「そうしてね…」
花亜が慎重に話しかけてくる。
内容が伝わりにくいことを知って、分かりやすく、誤解させないようにと気遣っているのだろう。
教師になってからスミレは、それまで大して気付くこともなかった相手のそういう配慮に気付くようになった。

「そうして、例えば花音はね、小さい時からこの家で多くの人が集まる日などは、かわいい服を着て、マイクを握ってご挨拶をしていたの。 その前に、上手に話せない頃からもう、松重の家の者として、あちらこちらに両親と一緒にでかけていたの。そのために、同じ年齢の子供たちが公園で砂遊びをしているような時間に、行儀作法を教わったり、英語の家庭教師がついたりしていたの。それって立派な『仕事』よね?」

「花亜さまは、高校生の時には、もうコンサルティングのお仕事をなさっていたのよね?」
花音が小さく肩をすくめて花亜を覗きこんだ。
「ええ、そうよ。初めのうちは楽しかったわ。父も喜んでくれたし、誰からも感謝されて、いろいろなことがよくなっていくんですもの。でも、それがますます増えて、病気の父を屋敷に残して自分はでかけなければならなくなって、学校も時折休んだりして…。」

「確か、女子高生コンサルタントとかいうテレビの取材を受けなければならなくなって、お断りになるために家を出られたのでしたね?」
「断るために…というわけではないけれど、まぁ、そうね。」
スミレは心の底から驚いた。小さい時からパーティーで挨拶?高校生でコンサルタント?それができるようになるための準備にどれほどの時間と努力が必要だったかは計りしれないが、並大抵でないことは分かる。

「つまりね、こういうことなのです、先生。祖母がアフリカの恵まれない子供たちの話をしてくれた時、祖母も私たちも、みな、自分が育った環境は、アフリカの恵まれない子供たちとどこか共通していると気付いたのです。もちろん、飢えたりはしません。けれども、この家に生まれたからには、幼い時から働いて、家に貢献し、当たり前に受け取れるものはほとんどない。」

花音の言葉は重く、深かった。
 「でも、世間では、多くの人々が、それとは違う生活をしていますね?父母からの世話を当然のように受け止め、改まった感謝の言葉なしに毎日三度の食事をし、着替えをし、家に帰れば誰かが迎えてくれるのを疑いもしない。のんびりと好きなことをして、遊びながら育ち、時期が来るまで自分の進路を決めずにおけるし、その時期が来たとしても、どこでどのようにして生き、どう働くか、自由に選べるのですよね?それは、たまらなく豊かなことだと、私たちは考えました。」

自由。
豊か。
そうなのかもしれない。
でも、あまりにも当然過ぎて、思ってもみないことだった。 

「それは…それは違います、花亜さま、若奥様!」
意外な方向から男性の声がした。 そこには、両手の指を色が変わるほどに握りしめた後藤氏が立っていた。
「私どもは、感謝の言葉などなくても、お手当などいただかなくとも、皆さまのお側を離れるものではございません。そのようにお考えだったとは、後藤は悲しゅうございます。そんなふうにお疑いだったとは、ひどうございますよ!私は、私の一族は、そんな気持ちでお仕えしてきたのではございません。あまりと言えばあまりのお言葉。ひどう…。」
言葉が途切れたと思うと、後藤氏は男泣きに泣き始めた。

「まぁ、あなた。そんなことをおっしゃっているのではないでしょう。さあさあ、泣かないで。」
弓子が駆け寄って宥めている。
花亜が立ちあがって後藤のそばまで行き、揺れている肩にそっと手をのせた。

「話のあやとは言え、誤解させてすみませんでしたね。後藤、泣かずともよいのですよ。あなた方が給料だけで働いているだなどと思っているわけではないのです。だって、あなたは私の兄であり、友であり、大切な家族を増やしてくれた人でしょう?松重にどんな苦労が押し寄せても、あなた方はきっと最後まで共にいてくれる。そう信じています。けれど、それは当たり前のことではないの。だから、どうしても、いつでも、感謝の気持ちが湧いてしまうのよ。」

ごうごうと泣き続ける後藤氏を一生懸命に慰めている弓子と花亜を見ながら、スミレは考えていた。
自分は、恵まれない子供時代を過ごしたと思っていた。
あまりに若く子供を持った両親は、家庭を維持する準備ができていなかった。
父の自殺、母の狂気、愛情を注いでくれた祖母の突然の死。
施設での暮らし、母の再婚、義父との暮らしを避けて祖父の家に逃げ帰った日々…

しかし、と、ここでスミレは考えた。
私は、いつも誰かに守られていたのかもしれない。
そうして、守られることが当たり前と思って、守ってもらえないことに不安や怒りを感じていたのかもしれない。

確かに、幼い私には、荷が重すぎる出来事だった。
でも、そのときの記憶そのままに、今でも、誰かに守られて、自分にやってくる危険や努力を肩代わりして振り払ってもらいたいと思っているのかもしれない。
そうして、いつでも、そうやって守ってくれる人を手に入れてきていた。
当然だと思っていたその庇護は、あるいは当然でなく、大きな恵みだったのかもしれない。
そして、気付けば、暮らす場所も、暮らす人も、学ぶことも、働く場所も、いつも自由に決めてきたではないか。

自分のことに考えが沈んで行こうとするスミレを引き戻したのは、いつの間にか現れた、矍鑠とした老女の声だった。
「なんだい、後藤。見苦しい。お前の泣き顔など見たくないから、さっさと下がりなさい。」
「ま、お母さま。お帰りなさい。」
「おや、花亜。来ていたの。遅くなりましたね。こちらのお嬢さんがその先生かい?」
「ええ。今、いろいろとお話し申し上げておりましたの。」

赤いデニムにスヌーピーが描かれた長袖のTシャツを着た老女を、花亜がお母さまと呼んだことから、この人物がすべての根源を作った、アフリカでボランティアをしてきたという、松重の大黒柱であることが容易に察せられた。 
スミレはにわかに緊張した。

「聞いたと思うけどね、先生さまよ。うちのかわいい花恋には、何にも縛られない自由を渡したいのさ。そしてね、その自由を当たり前に持っている仲間たちの中で育てたいのだよ。 松重との縁を結ぼうと虎視眈眈狙っている私立のボンボンや嬢ちゃんたちの中になんぞ、置けるものかね。」

勢いよく啖呵を切ったあと、老女はポツリとつぶやいた。
「ほんとは、私の娘にも、そうしてやればよかったんだが…。」






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