「花亜、久弥は留守番かい?」
という大黒柱の問いに、花亜が嬉しげに答えたのがきっかけだった。
「いえ。一緒に参っておりますよ。お兄様がどうしてもお会いになりたいとおっしゃって、二年ほど前でしたかしら、一度ふたりでこちらに来たことがありましたが、 そのとき、夫はすっかり中野と打ち解けてしまいましたの。それで、今日もこちらに参ると言うと、是非中野と語り合いたいと言うものですから…。」
「おや、では、今も?」
大黒柱はすでに満面の笑みを浮かべている。

「ええ。着いた途端に厨房にこもって、二人で何やら今夜の食事の相談を。中野もまるで息子か孫が尋ねてきたかのような喜びようなんですのよ。」
「久弥の料理は美味しいからね。中野と一緒になってなにか企んでいるとしたら…これは食べなくては一生の損失だ。先生も、一緒にね。いいね。」
大黒柱はそう決めつけると、カラカラと笑い声を立てながら、さっさと立ち去ってしまったのだ。

中野というのは、この家の料理長なのだろうと、スミレは思った。
先ほどから、何度となく名前が出てきていた。
戸惑いはしたものの、スミレはどうしようもない美食への関心も断ち切れず、かといって、一児童の家と個人的なつながりを持つのは、担任としてしてはならぬことで、どちらかといえば、食欲より職責をとるべきだろうと思い悩みながら、もと来た道を引き返しているところだった。
安住氏がまた、同道してくれている。

「困っておられますか?」
スミレの困惑をお見通しの安住氏が尋ねてきた。
「はい。」
スミレは認めざるを得ない。
「では、こうお考えになってみてはいかがでしょう。」

安住氏の言葉に、スミレは足をとめた。
そろそろ夕焼けになりかけた空の下、また孔雀たちが羽根を競っている。
「もし、自分の妹が勤め先に入学してきたら、先生は姉妹の縁をお切りになりますか?なりませんよね?松重はもともと、あなたの家族です。ですから、今新たにご縁ができたわけではなく、もともとつながっていた者同士と言えるのではありませんか?」

そうか、そういう考え方があったかと、スミレは目を丸くした。
「安住さんは、自由な発想を持ちなのですね!」
思わずスミレは感心してしまった。
どうしようもないジレンマが不意に解けた気がしたからだ。
「ありがとうございます。」
安住氏も逆らわない。

「さっき安住さんがおっしゃっていた、花音さんより安住さんの方が恵まれているというのは、安住さんの方が自由だということだったのですね?」
「ええ。そうです。父がいなくなってから、母はそれまで以上に僕を大事にしてくれました。確かに貧乏でしたが、母が私を見捨てることなど想像すらできないほど、私は守られていました。私は母のそばと言う安全地帯にいることに満足して、そこから出ようとしませんでした。もちろん、考えてそうしていたわけではありませんが。」

安住氏の言うことが、今はとてもよく分かるスミレだったので、深く何度も頷いた。
「もしも、母が病に倒れることなく、今も健在ならば、私は母を養うと言う大義名分に隠れて、世間との関わりを嫌い、冒険することもなく、小さな部屋の中でこぢんまりと生きていたのではないでしょうか。自分に自由な選択肢があることなど気付きもせず、気付いても知らん顔をしたに違いない。だから母は…。」
だから安住氏の母上は、才能ある息子を世に送り出すべく、先に旅立ったというのだろうか。

「花音さまは最初から、松重の責任を背負う覚悟を決めておられました。優れた知性と人格とを兼ね備えないと、社員やその家族、何万という人々が不幸になるとわかっていて、片時も努力を怠ることなく、粉骨砕身、己を磨き続けていらっしゃったのです。それに比べてわが身のなんと不甲斐ないこと。目の前のチャンスをつかもうともせず、過去のことをなんのかのと持ち出しては、本当に取り組むべき課題から逃げ続けていたのですから。」

スミレにも覚えのあることだったので、またまた深く頷いた。
「安住さんは、そんなふうに人生を開いてくださった花音さんがお好きだったのでしょう?どうして結婚しなかったのですか?」
自分がどうしてそんなことを尋ねたのか分からず、スミレは慌てて口を押さえたが、もう遅かった。
覆水盆に返らず。言ってしまった言葉も、口の中には戻ってくれない。

「まったく、あなたは臆面もなく言いにくいことを尋ねますね。こんな人は初めてだ。」
スミレは自分の顔から耳まで真っ赤になったことに気付いていた。
思わず見降ろした自分の両手までが真っ赤になっている。

「花音さまは留学当初、寮にお入りになったのですが、いくらもたたないうちに、あちらの別宅でお暮らしになるようになりました。
そこで、最初からお屋敷にいた私も、花音さまのお世話をすることになりました。
花音さまは、こちらにいらした時から、夕方から夜のひととき、部屋におひとりになってお茶を召し上がるのが習慣でした。
どんなにお忙しい日でも、その習慣だけは必ずお守りになっていたのです。
何をなさるでもなく、お話もなさいません。
そのひととき、お側にいることを許されるのは、きまって私だけでした。」

安住氏は刹那、自慢そうな表情を浮かべたが、すぐに消えてしまった。
「あちらに行って、2年を過ぎた頃でしょうか。
時折、そのお茶の席に、ひとりの日本人青年がやってくるようになりました。
そうして、いつしか、私が、その席からはずされるようになっていったのです。
大学を卒業され、帰国される時にはもう、花音さまはご結婚をお決めになっていらっしゃいました。」
なるほど、そういうことだったのかと、スミレはいまさらながら、自分の無礼さに、穴があったら入りたい恥ずかしさを覚えた。

「そういうスミレさんはどうなんです?恋人のひとりやふたり、いるのですか?」
「はい、三人ほどと申し上げたいところですけど、残念ながら今は全員留守中です。」
「おやおや。お互い、モテないようですね。」
「安住さんはモテるのに気付いてないだけじゃないですか?花音さんしか見てないから、他の人が見えないとか。」
「ふう。」
「あ!また!失礼しました!私、いつもはこれほど無礼じゃないです。ホントです。今日はどうかしているんだわ!」

「まったく、気に障る人だ。でも…」
でも、の次にくる言葉は、きちんと受け止めなければと覚悟して、スミレは顔を上げ、安住氏の顔を真正面から見つめた。
「でも、痛快でもある。優しく品よく、理知的な世界で生きてきましたが、元をただせば私は十把ひとからげの庶民の出ですからね。あなたみたいな人といると、気を遣わなくて済む。」
「ホントに?」
「ホントに。」
「よ、よかった!」
「でも、お詫びはしてほしいな。」
「すみませんでした。」
「いや、そういうことではなく。そうだなぁ。焼き肉でもごちそうになりましょうか。」
「焼き肉?」
「スミレさんはお嫌いですか?」
「好きです!美味しいお店、知ってますよ。」
「時折、たまらなく懐かしくなるんですよ。高校生のころ、友だちと行った焼肉屋の味が!」
「なるほど。それでお詫びになるなら、喜んで。」
「で、その時はスミレさんの失恋話をたっぷりと聞かせていただきますよ。今日のかたき討ちです。」
「ま!」

笑いながら門に向かって歩いていく二人の後ろを、孔雀のつがいがのんびりと見送っていた。






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