「お嬢様!算数、教えてください!」
何やら幼い元気な声がして、感動の再会と驚きとが行きかう大人たちが声の方を振り向いた。
ノートやら鉛筆やらを不器用に抱えて立っているのは、まだ就学前に見える少年だった。
「まぁ!あちらでひとりでするようにと言いましたのに。」
慌てて少年の方に向かったのは、後藤氏の妻と紹介されたばかりの弓子さんだ。

「でも、わからないんです。」
ふくれっ面になった少年は、屈託がなくてなんともかわいらしい。
「では後で教えてあげますから、お行きなさい。今はお客様がみえているのです。わかりましたね?」
弓子が静かに諭すと、聞き分けよく引き下がるかとおもいきや、思いの強い少年のようで、なかなかうんとは言わない。
「後でもいいですけど、分からない算数をそのままにしておくのは、なんだか落ち着かないから…。」

「しょうがないわね。いいわ、サスケ。教えてあげるから、いらっしゃい。」
そういって立ちあがったのは花恋嬢だ。
母の花音が微笑んで、花恋の背中をそっと撫でた。
「ありがとうございます、お嬢様!母様に教えていただいても、いつもさっぱりわからないんです!」
「なんですって!?」
弓子がバツが悪そうに慌てている。
花恋嬢はサスケと呼んだ少年を伴って、その場にいた大人たちに会釈を送ると、何やらはしゃぎながら遠ざかって行った。

「スミレさん。」
花亜が呼びかける。
「佐輔は後藤の息子です。来年には佐輔もあなたの小学校にあがりますよ。後藤が私の乳兄弟であったように、それから、乳兄弟とは違いますが、安住が花音のお側去らずでいるように、佐輔はきっと長く花恋を支えてくれることでしょう。」
「まぁ!」
スミレは何と返事をしてよいか分からなかった。

「私の母は、もうずいぶんな年齢になりますが、結婚したばかりの後藤と弓子を伴って、アフリカへボランティア活動の旅に出たことがありました。丁度そのころ、花音は身重で、体調が優れませんでしてね。まだ若かったから仕方ないのだけど。」
スミレはそれを聞いて、このテラスでぐったりと横たわる花音の姿が見えるような気がした。

「ところが、アフリカに行って間もなく、弓子も妊娠しましてね。すぐに日本に引き返してきました。少し遅れて後藤も送り返されてきたんですよ。若い妻が心配で、母の世話が行き届かなかったようでね、役立たずと罵られたのでしたね。」
花亜はそのときの可笑しさを思い出したように笑う。
「母は現地で共に活動してくれる方々に恵まれ、思う存分ボランティアに専念しました。ふさぎがちだった花音も弓子が戻ってからは元気をとりもどし、二人ともここで無事出産を終え、私たちは二人の新しい家族を迎えたのです。」

なるほど、とスミレは思った。
誕生日が年度をまたいだので学年は違ったが、同じ時期に大きなお腹を抱えて、思いを分かち合いながら、この母二人は絆を深めたのであろう。
「世界を転々と、貧しい人々、病んで困っている人々の間を回った母が帰国したのはつい最近のことです。その間、一度も帰国しなかったものですから、ご自分の曾孫をご覧になったのも初めてでした。そうしてね、スミレさん。母は花恋に一目惚れしてしまったのですわ!」
「一目惚れ…。」
「ええ。これこそ松重の血の結晶と騒いで…いえ、まぁ、曾孫とは私どもが思う以上にかわいいもののようですね。もともと、思いこんだら一直線に突き進むところがあって。歳も歳ですし、無理もないことですが。」

周囲の人々も、花亜の話を聞きながら微笑んでいるところを見ると、その老婦人はどうやらなかなかの元気者らしい。
「そこでね、母はどうしても、花恋を良家の子女が集まる私学ではなく、普通の小学校に通わせるべきだと言ってきかないのですよ。私もそれには賛成でしてね。お兄様や花音たちともよくよく話し合い、松重としては異例のことですけれど、家の近所の小学校へ通わせようと決めましたの。」
なんでまた…。スミレは後で絶対この質問をしようと心に決めた。

「それでね、スミレさん。私、思い出しましたの。あなたのことを。あなたがあの小学校の先生になったとおっしゃって、きてくださったことがあったでしょう?お屋敷の近くだと思ったことを思い出しましたのよ。それで早速後藤に調べさせたら、なんと、1年生の担任をお持ちなのが、あなただと言うではありませんか!私どもは神様に心から感謝申し上げたのです。これはぜひ、話を進めよという啓示だと思ったのです。」
なんとも、大げさな話になってきた。






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